4-3. 欲しいもの
継暦六百二十七年 七月二十八日
壁棚の奥に、小さな巾着が置かれていた。
生成りの布を縫い合わせたもので、片面には赤い糸で小さな花が刺繍されている。服を買った日、ヘルマが余った布で作り、リゼへ渡してくれたものだった。
最初に入っていたのは、古い衣服を引き取ってもらった代金だけだった。
砂と灰に汚れ、ところどころ裂けていた服。それでも布として使える部分がわずかに残っているという理由で、五十ミルになった。
リゼは壁棚の前へ膝をついた。
右脚の角材を横へ逃がし、左膝だけを床板につける。巾着を棚から取り出すと、二重に結んでいた紐を解き、中身を棚板の上へ並べた。
最初に入れていた十ミル貨が五枚。
その横へ、二十ミル貨を八枚。
さらに十ミル貨を四枚。
合わせて二百五十ミル。
硬貨はいずれも使い込まれていた。縁が欠けているものや、都市連盟の紋章が擦れ、ほとんど見えなくなったものもある。
リゼは一枚ずつ向きを揃えた。
増えた二百ミルは、メリダの店へ通い始めてから受け取った四日分の給金だった。
初日に渡された二枚も、いまはほかの硬貨と一緒に巾着へ収めている。それでもリゼは、どれが最初の二枚だったかを記憶していた。
数え終えると、硬貨を一枚ずつ巾着へ戻していく。
布の底で金属が触れ合い、小さな音を立てた。口を閉じ、紐を二度結ぶ。
「毎朝数える必要があるのか」
背後からロアンが尋ねた。
寝台の端へ腰を下ろし、上着の革紐を締め直している。午後からギルドへ行くつもりらしく、登録札は机の上に出してあった。
リゼは巾着を両手に載せたまま振り返った。
「前日の金額と一致しているか確認しています」
「部屋の中で減ることはない」
「失われた場合、早く気づけます」
「俺が取ったと思うのか」
リゼは顔を上げた。
「ロアンが取るとは考えていません」
「なら、誰も取らない」
「扉を施錠していない時間があります」
宿舎の部屋は、外出するとき以外、鍵を掛けていないことが多かった。
マルタが洗った布を持ってくることもあれば、ガルドが傷んだ窓枠を見に来ることもある。宿舎の住人がロアンを訪ね、開いた扉から声を掛けることもあった。
その誰かが壁棚の奥を探り、二百五十ミルを盗むとはロアンには思えなかった。
「取られたくないなら、身につけておけ」
「はい」
リゼは立ち上がり、巾着の紐を巻きスカートの左側へ結びつけた。
歩くたびに硬貨が触れ合うため、これまでは棚へ置いていた。それでもロアンに言われたとおり、腰へ下げることにしたらしい。
その日は、メリダの店へ行かない日だった。
七月二十三日の試用から、四日間働いている。初日は短く、別の日には入荷した革紐の仕分けが終わるまで残った。勤務時間は日によって違い、脚の状態を見ながら休みを挟んでいた。
店では、重い荷を運ぶより、棚の中身を数えたり、客へ商品の場所を示したりする仕事が多い。それでも半日の勤務を終えて戻るころには、角材を固定する布が朝より強く張っていることがあった。
昨日、メリダはリゼを椅子へ座らせ、角材を横から確かめていた。
下端が、わずかに外側へ曲がっている。
長く体重を受け、雨の日には湿気も吸ったため、木材そのものが歪み始めているらしい。底へ巻かれた革も、外側だけが強く削れていた。
メリダに分かるのは、外から見える角材と固定布の状態までだった。
布の内側にある外殻や、身体を支える内部フレームがどうなっているのかは、機械人形を扱う技師でなければ調べられない。
ロアンは机の上の登録札を取り、上着の内側へ入れた。
水門外を巡回していた者が、昼過ぎに戻る予定になっている。近郊路で機械生命らしき痕跡を見たという話もあり、報告を聞いたうえで次に受ける仕事を決めるつもりだった。
長く都市を離れる仕事は、まだ選んでいない。
だからといって、いつまでも短い警護や見張りだけを続けるわけにもいかなかった。
革手袋へ手を伸ばそうとしたところで、リゼが棚の前から振り返った。
「今日は、ネラの工房へ行きます」
ロアンの手が止まった。
「何をしに」
「右脚について相談します」
「固定が緩んだのか」
「現在、歩行に異常はありません」
「なら、何を相談する」
リゼは答えなかった。
俯いてはいない。視線も逸らしていない。ただ、返す言葉を止めている。
理由が分からないのではなく、話さないと決めているときの沈黙だった。
ロアンは、巻きスカートの下から伸びる角材を見た。
布の巻き方に崩れはない。立っているだけなら、角材が曲がっていることもほとんど分からなかった。
「一人で行くのか」
「はい」
「場所は分かるのか」
「以前通った道を記憶しています」
「俺も行く」
「ギルドへ行く予定があります」
「午後からで間に合う」
「工房での相談に、ロアンは必要ありません」
ロアンはリゼを見た。
「俺がいると話せないのか」
「話せないのではありません」
「なら、いても同じだろう」
「同じではありません」
言い切ったあと、リゼはそれ以上続けなかった。
ロアンは手袋から手を離した。
メリダの店へ一人で通うことには、少しずつ慣れ始めている。店までの道には人通りがあり、昼を過ぎる前には帰ってくる。何かあればメリダもいる。
ネラの工房は、それより遠かった。
工房通りまでの道には、荷車が行き交う場所もある。右脚の状態が悪くなれば、同じ速さで戻れるとは限らない。
「途中で歩きにくくなったら」
「宿舎へ戻ります」
「戻れない状態なら」
「近くの人へ助けを求めます」
「ネラに送ってもらえ」
リゼは少し考えた。
「ネラが工房を離れられない場合は」
「人を呼んでもらえ。荷車でも何でもいい」
ロアンは衣類箱を開いた。
底に入れていた革袋を取り出し、中からクレド貨を選ぶ。五枚を小さな袋へ移すと、紐を締めてリゼへ差し出した。
「持っていけ」
リゼは、自分の左腰に下げた巾着へ目を向けた。
「二百五十ミルあります」
「それはお前が働いて得た金だろ」
「私の右脚に必要な費用です」
「いま付いてる角材の検査と調整は、俺が頼んでることだ」
「今日は相談するだけです」
「工房は慈善事業じゃないんだぞ。持っていけ」
ロアンは革袋を引かなかった。
「見てもらったあとで、金がありませんとは言えないだろ」
「手持ちの金額を超える場合は、依頼しません」
「だから、持っていけと言ってる」
リゼは、差し出された袋を見た。
自分の巾着より重い。中には五クレドが入っている。
「使用しなかった分は返します」
「ああ」
リゼは革袋を受け取り、自分の巾着とは反対側の腰へ結びつけた。
「戻れなくなったら、ネラに送ってもらえ。その分の金も俺が払うと伝えていい」
「分かりました」
「寄り道するな」
「はい」
「戻ったら、右脚の状態だけは話せ」
「分かりました」
リゼは椅子の背へ掛けていた肩掛けを手に取った。
灰色がかった厚手の布を羽織り、胸元の留め具を閉じる。左腰には自分の二百五十ミル。右腰にはロアンから預かった五クレドが下がっていた。
ロアンは、リゼが部屋を出るのを見送った。
左足が床板を踏む。
少し遅れて、角材の先が廊下を打つ。
二つの音が階段へ近づき、一段ずつ下へ消えていった。
*
ネラの工房には、商店で使うような看板がなかった。
入口の脇には、修繕前の道具や荷車の部品が積まれている。曲がった車軸、柄の折れた槌、歯の欠けた鋸。革帯を外された木箱や、縁の割れた滑車も、壁際へ寄せられていた。
使えるものと、部品としてしか使えないものは、外から見ただけでは区別できなかった。
戸を開けると、乾いた木と、削られた金属の匂いがした。
奥の窓は開け放たれている。作業で生じた細かな塵が、差し込む光の中をゆっくり漂っていた。
隣の工房からは、槌で金属を叩く音が聞こえる。
規則正しく続く音に合わせ、天井から吊された細い鎖や小さな留め具がわずかに揺れていた。
壁には工具が並べられている。
長さの異なる鋸。歯の細かな鑢。柄の短い槌。先端の曲がった細い鉤。金属線を切る鋏。用途の分からない小さな器具も、形と大きさごとに分けて掛けられていた。
作業台の下と窓際には、浅い木箱が積まれている。
白い外殻の破片。
動かなくなった小型の駆動器。
黒い被膜に包まれた導線。
歯の欠けた関節部品。
錆の浮いた板ばね。
どれも一つだけでは使い道が分からない。ネラにとっては、別の部品と組み合わせれば、まだ何かへ変えられるものなのだろう。
ネラは奥の作業台で、細い金属棒を万力へ固定していた。
戸の音に気づき、手を止める。
短く切った髪の一部が額へ落ちていた。手の甲で押し上げながら入口を見ると、視線をリゼの顔から右脚へ落とした。
「ロアンは一緒じゃないのか」
「はい」
「一人でここまで来たの」
「はい。歩行に問題はありません」
ネラはリゼの角材をしばらく見た。
口元の片側だけが、わずかに下がる。
「問題のない脚には見えないけどね」
作業台の横に置かれた椅子を顎で示した。
「座りな。まず見せて」
リゼは肩掛けを外し、椅子へ腰を下ろした。
巻きスカートの右側を開き、下穿きの紐も緩める。布を太腿の中ほどまで捲り上げると、角材と、それを固定している何重もの布が露出した。
太腿は人工皮膚に覆われていた。
灰色をわずかに含んだ淡い肌色で、外見だけなら人間の脚と大きく変わらない。表面に継ぎ目はなく、膝の上まで滑らかに続いている。
その内側には白い外殻があり、さらに内部には太腿の形を支えるフレームと、関節を動かすための人工筋や駆動器が収められていた。
膝関節は残っている。
人工皮膚の下にある外殻は、人間の膝と似た丸みを持っていた。リゼが右膝を曲げると、太腿の内部で人工筋が縮み、関節の駆動器が低く動く。
異音はない。
曲げ伸ばしにも大きな遅れはなかった。
失われているのは、その下だった。
人工皮膚は、膝を越えたところで途切れている。
裂けた端は、以前の検分で不揃いな箇所を切り揃えられていた。それでも完全には閉じられておらず、薄い人工皮膚の断面が、白い外殻に沿って内側へ少し巻き込んでいる。
その下にある外殻も、膝下から数センチほどの位置で砕けていた。
外殻は、人間の骨とは違う。
身体の輪郭を保ち、内側の部品を守るための硬い層だった。白く、磨かれていない陶器に似ている。ある程度の衝撃には耐えるが、曲がることはない。限界を超えた力が掛かれば亀裂が入り、さらに砕ける。
リゼの右脚では、外殻が斜めに失われていた。
内側は比較的長く残っている。外側は膝の近くまで割れ、縁が不揃いに欠けていた。
砕けた端には細かな亀裂が走っている。角材を固定する布と繰り返し擦れた箇所には、白い粉が薄く付着していた。
ネラは低い台を運び、角材の先を載せた。
最初に、木材を横から確かめる。
角材は中央より少し下のあたりから、外側へわずかに反っていた。底へ巻かれた革も、内側には厚みが残っているのに、外側は薄く削れている。
「木が歪んでるね」
「メリダにも指摘されました」
ネラが顔を上げた。
「メリダ?」
「旅道具と日用雑貨を扱う店で働いています」
「働いてるのか」
「はい」
「その脚で?」
「朝から昼までです。途中で休止します」
「誰が決めた」
「メリダです」
ネラの眉間にあった皺が、少しだけ緩んだ。
「まともな雇い主らしいね」
それから、固定布の結び目を一つずつ解き始めた。
外側の布は、比較的新しい。
内側へ進むほど色が濃くなり、繊維が押し潰されて固くなっていた。水や汗を吸ったためではない。角材と金属の間で何度も荷重を受け、そのたびに強く圧迫された跡だった。
角材と内部フレームの間に挟まれていた革にも、硬い金属へ繰り返し押しつけられた窪みが残っていた。
最後の布が外れる。
ネラは片手で角材を支え、ゆっくりと右脚から離した。
外殻の内側から、二本の金属製フレームが露出した。
本来は膝から足首まで続き、下腿へ掛かる荷重を支えていたものだった。
内側の一本は、膝下から十数センチほど残っている。破断面は斜めで、先端がわずかに潰れていた。
外側の一本はそれより短い。
途中で折れた先が、不揃いな二つの突起となって残っている。
長いほうのフレームも、完全にはまっすぐではなかった。
膝の直下では本来の位置を保っているが、先へ向かうほど、少しずつ外側へ開いている。
ネラは細い定規を取り、フレームの上端と破断面へ当てた。
先ほどまでの気軽さが、表情から消えた。
「開いてるね」
「角材の歪みが原因ですか」
「それだけじゃない」
ネラは外した角材を横向きにし、反りを見た。
「歩くたびに角材に外側への力が働く。布でそれを内側へ引き戻してる。その力が、残ってるフレームへ掛かってる」
「元の位置へ戻せますか」
ネラは外側へ開いたフレームへ指を添えた。
押し戻そうとはしなかった。
「戻せなくはない。でも、曲げる途中で折れるかもしれない。折れなかったとしても、金属は弱くなる。この位置のまま、力の掛かり方を変えたほうがいい」
ネラは外殻の亀裂も確かめた。
指先で白い粉を拭い、細い亀裂の先を目で追う。新しく大きく砕けた箇所はない。
ただ、固定布が擦れていた部分では、亀裂の幅が以前よりわずかに広がっていた。
二本のフレームの間には、黒と灰色の被膜に覆われたケーブルの束が残っている。
人間の身体でいえば、神経に近い役割を持つものだった。
束全体の太さは、小指よりも細い。
だが、一本の線ではない。
厚い保護被膜の内側には、髪よりも細い伝達線が数え切れないほど束ねられていた。
身体の中央部から脚へ送られる動作命令。
関節の位置や動きを身体へ返す信号。
足裏へ掛かった力。
外殻や内部部品の損傷。
温度の変化。
本来なら、それらが異なる強さと間隔を持ち、同じ束の中を複雑に行き来していた。
砂海で右脚を失ったとき、ケーブルの束も膝下で引きちぎられている。
切断された先は小さく折り返され、外殻の内側へ収められていた。被膜の裂けた部分からは、細かな伝達線の断面が密集して見える。
そこから先にあった人工筋、駆動器、足首、足先、地面へ触れる感覚機構は、すべて失われていた。
ネラは、ケーブルへすぐには触れなかった。
小さな刷毛を取り、周囲に付着した外殻の粉と布の繊維を丁寧に払っていく。
「新しく切れた線はなさそうだ」
「信号は残っていますか」
「調べてみないと分からないね」
ネラは作業台の下から、浅い木箱を引き出した。
中には細い金属針、薄い接触板、異なる太さの導線、それに手のひらほどの測定器が収められている。
測定器の正面には、細い針と目盛りがあった。
数字は刻まれていない。
ネラはリゼの椅子を窓際へ動かした。
差し込む光が、右脚の断面へ当たる。黒い被膜の裂け目がよく見える位置まで身体を寄せると、先の丸い小さな刃を使い、傷んだ被膜だけを慎重に切り開いた。
内側から現れた伝達線は、一色ではなかった。
灰色に近いもの。
鈍い赤を帯びたもの。
白く透けるほど細いもの。
それらがいくつもの小さな束へ分かれ、さらに一つへまとめられている。
「どれが足首の信号ですか」
「そんなふうには分かれてないよ」
ネラは細い接触具を一つ選び、測定器へ導線をつないだ。
「一本が足首、一本がつま先って作りなら楽なんだけどね。一つの動きに何本も使ってるし、同じ線が別の動きにも混じってる」
「解析できますか」
「全部は無理だ」
ネラは、接触具を伝達線の一部へ当てた。
測定器の針が中央で静止するのを待つ。
「本当は、何百、何千って信号が、順番や重なり方を変えながら流れてる。昔の制御器は、その全部を見て、身体が何をしようとしてるのか判断してた」
ネラは測定器の側面を指で叩いた。
「こっちにできるのは、明かりがついたか消えたかを見るようなものだよ。本当は数え切れない明かりが並んで、点く順番と強さで言葉を作ってる。あたしたちは、その端でいくつか光ったのを見て、たぶん脚を動かそうとしたんだろうって考えるしかない」
「元の右脚を復元できますか」
「できない」
ネラはためらわず答えた。
「でも、何度やっても似た変化が出る場所を探して、意味を単純に決め直すことはできるかもしれない」
身体から脚へ出ていく命令は、右脚が失われたあとも残っている。
足首を上げようとする。
つま先で地面を押そうとする。
右脚を前へ出そうとする。
身体は、いまもそうした動作を行うための信号を作り、切断されたケーブルの途中まで送り続けている可能性があった。
一方で、失われた足首や足裏から身体へ戻る信号はない。
地面へ触れたか。
足首がどこまで曲がったか。
どの程度の力が掛かったか。
それを身体へ伝える機構そのものが、なくなっていた。
「右の足首を上げるつもりで」
ネラが言った。
「右足首は存在しません」
「分かってる。前にあったときと同じように動かそうとして」
リゼは、失われた足首を動かそうとした。
身体の外側には、何の変化も現れない。
右膝も動かなかった。
測定器の針も、最初の位置では揺れなかった。
ネラは接触具の位置を少し変えた。
もう一度、同じ動作を繰り返す。
針がわずかに右へ振れ、すぐに戻った。
ネラの目が細くなる。
同じ位置で繰り返すと、今度はほとんど動かなかった。
接触具をずらし、もう一度試す。
足首を上げる。
下げる。
右脚を前へ出す。
膝を曲げる。
つま先で地面を押す。
身体を右へ傾ける。
動作を変えるたびに、接触具の位置も変えていった。
何も反応しない場所もある。
一度だけ大きく針が振れ、同じ動作では二度と動かない場所もあった。
足首を上げようとしたつもりでも、膝を支える信号や、身体の傾きを直すための信号が混ざっている可能性がある。
ネラが探しているのは、「足首を上げる」という意味を持つ一本の線ではなかった。
同じ動作を何度繰り返しても、似た強さと間隔で現れる変化だった。
検査は長く続いた。
隣の工房から聞こえていた槌の音が一度止まり、しばらくして別の場所から鋸を引く音が聞こえ始めた。
開けた窓から風が入り、作業台の隅に積もった木の粉を薄く動かした。
やがて、足首を上げようとしたときに、比較的安定して針が動く位置が見つかった。
「少しだけ上げるつもりで」
針が小さく揺れた。
「今度は強く」
先ほどより大きく右へ振れた。
完全に同じ結果にはならない。
それでも、弱く動かそうとしたときより、強く動かそうとしたときのほうが、針の動きは大きかった。
次に、つま先で地面を押そうとする動作を繰り返した。
別の位置で、わずかな反応が続いた。
ネラは、紙へ位置と針の動きを書き留めた。
「信号の意味が全部分かったわけじゃないよ」
紙へ残した二つの印を指す。
「何度やっても同じように出るものだけ拾って、こっちで動きを決めるんだ」
「本来の右脚とは異なる動作になります」
「まるで違うね」
ネラは測定器を脇へ置き、新しい紙を引き寄せた。
残ったフレームに沿う受け具。
木材と金属を組み合わせた下腿。
足首に当たる可動部。
地面へ触れる、幅の狭い足先。
つま先とかかとは、わずかに丸く反らせる。
簡単な線を引きながら、順番に説明していった。
「布では巻かない。残ってるフレームと外殻へ合わせて、受け具を作る」
紙の上へ、複数の印をつける。
「ここ。それから内側と後ろ。何か所かボルトで留める。木材だけじゃなく、金属の支えでも荷重を受ける」
「現在より重くなりますか」
「少しだけね。でも、足首が動けば、角材を毎回持ち上げるよりは歩きやすくなる」
ネラは、検査で見つけた二つの信号を紙の端へ記した。
「足首を上げようとしたときの変化が出たら、決めた角度まで上げる。つま先で押そうとしたときは、足首とつま先を連動させる」
「戻す動作は」
「ばねと駆動器を使う。身体からの信号が弱くなったら、決めた位置へ戻す」
「地面へ触れたことは分かりますか」
「それは無理」
ネラは紙に描いた足先を指で叩いた。
「地面に触れたことを感じるわけじゃない。どこまで曲がったかも分からない。動き過ぎないよう、仮脚の側で止める必要がある」
「歩行速度は」
「調整が合えば、町の中では人間と同じくらいまで出せるかもしれない」
ネラは紙から顔を上げた。
「階段も、今みたいに角材を一段ずつ運ぶよりはましになる。左右交互に上れるところまでは持っていけると思う」
「長距離の歩行はできますか」
「角材よりは、ずっと歩ける」
返答したあと、ネラの表情が少し険しくなった。
「でも、町で歩けることと、街道で何日も使えることは別だよ。ボルトが緩むかもしれない。受け具がずれるかもしれない。ケーブルとの接続に異常が出ることもある」
「一日や二日であれば」
「歩けないとは言わない。でも、保証はできない」
「雨に濡れた場合は」
「濡れただけなら止まらない。泥や砂が可動部へ入ったら、点検が必要になる」
「戦闘時は」
「戦うための脚にはならないよ」
ネラの返答は早かった。
「急に踏み込む。横へ飛ぶ。強く蹴る。そういう力が掛かったとき、歪まない保証はない。身を守るくらいはできても、戦闘用だとは言えないね」
リゼは紙に描かれた脚を見た。
失われた右脚と同じ形ではない。
人間の脚とも違う。
白い外殻も、人工皮膚もない。
木材と金属で組み上げ、残った信号を拾って、決められた動作だけを行うための脚だった。
「元の脚には戻らない」
ネラは紙の端へ木炭を置いた。
「けど、町で暮らしたり、一日二日平坦な道を歩くなら問題ないところまでいける」
「作れますか」
「作れると思う」
「費用はいくらですか」
ネラは紙に描いた受け具と、リゼの右脚を見比べた。
その目が、砕けた外殻、開いたフレーム、切断されたケーブルを順にたどっていく。
「八十クレド」
リゼは左腰の巾着を外した。
作業台の端へ置き、二重に結んだ紐を解く。
中から硬貨を取り出し、一枚ずつ並べた。
古い服を引き取ってもらった代金。
メリダの店で働き、受け取った四日分の給金。
二十ミル貨。
十ミル貨。
表面の擦れた硬貨が、木の上で小さく鳴った。
「二百五十ミルあります」
ネラは並べられた硬貨を見た。
次に、リゼの反対側の腰へ下がっている革袋へ視線を向ける。
「そっちは?」
「ロアンから、検査と調整の費用として預かりました」
「使わないのかい」
「私の金ではありません。残額は返します」
ネラの眉間に浅い皺が寄った。
「八十クレドには、ずいぶん足りないね」
「はい」
「七十七クレドと五十ミル足りない」
「はい」
「今と同じ給金なら──」
「百六十日ほどで貯められると思います」
「毎日働けるわけじゃない。休みも必要だ」
「勤務日を増やします」
「その前に、残ってる脚が壊れるよ」
ネラは露出したフレームを指した。
「今日見ただろう。もう外へ開き始めてる。外殻の亀裂も広がってる」
「固定方法を改善してください」
「改善したって限界はある」
「それでも、貯めます」
ネラは何も言わなかった。
リゼは、作業台の上に並んだ硬貨を見ている。
声は震えていない。
顔を伏せてもいない。
淡い青の瞳にも、目立った変化はなかった。
「どうして、そこまでして新しい脚が欲しい」
しばらくして、ネラが尋ねた。
リゼはすぐには答えなかった。
工房の外を、荷車が通り過ぎていく。
車輪が石の継ぎ目を踏むたび、積まれた金属が低く触れ合った。その音が入口の前を過ぎ、少しずつ遠ざかっていった。
「私は、右脚が失われた状態で、長く使用されることを想定していませんでした」
ネラは椅子へ浅く腰を下ろした。
作業台へ片肘をつき、リゼの顔を見る。
「すぐ直るって思ってた?」
「いいえ、右脚を失い、護衛としての用途を果たせなくなりました。商会で使用できないと判断されたので、赤い札をつけられました。分解して、部品として売る予定でした」
「それでよかったの」
「適切だと考えていました」
返答に迷いはなかった。
少なくとも、以前はそうだった。
役に立たない機械人形を停止する。
分解し、残った部品を別の機械へ使う。
修理に掛かる費用が、使用できる部品の価値を上回るなら、そのほうが損失は少ない。
それは、商会にとって正しい判断だった。
「自分のことだよ」
ネラが言った。
「はい」
「自分が分解されても、それでよかったのかい」
「はい」
ネラの目がわずかに細くなった。
怒っているわけではなかった。
目の前の言葉を、どこへ置けばいいのか分からないような表情だった。
「ロアンに買われたあとも?」
「しばらくは、同じように考えていました」
ベルグラートからエルデンへ向かうあいだも、角材では長い街道を歩けず、護衛として働けない自分を、ロアンがいつまで所有するのかは分からなかった。
役に立たない状態が続けば、いずれ不要になる。
売却されるか、分解される。
それを当然の帰結として受け入れていた。
「だから、この角材でよかった」
ネラは、作業台の横へ置かれた角材を見た。
「はい。長く使用する前提ではありませんでした」
「もう、歩く必要があるとは思ってなかったんだね」
「はい」
「いまは?」
リゼは答えるまでに、少し時間を置いた。
開いた窓から風が入り、作業台の上の紙をわずかに動かす。ネラが指先で紙の端を押さえた。
「ロアンが仕事へ行くと、私は宿舎で待ちます」
「そうだね」
「帰還予定日を過ぎても、待つことしかできません」
ネラの視線が、リゼの顔へ戻った。
「この前、帰りが遅れたときのことかい」
「はい」
「ロアンは帰ってきた」
「はい」
「でも、次も帰ってくるとは限らない」
「はい」
ネラの口元が、わずかに歪んだ。
笑ったのではなかった。
何かを言いかけてやめ、外された角材へ視線を落とす。
「いまの脚じゃ、ついていけない」
「はい」
「これを作ったって、ロアンが連れていくとは限らないよ」
「分かっています」
「あいつは、あんたについてきてほしいと言ったのかい」
「いいえ」
「それでも、あんたは行きたい」
「はい」
ネラは、作業台の上で両手を組んだ。
「同行して、何をするつもりなの」
「ロアンが負傷した場合は補助できます。敵がいる場合は、周囲を警戒し、戦闘に参加できます。荷を運ぶこともできます」
「新しい仮脚も、戦闘に使えるとは思わないで」
「分かっています」
「街道の仕事についていける保証もない」
「はい」
「ロアンが許さないかもしれない」
「はい」
答えは変わらなかった。
ネラはしばらくリゼを見ていた。
その視線が、淡い青の瞳から、砕けた右脚へ下りる。
「役に立ちたいんじゃなくて、待ってるだけなのが嫌なんだね」
リゼは答えるまでに、少しだけ間を置いた。
「はい」
工房の中へ、風の音だけが残った。
天井から吊された小さな留め具が触れ合い、乾いた音を一度立てる。
「離れたくありません」
リゼは続けた。
「同行していれば、何かできる可能性があります」
「何もできないかもしれないよ」
「はい」
「一緒に死ぬかもしれない」
「はい」
「それでも?」
「待っているだけよりは、よいと考えています」
ネラの眉が寄った。
「あんた、それをロアンに言ったら、たぶん怒られるよ」
「そのため、話していません」
「そういう理由かい」
「話した場合、工房へ行くことを止められる可能性もあります」
「止めるだろうね」
ネラは、低く息を吐いた。
「でも、いまのままじゃ、最初から選んでもらえない」
「はい」
リゼは、紙に描かれた仮脚を見る。
「現在の右脚では、ついていくことができません。ロアンが連れていくかどうかを判断する前に、できないことが決まっています」
「だから、まずはついていける身体になりたい」
「はい」
「ロアンが求めてなくても?」
「はい」
リゼの声は変わらなかった。
「私が、ついていきたいと考えています」
ネラは何も言わなかった。
リゼは泣かない。
もともと、泣くようには作られていない。
声も震えない。
俯いて、顔を隠すこともない。
ただ、八十クレドには遠く足りない二百五十ミルを、作業台の上へ一枚ずつ並べていた。
以前なら、必要のなかった金だった。
角材の脚で長く歩き続けることも、その先で何をするのかも、考える必要はなかった。
分解されれば、それで終わる。
それでよいと思っていた。
いまは、ロアンが仕事へ行くたび、その帰りを待つ自分がいる。
次も帰ってくるとは限らない。
それでも壊れたままでは、ついていくことを望むことすらできない。
何月掛かるのかを計算し、新しい仮脚が十分なものではないことを理解し、足りない硬貨を並べている。
その姿が、ネラには泣いているように見えた。
ネラは片手を額へ当てた。
目を閉じ、短く息を吐く。
それから、作業台に並んだ硬貨を指した。
「それはしまいな」
「まだ支払えません」
「分かってるよ」
ネラは角材を手に取った。
歪んだ木材を目の高さまで上げ、片側から反りを確かめる。
「今日取るのは、検査と固定の調整で一クレドだ」
リゼは、自分の硬貨を一枚ずつ巾着へ戻した。
最後の一枚を収め、口を閉じる。
次に、ロアンから預かった革袋を外した。手のひらに硬貨を広げる。
五クレドの中から一クレドをネラへ渡す。残った四クレドを革袋へ戻し、紐を固く結んだ。
「ロアンに話しな」
ネラが言った。
「話しません」
「八十クレドだよ。あんた一人で貯める金じゃない」
「ロアンは支払います」
「そうだろうね」
「そのため、話しません」
「払ってもらえばいいじゃないか」
「私が必要だと判断した脚です」
リゼは、硬貨を収めた自分の巾着へ触れた。
「ロアンは、私にこの脚を求めていません。ついていきたいと望んでいるのは、私です」
ネラはリゼを見た。
「だから、自分で払う」
「はい」
「それが正しいと思ってるのかい」
「はい」
「正しいかどうかを、あんた一人で決めるのも違うと思うけどね」
リゼは返答しなかった。
ネラは、作業台に置かれた紙を見た。
しばらく考えたあと、折り畳まず、そのまま端へ寄せる。
「メリダには話すよ」
リゼの指が止まった。
「なぜですか」
「あんた、勤務を増やすつもりだろう」
「はい」
「あんたが勤務を増やすと言ったとき、理由を知らなきゃ止められないからだ」
「勤務を増やす必要があります」
「だから止めるんだよ」
ネラは、外側へ開き始めたフレームを指した。
「仮脚を作るために働いて、働いたせいで取りつける身体が壊れたら、何の意味もない」
「損傷しない範囲で働きます」
「その範囲を、あんたは自分で狭くできないだろう」
「できます」
「あんたは、できると言いながらここまで歩いてきたんだよ」
ネラの声は強くなかった。
けれど、先ほどまでより低かった。
「メリダには話す。勤務を増やさせないこと。角材を使い続ければ、残ってる本体まで悪くなること。それから、八十クレド必要なこと」
リゼは少しのあいだ黙っていた。
「ロアンには伝えないでください」
「あんたが自分で話すまではね」
「話さない可能性があります」
「その場合でも、あんたが危ない状態になったら話す」
ネラは譲らなかった。
「そこは約束できない。技師として、壊れるのを黙って見てるつもりはないよ」
リゼは、台の上に載せられた右脚を見た。
開いたフレーム。
細かな亀裂の入った外殻。
保護布へ包み直された神経ケーブル。
どれも、今すぐ動かなくなる状態ではない。
しかし、長く使い続けられる状態でもなかった。
「分かりました」
「メリダに話すことも?」
「はい」
ネラの肩から、わずかに力が抜けた。
「最初からそう言えばいいんだよ」
「勤務を増やせないことには同意していません」
「前言撤回したくなってきた。こっちも、あんたみたいな人形じゃなきゃ、持ち主にすぐ言うんだけどね」
「みたいな、とは何ですか」
「さあね」
ネラは呆れたように言い、外した角材を削り台へ固定した。
外側へ膨らんでいた部分へ刃を当てる。
薄い木屑が細く巻き上がり、床へ落ちていった。何度か角度を変え、底が平らになるまで少しずつ削る。
薄くなっていた革も外した。
新しい革を重ね、外側と内側の厚みを変える。接地したとき、角材が外へ倒れにくくなるように整えていった。
次に、角材を右脚へ戻す。
開き始めた外側のフレームへ荷重が集中しないよう、以前より少し内側へ寄せる。硬さの異なる革を間へ挟み、残った二本のフレームで力を分けて受けられる位置を探した。
布を一周巻くたび、角材の向きと膝の位置を確かめる。
一度締めた布を解き、革の位置を直す。
再び巻き、角材へ力を加えてもずれないことを確かめた。
最後の結び目を締めると、ネラは低い台を退けた。
「立って」
リゼは椅子から立ち上がった。
左脚へ体重を移し、角材の先を床へ置く。
一歩進む。
削り直された底が、床板へ平らに触れた。
もう一歩。
来たときより、角材が外側へ流れない。
固定布が強く引かれる幅も、わずかに小さくなっていた。
「以前より歩行しやすくなりました」
「だからって、歩く距離を増やさないでね」
「はい」
「次来るとき、信号をもう少し細かく計測する。少し時間がかかるつもりでいて」
「分かりました」
リゼは肩掛けを羽織った。
左腰には、自分の二百五十ミルが入った布の巾着。
右腰には、ロアンへ返す四クレドが入った革袋。
戸口へ向かう背中へ、ネラが声を掛けた。
「帰れそう?」
「はい」
「少しでも歩きにくくなったら戻ってきな。送るから」
「その場合の費用は、ロアンが支払うと伝えるよう言われています」
ネラは一度、目を瞬いた。
それから、困ったように口元を緩めた。
「そうかい」
リゼは工房を出た。
角材の先が石畳へ触れる。
来たときより短く、平らな音がした。
*
昼をいくらか過ぎてから、リゼは宿舎へ戻った。
二〇三号室の扉は開いていた。
ロアンは机へ近郊路の図を広げ、椅子に座っている。依頼札の余白へ書き込みをしていた手を止め、階段を上がる音へ顔を向けた。
左足。
角材。
左足。
角材。
朝よりも、二つの音の間隔がわずかに短い。
廊下を進んできたリゼが、開いた扉の前へ立った。
「戻りました」
「ああ」
ロアンは椅子から立ち上がった。
最初にリゼの顔を見て、それから右脚へ視線を落とす。
「問題はなかったか」
「はい。角材の底を削り、固定位置を変更しています」
部屋へ入ってくる歩き方は、朝よりわずかに変わっていた。
角材が外へ流れにくくなり、床へ触れる音も以前より平らになっている。
「本体側のほうは」
「外殻に新しい破断はありません。残存フレームの一本が、以前より外側へ開いています」
ロアンの眉が寄った。
「直せないのか」
「無理に戻すと、折れる可能性があります。現在の位置で荷重を分散するよう調整してもらいました」
「このまま歩けるんだな」
「すぐに歩行できなくなる状態ではありません」
「すぐに、か」
ロアンは、それ以上の問いを続けなかった。
リゼは右腰の革袋を外し、机の上へ置いた。
「残金です」
ロアンが袋を持ち上げる。
中身を確かめた。
「いくら使った」
「一クレドです。検査と固定の調整を行いました」
「送ってもらう必要はなかったか」
「ありませんでした」
「そうか」
ロアンは革袋を衣類箱へ戻した。
「ネラは、歩くなとは言わなかったのか」
「歩行距離を増やさないよう言われました」
「仕事は」
「現在の勤務を続けることについては、メリダと相談します」
ロアンは一度、リゼの左腰に下がる巾着を見た。
何のための金なのか、もう一度聞き出そうかと迷った。工房に関係することはリゼの様子からわかっている。
だが、命じて聞き出そうとはしなかった。
「悪くなったら、黙ってるな」
「はい」
それだけを確認し、机の図へ戻る。
リゼは壁棚の前へ向かった。
左膝を床へつき、自分の巾着を外す。
中には二百五十ミルが残っていた。
八十クレドには、遠く足りない。
それでも、確実に貯めることのできる金額に思えた。




