4-2. リゼ、働く
継暦六百二十七年 七月二十三日
朝食を終える前から、リゼは食堂の入口を何度か見ていた。
通りを行く荷車の音は、まだ少ない。
マルタが椀を置くたびに顔を上げ、窓から入る明るさを確かめる。その動きは小さく、向かいに座っていなければ気づかなかったかもしれない。
「まだ早い」
ロアンが言うと、リゼは窓から視線を戻した。
「はい」
返事をしたあとも、しばらくすると再び入口を見た。
昨日、メリダから来るように言われた時刻までは余裕がある。宿舎から店まで、リゼの脚でもそれほど掛からない。
「時間は分かってるのか」
「分かっています」
「なら、急ぐ必要はない」
「遅れないために確認しています」
椀の中身は減っていない。
リゼは食事を必要としないため、卓の上にあるのはロアンの分だけだった。仕事へ行くために早く食べろと急かしているわけでもないらしい。
ロアンは残っていた固いパンをちぎった。
「先に行くか」
「まだ早いです」
「今度は早すぎるのか」
「指定された時間より前に到着すると、メリダの準備を妨げる可能性があります」
「じゃあ、座って待ってろ」
「はい」
リゼは椅子へ座ったまま、両手を膝の上へ置いた。
しばらくして、また入口を見た。
マルタが横を通り過ぎながら、リゼの肩を軽く叩いた。
「店は逃げないよ」
「はい」
「それと、働き始める前から疲れないようにしな」
リゼは自分の右脚へ視線を落とした。
角材の先に巻いた革は、昨日までと変わらない。固定に使う布も、今朝ロアンが確かめたかぎりでは緩んでいなかった。
「疲労は蓄積していません」
「そういう意味じゃないんだけどね」
マルタはそれ以上説明せず、空いた椀を重ねて厨房へ戻っていった。
指定された時刻の少し前に、二人は宿舎を出た。
リゼはいつもより速く歩こうとはしなかった。左脚を出し、角材を運び、石敷きへ革の先を置く。身体の位置が安定してから、次の一歩へ移る。
ただし、途中で立ち止まることはなかった。
店の前へ着くと、軒先にはすでに革紐の束が吊されていた。
戸は開いている。
中から木箱を動かす音が聞こえた。
ロアンが戸を押すと、金属片が短く鳴った。
メリダは奥の卓へ浅い箱を三つ並べていた。
昨日見た金属環のほかに、留め具、紐を通す小さな金具、木釘が入っている。床にも蓋の閉じた箱がいくつか置かれ、棚の前の通路が狭くなっていた。
「来たね」
メリダはリゼの顔より先に右脚を見た。
「途中で緩んでない?」
「異常はありません」
「なら、最初に決めておくよ。脚の固定が緩んだら言うこと。立っていられるとしても、私が座れと言ったら座ること。持てると思っても、重い箱には勝手に触らない」
「はい」
「分からないことは聞く。勝手に決めない」
「はい」
メリダは今度はロアンを見た。
「今日は見ていくのかい」
「そのつもりだ」
「あんた、機械人形だとは言っても、この子の保護者みたいだね」
「ロアンは私の所有者です」
リゼの言葉に、ロアンは口を出さなかった。
メリダは店の隅に置かれた背の低い椅子を顎で示した。
客が使うものではなく、棚の高い場所から品を取るときに足場へする椅子らしい。座面には紐の切れ端や布の繊維が付いていた。
「そこに座ってな。邪魔になったら追い出す」
「分かった」
ロアンが椅子を壁際へ寄せるあいだに、メリダはリゼを卓の前へ呼んだ。
「最初は仕分けだよ」
浅い箱の中には、形の似た金属環が混じっていた。
大きさは指先ほどで、革紐や細い縄をつなぐためのものらしい。表面が黒ずんだもの、縁に傷のあるもの、わずかに歪んだものが混ざっている。
メリダは空の皿を三枚並べた。
「売るもの、安くして売るもの、売らないもの。三つに分ける」
「判定基準を教えてください」
「まず自分で見な」
リゼは箱の中から金属環を一つ取った。
両手の指先で持ち、表裏を確かめる。
傷はない。
形も均一だった。
一枚目の皿へ置く。
次に取った環は、表面の一部が黒く変色していた。リゼは昨日メリダが見せたものと見比べるように、しばらく角度を変えた。
二枚目の皿へ置く。
三つ目は、淵に浅い傷があった。
リゼは傷の深さを指先で確かめたあと、一枚目へ置いた。
メリダがすぐに取り上げる。
「これは違う」
「形状に変化はありません」
「紐を通してみな」
メリダが短い革紐を渡した。
リゼは環へ紐を通し、傷のある部分へ触れさせる。紐を前後へ動かすと、革の表面に細い跡がついた。
「売れないものです」
「そう。見た目じゃ分かりにくくても、使えば切れる。客が道の途中で困る」
リゼは環を三枚目の皿へ移した。
「傷がある商品は、すべて売らないのではありませんか」
「傷の場所と深さによるよ。箱の中で擦れただけなら使える。少し歪んでいても、留め具として使えるなら安く売る」
メリダは二枚目の皿を指した。
「旅道具を買う客は、きれいなものだけを探しに来るわけじゃない。見栄えが悪くても、使えるものは売れる」
「新品と同じ価格ですか」
「同じにはしない。だから分ける」
リゼは三枚の皿を見た。
「正常な商品ではないものにも、価値がありますか」
「使えるならね」
メリダは箱の中から黒ずんだ環を一つ拾い、指先で弾いた。
金属の澄んだ音がした。
「汚れてるから捨てるなんてやってたら、この店はすぐ潰れるよ」
リゼは黒ずんだ環を受け取り、二枚目の皿へ置いた。
それからは、箱の中のものを一つずつ確かめた。
形を見る。
指先でなぞる。
革紐を通す。
判断できないものは、メリダへ渡した。
最初のうちは、浅い傷のあるものを売らない方へ置くことが多かった。メリダはそのたびに理由を聞き、紐が傷むか、留め具として外れるか、力を掛けたときに形が変わるかを試させた。
傷があっても問題のないものは戻された。
逆に、外から見ただけでは分からない歪みを見落とすこともあった。
「こっちは閉じ方が甘い」
メリダは環の切れ目を指した。
「引っ張れば開く」
リゼが両手で力を加えると、環はわずかに広がった。
「売らないものです」
「そう」
「変色はありません」
「色だけ見てたら駄目だよ」
「はい」
メリダは答えを急がせなかった。
リゼが一つを確かめているあいだに、別の箱の蓋を開け、棚へ並べる品を揃えていく。ときどきリゼの皿を見て、置き場所が違えば戻す。
ロアンは壁際の椅子へ腰掛けたまま、その様子を見ていた。
ベルグラートの第二倉庫では、リゼは荷を運ぶために使われていた。
持ち上げろと言われれば持ち上げ、運べと言われれば運ぶ。転んで品を壊しても、次の指示が出ればまた動いた。
いまは、一つの金属環に時間を掛けている。
使えるものか。
安くすれば売れるものか。
客へ渡してはいけないものか。
メリダは、それをリゼに決めさせていた。
店の戸についた金属片が鳴った。
入ってきたのは、短い外套を羽織った女だった。
年は三十をいくらか過ぎたほどで、腰に短剣を下げ、肩には細長い袋を掛けている。革の胸当てには、何度も縫い直した跡があった。
女は入口で一度、店内を見回した。
リゼにも視線を向けたが、そのままメリダへ顔を戻す。
「包帯布を二巻。細い革紐を三本。あと、八分の環を四つ」
「リゼ」
メリダが呼んだ。
リゼは手にしていた金属環を皿へ置いた。
「はい」
「包帯布は左の二段目。革紐はその下。八分環は奥から二つ目の箱だよ」
リゼは棚へ向かった。
最初に包帯布を二巻取る。
隣に並んでいた幅の狭い布と見比べてから、卓へ置いた。
革紐は束ごとに長さが違う。リゼは女へ向き直った。
「革紐の長さを確認します」
「腕一本分くらいでいい」
女は自分の肘から指先までを示した。
「三本とも同じ長さですか」
「同じでいい」
リゼは棚から革紐を三本選び、長さを揃えて卓へ並べた。
次に、箱の側面へ書かれた文字を読み、八分環を四つ取り出す。一つずつ形を確かめたあと、ほかの品の横へ置いた。
「以上です」
女は品物を見た。
「いくら」
リゼは棚の札を順に確認した。
包帯布、革紐、金属環。
声に出さず計算し、金額を答える。
「八十二ミルです」
女は財布から硬貨を取り出し、卓へ置いた。
リゼは数える。
十ミル貨が八枚と、一ミル貨が二枚。
不足はない。
だが、品物を渡さず、硬貨と女の顔を交互に見た。
メリダが口を挟む。
「金を受け取ったら、品をまとめるんだよ」
「はい」
リゼは商品を包むための透けるような薄い布を一枚取り、その上へ包帯布と革紐、環を置いた。
布の端を畳み、紐で結ぶ。
結び目を作るまでに少し時間が掛かったが、女は急かさなかった。じっとその傷ついた指先を見つめているように見えた。
リゼが包みを差し出す。
「八十二ミルを受け取りました」
女は受け取った包みを肩の袋へ入れた。
「どうも」
それだけを言って、店を出た。
戸の金属片が鳴り、足音が通りの向こうへ遠ざかる。
リゼは閉じた戸を見ていた。
「うまくできたね」
「できましたか?」
メリダは頷いて口を開く。
「なら、次は金をこっちへ入れる」
卓の下から、小さな木箱が引き出された。
中は仕切られ、硬貨ごとに分けられている。
リゼは受け取った硬貨を同じ場所へ収めた。
「いまのが客の応対だよ」
「はい」
「できそう?」
リゼは少し考えた。
「必要な品と数量が明確でした。判断できない情報は、革紐の長さだけでした」
「それは客に聞けた」
「はい」
「だったら問題ない」
メリダは包帯布が置かれていた棚を見た。
「ただし、金を受け取ったまま止まらないこと。客は品を持って帰るために来てる」
「記憶します」
リゼは再び仕分けの箱へ向かった。
ロアンは店の戸を見た。
女はリゼが機械人形であることを尋ねなかった。
薄く光る瞳にも、角材の脚にも気づかなかったわけではないだろう。それでも、必要なものを注文し、代金を払い、品を受け取って帰った。
それだけだった。
リゼも、女が何も尋ねなかったことを口にはしなかった。
二人目は杖の石突きを探す老人だった。
自分の杖を卓へ置き、同じ太さのものを求めたため、リゼは径を確かめて品を選んだ。老人はリゼの手元を見ながら、
「そっちじゃ少し緩い」
と言った。
リゼは別のものへ交換し、何度か杖へ当てて確かめた。
老人は機械人形の手については何も言わなかった。
三人目の若い男は、入ってすぐにリゼの顔を見た。
注文をしながらも何度か目を向け、金を払ったあとで、
「本当に店で働いてるのか」
と尋ねた。
リゼが、
「今日は試用です」
と答えると、男はそれ以上聞かなかった。客足は途切れず、入れ替わり立ちかわりで人が訪れた。少ない合間を縫って、仕分けを進める。
昼が近づくころには、最初の箱の仕分けが終わった。
売るもの。
安くして売るもの。
売らないもの。
三枚の皿には、それぞれ異なる数の環が入っている。
メリダは一つずつ確かめた。
売らない皿へ入っていたものを二つ、安く売る方へ移す。売る皿から一つを取り上げ、切れ目の閉じ方をリゼへ見せた。
「これは売らない」
「変形しませんでした」
「変形する前から少し隙間がある。何度か使えば外れる」
リゼは環を受け取り、切れ目を見た。
「作るときに問題が出たのですか」
「たぶん、間違えて混じったんだろうね」
リゼは三枚目の皿へ置いた。
メリダは残りを数え、紙へ数量を書き留めた。
「最初にしては悪くない」
「明日も来ますか」
「まだお試しだよ」
メリダは卓の下の箱を閉じた。
「今日はここまで。右脚を見せな」
リゼが卓から離れる。
メリダはしゃがみ込み、角材を固定している布へ指を当てた。結び目、革の擦れ、膝下の受け部分を順に見る。
「問題なさそうだね」
ロアンも立ち上がった。
布の上からでは、目立つほどの緩みはない。
だが、角材の向きがわずかに外へ開いていた。
「動作に支障はありません」
リゼが言った。
「支障が出るまで使う気かい」
メリダは立ち上がった。
「明日も来ていい。ただし、朝から昼までだ。何もなければ座っておく。勝手に箱を持たない」
「はい」
「給金は働いた時間で決める。今日は初日だから四十ミル」
メリダは木箱から二十ミル貨を二枚取り出した。
リゼの前へ差し出す。
リゼは手を出さなかった。
「受け取らないのかい」
「これは私へ支払われるものですか」
「ほかに誰がいる」
リゼはロアンを見た。
ロアンは何も言わなかった。
メリダが硬貨を持ったまま、眉を寄せる。
「働いたのはあんただよ。持ち主の許可がないと受け取れないのかい」
「許可は要らない。リゼのものだ」
ロアンが言った。
「受け取れます」
リゼは両手を差し出した。
掌の上へ、二枚の硬貨が置かれる。
古い硬貨だった。
縁は丸く擦れ、表面の印も浅くなっている。
リゼは指先で一枚ずつ確かめた。
「四十ミルです」
「数えなくても二枚だよ」
「確認しました」
「なくさないようにしな」
「はい」
ヘルマの店でもらった巾着に、硬貨をしまう。その姿を見て、メリダは頷いた。
帰り道、腰の巾着を見ながらロアンが言った。
「落とすなよ」
「落ちた場合、戻って探します」
「人の多い通りなら残ってない」
「どうしてですか」
「そういうものだからだ」
宿舎へ戻るまで、リゼは腰の巾着を握り締めていた。
部屋へ戻ると、リゼは真っ先に壁棚の前へ向かった。棚の一番下の段、リゼのものを置く棚に、二枚の硬貨を並べた。
二十ミル貨が、棚板の上で小さな音を立てる。
「なくすぞ。入れたままにしておけ」
ロアンが言った。
「この前の五十ミルとは違います。私が働いたものです」
「明日も行くんだろ」
「はい」
リゼは棚の上の硬貨を見た。
服も、セルも、固定に使う革も、そこへ置かれているものはロアンが買ったものだった。
二枚の硬貨だけが違う。
リゼはしばらくその前に立っていたが、やがて棚から清掃布を取り出した。
「何をする」
「右脚の固定を直します」
ロアンは椅子を引いた。
「座れ。俺が見る」
リゼは振り返り、棚の硬貨へ一度だけ目を向けた。
それから椅子へ腰を下ろした。
何に使うのか、ロアンにはわからなかった。




