3-15. おかえりなさい
継暦六百二十七年 七月十九日
「帰った」
ロアンが言った。
リゼは胸元へ顔を伏せたまま、すぐには動かなかった。胸当てと上着の上から回された両腕には、人間なら息苦しさを覚えるほどの力が込められている。自分がどれほど強く掴んでいるのか、把握していないらしい。
「はい」
ようやく返った声は、いつもと変わらなかった。
周囲では、補修隊の者たちが使い終えた道具を石床へ下ろし、受付を待っていた者たちが通り道を空けている。木箱を置く音や、泥の乾いた靴底が床を擦る音に混じって、何人かが足を止め、こちらを見ている気配もあった。
ロアンはリゼの背へ片手を置いたまま、動かなかった。
強く抱き返したわけではない。角材の仮脚で急いできた身体が傾かないよう、支えているだけだった。それでも、離れろとは言わなかった。
リゼの額は、胸当ての縁へ触れている。耳を近づけ、上着と革具の下から聞こえる音を確かめているようにも見えた。
「リゼ」
もう一度、名前を呼ぶ。
返事はなかったが、胸元に触れていた頭がわずかに動いた。呼びかけを認識していることは分かった。
「怪我は大したことない。額を少し切っただけだ」
「はい」
「だから、離しても大丈夫だ」
リゼの腕から、わずかに力が抜けた。
しかし、完全には離れなかった。
ロアンは胸元へ落ちている黒い髪を見下ろした。昨日の夕方に戻ると伝えていた。作業が長引けば夜になる可能性も話していたが、日付が変わっても帰らず、連絡も出せなかった。
「戻らないと思ったのか」
尋ねると、リゼはしばらく黙っていた。
「戻ると言いました」
「ああ」
「七月十八日の夕方に戻る予定でした」
「ああ」
「夜になっても戻りませんでした」
責める調子はなかった。ただ、記録されている事実を順番に確かめている。
「悪かった」
その言葉に、リゼが顔を上げた。
淡く光る目が、間近からロアンを見る。
「ロアンが謝る必要はありません」
「予定を過ぎた」
「はい」
「連絡もできなかった」
「はい」
「なら、謝る理由はあるだろ」
リゼはすぐには答えなかった。
腕はまだロアンの身体へ回されている。ロアンがその手元へ視線を落とすと、リゼも自分の指を見た。
ようやく、許可なく所有者の身体を掴み続けていることへ気づいたらしい。
「すみません」
両腕が離れた。
一歩下がろうとした瞬間、角材の先が石床に散った細かな砂を踏み、横へ滑った。ロアンは背へ置いていた手をそのまま使い、傾いた身体を支える。
「急に動くな」
「はい」
「脚は大丈夫か」
「問題ありません」
「本当に?」
「はい」
返事はしたものの、リゼは自分の脚ではなく、ロアンの顔を見ていた。
額の傷。
土と木屑で汚れた上着。
擦れた跡の残る胸当て。
腰へ下げた棒剣。
一つずつ、異常がないかを確かめている。
「怪我は?」
「してない」
「胸当てに汚れがあります」
「橋を直したときについた」
「血ではありませんか」
「違う」
リゼは胸当ての表面へ顔を近づけた。薄暗い広間でも見落とさないよう、茶色い汚れと、表面へ付着した細かな木屑を見ているらしい。
「確認してもよいですか」
「ここで脱げっていうのか」
「はい、異常がないか確認します」
ロアンは周囲を見た。
補修隊の者たちは疲れた顔で受付の順番を待ち、広間の端にいた者たちも、まだこちらへ目を向けている。
ティナは少し離れた場所で口元へ手を添え、笑うべきか、心配するべきか迷っているようだった。エダは受付台の向こうで帳面を開いたまま、少し呆れた様子で二人のやり取りが終わるのを待っている。
「あとで見せる」
「いつですか」
「宿舎へ戻ってからだ」
「分かりました」
リゼはようやく、ロアンの身体から少し距離を取った。
それでも、ロアンの右腕の袖を指先で摘んだままだった。
「本当に、ずっと心配してたのよ」
ティナが言った。
リゼは反応しなかった。まだロアンだけを見ている。
「夜が明けるまで食堂にいたって――」
「ティナ」
ロアンが呼ぶと、ティナは言葉を止めた。
「何?」
「あとで聞く」
「本人に聞いても、たぶん言わないと思うけど」
そこでようやく、リゼがティナへ顔を向けた。
「何をですか」
「リゼが、どれくらいロアンを心配してたか」
「食堂でロアンの帰還予定を確認していました」
「そういうところよ」
ティナは小さく息を吐いた。
受付台の向こうで、エダが帳面を閉じる。
「ロアンさん。再会のところ申し訳ありませんが、先に帰還報告をお願いします。補修隊の方々も待っています」
「すまない」
ロアンは受付へ向き直った。
リゼも、その横へついてくる。
「長椅子で待ってろ」
「ここでは駄目ですか」
「報告をするだけだ」
「聞いてはいけませんか」
ロアンはリゼを見る。
同行していた仕事ではない。契約の内容や補修設備の状態には、リゼが聞く必要のない情報も含まれる。
しかし、ここで離れろと言えば、受付から見える位置へ座り、報告が終わるまでこちらを見続けるのだろう。
「邪魔をしないなら、そこにいろ」
「はい」
リゼは受付台の横へ移動した。
ロアンから半歩ほど後ろ。
いつも歩くときと同じ位置だった。
そこにいることを確認してから、ロアンはエダへ向き直る。
「遅れた理由からでいいか」
「お願いします」
ロアンは、七月十八日の昼前までに、取水設備の補修そのものは終わっていたことから話し始めた。
傷んだ外板を交換し、流れを調整する仕切りも、引っ掛かりなく動くようになった。予定していた作業に、大きな遅れはなかった。
問題が起きたのは、使った道具と残った資材を荷車へ戻し、帰る支度を始めてからだった。
取水設備へ向かうには、水路へ架けられた古い木橋を渡る必要があった。作業員や軽い荷を通すには足りていたが、長く本格的な補修を受けておらず、横木の一部には深い割れが入っていた。
行きには、補修資材を積んだ荷車も問題なく渡っている。
しかし帰りには、取り外した古い外板や、使えなくなった仕切り材も荷へ加わっていた。行きより重くなった荷車が橋の中央へ入ったところで、片側の横木が折れた。
片輪が落ち、荷台が大きく傾いた。
「橋が壊れたのですか」
リゼが尋ねた。
ロアンは振り返る。
「邪魔をしないならと言っただろ」
「すみません」
リゼは口を閉じた。
エダはわずかに口元を緩めたが、何も言わず帳面へ筆を走らせた。
荷車は橋の途中で動けなくなっていた。
そのまま置けば、水門へ出入りする通路を塞ぐ。荷を一度下ろし、落ちた車輪を持ち上げ、折れた横木の代わりを入れなければならなかった。
工具や残った資材も、町へ持ち帰る必要がある。
水門の作業員と相談し、荷車を引き上げたあと、橋の残った部分を補強することになった。
橋の近くに保管されていた木材を切り、壊れていない支柱へ渡す。荷車の荷を分け、人の手で少しずつ運び、橋へ掛かる重さを減らす必要もあった。
作業は、暗くなる前には終わらなかった。
足元の悪い夜道を荷車で戻るより、水門の詰所へ一泊し、朝の明るい時間に橋を渡った方が安全だと判断した。
「連絡を出せなかった理由は?」
エダが尋ねる。
「町へ戻るなら二刻以上掛かる。連絡のためだけに、暗くなる道へ一人を出すほどじゃないと判断した。朝には橋を通せる見込みだった」
「その判断をしたのは?」
「俺と、補修責任者だ」
補修責任者の男が、ロアンの横で頷いた。
上着と髪には細かな木屑が付き、袖や膝には乾いた土の汚れが残っている。
「私も同意しました。その時点では負傷者もおらず、荷車さえ引き上げれば、朝には全員で戻れる状態でした」
「負傷したのは、いつですか」
エダの視線が、仲間の肩を借りている作業員へ向く。
「今朝だ」
ロアンが答えた。
夜のうちに荷車を引き上げ、橋の補強も終えていた。
朝になってから、下ろした荷を再び荷車へ積み、補強した橋を渡らせる。最初に人と工具を向こう側へ運び、そのあとで荷車をゆっくり進めた。
その後問題なく橋を渡ったが、道中で固定した木材の一本が外れた。
作業員の一人が体勢を崩し、落ちかけた荷を支えようとして、足を木材の間へ挟まれた。
骨は折れていないようだったが、腫れが強く、自力で歩くことができない。交代で肩を貸しながら戻ったため、帰路にも時間が掛かった。
ロアンの額の傷は、そのとき外れた木材の端が跳ね、掠めたものだった。
「治療所へは?」
「このあと連れていく」
「ロアンさんも診てもらってください」
「この程度ならいらない」
「必要かどうかは治療師が決めます」
エダの口調は穏やかだったが、断る余地はなかった。
ロアンは答えず、帳面へ書き込まれていく文字を見た。
「報告は以上ですか」
「依頼側の損害と、応急的に補修した橋についても必要です。詳しい記録は、責任者の方から聞きます」
エダは筆先を整え、次の欄へ移った。
「ロアンさんは、負傷した方を治療所まで護送してください。そのあと、もう一度戻って精算を」
「分かった」
「それから」
エダはリゼを見る。
「心配だったでしょう。私も一安心です」
リゼは答えなかった。
自分の状態を、心配という言葉へ置き換えることに意味を見いだしていないのかもしれない。あるいは、ロアンが戻ったいま、それまでの状態を説明する必要がなくなったと判断しているのか。
「エダ、迷惑をかけた。行くぞ」
ロアンが言う。
「はい」
リゼはすぐに答えた。
負傷した作業員を左右から支え、治療所へ向かう。
朝の通りは、仕事へ向かう者と荷を運ぶ者で混み始めていた。石畳の上には車輪が運んだ砂や細かな木屑が散り、荷車が通るたび、乾いた音を立てて踏み砕かれる。
ティナもギルドを出て、途中まで一緒に歩いた。
「私はここまででいい?」
「ああ。ありがとう」
ロアンが答えると、ティナは少し意外そうに眉を上げた。
「素直に言うのね」
「何がだ」
「何でもない」
ティナはリゼを見る。
「じゃあ、またね」
「はい。また」
「今日はロアンから離れそうにないわね」
リゼは答えなかった。袖を摘んだままにしていることを指摘する人間はいなかった。
ロアンの半歩後ろに立ったまま、歩き出すのを待っている。
ティナは笑い、別の通りへ向かった。
治療所までは、それほど遠くなかった。
低い石造りの建物の前には、朝から数人の患者が待っている。負傷した作業員が運び込まれると、治療師たちがすぐに寝台を空け、腫れた足を確認し始めた。
ロアンは役目を終え、外へ出ようとした。
その前に、治療師の一人が額の傷へ目を留める。
「あなたも座ってください」
「必要ない」
「浅い傷なのは見れば分かります。だから、清掃だけで済むか確認します」
「木片が掠っただけだ」
「掠っただけなのかを確認します」
ロアンは空いている椅子へ座らされた。
リゼはすぐ横に立つ。
治療師が布を水へ浸し、額の傷を拭い始める。そのあいだ、リゼは傷口から一度も視線を外さなかった。
「そんなに近くから見られると、やりづらいんだけどね」
治療師が言う。
「作業を妨げていますか」
「少しね」
リゼは半歩下がった。
「ここなら問題ありませんか」
「まあ、いいでしょう」
傷の周囲を洗うと、細かな木屑が一片だけ残っていた。治療師は先の細い道具で取り除き、もう一度水を含ませた布で拭う。
出血はすでに止まっている。
薄い布を当て、ずれないよう細く巻いた。
「今日は濡らさないでください」
「分かった」
「熱や腫れが出たら、また来てください」
「ああ」
「返事だけじゃなく、守ってください」
治療師はリゼを見る。
「守ってるかあなたが見ておいて」
「分かりました」
ロアンは何ともいえない表情で治療師を見た。
治療師は笑い、次の患者のところへ移った。
治療所を出ると、朝の光はさらに強くなっていた。工房や店の戸はすでに開き、通りには食料や道具を運ぶ者が増えている。
ロアンはギルドへ戻ろうとした。
リゼも、当然のようについてくる。
「宿舎へ戻ってていいぞ」
「同行します」
「報告と精算だけだ」
「待ちます」
「宿舎で?」
「ギルドで」
返事に迷いはなかった。
ロアンは足を止め、リゼを見る。
「昨日から寝てないんだろう? いや、もしかしてガルドとマルタを巻き込んではいないだろうな」
「眠る必要はありません」
「待て、ガルドとマルタを一晩起こして付き合わせたのか?」
「帰還予定と、朝ギルドに行く話をしながら朝まで食堂で過ごしました」
頭を抱える素振りを見せて、ロアンは頭を切り替えた。
「そういう話じゃない」
以前、ティナにも似たことを言われた気がした。
リゼは淡く光る目でロアンを見ている。
「ロアンは、戻りました」
「ああ」
「私は、ロアンが宿舎へ戻るまで同行します」
「分かった」
二人でギルドへ戻った。
追加の報告と精算には、半刻ほど掛かった。
補修責任者から橋と資材の損害について話を聞き、エダが依頼の完了記録を整える。ロアンは帳面へ署名し、予定より遅れた理由と、追加で行った護衛について確認を受けた。
リゼは受付横の長椅子へ座っていた。
しかし、ロアンが帳面へ署名するあいだも、報酬を受け取るあいだも、視線をこちらへ向け続けている。
ロアンが受付から離れると、リゼもすぐに立ち上がった。
ようやく、宿舎へ帰る。
朝の通りは、すでに人と荷車で混み合っていた。
リゼはロアンの半歩後ろを歩いている。
左脚が石へ触れ、そのあとを角材の乾いた音が追う。
途中で何度か、ロアンは振り返った。
「脚は本当に大丈夫か」
「はい」
「昨日、どれくらい歩いた」
「市場と宿舎の間を往復しました。ガルドの作業も手伝いました」
「何をした」
「木材を運びました」
ロアンの眉が寄る。
「どれくらいだ」
「細いものを二本ずつです」
「ガルドが持たせたのか」
「はい」
「なら、無理はさせてないか」
「無理ではありません」
ロアンは歩きながら、巻きスカートの下から伸びる角材を見る。
固定布に大きな緩みはない。歩行の補正も、見たかぎりでは安定している。
「宿舎へ戻ったら見る」
「はい」
水路沿いの先に、宿舎が見える。
入口の戸は開いていた。食堂に足を運ぶと、マルタの姿があった。
そのあと、持っていた布を卓へ置き、入口まで歩いてくる。
「帰ったのかい」
「ああ」
「遅いよ」
「遅くはない。いつもこれくらいの誤差はある」
「そりゃ、いままでは誰も気にしないさ。あんたがどこでどうなろうとね」
マルタの視線が、リゼへ向いた。
「2日間、待ってたんだよ」
「聞いた」
「聞いただけで済ませるんじゃないよ」
「分かってる」
裏口の方から、ガルドも現れた。
ロアンの額へ巻かれた布を見る。
「それで遅れたのか」
「これは今朝だ。荷車の木で切った」
「中で聞く」
ガルドは戸口を空けた。
ロアンが宿舎へ入る。
リゼもその後ろへ続いた。
食堂には、朝食を終えた住人がまだ何人か残っている。カイルも卓に座り、空になった椀の横で湯を飲んでいた。
ロアンの姿を見ると、顔を明るくする。
「おかえり」
「ああ」
「帰ってきたね」
「何だ、それ」
カイルはリゼを見る。
「昨日、何度も帰る方角を見てたからね」
「カイル」
リゼが呼ぶ。
「何?」
「ロアンは帰りました」
「うん」
リゼはそれだけ言った。
ロアンは階段へ向かった。
一段ずつ上るたび、後ろから角材の音が続く。
二〇三号室の扉を開ける。
昨日までと同じ部屋だった。
窓から入る光。
壁際の机と一脚の椅子。
棚の下段に置かれた服と肩掛け。
寝台の脇に置かれた携行箱。
ロアンは旅袋を床へ下ろし、棒剣をいつもの壁際へ立て掛けた。胸当ての留め具を外し、寝台の脇へ置く。
リゼは扉の近くに立ったまま、その一つ一つを見ていた。
「何だ」
「胸当ての下を確認します」
「覚えてたのか」
「はい」
ロアンは上着の前を開いた。
胸当てに隠れていた部分へ、新しい傷はない。汚れは乾いた土や木屑によるものだった。
リゼは胸元から脇、腕へ順に視線を動かす。
「問題ありません」
「だから言っただろ」
リゼは返事をせず、今度は額へ巻かれた布を見る。
「これは、いつ交換しますか」
「汚れたらだ」
「私が確認します」
「自分でできる」
「治療師から、見るよう言われました」
「余計なことを」
ロアンは寝台へ腰を下ろした。
そこで初めて、身体の重さを強く感じた。
水門の詰所では、ほとんど眠っていない。橋の補強と負傷者の運搬で、身体にも普段とは違う疲労が残っている。服には乾いた土と木の匂いが染みつき、手のひらにも、荒れた木材を掴んだ感触が残っていた。
「少し寝る」
「はい」
「おまえも聴覚を落とせ」
「はい」
今回は、すぐに答えた。
寝台に横になったロアンの右腕を確かめるように握って、リゼはその場で床に座った。
「なんだ」
「ロアンが眠るまで見ています」
「やめろ」
「分かりました」
リゼは机の前の椅子へ座る。
両手を膝へ置き、背もたれへ寄り掛からない、いつもの姿勢を取った。
身体を伸ばすと、歩いているあいだには意識しなかった疲れが、肩や腰へ沈んでいく。
目を閉じる前に、リゼを見る。
淡く光る瞳は、まだこちらへ向いていた。
「俺はここにいる」
「はい」
「だから、見てなくていい」
「分かりました」
瞳の光が少し弱くなる。
完全には消えなかったが、周囲への反応を落としたことは分かった。
ロアンも目を閉じた。
階下の食堂から、住人たちの声がかすかに聞こえている。誰かが椅子を引き、マルタが椀を重ねる。廊下では足音が行き来し、開けた窓からは水路の流れる音が入ってくる。
どれも、二日前までと同じ音だった。
仕事を終えれば、宿舎へ帰る。
これまでも、それは変わらなかった。
部屋へ荷を置き、武器を戻し、食事をして眠る。誰かに帰還時刻を伝えることもなく、遅れたところで、待っている者がいるとは考えなかった。
「ロアン」
目を閉じたまま答える。
「何だ」
「おかえりなさい」
少し間があった。
その言葉を、自分へ向けられたものとして受け取るまでに、わずかな時間が必要だった。
「ああ」
ロアンは言った。
「ただいま」
声に出してから、それがずいぶん久しぶりに口にした言葉だと気づいた。
水路の音は変わらず流れていた。そのことが心地よかった。
リゼの瞳の光は、明るい部屋の中で静かに弱まっていった。




