3-14. 帰る日
継暦六百二十七年 七月十八日
朝になると、リゼは食堂へ下りた。
昨夜は視覚を落としたものの、聴覚は通常のままにしていた。宿舎の戸が開く音、廊下を歩く足音、階段の軋みを一つずつ確認したが、ロアンのものはなかった。
帰還予定は今日の夕方だった。
夜のうちに戻らなかったことは、予定から外れていない。
食堂では、マルタが朝食の支度をしていた。鍋から立つ湯気が開けた窓へ流れ、住人たちの話し声に、パンを割る音や椀を置く音が重なっている。
リゼがいつもの席へ座ると、カイルが顔を上げた。
「おはよう。今日はロアンが戻る日だね」
「はい。七月十八日の夕方です」
「少し遅くなれば、夜になるかもしれないんだよね」
「はい」
リゼは答え、宿舎の戸へ視線を向けた。
いま戻る予定ではない。
ロアンは水門の外にいるか、補修を終えて帰る支度をしているはずだった。戸が開いても、ロアンではない可能性が高い。
それでも位置を確認した。
カイルはその視線を追ったが、やめるようには言わなかった。
「まだ朝だから、戻ってこなくても予定どおりだ」
「はい」
「昨日よりは、帰る時間に近づいてる」
「はい」
カイルは少し考えてから、柔らかく続けた。
「夕方までは、何かしながら待つといいんじゃないかな。何をしてても、ロアンを待ってることは変わらないから」
リゼは返事をしなかった。
昨日も同じことを言われた。
市場へ行き、マルタの仕事を見た。ガルドの手伝いをし、宿舎の修繕について知った。そのあいだも、戸が開くたびに足音を確認していた。
別の行動をしながら待つことはできる。
ただ、その方がよいのかは、まだ分からなかった。
アルドが椀から顔を上げた。
「水門からなら、昼過ぎに出ても日が落ちる前には町へ着く。作業が長引けば、夜になる。それまでは何も判断できないな」
「帰還が遅れていると判断できるのは、夜になってからですか」
「ああ。日が沈んだだけなら、まだ遅れのうちにも入らないだろう」
アルドはそれ以上言わず、食事へ戻った。
住人たちが仕事へ出ていくと、食堂は静かになった。
マルタは食器を片づけ、窓を開けて床を掃いた。リゼは昨日と同じように、座ったままできる仕事を頼まれた。
食堂で使う布を大きさごとに分け、端のほつれたものを別にする。次に、夕食で使う木の匙を数え、欠けや割れがないか確かめた。
宿舎の戸が開くたびに、手が止まった。
朝の仕事を終えて戻った住人。
忘れ物を取りに来た男。
食料店から荷を届けに来た者。
ロアンではない。
「まだ昼にもなってないよ」
マルタが言った。
「分かっています」
「なら、手元を見な」
リゼは布へ視線を戻した。
しばらくして、外で荷車が止まった。
車輪の音と、御者がワトへ声を掛ける声が聞こえる。リゼは顔を上げたが、宿舎の前を通り過ぎる音だった。
「ロアンはいませんでした」
「そうかい」
「荷車の車輪の音が一台分でした。積荷は軽いと思います」
「そこまで分かるのかい」
「はい」
「分かってても見るんだね」
リゼは少し間を置いた。
「帰ってきた場合、すぐに確認したいです」
マルタは何も言わなかった。
昼になるころ、マルタは夕食の仕込みへ入った。食堂は閉じられたままで、住人たちが昼食を取りに戻ることはない。
リゼは入口に近い椅子へ移り、通路が見える位置へ座った。
「そこにいるのかい」
「はい」
「ずっと?」
「ロアンが戻る可能性が高くなるまでです」
「それは夕方からだろう」
「早まる可能性があります」
マルタは鍋へ入れる野菜を切りながら、リゼを見た。
「じゃあ、そこにいな」
「分かりました」
マルタはそれ以上、別の仕事を頼まなかった。
午後になると、宿舎の中はさらに静かになった。
ガルドは裏の物置で修繕の準備をしていた。ときおり木を削る音や、金具を箱へ入れる音が通路の奥から聞こえる。
マルタは食堂と裏口を行き来し、届いた品物を確かめたり、布を洗ったりしていた。
リゼは椅子に座り、時刻を確認した。
水門から荷車で二刻から三刻。
補修隊が夕方までに戻るなら、すでに帰路へ入っている可能性がある。作業が長引いているなら、まだ水門にいるかもしれない。
どちらであるかを知る方法はなかった。
一度、ガルドが食堂を通った。
「まだそこにいるのか」
「はい」
「夕方までは帰らんだろう」
「予定が早まる可能性があります」
「そうか」
ガルドは足を止めず、裏口へ向かった。
説得するつもりはないらしい。
日が傾き始めると、リゼは椅子から立ち上がった。
宿舎の前へ出る。宿舎の入り口脇にある、誰も座っているところを見たことがない長椅子に腰を降ろす。
水路沿いの道を、荷車と人が行き交っていた。水門のある方角から来る者もいるが、ロアンの姿は見えない。
一台の荷車が近づく。
木材を積んでいる。
違う。
二人の男が歩いてくる。
一人は短槍を持っている。歩幅も上着も違う。
ロアンではない。
マルタが戸口から顔を出した。
「暗くなる前には中へ入りな」
「はい」
「ロアンが帰ってきたら、音で分かるだろう」
「外にいる方が早く確認できます」
「半刻も変わらないよ」
「変わります」
マルタは何か言いかけたが、やめた。
「暗くなったら入るんだよ」
「分かりました」
住人たちが帰り始めた。
アルドが戻り、少し遅れてカイルも水路沿いの道から姿を見せた。
カイルは宿舎の前に立つリゼを見つけると、歩みを少し早めた。
「まだ戻ってないんだ」
「はい」
「でも、まだ夕方だよ」
「はい」
「夜になることもあるって、ロアンも言ってたんだよね」
「はい」
カイルはリゼの隣へ立ち、水路の先を見た。
「もう少し、ここにいる?」
「はい」
「じゃあ、僕も少しだけいるね」
「必要ありません」
「中へ入っても、まだ夕食はできてない」
カイルは笑い、壁へ背を預けた。
二人で通りを見た。
荷車が来る。
違う。
仕事帰りの住人が来る。
違う。
棒状の道具を背負った人間が角を曲がる。
ロアンではない。
「帰ってくる人を待つのって、こういう感じなんだよね」
カイルが言った。
「どのような感じですか」
「来たと思って、違って、また次を見る感じかな」
「カイルも経験がありますか」
「あるよ。帰る日が分かってても、遅くなると気になるから」
「その者は戻りましたか」
「戻ったよ。予定より一日遅れてね」
リゼはカイルを見る。
「なぜ遅れましたか」
「荷車の車輪が壊れたんだって。直すのに時間が掛かったらしいよ」
「負傷はありませんでしたか」
「なかった」
予定より遅れても、戻ることはある。
新しい情報だった。
「ロアンも、何かの理由で遅れる可能性があります」
「そうだね」
カイルは頷いた。
「いま戻ってないからって、悪いことが起きたとは限らない」
リゼは通りへ視線を戻した。
「はい」
空が暗くなる前に、マルタが再び戸口へ出てきた。
「二人とも、中へ入りな。夕食だよ」
カイルは素直に身体を起こした。
リゼは通りの先を見たまま動かなかった。
「リゼ」
「まだ完全には暗くありません」
「夜になって戻る可能性があるなら、中で待てばいいだろうさ。戸の近くに座って」
「外の方が早く確認できます」
「私が困るんだよ」
マルタの声が少し強くなった。
リゼは顔を向けた。
「なぜですか」
「あんたを暗い通りに出したまま、食堂の片づけまでできると思うのかい」
「私に危険はありません」
「そういうことじゃないよ」
マルタは一度息を吐いた。
「ロアンが戻ったとき、宿舎の中にいればいい。ここが帰る場所なんだから」
リゼはもう一度、通りを見る。
ロアンはいない。
「分かりました」
納得したわけではない。
しかし、ロアンが帰る場所から離れるべきではないという部分には従えた。
リゼは食堂へ入り、入口に最も近い席へ座った。
住人たちは夕食を取っていた。
戸が開くたびに顔を上げる。
ロアンではない。
日が沈む。
ロアンは戻らない。
食堂の窓から見える空が暗くなり、通りを行く者も減っていった。
アルドがガルドへ尋ねた。
「水門から何か連絡はないのか」
「聞いてない」
「ギルドにも?」
「何かあれば、先にここへ知らせに来るだろう」
リゼはガルドを見る。
「ギルドへ確認してもよいでしょうか」
「朝になってからだ」
「なぜですか」
「今行っても、帰還報告がないと分かるだけだ。水門へ人を出すなら、明るくなってからの方がいい」
「夜間に移動することはできませんか」
「できる。だが、急ぐ理由が分からないまま人を出せば、余計な危険が増える」
「ロアンが戻っていません」
「夜になる可能性は、最初から聞いてたんだろう」
「はい」
「なら、まだ予定から大きく外れたわけじゃない。こんなのはよくあることだ」
リゼはそれ以上、言葉を続けられなかった。
夜になる可能性は、ロアン自身が話していた。
十九日の朝になっても戻らなければ、ガルドからギルドへ確認してもらうことも決めてある。
いま動くことは、その決まりに反する。
「朝になれば、ギルドへ行きますか」
リゼが尋ねる。
「ああ」
「何刻ですか」
「受付が開くころだ」
「私も行ってよいでしょうか」
ガルドは少し考えた。
「そのとき決める」
「いま決められませんか」
「夜のうちに戻れば、行く必要はない」
「戻らなかった場合です」
「戻らなかったら、朝に話す」
リゼは口を閉じた。
それ以上押せば、同じやり取りを繰り返すだけだった。
マルタがリゼの前へ椀を置きかけ、食事が不要だったことを思い出して引っ込める。
夕食が終わり、住人たちは順に部屋へ戻った。
カイルは階段の前で足を止める。
「僕はまだ起きてるから、何かあったら呼んでね」
「何を頼めますか」
「話を聞くくらいかな」
「話しても、ロアンの位置は分かりません」
「分からない。でも、一人で同じことを考え続けるよりはいいかもしれないよ」
リゼは食堂を見る。
マルタとガルドが残っている。
「私は一人ではありません」
「そうだね」
カイルは穏やかに頷いた。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
階段を上る足音が遠ざかる。
ガルドは入口に近い卓へ座り、工具の手入れを始めた。マルタは食堂の隅で布を繕っている。
二人とも、部屋へ戻る様子はなかった。
「なぜ、ここにいるのですか」
リゼが尋ねる。
「まだ片づけがある」
マルタが答える。
食堂の片づけは、すでにほとんど終わっている。
「ガルドは?」
「工具の手入れだ」
ガルドは顔を上げなかった。
いつも同じ時刻まで食堂にいるのかは分からない。
しかし、二人がリゼだけを残して部屋へ戻らないことは分かった。
夜が深くなった。
戸が開くことはなくなり、通りから聞こえる足音も減っていく。水路の流れと、遠くの見回りの声だけが残った。
リゼは入口を見続けた。
「いま何刻ですか」
何度目かの問いに、ガルドが答える。
「もうすぐ日が変わる」
「七月十八日が終わりますか」
「ああ」
ロアンが帰る予定の日が終わる。
夜になる可能性は含まれていた。
しかし、日付が変われば、予定どおりとは言えない。
リゼは立ち上がりかけた。
ガルドが先に言う。
「まだ行かんぞ」
リゼの動きが止まった。
「十九日になります」
「夜が明けたらギルドへ行く」
「いま行けば、早く確認できます」
「受付は閉まってる。夜番に聞いても、帰還報告がないことしか分からん」
「水門へ連絡してもらうことはできます」
「夜中に人を動かすのは、緊急だと判断された場合だけだ」
「ロアンが戻っていません」
「それだけでは、まだ緊急とは言えない」
ガルドの声は強くなかった。
しかし、譲る余地もなかった。
「予定がずれることはある。夜の道で荷車の車輪を直してるかもしれん。負傷者がいて、ゆっくり戻ってるかもしれん。水門に一泊する判断をした可能性もある」
「その場合、連絡するべきです」
「連絡する人間を出せない状況もある」
「では、何もできませんか」
「今夜は待つ」
リゼはガルドを見た。
「待つことしかできませんか」
「ああ」
「ロアンが危険な状態でもですか」
「危険な状態かどうか分からん。分からないまま、おまえまで外へ出すことはできない」
「私は外へ出るとは言っていません」
「言う前に止めてる」
リゼは答えなかった。
水門まで向かうことを考えていた。
どの道を使うのかは知らない。距離も、夜間がどれほど危険かも分からない。それでも、自分が行けば確認できる可能性がある。
ガルドは、その考えを先に止めた。
マルタが針を布へ通しながら言う。
「朝になったら、ガルドとギルドへ行っておいで」
リゼはマルタを見る。
「私も行くのですか」
「ロアンが戻っていなければね。ここで待っているより、受付で直接聞いた方がいいだろう」
ガルドは工具から顔を上げた。
「俺と行く。受付が開く時刻に出る」
「何刻ですか」
「朝食のあとだ」
「もっと早くできませんか」
「受付が開く前に行っても仕方ない」
「入口で待つことはできます」
「宿舎で待っても、同じ時刻に入れる」
リゼは反論する言葉を探した。
マルタは針を止め、リゼを見る。
「今夜のうちにできることはない。朝になったら、ガルドが連れていく。だから今は、ここにいな」
「部屋ではなく、食堂にいてもよいですか」
「ああ。好きなだけいな」
ガルドも何も言わなかった。
やがて、日付が変わった。
七月十八日は終わった。
ロアンは戻らなかった。
それでも、誰もギルドへ向かわなかった。
リゼも、宿舎を出なかった。
ガルドとマルタが決めた朝まで、食堂の入口に近い椅子へ座り続けた。
視覚も聴覚も落とさなかった。
戸が開く音はしなかった。
朝が近づくと、窓の外がわずかに明るくなった。
マルタは一度だけ奥へ戻り、朝食の支度を始める。ガルドは工具を片づけ、顔を洗いに行った。
リゼは同じ椅子に座っていた。
住人たちが下りてくる。
カイルも食堂へ入り、リゼの姿を見ると足を止めた。
「戻らなかったんだね」
「はい」
「これからギルドへ行くの?」
「ガルドと行きます」
「そうか」
朝食が終わると、ガルドは上着を着て、腰へ短い工具袋を下げた。
「行くぞ」
「はい」
リゼはすぐに立ち上がった。
マルタが食堂から二人を見送る。
「何か分かったら、すぐ戻っておいで」
「はい」
「走るんじゃないよ」
「可能な範囲で急ぎます」
「それを走るって言うんだよ」
ガルドは戸を開けた。
「俺より先へ出るな。転んだら、その分だけ遅くなる」
「分かりました」
二人は宿舎を出た。
朝の通りには、仕事へ向かう者が増え始めている。リゼは普段より速く歩こうとしたが、角材の仮脚では速度を上げられない。
ガルドは先へ行きすぎず、リゼがついてこられる歩幅で進んだ。
「もう少し早く歩けます」
「その脚で急ぐな」
「転ばないようにします」
「転ばないつもりでも転ぶから言ってる」
リゼは反論しなかった。
中央通りへ近づくにつれ、人の数が増える。
ギルドの入口はすでに開いていた。
朝の受付前には、仕事を探す者や報告を待つ者が集まっている。ガルドは人の間を抜け、リゼを連れて受付へ向かった。
その途中で、リゼは見覚えのある姿を見つけた。
依頼札の並ぶ壁の近くに、ティナが立っていた。革具を身につけ、腰へ短剣を下げている。手には一枚の依頼札があり、近くにいた護衛と話していた。
リゼは足を止めた。
「ティナ」
呼ばれたティナが、こちらを見る。
リゼとガルドを見つけると、持っていた札を壁へ戻し、すぐに歩いてきた。
「どうしたの?」
「ロアンが戻っていません」
ティナの表情から笑みが消えた。
「昨日の夜に戻る予定だったのよね」
「はい」
ティナはガルドを見る。
「水門から連絡は?」
「何もない。いま確認に来た」
「私も行く」
「用事はいいのか」
「依頼を見るだけだったから」
ティナはリゼの横へ移った。
「受付で聞きましょう」
三人は受付へ向かった。
エダが帳面を開いていた。
リゼの姿を見ると、すぐに顔を上げる。
「ロアンさんの件ですね」
「はい」
ガルドが受付台の前へ立った。
「昨夜までに、帰還か遅延の連絡は来てないか」
「来ていません。帰還報告もなく、水門側からの伝達もありません」
ティナが横から尋ねる。
「補修隊は、誰も戻ってないの?」
「はい。護衛も補修人員も、御者も帰還していません。今朝、水門側へ確認を出す準備をしています」
リゼは受付台の前に立っていた。
「確認に出る者へ、私も同行できますか」
「その必要はありません」
エダが答える。
「ロアンさんから、宿舎へ残るよう命じられているのでしょう」
「帰還予定は過ぎました」
「それでも命令がなくなったわけではありません。それに、確認へ向かう者の負担を増やすことになります」
昨夜、ガルドにも言われたことだった。
リゼはそれ以上押さなかった。
「確認に出る者が戻るまで、ここで待ってもよいですか」
「はい。長椅子を使ってください」
「どれくらい掛かりますか」
「水門へ着き、状況を確認して戻るまで、早くても半日は掛かります。それに、通常は予定から2日以上経過しない限りは一旦判断を保留しています」
「宿舎へ戻るべきですか」
ガルドが答える前に、ティナが口を開いた。
「ギルドにいた方が、連絡は早く受け取れると思う。ロアンが先に宿舎へ戻ったら、マルタか住人の誰かが知らせに来てくれるでしょう」
ガルドも頷いた。
「俺は一度宿舎へ戻る。マルタに状況を話して、ロアンが帰ったらここへ知らせてもらう」
「私は残ります」
「ああ。任せる」
ガルドはリゼを見る。
「勝手に街の外には出るなよ」
「はい」
「何か分かったら、宿舎へ戻れ」
「分かりました」
ガルドはエダと短く話したあと、ギルドを出ていった。
ティナがリゼの隣へ立つ。
「座っておく?」
「はい」
受付の横にある長椅子へ向かおうとする。
そのとき、ギルドの開け放たれた戸の向こうから数人の男が入ってきた。雑踏の中から、リゼはその音を見つけた。
衣服と革具は泥で汚れ、補修道具を持つ者の一人は肩を借りて歩いている。御者らしい男が、受付へ向かって何かを説明していた。
その後ろに、棒剣を腰へ下げた男がいた。
ロアンだった。
上着の裾は汚れ、右肩から胸当てへかけて濡れた跡がある。額の横に浅い傷があったが、自分の足で歩いている。
リゼは動かなかった。
入口からロアンまでの距離は、それほど遠くない。
ロアンもリゼに気づいた。
足を止める。
互いに見たまま、しばらく動かなかった。
「ほら」
ティナが隣で言った。
「戻ってきた。ロアンが戻ってこないなんて──」
その先の言葉は、リゼには入らなかった。
角材の先が床を打つ。
一歩。
左脚を出し、続いて角材を前へ置く。
もう一歩。
いつもの歩幅ではなかった。
身体の傾きを補正しながら、可能なかぎり速く進む。
ロアンが何か言った。
聞き取れなかった。
リゼはロアンの前まで行き、そのまま両腕を伸ばした。
胸当てと上着の上から、身体へ腕を回す。
ロアンの動きが止まった。
リゼは抱きついたまま、何も言わなかった。
顔はロアンの胸元へ触れている。耳の近くで、衣服の擦れる音と、胸の内側から返る鼓動が聞こえた。
動いている。
ロアンは戻った。
その確認だけで、ほかの音が遠くなった。
広間には人がいる。
エダも、ティナも、補修隊の者たちも見ている。
ロアンの身体へ許可なく触れている。
命令された行動でもない。
腕を離すことができなかった。
「リゼ」
ロアンの声が、頭の上から聞こえた。
返事をしようとしたが、言葉が出なかった。
ロアンの手が、リゼの背へ触れた。
抱き返したのではない。
倒れないよう支えるために置いただけかもしれない。
それでも、離れろとは言われなかった。
「帰った」
ロアンが言った。
リゼは胸元へ顔を向けたまま、ようやく答えた。
「はい」
声はいつもと変わらなかった。
腕も、すぐには離れなかった。




