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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
3. 帰る場所
36/65

3-14. 帰る日

継暦六百二十七年 七月十八日


朝になると、リゼは食堂へ下りた。


昨夜は視覚を落としたものの、聴覚は通常のままにしていた。宿舎の戸が開く音、廊下を歩く足音、階段の軋みを一つずつ確認したが、ロアンのものはなかった。


帰還予定は今日の夕方だった。


夜のうちに戻らなかったことは、予定から外れていない。


食堂では、マルタが朝食の支度をしていた。鍋から立つ湯気が開けた窓へ流れ、住人たちの話し声に、パンを割る音や椀を置く音が重なっている。


リゼがいつもの席へ座ると、カイルが顔を上げた。


「おはよう。今日はロアンが戻る日だね」


「はい。七月十八日の夕方です」


「少し遅くなれば、夜になるかもしれないんだよね」


「はい」


リゼは答え、宿舎の戸へ視線を向けた。


いま戻る予定ではない。


ロアンは水門の外にいるか、補修を終えて帰る支度をしているはずだった。戸が開いても、ロアンではない可能性が高い。


それでも位置を確認した。


カイルはその視線を追ったが、やめるようには言わなかった。


「まだ朝だから、戻ってこなくても予定どおりだ」


「はい」


「昨日よりは、帰る時間に近づいてる」


「はい」


カイルは少し考えてから、柔らかく続けた。


「夕方までは、何かしながら待つといいんじゃないかな。何をしてても、ロアンを待ってることは変わらないから」


リゼは返事をしなかった。


昨日も同じことを言われた。


市場へ行き、マルタの仕事を見た。ガルドの手伝いをし、宿舎の修繕について知った。そのあいだも、戸が開くたびに足音を確認していた。


別の行動をしながら待つことはできる。


ただ、その方がよいのかは、まだ分からなかった。


アルドが椀から顔を上げた。


「水門からなら、昼過ぎに出ても日が落ちる前には町へ着く。作業が長引けば、夜になる。それまでは何も判断できないな」


「帰還が遅れていると判断できるのは、夜になってからですか」


「ああ。日が沈んだだけなら、まだ遅れのうちにも入らないだろう」


アルドはそれ以上言わず、食事へ戻った。


住人たちが仕事へ出ていくと、食堂は静かになった。


マルタは食器を片づけ、窓を開けて床を掃いた。リゼは昨日と同じように、座ったままできる仕事を頼まれた。


食堂で使う布を大きさごとに分け、端のほつれたものを別にする。次に、夕食で使う木の匙を数え、欠けや割れがないか確かめた。


宿舎の戸が開くたびに、手が止まった。


朝の仕事を終えて戻った住人。


忘れ物を取りに来た男。


食料店から荷を届けに来た者。


ロアンではない。


「まだ昼にもなってないよ」


マルタが言った。


「分かっています」


「なら、手元を見な」


リゼは布へ視線を戻した。


しばらくして、外で荷車が止まった。


車輪の音と、御者がワトへ声を掛ける声が聞こえる。リゼは顔を上げたが、宿舎の前を通り過ぎる音だった。


「ロアンはいませんでした」


「そうかい」


「荷車の車輪の音が一台分でした。積荷は軽いと思います」


「そこまで分かるのかい」


「はい」


「分かってても見るんだね」


リゼは少し間を置いた。


「帰ってきた場合、すぐに確認したいです」


マルタは何も言わなかった。


昼になるころ、マルタは夕食の仕込みへ入った。食堂は閉じられたままで、住人たちが昼食を取りに戻ることはない。


リゼは入口に近い椅子へ移り、通路が見える位置へ座った。


「そこにいるのかい」


「はい」


「ずっと?」


「ロアンが戻る可能性が高くなるまでです」


「それは夕方からだろう」


「早まる可能性があります」


マルタは鍋へ入れる野菜を切りながら、リゼを見た。


「じゃあ、そこにいな」


「分かりました」


マルタはそれ以上、別の仕事を頼まなかった。


午後になると、宿舎の中はさらに静かになった。


ガルドは裏の物置で修繕の準備をしていた。ときおり木を削る音や、金具を箱へ入れる音が通路の奥から聞こえる。


マルタは食堂と裏口を行き来し、届いた品物を確かめたり、布を洗ったりしていた。


リゼは椅子に座り、時刻を確認した。


水門から荷車で二刻から三刻。


補修隊が夕方までに戻るなら、すでに帰路へ入っている可能性がある。作業が長引いているなら、まだ水門にいるかもしれない。


どちらであるかを知る方法はなかった。


一度、ガルドが食堂を通った。


「まだそこにいるのか」


「はい」


「夕方までは帰らんだろう」


「予定が早まる可能性があります」


「そうか」


ガルドは足を止めず、裏口へ向かった。


説得するつもりはないらしい。


日が傾き始めると、リゼは椅子から立ち上がった。


宿舎の前へ出る。宿舎の入り口脇にある、誰も座っているところを見たことがない長椅子に腰を降ろす。


水路沿いの道を、荷車と人が行き交っていた。水門のある方角から来る者もいるが、ロアンの姿は見えない。


一台の荷車が近づく。


木材を積んでいる。


違う。


二人の男が歩いてくる。


一人は短槍を持っている。歩幅も上着も違う。


ロアンではない。


マルタが戸口から顔を出した。


「暗くなる前には中へ入りな」


「はい」


「ロアンが帰ってきたら、音で分かるだろう」


「外にいる方が早く確認できます」


「半刻も変わらないよ」


「変わります」


マルタは何か言いかけたが、やめた。


「暗くなったら入るんだよ」


「分かりました」


住人たちが帰り始めた。


アルドが戻り、少し遅れてカイルも水路沿いの道から姿を見せた。


カイルは宿舎の前に立つリゼを見つけると、歩みを少し早めた。


「まだ戻ってないんだ」


「はい」


「でも、まだ夕方だよ」


「はい」


「夜になることもあるって、ロアンも言ってたんだよね」


「はい」


カイルはリゼの隣へ立ち、水路の先を見た。


「もう少し、ここにいる?」


「はい」


「じゃあ、僕も少しだけいるね」


「必要ありません」


「中へ入っても、まだ夕食はできてない」


カイルは笑い、壁へ背を預けた。


二人で通りを見た。


荷車が来る。


違う。


仕事帰りの住人が来る。


違う。


棒状の道具を背負った人間が角を曲がる。


ロアンではない。


「帰ってくる人を待つのって、こういう感じなんだよね」


カイルが言った。


「どのような感じですか」


「来たと思って、違って、また次を見る感じかな」


「カイルも経験がありますか」


「あるよ。帰る日が分かってても、遅くなると気になるから」


「その者は戻りましたか」


「戻ったよ。予定より一日遅れてね」


リゼはカイルを見る。


「なぜ遅れましたか」


「荷車の車輪が壊れたんだって。直すのに時間が掛かったらしいよ」


「負傷はありませんでしたか」


「なかった」


予定より遅れても、戻ることはある。


新しい情報だった。


「ロアンも、何かの理由で遅れる可能性があります」


「そうだね」


カイルは頷いた。


「いま戻ってないからって、悪いことが起きたとは限らない」


リゼは通りへ視線を戻した。


「はい」


空が暗くなる前に、マルタが再び戸口へ出てきた。


「二人とも、中へ入りな。夕食だよ」


カイルは素直に身体を起こした。


リゼは通りの先を見たまま動かなかった。


「リゼ」


「まだ完全には暗くありません」


「夜になって戻る可能性があるなら、中で待てばいいだろうさ。戸の近くに座って」


「外の方が早く確認できます」


「私が困るんだよ」


マルタの声が少し強くなった。


リゼは顔を向けた。


「なぜですか」


「あんたを暗い通りに出したまま、食堂の片づけまでできると思うのかい」


「私に危険はありません」


「そういうことじゃないよ」


マルタは一度息を吐いた。


「ロアンが戻ったとき、宿舎の中にいればいい。ここが帰る場所なんだから」


リゼはもう一度、通りを見る。


ロアンはいない。


「分かりました」


納得したわけではない。


しかし、ロアンが帰る場所から離れるべきではないという部分には従えた。


リゼは食堂へ入り、入口に最も近い席へ座った。


住人たちは夕食を取っていた。


戸が開くたびに顔を上げる。


ロアンではない。


日が沈む。


ロアンは戻らない。


食堂の窓から見える空が暗くなり、通りを行く者も減っていった。


アルドがガルドへ尋ねた。


「水門から何か連絡はないのか」


「聞いてない」


「ギルドにも?」


「何かあれば、先にここへ知らせに来るだろう」


リゼはガルドを見る。


「ギルドへ確認してもよいでしょうか」


「朝になってからだ」


「なぜですか」


「今行っても、帰還報告がないと分かるだけだ。水門へ人を出すなら、明るくなってからの方がいい」


「夜間に移動することはできませんか」


「できる。だが、急ぐ理由が分からないまま人を出せば、余計な危険が増える」


「ロアンが戻っていません」


「夜になる可能性は、最初から聞いてたんだろう」


「はい」


「なら、まだ予定から大きく外れたわけじゃない。こんなのはよくあることだ」


リゼはそれ以上、言葉を続けられなかった。


夜になる可能性は、ロアン自身が話していた。


十九日の朝になっても戻らなければ、ガルドからギルドへ確認してもらうことも決めてある。


いま動くことは、その決まりに反する。


「朝になれば、ギルドへ行きますか」


リゼが尋ねる。


「ああ」


「何刻ですか」


「受付が開くころだ」


「私も行ってよいでしょうか」


ガルドは少し考えた。


「そのとき決める」


「いま決められませんか」


「夜のうちに戻れば、行く必要はない」


「戻らなかった場合です」


「戻らなかったら、朝に話す」


リゼは口を閉じた。


それ以上押せば、同じやり取りを繰り返すだけだった。


マルタがリゼの前へ椀を置きかけ、食事が不要だったことを思い出して引っ込める。


夕食が終わり、住人たちは順に部屋へ戻った。


カイルは階段の前で足を止める。


「僕はまだ起きてるから、何かあったら呼んでね」


「何を頼めますか」


「話を聞くくらいかな」


「話しても、ロアンの位置は分かりません」


「分からない。でも、一人で同じことを考え続けるよりはいいかもしれないよ」


リゼは食堂を見る。


マルタとガルドが残っている。


「私は一人ではありません」


「そうだね」


カイルは穏やかに頷いた。


「じゃあ、おやすみ」


「おやすみなさい」


階段を上る足音が遠ざかる。


ガルドは入口に近い卓へ座り、工具の手入れを始めた。マルタは食堂の隅で布を繕っている。


二人とも、部屋へ戻る様子はなかった。


「なぜ、ここにいるのですか」


リゼが尋ねる。


「まだ片づけがある」


マルタが答える。


食堂の片づけは、すでにほとんど終わっている。


「ガルドは?」


「工具の手入れだ」


ガルドは顔を上げなかった。


いつも同じ時刻まで食堂にいるのかは分からない。


しかし、二人がリゼだけを残して部屋へ戻らないことは分かった。


夜が深くなった。


戸が開くことはなくなり、通りから聞こえる足音も減っていく。水路の流れと、遠くの見回りの声だけが残った。


リゼは入口を見続けた。


「いま何刻ですか」


何度目かの問いに、ガルドが答える。


「もうすぐ日が変わる」


「七月十八日が終わりますか」


「ああ」


ロアンが帰る予定の日が終わる。


夜になる可能性は含まれていた。


しかし、日付が変われば、予定どおりとは言えない。


リゼは立ち上がりかけた。


ガルドが先に言う。


「まだ行かんぞ」


リゼの動きが止まった。


「十九日になります」


「夜が明けたらギルドへ行く」


「いま行けば、早く確認できます」


「受付は閉まってる。夜番に聞いても、帰還報告がないことしか分からん」


「水門へ連絡してもらうことはできます」


「夜中に人を動かすのは、緊急だと判断された場合だけだ」


「ロアンが戻っていません」


「それだけでは、まだ緊急とは言えない」


ガルドの声は強くなかった。


しかし、譲る余地もなかった。


「予定がずれることはある。夜の道で荷車の車輪を直してるかもしれん。負傷者がいて、ゆっくり戻ってるかもしれん。水門に一泊する判断をした可能性もある」


「その場合、連絡するべきです」


「連絡する人間を出せない状況もある」


「では、何もできませんか」


「今夜は待つ」


リゼはガルドを見た。


「待つことしかできませんか」


「ああ」


「ロアンが危険な状態でもですか」


「危険な状態かどうか分からん。分からないまま、おまえまで外へ出すことはできない」


「私は外へ出るとは言っていません」


「言う前に止めてる」


リゼは答えなかった。


水門まで向かうことを考えていた。


どの道を使うのかは知らない。距離も、夜間がどれほど危険かも分からない。それでも、自分が行けば確認できる可能性がある。


ガルドは、その考えを先に止めた。


マルタが針を布へ通しながら言う。


「朝になったら、ガルドとギルドへ行っておいで」


リゼはマルタを見る。


「私も行くのですか」


「ロアンが戻っていなければね。ここで待っているより、受付で直接聞いた方がいいだろう」


ガルドは工具から顔を上げた。


「俺と行く。受付が開く時刻に出る」


「何刻ですか」


「朝食のあとだ」


「もっと早くできませんか」


「受付が開く前に行っても仕方ない」


「入口で待つことはできます」


「宿舎で待っても、同じ時刻に入れる」


リゼは反論する言葉を探した。


マルタは針を止め、リゼを見る。


「今夜のうちにできることはない。朝になったら、ガルドが連れていく。だから今は、ここにいな」


「部屋ではなく、食堂にいてもよいですか」


「ああ。好きなだけいな」


ガルドも何も言わなかった。


やがて、日付が変わった。


七月十八日は終わった。


ロアンは戻らなかった。


それでも、誰もギルドへ向かわなかった。


リゼも、宿舎を出なかった。


ガルドとマルタが決めた朝まで、食堂の入口に近い椅子へ座り続けた。


視覚も聴覚も落とさなかった。


戸が開く音はしなかった。


朝が近づくと、窓の外がわずかに明るくなった。


マルタは一度だけ奥へ戻り、朝食の支度を始める。ガルドは工具を片づけ、顔を洗いに行った。


リゼは同じ椅子に座っていた。


住人たちが下りてくる。


カイルも食堂へ入り、リゼの姿を見ると足を止めた。


「戻らなかったんだね」


「はい」


「これからギルドへ行くの?」


「ガルドと行きます」


「そうか」


朝食が終わると、ガルドは上着を着て、腰へ短い工具袋を下げた。


「行くぞ」


「はい」


リゼはすぐに立ち上がった。


マルタが食堂から二人を見送る。


「何か分かったら、すぐ戻っておいで」


「はい」


「走るんじゃないよ」


「可能な範囲で急ぎます」


「それを走るって言うんだよ」


ガルドは戸を開けた。


「俺より先へ出るな。転んだら、その分だけ遅くなる」


「分かりました」


二人は宿舎を出た。


朝の通りには、仕事へ向かう者が増え始めている。リゼは普段より速く歩こうとしたが、角材の仮脚では速度を上げられない。


ガルドは先へ行きすぎず、リゼがついてこられる歩幅で進んだ。


「もう少し早く歩けます」


「その脚で急ぐな」


「転ばないようにします」


「転ばないつもりでも転ぶから言ってる」


リゼは反論しなかった。


中央通りへ近づくにつれ、人の数が増える。


ギルドの入口はすでに開いていた。


朝の受付前には、仕事を探す者や報告を待つ者が集まっている。ガルドは人の間を抜け、リゼを連れて受付へ向かった。


その途中で、リゼは見覚えのある姿を見つけた。


依頼札の並ぶ壁の近くに、ティナが立っていた。革具を身につけ、腰へ短剣を下げている。手には一枚の依頼札があり、近くにいた護衛と話していた。


リゼは足を止めた。


「ティナ」


呼ばれたティナが、こちらを見る。


リゼとガルドを見つけると、持っていた札を壁へ戻し、すぐに歩いてきた。


「どうしたの?」


「ロアンが戻っていません」


ティナの表情から笑みが消えた。


「昨日の夜に戻る予定だったのよね」


「はい」


ティナはガルドを見る。


「水門から連絡は?」


「何もない。いま確認に来た」


「私も行く」


「用事はいいのか」


「依頼を見るだけだったから」


ティナはリゼの横へ移った。


「受付で聞きましょう」


三人は受付へ向かった。


エダが帳面を開いていた。


リゼの姿を見ると、すぐに顔を上げる。


「ロアンさんの件ですね」


「はい」


ガルドが受付台の前へ立った。


「昨夜までに、帰還か遅延の連絡は来てないか」


「来ていません。帰還報告もなく、水門側からの伝達もありません」


ティナが横から尋ねる。


「補修隊は、誰も戻ってないの?」


「はい。護衛も補修人員も、御者も帰還していません。今朝、水門側へ確認を出す準備をしています」


リゼは受付台の前に立っていた。


「確認に出る者へ、私も同行できますか」


「その必要はありません」


エダが答える。


「ロアンさんから、宿舎へ残るよう命じられているのでしょう」


「帰還予定は過ぎました」


「それでも命令がなくなったわけではありません。それに、確認へ向かう者の負担を増やすことになります」


昨夜、ガルドにも言われたことだった。


リゼはそれ以上押さなかった。


「確認に出る者が戻るまで、ここで待ってもよいですか」


「はい。長椅子を使ってください」


「どれくらい掛かりますか」


「水門へ着き、状況を確認して戻るまで、早くても半日は掛かります。それに、通常は予定から2日以上経過しない限りは一旦判断を保留しています」


「宿舎へ戻るべきですか」


ガルドが答える前に、ティナが口を開いた。


「ギルドにいた方が、連絡は早く受け取れると思う。ロアンが先に宿舎へ戻ったら、マルタか住人の誰かが知らせに来てくれるでしょう」


ガルドも頷いた。


「俺は一度宿舎へ戻る。マルタに状況を話して、ロアンが帰ったらここへ知らせてもらう」


「私は残ります」


「ああ。任せる」


ガルドはリゼを見る。


「勝手に街の外には出るなよ」


「はい」


「何か分かったら、宿舎へ戻れ」


「分かりました」


ガルドはエダと短く話したあと、ギルドを出ていった。


ティナがリゼの隣へ立つ。


「座っておく?」


「はい」


受付の横にある長椅子へ向かおうとする。


そのとき、ギルドの開け放たれた戸の向こうから数人の男が入ってきた。雑踏の中から、リゼはその音を見つけた。


衣服と革具は泥で汚れ、補修道具を持つ者の一人は肩を借りて歩いている。御者らしい男が、受付へ向かって何かを説明していた。


その後ろに、棒剣を腰へ下げた男がいた。


ロアンだった。


上着の裾は汚れ、右肩から胸当てへかけて濡れた跡がある。額の横に浅い傷があったが、自分の足で歩いている。


リゼは動かなかった。


入口からロアンまでの距離は、それほど遠くない。


ロアンもリゼに気づいた。


足を止める。


互いに見たまま、しばらく動かなかった。


「ほら」


ティナが隣で言った。


「戻ってきた。ロアンが戻ってこないなんて──」


その先の言葉は、リゼには入らなかった。


角材の先が床を打つ。


一歩。


左脚を出し、続いて角材を前へ置く。


もう一歩。


いつもの歩幅ではなかった。


身体の傾きを補正しながら、可能なかぎり速く進む。


ロアンが何か言った。


聞き取れなかった。


リゼはロアンの前まで行き、そのまま両腕を伸ばした。


胸当てと上着の上から、身体へ腕を回す。


ロアンの動きが止まった。


リゼは抱きついたまま、何も言わなかった。


顔はロアンの胸元へ触れている。耳の近くで、衣服の擦れる音と、胸の内側から返る鼓動が聞こえた。


動いている。


ロアンは戻った。


その確認だけで、ほかの音が遠くなった。


広間には人がいる。


エダも、ティナも、補修隊の者たちも見ている。


ロアンの身体へ許可なく触れている。


命令された行動でもない。


腕を離すことができなかった。


「リゼ」


ロアンの声が、頭の上から聞こえた。


返事をしようとしたが、言葉が出なかった。


ロアンの手が、リゼの背へ触れた。


抱き返したのではない。


倒れないよう支えるために置いただけかもしれない。


それでも、離れろとは言われなかった。


「帰った」


ロアンが言った。


リゼは胸元へ顔を向けたまま、ようやく答えた。


「はい」


声はいつもと変わらなかった。


腕も、すぐには離れなかった。

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