3-13. ロアンのいない日
継暦六百二十七年 七月十七日
ロアンの姿が角の向こうへ消えたあとも、リゼは宿舎の前に立っていた。
水路沿いの道には、朝の仕事へ向かう者が増え始めている。荷車の車輪が石を踏み、橋の向こうでは店の板戸が開かれていた。ロアンが進んだ方角へ向かう者もいたが、腰に棒剣を下げた姿は見えない。
忘れ物に気づけば、宿舎へ引き返すかもしれない。
しかし、依頼書も装備も持っていた。集合時刻と場所も、昨夜までに何度も確認している。
戻ってくる理由はなかった。
それでもリゼは、ロアンが消えた先から視線を外さなかった。
背後で、食堂のほうから声がした。
「いつまでそこにいるんだい」
マルタの声だった。
「戸を開けたままにしたら、朝の空気が全部入ってくるよ」
リゼは振り返った。
宿舎の入口は、自分が出てきたときのまま開いている。マルタは食堂から身体を半分だけ出し、片手を戸の縁へ掛けていた。
「すみません」
リゼは宿舎へ戻った。
戸を閉める前に、もう一度だけ水路沿いの道を見る。
ロアンの姿はなかった。
食堂へ入ると、朝食を取っている住人が何人か残っていた。
アルドは窓際の卓で煮込みを食べ、カイルはその向かいで固いパンを割っている。ほかにも見覚えのある者が二人いたが、名前までは知らなかった。
リゼが入ってくると、カイルが顔を上げた。
「ロアンは、もう行ったんだね」
「はい。水門外の補修警護へ向かいました」
「戻りは明日の夕方だったかな」
「はい。補修に時間が掛かった場合は、夜になる可能性があります」
「そっか」
カイルは手にしていたパンを卓へ置いた。
「仕事へ出るのを見送るのははじめてなのか」
「はい」
「じゃあ、長く感じるかもしれないね」
リゼはカイルを見る。
「実際の時間は変わりません」
「時間そのものはね」
カイルは少し笑った。
「帰ってくるのを待ってると、戸が開くたびに気にしてしまう。今日帰る日じゃなくても、もしかしたらって思うから」
「カイルも、そうしたことがありますか」
「あるよ。町の外へ出た父親を待っていたときに」
「帰還時刻は早まりましたか」
「早まらなかった」
「では、見る必要はありません」
「そうなんだけど、気になるものは仕方ない」
カイルはリゼの顔を見た。
「無理に気にしないようにしなくてもいいんじゃないかな。ロアンが戻る日になるまでは、ここで過ごせばいいんだし」
マルタが鍋の前から声を掛けた。
「優しく言っても、戸口に立ちっぱなしじゃ困るよ」
「確かし、それは少し困るね」
カイルは穏やかな口調で同意した。
「でも、気になることまで駄目だとは言わなくていいと思うよ」
「私は、気にしていますか」
「そう見える」
「どこで分かりますか」
「角の向こうを、ずっと見てたからかな」
リゼは返事をしなかった。
カイルはパンを取り上げた。
「今回の仕事は、遠くないんだよね」
「水門の外です」
「街道を何十日も歩く仕事より近いし、補修をする人たちも一緒にいる」
「はい」
「ずっとここにいても、待ってるあいだに別のことをしても、待っていることに違いはない」
リゼには、その区別がまだ分からなかった。
それでも、カイルが自分の行動を咎めているのではないことは分かった。
「分かりました」
アルドが椀を置いた。
「ロアンが昨日選んだ依頼の中では、危険の少ない方だ。水門には人がいるし、護衛も二人いる」
「危険が少なければ、ロアンは死にませんか」
アルドは少し間を置いた。
「そこまでは言えない。ただ、ロアンは依頼の内容を見て、自分が受けられると判断した。それは確かだ」
帰還を保証する言葉ではなかった。
ロアン自身が、受ける仕事を選んだというだけだった。
しかし、判断の材料にはなった。
「分かりました」
朝食が終わると、住人たちは順に食堂を出ていった。
アルドは道具袋を持ち、カイルは上着の紐を結び直しながら戸口へ向かう。
「僕は夕方に戻るよ」
「カイルがですか」
「うん」
カイルは少し笑った。
「ロアンじゃないけど、先に一人は帰ってくる」
「カイルの帰還と、ロアンの帰還は別です」
「でも、宿舎へ帰ってくる人がいる方が、静かすぎなくていいと思うよ」
リゼは答えを考えた。
「カイルが戻ることは確認します」
「うん。じゃあ、行ってくるね」
カイルは手を軽く上げ、宿舎を出ていった。
食堂に残ったのは、マルタとリゼだけになった。
マルタは卓の上から椀を集め、洗い場の近くへ積んでいく。リゼは椅子に座ったまま、その作業を見ていた。
「そこに座って、一日じゅう戸を見てるつもりかい」
「ロアンが戻る予定は明日です」
「なら、今日の昼には帰ってこないね」
「予定が早まる可能性はあります」
「その可能性を見張ってたら、ほかに何もできないよ」
リゼはすぐには答えなかった。
宿舎へ残れとは命じられている。
しかし、どこにいて、何をするかまでは決められていない。
「何か手伝うかい」
マルタが尋ねた。
「はい」
返事はすぐだった。
マルタはリゼの右脚を見る。
「洗い場は滑るから駄目だね。まず、窓を開けるのを手伝っておくれ」
食堂の窓は三つあった。
朝の冷気が残るうちに空気を入れ替えるらしく、マルタは一つずつ留め具を外していく。リゼは指示された窓まで歩き、木枠へ手を掛けた。
「力を入れすぎるんじゃないよ。古いからね」
「どの程度ですか」
「動かなかったら、そこで止める程度さ」
リゼは少しずつ力を加えた。
木枠が軋み、窓が外へ開く。
下側の角が僅かに下がっていた。
「右側の留め具が緩んでいます」
「ああ。閉めるとき、少し持ち上げないと入らないんだよ」
「修理しないのですか」
「ガルドが順番に見てる。ここより先に直すところが多いからね」
「宿舎は壊れていますか」
「壊れかけてるところが多い、くらいだね。人が住めないほどじゃないよ」
残りの窓も開ける。
一つはすぐに動いたが、もう一つは途中で引っ掛かった。マルタは慣れた手つきで上枠を軽く押し、もう片方の手で取っ手を引いた。
「傾いています」
「建物も、人と同じで年を取るのさ」
「人は、傾くのですか」
「そういう意味じゃないよ」
マルタは笑った。
「長く使えば、いろいろ傷むってことさ」
窓を開け終えると、食堂の床を掃く。
リゼは箒を使おうとしたが、マルタに止められた。
「その脚で、箒を持ちながら動くのはまだやめときな。昨日みたいに、座ってできることを頼むよ」
乾いた豆の入った袋と、平たい皿が卓へ置かれる。
「石や割れたものを除いて、使えるものだけ残しておく」
「分かりました」
リゼは豆を一粒ずつ確認し始めた。
色、形、表面の傷。指で押したときの硬さも確かめ、割れているものや小石、乾いた茎の欠片を別の器へ移していく。
宿舎の戸が開いた。
リゼの手が止まる。
入ってきたのは、荷を抱えた男だった。見覚えのない住人で、そのまま階段を上っていく。
「足音で違うと分かっただろう」
マルタが言った。
「はい」
「なら、豆を見な」
リゼは手元へ視線を戻した。
しばらくすると、外で荷車が止まった。車輪が軋み、御者がワトへ声を掛ける。
リゼは顔を上げた。
「ロアンは荷車には乗ってないよ」
「補修隊の荷車が戻った可能性があります」
「出てから、まだ半刻も経ってない」
「仕事が中止された可能性もあります」
「それを一つずつ確かめるつもりかい」
「可能性があります」
マルタは箒を壁へ立て掛けた。
「可能性があることと、いま確かめられることは別だよ」
「はい」
「いま確かめられるのは、その豆が使えるかどうかだけさ」
リゼは皿を見る。
「分かりました」
豆の選別を終えると、マルタは乾いた布を畳むよう頼んだ。食堂で使う布で、洗ったものを朝のうちに取り込んでいたらしい。
リゼは端を合わせ、同じ大きさへ畳んでいく。
「食堂は昼には使わないのですか」
「毎日三度も食事を出してたら、私が何もできなくなるよ」
「住人は、昼に何を食べますか」
「仕事先で食べるか、近くの店へ入るか、朝に持って出る。ここで出すのは朝と夕方だね」
「マルタは昼食を作らないのですか」
「自分の分くらいは作るけど、食堂は開けないよ」
「昼は、何をするのですか」
「掃除、洗濯、買い出し、帳面の確認。食料店へ頼んだ品も届くし、受け取って片づけなきゃならない。夕食の支度もある」
「すべて一人で行うのですか」
「大きな荷は店の者が運んでくるよ。私が市場から抱えて戻るわけじゃない。それでも、注文するものを見て、値段を確かめるのは私だ」
「今日は市場へ行きますか」
「ああ。豆と干した肉の値段を見たいし、布を洗うための灰も少なくなってる」
リゼは布を畳む手を止めた。
「私も行きます」
「外へ出るなら、私かガルドに言えって話だったね」
「はい。マルタと一緒なら、行ってもよいでしょうか」
マルタはリゼを見た。
「歩ける範囲ならね。買ったものは、持たなくていいよ」
「軽いものは持てます」
「今日は持たせない。ロアンが帰る前に転ばせたら、私が怒られる」
「ロアンは怒りますか」
「怒るだろうね」
マルタは即答した。
「私より先に、自分へ怒るだろうけど」
意味は分からなかった。
布を畳み終えるころ、食料店の男が荷を届けに来た。
袋に入った穀物と、木箱に収められた根菜だった。男は通路の手前へ荷を下ろし、マルタが帳面と納品された量を確かめる。
リゼも横から見ていた。
「一袋、前回より軽いね」
マルタが言う。
「値段は同じだよ」
店の男が答える。
「値段が同じなら、中身も同じにしておくれ」
「今年は入りが少ないんだ」
「それなら、先に言うのが筋だろう」
マルタは袋の紐を解き、中を確認する。男も言い返したが、最終的には次回に不足分を足すことで話が決まった。
男が帰ったあと、リゼは尋ねた。
「マルタは、袋の重さを量らずに判断しました」
「いつもと持った感じが違ったからね」
「誤差の可能性があります」
「あるよ。だから中身も見た」
「不足分が次回に追加される保証はありますか」
「店と長く付き合ってる。忘れたら、また言えばいい」
マルタは根菜を一つずつ木箱から出した。
「全部を紙へ書いたり、金を先に置いたりしなくても、続いていく取引はあるんだよ」
リゼはマルタを見る。
ロアンが聞けば、どのような顔をするだろう。
「信用していますか」
「全部は信用しないよ。だから確かめる。でも、一度でも間違えたら終わりってものでもない」
マルタは傷んだ根菜を一つ取り出し、別の籠へ移した。
「人と暮らすっていうのは、だいたいそんなものさ」
そのあと、二人は市場へ向かった。
マルタは店ごとに値段を尋ね、品物の状態を見る。すぐに買うものもあれば、別の店へ行ってから戻るものもあった。
リゼは歩きながら、宿舎で使われる品がどこから来るのかを記録した。
豆。
根菜。
干した肉。
布を洗うための灰。
食器を磨く細かな砂。
住人のために使われるものは、宿舎の中だけで生まれるわけではなかった。マルタが必要な量を考え、店へ頼み、届いたものを確かめている。
市場から戻ると、マルタは夕食の支度へ入った。
「ここから先は水場を使うから、あんたはガルドのところへ行っておいで」
「ガルドは何をしていますか」
「裏の物置で、修繕に使う木を選んでる。邪魔にならないようにね」
リゼは宿舎の裏へ向かった。
物置の戸は開いていた。
中では、ガルドが床へ何本もの木材を並べている。長さも太さも異なり、古い釘や金具を外した跡が残っていた。
壁際には、取り外された戸板や窓枠が立て掛けられている。新しい材料よりも、別の場所から外して保管していたものの方が多かった。
「何だ」
ガルドが顔を上げる。
「マルタに、ガルドのところへ行くよう言われました」
「あいつは、俺を子守に使う気か」
「私は子どもではありません」
「知ってる」
ガルドは短い木材を一本持ち上げた。
「そこに座ってろ。動くと危ない」
物置の入口近くには、脚の低い木箱があった。
リゼはその上へ腰を下ろす。
「何を修理するのですか」
「最初は二階の廊下だ。雨のあとに湿る場所がある」
「雨漏りですか」
「屋根じゃない。外壁と窓枠の継ぎ目から入ってる。壁の板を一部外して、傷んだところを替える」
ガルドは木材の表面を削り、内部の色を確認する。
「そのあとは、食堂の窓。裏口の戸。階段の手摺も見ないといけない」
「宿舎には、修理する場所が多いのですね」
「古い建物だからな」
「建て替えないのですか」
「その金を誰が出す」
「ギルドですか」
「簡単に言うな。住める建物を全部壊して、新しく作る金なんてない」
ガルドは使える木材と、使えないものを分けていく。
「傷んだ場所を替えれば、まだ使える。駄目になった戸からも、金具や木を取れる。全部捨てる必要はない」
リゼは壁際の古い戸を見る。
一部は割れ、表面も削れている。しかし蝶番は残っていた。
「古い道具を売る店と同じです」
「何がだ」
「壊れた部分を取り除き、使える部品を別の用途に使います」
「町中、だいたいそうだ」
ガルドは新しい釘と、抜き取った古い釘を並べた。
古い方は曲がっているものも多い。まっすぐなものだけを選び、残りは別の箱へ移す。
「曲がった釘は捨てますか」
「ひどいものはな。少しなら叩いて戻す」
「元と同じ強度にはなりません」
「同じ場所には使わん。荷重の掛からない板を留めるくらいなら足りる」
ガルドは用途ごとに分けていた。
新しい材料でなければ使えない場所。
古いものでも足りる場所。
交換せず、補強だけで済む場所。
「宿舎のどの部分が、最も危険ですか」
「いま住人を追い出す必要がある場所はない」
「今後、住めなくなる可能性はありますか」
「手を入れなければな」
「ガルドが修理しているなら、住み続けられますか」
ガルドは木材を置き、リゼを見る。
「俺一人で全部どうにかしてるわけじゃない。大きな修理なら職人を呼ぶし、金はギルドから出る。俺がやるのは、悪くなる前に見つけて、小さいうちに直すことだ」
「見つけられない場合は?」
「住人が言う。床が沈む、窓が閉まらない、壁が濡れてる。住んでる人間の方が先に気づくこともある」
宿舎は、ガルドだけが維持しているわけではなかった。
マルタが日々の仕事をし、住人が異常を伝え、必要なら外の職人が呼ばれる。
「私も、異常を見つけたら伝えてよいですか」
「ああ。勝手に直すなよ」
「なぜですか」
「おまえが壁を剥がして、戻せなくなったら困る」
「分かりました」
ガルドは廊下の修理に使う木を選び終えると、束にして紐で縛った。
リゼはその手元を見る。
「持ちます」
「いらん」
「持つことはできます」
「その脚で床の段差を越えながら、前が見えない量を持つな」
「半分なら可能です」
ガルドは少し考え、細い木材を二本だけ渡した。
「これを物置の外へ置け」
リゼは両腕で受け取った。
軽い。
物置の外へ運び、壁際へ置く。
戻ると、ガルドが次の二本を示した。
「同じところだ」
何度か往復する。
すべてを一度に運ぶより時間は掛かったが、転ぶことはなかった。
作業が終わるころには、日が傾き始めていた。
宿舎の正面で戸が開く音がした。
リゼは物置の入口から顔を上げる。
足音を聞く。
カイルだった。
「戻ったようです」
「誰がだ」
「カイルです」
「そうか」
ガルドは特に興味を示さず、工具を箱へ戻していく。
リゼは正面の通路へ向かった。
カイルは食堂の入口で上着を脱いでいた。
リゼを見ると、柔らかく笑った。
「ちゃんと戻ったよ」
「はい。足音で分かりました」
「待ってた?」
「ガルドの作業を手伝っていました」
「そっか。何をしたの」
「修繕に使う木材を運びました。宿舎の壁と窓と戸と、階段の手摺は修理が必要です」
「そんなにあるんだ」
「住人が出る必要はないそうです」
「それなら安心だね」
カイルは食堂へ入る。
マルタは夕食の鍋を混ぜていた。
「市場にも行ったのか」
カイルがリゼへ尋ねる。
「はい。マルタが価格と品物を確認するところを見ました」
「今日はずいぶん忙しかったんだ」
「はい」
「少しは時間が進んだ?」
リゼは窓の外を見る。
朝より光が低くなっている。
「七月十八日までの時間は減りました」
「うん。それでいいんじゃないかな」
カイルは卓へ座った。
「明日も何かしてれば、夕方になるよ」
「明日、ロアンが戻ります」
「そうだね」
「夜になる可能性もあります」
「うん。それでも、帰る予定の日だね」
カイルは否定しなかった。
食堂へ住人たちが戻り始める。
アルドも帰り、朝にいた者たちが次々に席へ座った。外で戸が開くたび、リゼは足音を確かめた。
ロアンではない。
それでも、朝のように通路へ出ることはなかった。
夕食のあいだ、住人たちは今日の仕事について話した。
壊れた荷車。
届かなかった材料。
値上がりした食料。
宿舎の窓枠と壁の修理。
リゼは会話を聞き、分からない言葉があれば尋ねた。
ロアンがいないことは変わらない。
しかし、宿舎では朝から夕方まで、誰かが出ていき、誰かが戻る。マルタはその間に食事と掃除を整え、ガルドは建物が使えなくならないように準備をしていた。
住人たちは、ただ部屋を借りているだけではなかった。
同じ建物へ帰り、それぞれが見つけた不具合や必要なものを、マルタやガルドへ伝えている。
ロアンも、これまで何度もここへ帰ってきた。
夕食が終わり、住人たちが部屋へ戻り始める。
リゼも椅子から立ち上がった。
「リゼ」
マルタに呼び止められる。
「はい」
「夜中に気になることがあったら、一人で部屋にいないで下りておいで」
「夜中に、何が起きますか」
「別に何か起きるってわけじゃないけど」
「では、下りる必要はありません」
「何も起きなくても、あんたが落ち着かなければ来ていいって言ってるのさ」
「私は正常に動作しています」
「身体の話じゃないよ」
リゼはマルタを見る。
「では、何の話ですか」
「うまく言えないけどね。ずっと戸の音を聞いていたくなったり、明日のことを何度も確かめたくなったら、一人でやらなくてもいいってことさ」
「マルタへ確認すればよいのですか」
「私でもガルドでも、起きてる者がいればね」
「確認しても、ロアンの帰還時刻は分かりません」
「分からないよ。それでも、同じ話を一人で繰り返すよりはましなこともある」
リゼには、その違いは分からなかった。
しかし、マルタが許可していることは分かった。
「分かりました」
「部屋へ戻るのかい」
「はい」
「階段には気をつけな」
二〇三号室へ入ると、朝までロアンがいた場所が、そのまま残っていた。
寝台の上に人はいない。
壁際には棒剣がなく、寝台の脇にあった胸当てもない。机には、留守中の決まりを書いた紙が残されている。
リゼは椅子へ腰を下ろした。
普段なら、ロアンが寝台へ横になったあと、聴覚や視覚を落としてよいと言われる。
今日は誰も言わなかった。
自分で決める必要がある。
視覚と聴覚を落とせば、セルの消費を抑えられる。ロアンが帰るのは明日の夕方以降であり、今夜戻る予定はない。
それでも、予定が早まる可能性はなくならない。
リゼは視覚を落とした。
聴覚はそのままにする。
水路の音。
廊下を歩く足音。
どこかの部屋で椅子を引く音。
階下で戸が閉まる音。
一つずつ確認した。
昼間にマルタと歩いた市場の道を思い出す。
物置に並んでいた古い木材と、ガルドが用途ごとに分けていた釘。
この宿舎が、何もせずに同じ形を保っているわけではないことを知った。
毎日、必要なものを揃え、傷んだ場所を探し、直している。
ロアンが帰る場所も、その中にあった。
ロアンの足音はしなかった。
しないことは分かっていた。
それでも、帰ってきたときにすぐ分かるよう、リゼは聴覚を落とさなかった。




