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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
3. 帰る場所
35/65

3-13. ロアンのいない日

継暦六百二十七年 七月十七日


ロアンの姿が角の向こうへ消えたあとも、リゼは宿舎の前に立っていた。


水路沿いの道には、朝の仕事へ向かう者が増え始めている。荷車の車輪が石を踏み、橋の向こうでは店の板戸が開かれていた。ロアンが進んだ方角へ向かう者もいたが、腰に棒剣を下げた姿は見えない。


忘れ物に気づけば、宿舎へ引き返すかもしれない。


しかし、依頼書も装備も持っていた。集合時刻と場所も、昨夜までに何度も確認している。


戻ってくる理由はなかった。


それでもリゼは、ロアンが消えた先から視線を外さなかった。


背後で、食堂のほうから声がした。


「いつまでそこにいるんだい」


マルタの声だった。


「戸を開けたままにしたら、朝の空気が全部入ってくるよ」


リゼは振り返った。


宿舎の入口は、自分が出てきたときのまま開いている。マルタは食堂から身体を半分だけ出し、片手を戸の縁へ掛けていた。


「すみません」


リゼは宿舎へ戻った。


戸を閉める前に、もう一度だけ水路沿いの道を見る。


ロアンの姿はなかった。


食堂へ入ると、朝食を取っている住人が何人か残っていた。


アルドは窓際の卓で煮込みを食べ、カイルはその向かいで固いパンを割っている。ほかにも見覚えのある者が二人いたが、名前までは知らなかった。


リゼが入ってくると、カイルが顔を上げた。


「ロアンは、もう行ったんだね」


「はい。水門外の補修警護へ向かいました」


「戻りは明日の夕方だったかな」


「はい。補修に時間が掛かった場合は、夜になる可能性があります」


「そっか」


カイルは手にしていたパンを卓へ置いた。


「仕事へ出るのを見送るのははじめてなのか」


「はい」


「じゃあ、長く感じるかもしれないね」


リゼはカイルを見る。


「実際の時間は変わりません」


「時間そのものはね」


カイルは少し笑った。


「帰ってくるのを待ってると、戸が開くたびに気にしてしまう。今日帰る日じゃなくても、もしかしたらって思うから」


「カイルも、そうしたことがありますか」


「あるよ。町の外へ出た父親を待っていたときに」


「帰還時刻は早まりましたか」


「早まらなかった」


「では、見る必要はありません」


「そうなんだけど、気になるものは仕方ない」


カイルはリゼの顔を見た。


「無理に気にしないようにしなくてもいいんじゃないかな。ロアンが戻る日になるまでは、ここで過ごせばいいんだし」


マルタが鍋の前から声を掛けた。


「優しく言っても、戸口に立ちっぱなしじゃ困るよ」


「確かし、それは少し困るね」


カイルは穏やかな口調で同意した。


「でも、気になることまで駄目だとは言わなくていいと思うよ」


「私は、気にしていますか」


「そう見える」


「どこで分かりますか」


「角の向こうを、ずっと見てたからかな」


リゼは返事をしなかった。


カイルはパンを取り上げた。


「今回の仕事は、遠くないんだよね」


「水門の外です」


「街道を何十日も歩く仕事より近いし、補修をする人たちも一緒にいる」


「はい」


「ずっとここにいても、待ってるあいだに別のことをしても、待っていることに違いはない」


リゼには、その区別がまだ分からなかった。


それでも、カイルが自分の行動を咎めているのではないことは分かった。


「分かりました」


アルドが椀を置いた。


「ロアンが昨日選んだ依頼の中では、危険の少ない方だ。水門には人がいるし、護衛も二人いる」


「危険が少なければ、ロアンは死にませんか」


アルドは少し間を置いた。


「そこまでは言えない。ただ、ロアンは依頼の内容を見て、自分が受けられると判断した。それは確かだ」


帰還を保証する言葉ではなかった。


ロアン自身が、受ける仕事を選んだというだけだった。


しかし、判断の材料にはなった。


「分かりました」


朝食が終わると、住人たちは順に食堂を出ていった。


アルドは道具袋を持ち、カイルは上着の紐を結び直しながら戸口へ向かう。


「僕は夕方に戻るよ」


「カイルがですか」


「うん」


カイルは少し笑った。


「ロアンじゃないけど、先に一人は帰ってくる」


「カイルの帰還と、ロアンの帰還は別です」


「でも、宿舎へ帰ってくる人がいる方が、静かすぎなくていいと思うよ」


リゼは答えを考えた。


「カイルが戻ることは確認します」


「うん。じゃあ、行ってくるね」


カイルは手を軽く上げ、宿舎を出ていった。


食堂に残ったのは、マルタとリゼだけになった。


マルタは卓の上から椀を集め、洗い場の近くへ積んでいく。リゼは椅子に座ったまま、その作業を見ていた。


「そこに座って、一日じゅう戸を見てるつもりかい」


「ロアンが戻る予定は明日です」


「なら、今日の昼には帰ってこないね」


「予定が早まる可能性はあります」


「その可能性を見張ってたら、ほかに何もできないよ」


リゼはすぐには答えなかった。


宿舎へ残れとは命じられている。


しかし、どこにいて、何をするかまでは決められていない。


「何か手伝うかい」


マルタが尋ねた。


「はい」


返事はすぐだった。


マルタはリゼの右脚を見る。


「洗い場は滑るから駄目だね。まず、窓を開けるのを手伝っておくれ」


食堂の窓は三つあった。


朝の冷気が残るうちに空気を入れ替えるらしく、マルタは一つずつ留め具を外していく。リゼは指示された窓まで歩き、木枠へ手を掛けた。


「力を入れすぎるんじゃないよ。古いからね」


「どの程度ですか」


「動かなかったら、そこで止める程度さ」


リゼは少しずつ力を加えた。


木枠が軋み、窓が外へ開く。


下側の角が僅かに下がっていた。


「右側の留め具が緩んでいます」


「ああ。閉めるとき、少し持ち上げないと入らないんだよ」


「修理しないのですか」


「ガルドが順番に見てる。ここより先に直すところが多いからね」


「宿舎は壊れていますか」


「壊れかけてるところが多い、くらいだね。人が住めないほどじゃないよ」


残りの窓も開ける。


一つはすぐに動いたが、もう一つは途中で引っ掛かった。マルタは慣れた手つきで上枠を軽く押し、もう片方の手で取っ手を引いた。


「傾いています」


「建物も、人と同じで年を取るのさ」


「人は、傾くのですか」


「そういう意味じゃないよ」


マルタは笑った。


「長く使えば、いろいろ傷むってことさ」


窓を開け終えると、食堂の床を掃く。


リゼは箒を使おうとしたが、マルタに止められた。


「その脚で、箒を持ちながら動くのはまだやめときな。昨日みたいに、座ってできることを頼むよ」


乾いた豆の入った袋と、平たい皿が卓へ置かれる。


「石や割れたものを除いて、使えるものだけ残しておく」


「分かりました」


リゼは豆を一粒ずつ確認し始めた。


色、形、表面の傷。指で押したときの硬さも確かめ、割れているものや小石、乾いた茎の欠片を別の器へ移していく。


宿舎の戸が開いた。


リゼの手が止まる。


入ってきたのは、荷を抱えた男だった。見覚えのない住人で、そのまま階段を上っていく。


「足音で違うと分かっただろう」


マルタが言った。


「はい」


「なら、豆を見な」


リゼは手元へ視線を戻した。


しばらくすると、外で荷車が止まった。車輪が軋み、御者がワトへ声を掛ける。


リゼは顔を上げた。


「ロアンは荷車には乗ってないよ」


「補修隊の荷車が戻った可能性があります」


「出てから、まだ半刻も経ってない」


「仕事が中止された可能性もあります」


「それを一つずつ確かめるつもりかい」


「可能性があります」


マルタは箒を壁へ立て掛けた。


「可能性があることと、いま確かめられることは別だよ」


「はい」


「いま確かめられるのは、その豆が使えるかどうかだけさ」


リゼは皿を見る。


「分かりました」


豆の選別を終えると、マルタは乾いた布を畳むよう頼んだ。食堂で使う布で、洗ったものを朝のうちに取り込んでいたらしい。


リゼは端を合わせ、同じ大きさへ畳んでいく。


「食堂は昼には使わないのですか」


「毎日三度も食事を出してたら、私が何もできなくなるよ」


「住人は、昼に何を食べますか」


「仕事先で食べるか、近くの店へ入るか、朝に持って出る。ここで出すのは朝と夕方だね」


「マルタは昼食を作らないのですか」


「自分の分くらいは作るけど、食堂は開けないよ」


「昼は、何をするのですか」


「掃除、洗濯、買い出し、帳面の確認。食料店へ頼んだ品も届くし、受け取って片づけなきゃならない。夕食の支度もある」


「すべて一人で行うのですか」


「大きな荷は店の者が運んでくるよ。私が市場から抱えて戻るわけじゃない。それでも、注文するものを見て、値段を確かめるのは私だ」


「今日は市場へ行きますか」


「ああ。豆と干した肉の値段を見たいし、布を洗うための灰も少なくなってる」


リゼは布を畳む手を止めた。


「私も行きます」


「外へ出るなら、私かガルドに言えって話だったね」


「はい。マルタと一緒なら、行ってもよいでしょうか」


マルタはリゼを見た。


「歩ける範囲ならね。買ったものは、持たなくていいよ」


「軽いものは持てます」


「今日は持たせない。ロアンが帰る前に転ばせたら、私が怒られる」


「ロアンは怒りますか」


「怒るだろうね」


マルタは即答した。


「私より先に、自分へ怒るだろうけど」


意味は分からなかった。


布を畳み終えるころ、食料店の男が荷を届けに来た。


袋に入った穀物と、木箱に収められた根菜だった。男は通路の手前へ荷を下ろし、マルタが帳面と納品された量を確かめる。


リゼも横から見ていた。


「一袋、前回より軽いね」


マルタが言う。


「値段は同じだよ」


店の男が答える。


「値段が同じなら、中身も同じにしておくれ」


「今年は入りが少ないんだ」


「それなら、先に言うのが筋だろう」


マルタは袋の紐を解き、中を確認する。男も言い返したが、最終的には次回に不足分を足すことで話が決まった。


男が帰ったあと、リゼは尋ねた。


「マルタは、袋の重さを量らずに判断しました」


「いつもと持った感じが違ったからね」


「誤差の可能性があります」


「あるよ。だから中身も見た」


「不足分が次回に追加される保証はありますか」


「店と長く付き合ってる。忘れたら、また言えばいい」


マルタは根菜を一つずつ木箱から出した。


「全部を紙へ書いたり、金を先に置いたりしなくても、続いていく取引はあるんだよ」


リゼはマルタを見る。


ロアンが聞けば、どのような顔をするだろう。


「信用していますか」


「全部は信用しないよ。だから確かめる。でも、一度でも間違えたら終わりってものでもない」


マルタは傷んだ根菜を一つ取り出し、別の籠へ移した。


「人と暮らすっていうのは、だいたいそんなものさ」


そのあと、二人は市場へ向かった。


マルタは店ごとに値段を尋ね、品物の状態を見る。すぐに買うものもあれば、別の店へ行ってから戻るものもあった。


リゼは歩きながら、宿舎で使われる品がどこから来るのかを記録した。


豆。


根菜。


干した肉。


布を洗うための灰。


食器を磨く細かな砂。


住人のために使われるものは、宿舎の中だけで生まれるわけではなかった。マルタが必要な量を考え、店へ頼み、届いたものを確かめている。


市場から戻ると、マルタは夕食の支度へ入った。


「ここから先は水場を使うから、あんたはガルドのところへ行っておいで」


「ガルドは何をしていますか」


「裏の物置で、修繕に使う木を選んでる。邪魔にならないようにね」


リゼは宿舎の裏へ向かった。


物置の戸は開いていた。


中では、ガルドが床へ何本もの木材を並べている。長さも太さも異なり、古い釘や金具を外した跡が残っていた。


壁際には、取り外された戸板や窓枠が立て掛けられている。新しい材料よりも、別の場所から外して保管していたものの方が多かった。


「何だ」


ガルドが顔を上げる。


「マルタに、ガルドのところへ行くよう言われました」


「あいつは、俺を子守に使う気か」


「私は子どもではありません」


「知ってる」


ガルドは短い木材を一本持ち上げた。


「そこに座ってろ。動くと危ない」


物置の入口近くには、脚の低い木箱があった。


リゼはその上へ腰を下ろす。


「何を修理するのですか」


「最初は二階の廊下だ。雨のあとに湿る場所がある」


「雨漏りですか」


「屋根じゃない。外壁と窓枠の継ぎ目から入ってる。壁の板を一部外して、傷んだところを替える」


ガルドは木材の表面を削り、内部の色を確認する。


「そのあとは、食堂の窓。裏口の戸。階段の手摺も見ないといけない」


「宿舎には、修理する場所が多いのですね」


「古い建物だからな」


「建て替えないのですか」


「その金を誰が出す」


「ギルドですか」


「簡単に言うな。住める建物を全部壊して、新しく作る金なんてない」


ガルドは使える木材と、使えないものを分けていく。


「傷んだ場所を替えれば、まだ使える。駄目になった戸からも、金具や木を取れる。全部捨てる必要はない」


リゼは壁際の古い戸を見る。


一部は割れ、表面も削れている。しかし蝶番は残っていた。


「古い道具を売る店と同じです」


「何がだ」


「壊れた部分を取り除き、使える部品を別の用途に使います」


「町中、だいたいそうだ」


ガルドは新しい釘と、抜き取った古い釘を並べた。


古い方は曲がっているものも多い。まっすぐなものだけを選び、残りは別の箱へ移す。


「曲がった釘は捨てますか」


「ひどいものはな。少しなら叩いて戻す」


「元と同じ強度にはなりません」


「同じ場所には使わん。荷重の掛からない板を留めるくらいなら足りる」


ガルドは用途ごとに分けていた。


新しい材料でなければ使えない場所。


古いものでも足りる場所。


交換せず、補強だけで済む場所。


「宿舎のどの部分が、最も危険ですか」


「いま住人を追い出す必要がある場所はない」


「今後、住めなくなる可能性はありますか」


「手を入れなければな」


「ガルドが修理しているなら、住み続けられますか」


ガルドは木材を置き、リゼを見る。


「俺一人で全部どうにかしてるわけじゃない。大きな修理なら職人を呼ぶし、金はギルドから出る。俺がやるのは、悪くなる前に見つけて、小さいうちに直すことだ」


「見つけられない場合は?」


「住人が言う。床が沈む、窓が閉まらない、壁が濡れてる。住んでる人間の方が先に気づくこともある」


宿舎は、ガルドだけが維持しているわけではなかった。


マルタが日々の仕事をし、住人が異常を伝え、必要なら外の職人が呼ばれる。


「私も、異常を見つけたら伝えてよいですか」


「ああ。勝手に直すなよ」


「なぜですか」


「おまえが壁を剥がして、戻せなくなったら困る」


「分かりました」


ガルドは廊下の修理に使う木を選び終えると、束にして紐で縛った。


リゼはその手元を見る。


「持ちます」


「いらん」


「持つことはできます」


「その脚で床の段差を越えながら、前が見えない量を持つな」


「半分なら可能です」


ガルドは少し考え、細い木材を二本だけ渡した。


「これを物置の外へ置け」


リゼは両腕で受け取った。


軽い。


物置の外へ運び、壁際へ置く。


戻ると、ガルドが次の二本を示した。


「同じところだ」


何度か往復する。


すべてを一度に運ぶより時間は掛かったが、転ぶことはなかった。


作業が終わるころには、日が傾き始めていた。


宿舎の正面で戸が開く音がした。


リゼは物置の入口から顔を上げる。


足音を聞く。


カイルだった。


「戻ったようです」


「誰がだ」


「カイルです」


「そうか」


ガルドは特に興味を示さず、工具を箱へ戻していく。


リゼは正面の通路へ向かった。


カイルは食堂の入口で上着を脱いでいた。


リゼを見ると、柔らかく笑った。


「ちゃんと戻ったよ」


「はい。足音で分かりました」


「待ってた?」


「ガルドの作業を手伝っていました」


「そっか。何をしたの」


「修繕に使う木材を運びました。宿舎の壁と窓と戸と、階段の手摺は修理が必要です」


「そんなにあるんだ」


「住人が出る必要はないそうです」


「それなら安心だね」


カイルは食堂へ入る。


マルタは夕食の鍋を混ぜていた。


「市場にも行ったのか」


カイルがリゼへ尋ねる。


「はい。マルタが価格と品物を確認するところを見ました」


「今日はずいぶん忙しかったんだ」


「はい」


「少しは時間が進んだ?」


リゼは窓の外を見る。


朝より光が低くなっている。


「七月十八日までの時間は減りました」


「うん。それでいいんじゃないかな」


カイルは卓へ座った。


「明日も何かしてれば、夕方になるよ」


「明日、ロアンが戻ります」


「そうだね」


「夜になる可能性もあります」


「うん。それでも、帰る予定の日だね」


カイルは否定しなかった。


食堂へ住人たちが戻り始める。


アルドも帰り、朝にいた者たちが次々に席へ座った。外で戸が開くたび、リゼは足音を確かめた。


ロアンではない。


それでも、朝のように通路へ出ることはなかった。


夕食のあいだ、住人たちは今日の仕事について話した。


壊れた荷車。


届かなかった材料。


値上がりした食料。


宿舎の窓枠と壁の修理。


リゼは会話を聞き、分からない言葉があれば尋ねた。


ロアンがいないことは変わらない。


しかし、宿舎では朝から夕方まで、誰かが出ていき、誰かが戻る。マルタはその間に食事と掃除を整え、ガルドは建物が使えなくならないように準備をしていた。


住人たちは、ただ部屋を借りているだけではなかった。


同じ建物へ帰り、それぞれが見つけた不具合や必要なものを、マルタやガルドへ伝えている。


ロアンも、これまで何度もここへ帰ってきた。


夕食が終わり、住人たちが部屋へ戻り始める。


リゼも椅子から立ち上がった。


「リゼ」


マルタに呼び止められる。


「はい」


「夜中に気になることがあったら、一人で部屋にいないで下りておいで」


「夜中に、何が起きますか」


「別に何か起きるってわけじゃないけど」


「では、下りる必要はありません」


「何も起きなくても、あんたが落ち着かなければ来ていいって言ってるのさ」


「私は正常に動作しています」


「身体の話じゃないよ」


リゼはマルタを見る。


「では、何の話ですか」


「うまく言えないけどね。ずっと戸の音を聞いていたくなったり、明日のことを何度も確かめたくなったら、一人でやらなくてもいいってことさ」


「マルタへ確認すればよいのですか」


「私でもガルドでも、起きてる者がいればね」


「確認しても、ロアンの帰還時刻は分かりません」


「分からないよ。それでも、同じ話を一人で繰り返すよりはましなこともある」


リゼには、その違いは分からなかった。


しかし、マルタが許可していることは分かった。


「分かりました」


「部屋へ戻るのかい」


「はい」


「階段には気をつけな」


二〇三号室へ入ると、朝までロアンがいた場所が、そのまま残っていた。


寝台の上に人はいない。


壁際には棒剣がなく、寝台の脇にあった胸当てもない。机には、留守中の決まりを書いた紙が残されている。


リゼは椅子へ腰を下ろした。


普段なら、ロアンが寝台へ横になったあと、聴覚や視覚を落としてよいと言われる。


今日は誰も言わなかった。


自分で決める必要がある。


視覚と聴覚を落とせば、セルの消費を抑えられる。ロアンが帰るのは明日の夕方以降であり、今夜戻る予定はない。


それでも、予定が早まる可能性はなくならない。


リゼは視覚を落とした。


聴覚はそのままにする。


水路の音。


廊下を歩く足音。


どこかの部屋で椅子を引く音。


階下で戸が閉まる音。


一つずつ確認した。


昼間にマルタと歩いた市場の道を思い出す。


物置に並んでいた古い木材と、ガルドが用途ごとに分けていた釘。


この宿舎が、何もせずに同じ形を保っているわけではないことを知った。


毎日、必要なものを揃え、傷んだ場所を探し、直している。


ロアンが帰る場所も、その中にあった。


ロアンの足音はしなかった。


しないことは分かっていた。


それでも、帰ってきたときにすぐ分かるよう、リゼは聴覚を落とさなかった。

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