3-12. 行ってらっしゃい
継暦六百二十七年 七月十六日
部屋へ戻ると、ロアンは机へ紙を広げた。
動力商の名前と場所、ギルドまでの道、外へ出るときに伝える相手、日が傾く前に戻ること。セルや身体に異常があった場合の連絡先と、ロアン自身の帰還予定も書き加えていく。
一通り書き終えると、ロアンは最初から内容を読み上げた。
「文字は読めます」
リゼは机の横に立ち、紙へ視線を落としている。
「分かってる。書いた内容が間違ってないか確かめてるだけだ」
「はい」
読み上げた内容に誤りはなかった。
リゼは紙の末尾に書かれた日付を見る。
「戻る予定は、七月十八日の夕方」
「ああ」
「補修に時間が掛かった場合、帰還が遅れる可能性がありますか」
「ある。半日くらいならな」
水門の外にある取水設備は、エルデンからさほど遠くない。補修作業そのものが長引いたとしても、翌日の夕方には戻れる行程だった。それ以上遅れるとすれば、設備や荷車に想定外の問題が起きた場合になる。
「夕方に戻らなかった場合は、夜まで待てばよいですか」
「ああ。十八日の夜になっても戻らなければ、ガルドからギルドへ確認してもらえ」
「ギルドが、補修の進み具合を確認するのですか」
「補修隊が戻っているか、水門から何か連絡が来ていないかを調べる」
リゼは頷いた。
帰還が予定より遅れる場合に備え、いつまで待てばよいかを決めておく。それは出発時刻や外出の範囲と同じ、行動に必要な条件の一つとして理解されたらしい。
ロアンは紙の余白へ、十八日の夜、と書き足した。
そこで筆が止まった。
補修が長引くだけなら、連絡が届く可能性はある。荷車が故障したとしても、誰か一人を町へ戻すことはできるだろう。
しかし、護衛の仕事である以上、それ以外のことも起こり得る。
獣に襲われることもあれば、人間を相手に剣を抜くこともある。同行する者が全員戻れなくなれば、知らせる者もいない。
リゼが尋ねた。
「十九日の朝になっても、帰還予定が分からない場合は、どうなりますか」
「ギルドが調べる」
「そのあと、新しい帰還予定が分かりますか」
ロアンは答えなかった。
帰還が遅れることと、帰還できないことは違う。
リゼは前者について尋ねている。何日待てば戻るのか、どこから次の予定を得ればよいのかを確認しているだけで、ロアンが戻らないままになる可能性までは考えていないらしい。
「ロアン?」
「何だ」
「筆が止まっています」
「ああ」
曖昧にしたところで、危険がなくなるわけではない。何も教えずに出ていけば、リゼは戻る予定だけを頼りに待ち続けることになる。
「帰るのが遅れるんじゃなくて、俺が帰れない場合もある」
リゼは紙から顔を上げた。
「怪我によって、移動できなくなる場合ですか」
「それもある」
「治療が必要な場合は、ギルドから連絡がありますか」
「連絡できる者がいればな」
ロアンが言葉を切ると、リゼは続きを待った。
「誰も連絡できないこともある。俺が死ぬ場合もある」
淡く光る目が、ロアンへ向けられたまま止まった。
リゼは人間の死について知っている。
死んだ人間は治療によって再び動き出すことがなく、時間が経っても帰ってこない。知識として理解しているはずだった。
しかし、ロアンが死ぬという言葉を、七月十八日の予定へ結びつけたことはなかったらしい。
「今回の仕事で、ロアンが死ぬ可能性がありますか」
「ああ。低いとは思うが、ないとは言えない」
「では、私も同行します」
返事はすぐだった。
ロアンはリゼを見た。
「行かない」
「護衛は二人です。私が加われば三人になります」
「おまえは護衛として契約されてない」
「報酬は必要ありません」
「そういう問題じゃない。補修隊には人数を伝えてあるし、護衛を勝手に増やすことはできない」
「荷車へ乗ることはできますか」
「補修資材を積む一台だけだ。おまえを乗せる余裕はない」
「歩いていきます」
「その脚で水門の外まで歩いて、現場でも動くつもりか」
リゼは答えなかった。
今日、工房で仮脚の状態を見てもらったばかりだった。すぐに壊れる状態ではないが、長く使い続けるものではないと言われている。
「現場では動きません。荷車の近くにいます」
「移動するだけで半日はかかる場所だ。道が舗装されているところでもない」
「ロアンが負傷した場合、知らせることができます」
「補修隊の人間がいる」
「全員が負傷する場合もあります」
「可能性だけなら何でもある」
「私がいれば、その可能性を下げられます」
ロアンは筆を机へ置いた。
「下げられない。おまえが転べば、今度は誰かがおまえを守らなきゃならない」
「転ばないように歩きます。守る必要もありません」
「そういう話じゃない」
「私は防護型です。通常の機械人形より耐久性があります」
「脚がない」
リゼの言葉が止まった。
ロアンは続けた。
「右脚は角材で、今日も長く使うものじゃないと言われた。灰等セルで、どれだけ安定して動けるかも分からない。そんな状態で現場へ連れていけば、護衛を一人増やすんじゃなく、守る相手を増やすことになる」
「私は、守られるためについていくのではありません」
「そう思っていても同じだ」
リゼは視線を逸らさなかった。
「砂海では、ロアンへの攻撃を防ぎました」
「あのときとは違う」
「灰境でも戦闘に参加しました。契約を変更できますか」
「できない」
「ギルドへ行けば、追加できますか」
「行かない」
ロアンの返事が重なるたび、リゼは別の方法を探した。
「私は町の外へ出てはいけないのですか」
「いまは駄目だ」
「仕事でなければ、ついていけますか」
「補修隊と一緒に移動する時点で、仕事の一部になる」
「離れた場所から待ちます」
「駄目だ」
「水門までなら――」
「駄目だ」
ロアンの声が強くなった。
リゼは口を閉じたが、納得した様子はなかった。
命令として言えば従う。
それでも、ロアンが危険な場所へ行くことを、そのまま受け入れることはできない。
「なぜ、ついてきたい」
ロアンが尋ねた。
「ロアンが死ぬ可能性があるからです」
「おまえが来ても、なくならない」
「下げることはできます」
「できないと言っただろ」
「私がロアンを守れば、下がります」
「今度は腕を失うつもりか」
リゼは答えなかった。
砂海でサンドワームの攻撃を受けたとき、リゼは商隊と人間を守る命令に従った。その結果として右脚を失ったことを、損失とは考えていないのかもしれない。
あるいは、同じ状況になれば、もう一度同じことをするつもりなのか。
「右脚だけでは済まないこともある」
「はい」
「壊されれば、今度は歩けなくなるだけじゃない」
「はい」
「それでも来るのか」
「ロアンが死ぬ可能性を下げられるなら、行きます」
声も表情も変わらなかった。
それでも、以前に商隊を守る命令について話したときとは違っていた。
今回は誰からも命じられていない。
補修隊や積荷を守りたいのでもない。
「ほかの誰でも同じか」
リゼはすぐには答えなかった。
「何がですか」
「ティナやガレスが同じ仕事へ行くなら、同じようについていくと言うのか」
「言いません」
「なぜだ」
「ロアンではないからです」
答えは簡単だった。
ロアンは視線を紙へ落とした。
七月十八日の夕方。
それより遅れる場合。
帰れない場合。
自分が死ぬ可能性を説明すれば、リゼは留守中の手順を確認すると思っていた。ところが実際には、その可能性自体を許容せず、同行する方法を探し始めた。
「私は、ロアンについていきたいです」
先ほどまでより、わずかに間を置いて言った。
命令への異議ではなかった。
自分がそうしたいと伝えている。
「駄目だ」
ロアンは答えた。
リゼは黙った。
「今回の仕事は俺が受けた。おまえが受けた仕事じゃない。おまえを連れていく必要もない」
「私は必要がなくても行きたいです」
「必要がないから連れていかない」
「ロアンが死ぬ可能性があります」
「それは、どの仕事でも同じだ」
「では、今後も同行させてください」
話が未来のことへ及びはじめた。
ロアンは眉を寄せる。
「今後の話はしてない」
「今回だけの危険ではないなら、同じです」
「同じじゃない。仕事の内容も、おまえの状態も変わる」
「脚が直れば、同行できますか」
「それだけで決めることじゃない」
「何が必要ですか」
「今は決めない」
「戻ってから決めますか」
ロアンは答えに詰まった。
先ほど、自分が死んだ場合の扱いを、戻ってから決めると紙へ書こうとしていた。リゼを仕事へ同行させるかどうかまで、同じ言葉で先送りにすれば、何も答えていないのと変わらない。
「少なくとも、脚がこのままでは駄目だ」
「脚が直れば、考えますか」
「考える」
それ以上は言えなかった。
リゼはしばらくロアンを見ていた。
「同行してはいけないというのは、命令ですか」
ロアンは一瞬、答えるのをためらった。
命令だと言えば、リゼは従う。
そのために使うのは簡単だった。
「命令だ。宿舎に残れ」
「はい」
返事はすぐだった。
しかし、リゼの中で考えが消えたわけではない。命令によって行動だけを止めたのだと、ロアンにも分かった。
リゼは紙へ視線を戻した。
「ロアンが死ぬ場合について、書くのですか」
「ああ」
「私は同行できません」
「ああ」
「ロアンが死なないようにすることもできません」
ロアンは何も言わなかった。
「それでも、ここで待つのですか」
命令の確認ではなかった。
許容できないことを、自分が本当にしなければならないのかと尋ねている。
「待て」
ロアンは言った。
「二日で戻る」
「必ずですか」
答えることはできなかった。
必ず戻ると約束しても、守れる保証はない。
リゼはそれを知っているから、同行を求めている。
「戻るつもりで行く」
ロアンが言うと、リゼはしばらく黙った。
「分かりました」
納得したのではない。
それ以上、命令へ逆らわないと決めただけだった。
ロアンは紙の余白へ、あらためて筆を置いた。
――ロアンの帰還が確認できない場合、ガルドからギルドのエダへ連絡する。
リゼはその一行を見たが、自分が何をするべきかとは尋ねなかった。
ロアンが帰らない場合を受け入れていない以上、その後の自分について考えることなどできなかった。
しかし、ロアンは考えなければならなかった。
自分が死ねば、リゼは所有者を失う。
所有物として遺産へ組み込まれるのか、ギルドが一時的に保管するのか、商会へ売却されるのか。ロアンには家族も相続人もなく、売却代金を受け取る者もいない。それでも、リゼ自身に行き先を選ぶ権利はない。
何も決めずに死ねば、誰かが代わりに決める。
その誰かが、リゼを分解して売る方が適切だと判断する可能性もあった。
ロアンは紙の下へ、さらに一行を書き加えた。
――帰還後、エダへ所有者死亡時の扱いを確認する。
「これは何ですか」
リゼが尋ねた。
「今回の仕事が終わったら、ギルドに確認するものがある」
「何をするのですか」
「俺が死んだ場合、おまえが誰のものになるのかを調べる。ここへ残る方法があるか、勝手に売られないようにできるかも聞く」
リゼは紙ではなく、ロアンを見ていた。
「死ぬ予定があるのですか」
「ない」
「では、必要ありません」
「必要だ」
「ロアンは戻ります」
「戻るつもりでも、戻れないことはある」
「その場合は、私が同行すれば――」
「その話は終わりだ」
リゼは黙った。
ロアンは筆を置いた。
今夜だけで決められることではない。ギルドの規則も知らず、書面を作れば済むのかも分からない。所有権を誰かへ移しておく必要があるのかもしれず、そもそも機械人形へ何かを残すことが認められるのかも確認しなければならない。
明日の朝までには間に合わない。
それでも、戻ったあとに最初にすることは決めた。
夕方、二人は再び動力商へ向かった。
灰等セルの検査結果に大きな異常はなかった。実効容量は前回よりわずかに落ちていたものの、歩行や日常動作に使う範囲なら、まだ問題なく使えるという。
ニールは帳面と検査札を並べ、記された数値をロアンへ示した。
「内部の焼けは増えてない。出力も大きくは落ちてない。容量は少し減ってるが、灰等としてはまだ使える」
「残量表示は当てになるか」
「目安にはなる。ただ、使い切るまで待つな。動きが鈍くなったら、表示が残っていても早めに替えろ」
「ああ」
低速充填を終えた灰等セルを、ニールが黒化セルと入れ替える。
リゼの瞳が一度弱まり、灰等セルが奥まで収まると、元の明るさへ戻った。
「出力は」
ニールが尋ねる。
「安定しています」
リゼは両腕と首を動かし、店の中を往復した。角材の先で向きを変え、同じ位置まで戻ってくる。
「黒化セルを使っていたときより、歩行時の補正が早くなりました」
「なら問題ない。黒化も預けるか?」
ロアンは携行箱の中に収めた黒化セルを見た。
「明日から二日いない。戻ってからにする」
「その方がいい。検査だけで終わる可能性もあるからな」
黒化セルを携行箱へ戻し、二人は宿舎へ帰った。
夕食を終えると、ロアンは翌日の装備を揃えた。
棒剣と胸当て、水筒、補修用の布、短剣。ギルドから渡された依頼書も旅袋へ入れる。一泊分の食料は補修隊が用意することになっていたが、干した肉を少しだけ加えた。
リゼは椅子へ座り、その作業を見ていた。
しばらく何も言わなかった。
「まだ、ついてくるつもりか」
ロアンが尋ねる。
「命令には従います」
答えになっているようで、なっていなかった。
「そうか」
ロアンは旅袋の口を縛った。
「ロアンが負傷した場合は、もう一人の護衛が対応しますか」
「ああ」
「その護衛も負傷した場合は、補修隊の人間がギルドへ知らせますか」
「動ける人間がいればな」
「誰も動けない場合は?」
「その話はもういい」
「よくありません」
リゼの声は変わらなかったが、引く様子もなかった。
「私は同行できません。ロアンが死ぬ可能性もなくせません。では、何をすればロアンが戻りますか」
「何をしても、必ず戻るようにはできない」
「では、命令が不十分です」
ロアンはリゼを見た。
「何がだ」
「待つよう命じられました。しかし、ロアンが戻らない場合、待つ行動に終わりがありません」
「十九日の朝になったら、ガルドからギルドへ連絡してもらえ」
「それはロアンが戻るための行動ではありません」
「分かってる」
「私は、ロアンに戻ってほしいです」
それだけは、命令にも役割にも置き換えられなかった。
ロアンはすぐに返事ができなかった。
「戻る」
確約ではなく、自分の意思として答えた。
リゼは淡く光る目でロアンを見ている。
「はい」
今度の返事は、先ほどまでより少し遅かった。
ロアンは棒剣を壁際へ立て掛け、胸当てを寝台の脇へ置いた。
「明日の朝も出る前に声を掛ける」
「私は眠りません。ロアンが起きれば分かります」
「そうだな」
窓の外が暗くなる。
宿舎の通路を歩く足音は次第に減り、食堂から聞こえていた食器の音も止んだ。開けた窓からは、水路の流れる音だけが入り続けている。
ロアンは寝台へ横になった。
机の前では、リゼが椅子へ座っている。両手を膝の上へ置き、背もたれには寄り掛からない。青い上衣は暗がりの中で色を失い、淡く光る瞳だけが、窓から入る明かりよりはっきりと見えた。
「視覚と、聴覚も落としていいぞ」
「何かあった場合、反応が遅れます」
「何もない」
「ロアンが夜中に起きる可能性があります」
「起きても困らない」
「分かりました」
リゼの瞳から光が少し弱まり、椅子へ座った輪郭だけが暗い部屋の中へ残った。
ロアンは天井を見た。
明日から二日、リゼはこの部屋へ残る。朝になれば食堂へ下り、外へ出るならガルドかマルタへ行き先を伝える。日が傾く前に戻り、身体やセルに異常があれば、動力商かギルドへ知らせてもらう。
必要なことは紙に書き、ガルドとマルタには一クレドずつ渡した。頼む内容と、そのために支払うものは決めてある。
帰ったあとには、エダへ確認する。
自分が死んだ場合、リゼが誰の所有になるのか。ここへ残る方法があるのか。誰かの判断だけで売却されないよう、あらかじめ決めておくことができるのか。
リゼは、自分が一人になったあとのことを考えていなかった。
ロアンが戻らなくなった場合に、どこへ行くのか、何をすればよいのかとは尋ねなかった。ロアンが戻らないという前提そのものを受け入れず、同行して危険を減らそうとした。
だから、その先はロアンが決めなければならない。
本人が望まなくても、自分がいなくなったあとに困らないよう、先に手を打っておかなければならなかった。
金は分かりやすかった。
品物には値段があり、仕事には報酬がある。誰かに手間を掛けさせるなら、それに合う金を払えばよい。相手が何を考えているか分からなくても、条件と金額があれば、どこまで頼ってよいのかを決められる。
もちろん、金を受け取って逃げる者も、約束を破る者もいる。それでも、利益になるから引き受け、損になるから断るという勘定が見える方がよかった。何を望んでいるのか分かれば、次に何をするかも考えられる。
人生の中で、ただ一人だけ、その勘定が通じなかった人間がいた。
目を閉じると、暗くなった視界の中に古い家の屋根が浮かんだ。
いまの宿舎でも、水路のあるエルデンでもない。板の隙間から落ちる雨が、床へ置いた器の底を繰り返し叩いていた。
小さな家だった。
寝台は一つしかなく、ロアンは壁際へ敷いた布の上で眠った。寒い夜には、オルガートが古い毛布を投げて寄越した。
最初からそこへ住んでいたわけではない。
それより前の記憶は、途切れた場面としてしか残っていなかった。濡れた服のまま人の多い通りを歩き、荷車の下へ潜り込んでは追い出された。店の裏へ捨てられた食べ物を探し、先にいた犬へ唸られたこともある。
誰かが自分を探していた記憶も、名前を呼ばれた記憶もなかった。ロアンという名だけは、いつからか自分で名乗っていたが、誰から与えられたものかは覚えていない。
オルガートに会った日のことも曖昧だった。
通りの端へ座っていたロアンの足元に、男の影が止まった。顔を上げると、腰へ剣を下げた大きな男が立っていた。
腹が減っているのか、家はあるのか、名前は何というのか。何から尋ねられたのかは、もう分からない。
ロアンは答えなかった。
知らない大人から何かを与えられれば、そのあとで代わりを求められる。荷を運ばされるかもしれない。盗みをさせられ、金を稼げなければ殴られるかもしれない。それまでに見た大人は、だいたい何かを求めていた。
オルガートはしばらく立っていたあと、固いパンと冷えた肉を買ってきた。
ロアンはすぐには手を出さなかった。男が離れてから食べようと思ったが、オルガートは少し離れた石へ座り、その場から動かなかった。
「毒なんか入ってない」
毒を疑っていたわけではない。
何を返せばよいのか分からなかった。
パンと肉の値段なら、それほど高くはない。荷物を一つ運べば足りるかもしれず、盗みをさせられるとしても、一度なら終わる。殴られるだけで済むのなら、それでも食べた方がよかった。
空腹に負けてパンを取ったが、食べ終えるまでオルガートは何も求めなかった。
そのあと、ついてくるかと尋ねられた。
どこへ行くのかと聞くと、寝るところがある、と答えた。
何をすればいい、とロアンは尋ねたはずだった。はっきりとは覚えていないが、オルガートが少し困った顔をしたことだけは残っている。
「別に、何もしなくていい」
その言葉を、ロアンは信じなかった。
食べ物にも寝床にも金が掛かり、服や薬も必要になる。子どもを連れて帰ることが、オルガートの利益になるとは思えなかった。利益にならないのなら、口にしない別の理由があるはずだった。
それでも家へついていった。
食事を与えられ、古い服と壁際の寝床を渡された。翌日になっても、その次の日になっても、何かを求められることはなかった。
ロアンは自分から水を汲み、床を掃き、道具を磨いた。何もしなくていいと言われても、何もしないままではいられなかった。受け取ったものには、返すものがなければならない。それが分からなければ、いつ何を求められるか予測できない。
オルガートは働くことを止めなかったが、それを代金として数えているようにも見えなかった。
服を用意し、食事を与え、熱を出せば仕事を休んで薬を買った。冬になると毛布が一枚増えた。ロアンがどれだけ働いても、受け取ったものとの勘定が減っているのかは分からなかった。
剣を教え始めたのは、それよりずっとあとだった。
剣士にするために拾ったのではなく、ロアンが覚えたがったから教えた。
稼げるようになれば、それまでに掛かった金を返させるのだと思っていた。オルガートが動けなくなれば、代わりに働かせるつもりなのかもしれない。それならば理解できた。
ところが、ロアンが稼いだ金を渡そうとすると、オルガートは必要な分だけを取り、残りを返した。
「自分で持ってろ」
何に使うのかと尋ねても、好きにしろとしか答えなかった。
なぜ自分を拾ったのか、何度か聞いたこともある。
そこにいたから。飯が余っていたから。一人で食うよりましだったから。雨が降りそうだったから。
答えは聞くたびに変わり、どれも理由にはなっていないように思えた。
本当の理由を隠しているのだと考えた。いつか役に立つことを期待し、大きくなれば使った金を返させる。そう考えていれば、あとから何かを求められても驚かずに済んだ。
けれど、オルガートが死ぬまで、その代わりを求められることはなかった。
ロアンが十二のころだった。
前の日まで普段と変わらなかったのに、朝になっても起きてこなかった。呼んでも返事はなく、身体へ触れると冷たかった。
そのあとに何をしたのかは、細かく覚えていない。近くに住む者を呼び、ギルドへ知らせると、やがて身体が運び出された。
家の中からも、オルガートのものが少しずつなくなった。剣や革具、仕事の札、古い上着が引き取られ、最後にはロアンの毛布と欠けた椀だけが残った。
金は多くなかった。
ロアンへ何かを返せと記した紙もなければ、誰かへ引き渡す約束もなかった。
助けられた理由を、最後まで聞くことはできなかった。
理由など、最初からなかったのかもしれない。
通りの端で腹を減らしていた子どもを、そのままにしておけなかった。それだけだったのかもしれない。
しかし、それだけで一人の人間を家へ連れ帰り、何年も食わせることができるのか、ロアンには分からなかった。
金なら分かった。
パンにも服にも薬にも値段があり、剣を教える時間や、オルガートが休んだ仕事にも価値がある。そのすべてを足せば、子どものロアンがした掃除や水汲みでは、到底返すことができない。
それなのに、オルガートが何を得たのかを探しても見つからなかった。感謝を求めていたようにも、親と呼ばせたかったようにも見えない。老後に世話をさせるつもりもなかった。
計算も打算もなかった。
そのことが、ロアンには最も信用できなかった。
金を求める者なら、払えばよい。働かせたい者なら、働けばよい。返させたいものがあるのなら、その分を返せば終わる。
何も求めない者に対しては、どうすれば返し終えられるのかが分からない。オルガートが死んだあとも、受け取ったものとの勘定は釣り合わなかった。
だから、自分には同じことはできないと思っていた。
困っている者がいれば、数日なら助けられる。食事を渡し、傷を手当てし、仕事を紹介することもできる。それ以上になるなら金を渡し、適切な誰かへ任せる。対価を決めて、そこで自分の責任を終わらせる。
都市を出れば、いつ死ぬか分からない。長く関わったあとで自分がいなくなれば、残された者が困る。最初から、もっと適切な誰かへ任せる方がよいと考えてきた。
リゼを買ったときも、本来ならそう考えるべきだった。
商会へ別の買い手を探すよう頼み、ギルドへ相談することもできた。機械人形を必要とする組織や、修理できる者へ金を払って預ける方が、自分で所有するより適切だったかもしれない。
しかし、分解されると聞いたとき、そんなことは考えなかった。
買えるかと尋ね、値段を聞いて金を払った。商会との売買は、それで終わった。
問題は、そのあとだった。
何をさせるのかと聞かれ、あとで決めると答えた。利益を得るつもりも、売り直して金を取り戻すつもりもなかった。
服を買い、棚を空け、セルを充填した。部品を探すための金を置き、留守のあいだに見てもらうため、ガルドとマルタにも金を渡した。
一つ一つの支払いには理由がある。
服には値段があり、充填には料金がある。工房へ預けた金には部品を探してもらうという対価があり、ガルドとマルタへ渡した金にも、留守中に気を掛けてもらうという役目がある。
それでも、そのすべてをする理由だけが、勘定の外に残った。
何のために、そこまで払うのか。
リゼから何を返してもらうつもりなのか。
自分でも分からなかった。
オルガートも、あの日は同じだったのだろうか。
何に使うのかも、どれほど金が掛かるのかも、どこまで責任を持てるのかも決めないまま、通りの端にいた子どもへ、ついてくるかと聞いたのだろうか。
ロアンは目を開けた。
暗い部屋の中では、リゼが椅子に座り、視覚と聴覚を落としている。棚の下段には二組の服があり、携行箱には黒化セルが収められていた。
明日から二日、リゼはここへ残る。
自分が戻らなかった場合のことは、まだ決まっていない。しかし、帰ったあとに何をするかは決めた。
リゼは、自分が一人になることを恐れて同行を求めたのではない。
自分の行き先を心配したのでもない。
ただ、ロアンが戻らなくなることを受け入れられず、その可能性を減らすためについてこようとした。
だからこそ、ロアンが先に考えなければならなかった。
リゼが考えようとしない、ロアンの死後のことを。
本人が望まなくても、残されたあとに誰かの判断で売られたり、再び分解されたりしないように、手を打たなければならない。
オルガートは、自分が死んだあとまで考えていたわけではなかった。少なくとも、ロアンへは何も残していなかった。
それでも、拾われなければよかったと思ったことはない。
オルガートが死んだあとの暮らしは楽ではなかった。一人で働き、食べ、誰も帰ってこない家で眠った。やがて、その家にいることに耐えられなくなり、外へ出た。
それでも、最初に手を伸ばされたことまで間違いだったとは思わなかった。
自分のことなら、そう思える。
しかし、自分が同じ側へ立つと、同じようには考えられなかった。
リゼを残して死ねば、困るのはリゼだった。そのための決まりを作り、金を置き、誰かへ頼んでも、まだ足りない。
だからといって、最初から買わない方がよかったとも思えなかった。
ロアンは息を吐いた。
オルガートの真似をしたつもりはない。自分には、あの男と同じことはできないと思っている。
ただ、分解されると聞いて、買えるかと尋ねた。そのあとで服を買い、棚を空け、留守中の決まりを紙へ書いた。
理由の分からない行動だけが、少しずつ増えていた。
再び目を閉じると、水路の音が遠くなった。
いつ眠ったのかは分からなかった。
次に目を開けたとき、窓の外は薄く明るくなっていた。
寝台から身体を起こすと、椅子に座っていたリゼの顔がこちらへ向き、淡い瞳の光が少し強くなった。
「おはようございます」
「ああ」
右肩には僅かな張りが残っているが、棒剣を扱えないほどではない。
ロアンは顔を洗い、胸当てを着けた。留め具を締めて棒剣を腰へ下げ、旅袋を肩へ掛ける。机の上に置いていた依頼書も、上着の内側へ入れた。
留守中の決まりを書いた紙は、そのまま机へ残した。下には、帰還後にエダへ確認することも書かれている。
リゼは椅子から立ち上がった。
「出発しますか」
「ああ」
「食堂まで行きます」
二人で階段を下りる。
食堂では、マルタが朝食の準備を始めていた。ガルドもすでに起きており、入口に近い卓で湯を飲んでいる。
ロアンが食事をしているあいだ、マルタはリゼへ今日の予定を尋ねた。
「朝はどうするんだい」
「食堂にいます」
「昼は?」
「決まっていません」
「なら、ここにいたければいればいい。手伝いたいことがあれば、そのとき言いな。外へ出るなら、先に私かガルドへ話すんだよ」
「はい」
ガルドも椀を卓へ置く。
「日が傾く前に戻る。異常があればギルドへ知らせる。分かってるな」
「はい」
「何もなければ、自分で何をするか考えろ」
リゼは少し黙った。
「決められたことを破らなければ、何をしてもよいのですか」
「宿舎の規則に反しないことならな」
「分かりました」
ロアンは会話へ口を挟まなかった。
必要な条件は、すでに伝えてある。それ以外の時間をどう使うのかまで決めれば、町を一人で歩かせた意味がなくなる。
食事を終え、ロアンは立ち上がった。
宿舎の外へ出ると、リゼも後ろからついてきた。
「ここまででいい」
入口の前で振り返る。
朝の通りには、まだ人が少なかった。水路の向こうでは荷車が一台動き始め、車輪の音が建物の間へ響いている。
リゼは戸口の内側に立った。
「七月十八日の夕方に戻る予定です」
「ああ」
「遅れた場合は、夜まで待ちます。十九日の朝になっても帰還が確認できない場合は、ガルドからギルドのエダへ連絡してもらいます」
「ああ」
リゼはそこで言葉を止めた。
ロアンが帰れない場合についても覚えているはずだったが、その先を口にすることはなかった。
「ロアン」
「何だ」
「私は、やはり同行できませんか」
昨夜と同じ問いだった。
「駄目だ」
「命令は変わりませんか」
「ああ」
リゼはしばらくロアンを見ていた。
命令である以上、従わなければならない。ロアンの意に反する行動を取ることも、所有者の許可なく仕事へ同行することもできない。
それを理解していないわけではなかった。
「分かりました」
返事は、いつもと同じだった。
ロアンは通りへ出た。
水路沿いの道へ向かい、二歩進む。
そのとき、上着の袖が後ろへ引かれた。
強い力ではなかった。
振り返ると、リゼが戸口から一歩だけ外へ出ていた。伸ばした右手で、ロアンの袖口を掴んでいる。
淡く光る目は、掴んだ手ではなくロアンの顔へ向けられていた。
リゼ自身も、自分が何をしたのか分かっていないようだった。
「リゼ」
名前を呼ぶと、指がわずかに緩んだ。
「すみません」
手を離そうとする。
しかし、完全には離れなかった。
布の端へ指先が残っている。
「命令には従います」
「ああ」
「宿舎に残ります」
「ああ」
「ロアンの意に反する行動も取りません」
分かっていることを、一つずつ確かめるように言った。
それでも、指は袖から離れなかった。
「ですが、ついていきたいです」
声の調子は変わらなかった。
命令へ反発しているわけではない。同行することを認めさせるために、理屈を重ねているわけでもなかった。
ただ、自分が望んでいることを伝えていた。
人を守るために作られた機械人形だった。
砂海では商会の命令に従って、ロアンとサンドワームのあいだへ入った。
灰境では指示を待たずに荷台を下り、戦線の穴を埋めた。
今は命令に逆らい、守れない状況を防ごうとしている。
これまでロアンがしてきたことが、その判断へどれほど加わっているのか、リゼ自身にも分からなかった。
仮脚を作ったこと。
処分される前に買ったこと。
部屋へ入れ、服を買い、棚を空けたこと。
一つずつは、命令でも契約でもなかった。
それでも積み重なり、いま袖を掴んでいる。
「連れていけない」
ロアンは言った。
リゼの指が、わずかに強く布を掴んだ。
「はい」
返事と行動が一致していなかった。
「命令だ。ここに残れ」
淡く光る目が、一度だけ下へ向いた。
それから指が開く。
上着の袖が解放され、布に残っていた皺だけがそのままになった。
リゼは戸口の内側へ戻った。
「従います」
「ああ」
ロアンは袖口を見た。
リゼが掴んだ場所には、指の形に布が折れている。
「戻る」
ロアンは言った。
必ずとは言えなかった。
それでも、戻るつもりで行くことだけは嘘ではない。
「行ってくる」
リゼは短く間を置いた。
「はい。行ってらっしゃい」
ロアンは歩き出した。
今度は袖を掴まれなかった。
水路沿いの道を進み、最初の角へ向かう。
振り返らなかった。
それでも、背後の戸口にリゼが立っていることは分かっていた。




