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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
3. 帰る場所
33/65

3-11. 仕事の準備

継暦六百二十七年 七月十六日


翌朝、食堂へ下りると、リゼは昨日と同じ席へ座った。ロアンは向かいへ腰を下ろした。


マルタが朝食を運んできた。


ロアンの前には固いパンと豆の煮込みが置かれ、リゼの前には何も置かれない。


「今日は出かけるのかい」


「ああ。動力商へ行く」


ロアンが答えると、マルタの視線がリゼの腰へ向いた。


「昨日話してたやつかい」


「いま使ってる方を充填に出す。明日は仕事でいないから、その前に済ませておきたい」


「戻るのはいつだい」


「明後日の夕方だ」


「なら、あとでガルドにも言っておきな。あの人、聞いてないことまで察してくれるような性格じゃないよ」


「そのつもりだ」


ロアンはパンを煮込みへ浸した。


向かいにいるリゼは、何も置かれていない卓へ両手を揃えている。窓の外では、荷車が水路沿いを通り過ぎていた。


明日の朝には、ロアンも同じ方角へ出る。


食事を終え、椀を卓の端へ寄せた。


「行くぞ」


「はい」


リゼが椅子から立ち上がる。


角材の先が床へ触れ、短い音を立てた。


食堂を出る前に、ロアンはマルタへ顔を向けた。


「昼過ぎには戻る」


「分かったよ」


「戻ったら、明日のことを話す」


「ああ。忘れるんじゃないよ」


忘れるつもりはなかった。


それでもマルタは、ロアンが言わなければ、そのまま明日の朝に出ていくと考えているらしい。


否定できなかった。


好きなタイミングで依頼を請け負い、帰る日を誰かに伝えておくといった習慣がロアンにはなかった。しかし今後はリゼを残すことになる。その間に何か問題が起きたとき、ガルドとマルタであれば最低限必要なことをしてくれるだろう。


ただ、してくれるはずだというだけで任せるべきではない。


何を頼むのか。


何か起きたとき、どこまで動いてもらうのか。


そのために増える手間を、誰が負うのか。


先に決められるものは、決めておいた方がよかった。


宿舎を出ると、朝の空気にはまだ冷たさが残っていた。


水路の表面を風が渡り、建物の影を細かく揺らしている。通りを行く者は昨日の昼より少ないが、店の戸は開き始めていた。食料店の前では木箱が積まれ、道具屋では店主が板戸の内側へ品物を並べている。


動力商は、宿舎から中央通りを越えた先にあった。


ベルグラートで入った店よりは近いが、歩いてすぐという距離でもない。南水路に沿って進み、二つ目の大きな橋を渡る。そこから工房の集まる通りへ入り、さらに北へ向かう必要があった。


リゼはロアンの半歩後ろを歩いた。


昨日、一人で町を歩いたためか、交差路へ来るたびに周囲を見る時間が短くなっている。宿舎へ戻る道だけでなく、中央通りやギルドへ向かう位置も把握しているらしい。


「ここは、昨日通りました」


「一人でか」


「はい。あちらへ進むと、古い道具を売る店があります」


リゼが水路の先を示した。


昨日聞いた露店や孤児院がある方角だった。


「道は覚えたんだな」


「はい」


「動力商までの道も覚えておけ。俺がいないときに行けとは言わないが、何かあった場合に場所を知っている方がいい」


「分かりました」


橋を渡る。


下を流れる水には、空の明るさがそのまま落ちていた。欄干の一部は新しい木材へ替えられ、古い部分との境目だけ色が違っている。


工房通りへ入ると、石を叩く音と、金属を削る音が建物の間から聞こえてきた。


通りに面した店の多くは、前に小さな売り場を持ち、奥を作業場にしている。戸口には修理を待つ道具や、部品を外された機械が並んでいた。動かなくなった給水器。柄の折れた切断具。車輪だけを外された小さな運搬台。用途の分からない金属製の箱。


動力商の看板は、その中ほどにあった。


板へ描かれているのは、十二型セルの断面を簡略化した印だった。その下に、充填と検査を示す文字がある。


隣には、別の入口があった。


一方は動力商。


もう一方は遺物工房。


入口は分かれていたが、建物の奥はつながっているらしい。動力商の内側から、白い外殻を持つ機械の一部が見え、その周囲を工房の職人たちが行き来していた。


開いたままの戸を潜ると、乾いた金属と砂の匂いがした。


受付の奥には格子があり、その向こうに充填設備が並んでいる。壁際には、形の異なるセルを収めた箱が積まれ、札には型と状態が記されていた。


店員が帳面から顔を上げた。


五十を少し過ぎたくらいの男だった。片目へ拡大鏡を留める細い金具を掛け、袖を肘まで捲っている。


「充填か」


「ああ。十二型を一本。検査も頼みたい」


ロアンは中古の携行箱を受付へ置いた。


蓋を開けると、内側に挟んでいた検査札が見える。ベルグラートの動力商でもらったものだった。


店員は札を取り、書かれている内容を順に読んだ。


「灰等一本、黒化一本。灰等は実効四十一。黒化は三割前後か」


「ああ。いまは灰等を使ってる」


店員は札から顔を上げた。


「私はニールだ。ここの充填と検査を見てる。預かり札にも名前を書いておく」


「ロアン・ハルヴァ」


ロアンが答える。


ニールは帳面へ名前を書き、今度はリゼを見る。


「人形の名前もいる」


「リゼです」


「リゼ、と」


ニールはその名も書き加えたあと、格子の外へ出てきた。


リゼの前でしゃがみ、左腰にある挿入口を外から確かめる。触れる前に一度顔を上げた。


「蓋を開けるぞ」


「はい」


リゼが上衣の裾を少し持ち上げる。


ニールは外蓋の留め具を外した。内側の表示を見て、残量を確かめる。


「動作は安定してるな。出力の落ちも、いまのところは大きくない」


「あとどれくらい動ける」


「この表示だけじゃ分からん。灰等でも、使い方と人形の状態で変わる。歩かせるだけなら数日は持つだろうが、明日から留守にするなら、いま満たしておく判断でいい」


ニールは検査札へ目を戻した。


「抜いてから黒化へ替える。保持電源は?」


「およそ十分です」


リゼが答えた。


「十分あれば足りる。椅子へ座れ」


リゼは壁際に置かれた背の低い椅子へ腰を下ろした。右脚の角材だけが前へ伸びる。


ニールは携行箱から黒化セルを取り出した。


表面は焼けたような暗い色へ変わっている。端の一部には細かな膨らみがあり、金属面の光沢も均一ではなかった。


「こいつは、次に充填したら終わる可能性があるな」


「ベルグラートでも言われた」


「それでも使うか」


「予備がなければ困る」


「なら、今日は入れ替えるだけにする。灰等が戻ってから、黒化を検査へ回せ」


ロアンは頷いた。


ニールが灰等セルの固定を外す。


小さな音がして、リゼの目の光がわずかに弱まった。


灰等セルが引き抜かれる。


ニールはすぐに黒化セルを差し込み、奥まで押して留め具を戻した。


数秒のあと、リゼの目が元の明るさへ戻る。


「動作確認を」


リゼは椅子から立ち上がり、左腕と右腕を順に動かした。首を左右へ向け、右肘を曲げる。店の中を数歩進み、角材の先で向きを変えて戻ってきた。


「問題ありません」


「出力に変化は」


「歩行時の補正が、灰等セルよりわずかに遅れます。通常動作に支障はありません」


ニールは帳面へ記した。


「黒化ならそんなもんだ。無理に力を出すな。転びそうになっても、身体を支えるために急な出力を掛けると、そのまま落ちることがある」


ロアンはリゼの角材を見た。


「今日は宿舎へ戻るだけだ」


「なら問題ない。灰等は検査してから低速充填へ回す。早ければ夕方。状態次第では明日の朝になる」


「明日の朝には仕事へ出る」


「何刻だ」


「日の出から少しあとだ」


ニールは店の奥を見た。


充填槽の前では、別の職人が二本のセルを砂へ埋めている。空いている槽も一つあった。


「今日の夕方までには終わらせる。日が落ちる前に来い」


「料金は」


「検査と低速充填で七クレド。内部に異常が見つかった場合は、充填を止めて検査だけの料金をもらう」


ロアンは七クレドを数え、受付へ置いた。


ニールは硬貨を確かめ、引換札を差し出す。


金を渡せば、何を頼んだのかが残る。


いつまでに仕上げるのか。


できなかった場合に、どこまで料金を取るのか。


預けたものを、誰が返すのか。


頼む側と引き受ける側で、それぞれが負うものが決まる。


口約束でも仕事は成り立つ。


それでも、金と札があれば、どこまでが相手の役目なのかを疑わずに済んだ。


ロアンは引換札を上着の内側へ入れた。


ニールは灰等セルを布で包み、格子の向こうへ運んでいく。


ロアンはその後ろ姿を見送ったあと、隣の遺物工房へ続く開口部へ目を向けた。


「身体も見てもらえるのか」


ニールが振り返った。


「どこだ」


「右肘と右脚。応急処置のまま使ってる」


ニールはリゼの右側を見る。


「人形を扱える技師はいる。ただし、直せるとは限らんぞ」


「見るだけでいい」


ニールは工房の方へ顔を向けた。


「ネラ。少し来てくれ」


奥から、女の声が返った。


しばらくして、厚い革の前掛けをつけた女が出てきた。髪は顎のあたりで短く切られ、両手には白い粉が付着している。指先だけが、金属を触ったように黒く汚れていた。


女はリゼの右脚を見たあと、ロアンへ顔を向けた。


「これを見ろって?」


「ああ」


「私はネラ。この工房で遺物の外殻と駆動部を見てる」


そう言ってから、リゼへ視線を移す。


「あなたの名前は?」


「リゼです」


「分かった。リゼ、少し触るよ」


「はい」


ネラは角材と残った脚部の境目を見た。


「誰が付けた」


「俺だ」


女はもう一度、固定された部分を確かめる。


「よく歩けるね」


褒めているというより、意外なものを見た声だった。


「座って」


リゼが椅子へ戻る。


ネラは巻きスカートの右側を開き、固定している布を外から確かめた。指で押し、角材へ力を掛け、残ったフレームとのずれを見る。


「布はまだ持つ。でも、力がいつも同じ場所へ掛かってる。歩き方が安定してるから、すぐ折れるような状態ではないけど、このまま何月も使うものじゃない」


「脚を作れるか」


「部品があればね」


「いくら掛かる」


ネラはリゼの膝上から残った断端までを見た。


「合う関節と駆動部。外殻は形を合わせて作れるけど、中のフレームまで同じ型を探すとなると、金だけの問題じゃない。遺物の在庫次第だよ」


「この工房にはないのか」


「似た寸法のものはある。でも、似てるだけで入るとは限らない。無理につないだら、残ってる方まで壊す」


ネラは立ち上がり、今度はリゼの右肘を見た。


「袖を上げて」


リゼが左手で袖を捲る。


裂けた人工皮膚の下から、白い外殻が見えた。表面には亀裂があり、一部は欠けている。外殻を覆う保護布の端が、わずかにずれていた。


ネラは布をほどかず、指先で位置だけを直す。


「外殻は割れてるけど、動作部までは届いてない。肘も曲がる。人工皮膚は、材料があれば塞げる」


「直す必要はありますか」


リゼが尋ねた。


ネラは少し考えた。


「動かすだけなら、いま直さなくてもいい。けど、砂や水が入らないようにはしておいた方がいい。服で隠れていても、擦れ続ければ布が切れる」


「今日できるか」


ロアンが聞く。


「保護布を巻き直すくらいなら。人工皮膚の補修は材料を選ぶ。色も厚さも違うものを貼れば、そこだけ動きが悪くなることがある」


「今日は布だけ頼む」


ネラは頷いた。


作業台から薄い布と細い留め具を持ってくる。古い布を外し、外殻の欠けた部分へ触れないよう、新しい布を重ねていった。


リゼは動かず、ネラの手元を見ていた。


「痛みは?」


「ありません」


「圧力は分かる?」


「はい」


「強すぎたら言って」


ネラは布を締め、肘を何度か曲げさせた。


袖を戻しても引っ掛からないことを確かめる。


「これでしばらくは持つ。ただ、濡れたら外して乾かして。やり方は見た?」


最後の言葉はロアンへ向けられていた。


「ああ」


「毎日巻き直す必要はない。緩んだときと、汚れたときだけでいい。外殻の割れが広がったら持ってきな」


ロアンは追加の料金を尋ね、言われた分を払った。


ネラは硬貨を前掛けの袋へ入れ、もう一度リゼの右脚を見る。


「脚は、すぐにどうにかできるとは言えない。型の印が残っていれば、探しやすくなるんだけどね」


「型は分かりません」


リゼが答えた。


「記録もない?」


「遺跡で停止していた以前の記録はありません」


ネラはそれ以上聞かなかった。


工房の棚へ目を向ける。そこには、人の腕に似た白い部品や、関節だけを外した金属製の部材が並んでいた。どれも埃を被り、札には寸法と回収された場所だけが記されている。


「似たものが入ったら、宿舎かギルドへ知らせてもらえるか」


ロアンが言う。


「預かり金を置いていくなら、探す品の記録を作る。知らせるだけなら、名前と居場所を残して」


「預かり金はいくらだ」


ネラが金額を答える。


ロアンは財布から硬貨を取り出した。


ネラは少しだけ眉を上げた。


「見つかる保証はないよ」


「分かってる」


「似たものが入ったときに照合するだけだ。合わなければ、そのままになる」


「ああ」


「探すのをやめるなら、預かり金は返す」


「それでいい」


ネラは硬貨を受け取り、記録用の紙を出した。


金を置けば、依頼は工房の帳面へ残る。


ネラが忘れても、記録は残る。


誰か別の技師が棚を見ても、探すべき寸法が分かる。


見つからない可能性は変わらなかった。


それでも、ただ覚えておいてくれと頼むよりは確かだった。


ロアンは名前と宿舎の場所を書いた。


ネラは紙を読み、棚の端へ留める。


「ロアン・ハルヴァ。リゼ。右脚膝下、関節と駆動部」


一つずつ読み上げ、紙を留め具で固定する。


「似たものが入ったら知らせるよ」


「ああ」


店を出たころには、朝の冷たさは消えていた。


工房通りを行き交う者も増えている。荷を背負った男が二人の横を通り過ぎ、開け放された工房の戸から、削られた白い粉が風に混じって流れてきた。


ロアンは引換札を上着の内側へ入れ直した。


「動きに問題はないか」


「ありません」


「黒化へ替えたあとだ。宿舎へ戻るまで、変な感じがしたらすぐ言え」


「変な感じとは、何ですか」


「いつもと違うなら何でもいい」


「歩行時の補正は、すでに少し遅れています」


「それ以外にあれば言え」


「分かりました」


二人は来た道を戻った。


橋へ差しかかったところで、リゼが足を止めた。


ロアンも数歩先で止まり、振り返る。


「どうした」


「遺物工房へ、私の脚に合う部品が入ることはあるのでしょうか」


「分からない」


「なければ、角材を使い続けますか」


「ああ。使えるあいだはな」


「使えなくなった場合は?」


ロアンは橋の欄干へ目を向けた。


流れの中で、光が細かく崩れている。


「別の角材を付けるか、ほかの方法を考える」


「合う部品を見つけるのは難しいと言っていました」


「ああ」


「それでも探すのですか」


ロアンはリゼを見た。


「見つかるかもしれないだろ」


「見つからない可能性もあります」


「それは、探さない理由にはならない」


リゼはしばらくロアンを見ていた。


淡く青い瞳に、橋の上の光が重なっている。


「分かりました」


二人は再び歩き始めた。


宿舎へ戻ると、ガルドは裏口のそばで戸板を削っていた。昨日動かしていた木箱は壁際へ積み直され、空いた場所に古い扉が横たえられている。


ロアンが声を掛けると、ガルドは手を止めた。


「明日の朝から仕事へ出る」


「いつまでだ」


「明後日の夕方には戻る予定だ。水門外の補修警護だから、大きく遅れることはないと思う」


ガルドはリゼを見る。


「こっちは置いていくのか」


「ああ」


「部屋にいるなら、別に構わん」


「食堂や、少しくらいなら町へ出るかもしれない。出るときは、ガルドかマルタへ言わせる」


「俺に許可を取らせるのか」


「許可じゃない。どこへ行ったか分かるようにするだけだ」


ガルドは削りかけの戸板へ視線を戻した。


「門限を決めておく必要はあるか?」


ロアンは少し考えた。


「日が傾く前には宿舎へ戻れ。暗くなっても帰っていなければ、ギルドへ知らせてくれ」


「分かった」


「身体かセルに異常が出た場合も頼む。動けるなら動力商へ。動けないならギルドへ連絡して、誰か呼んでもらいたい」


「場所は知ってるのか」


「今日行ってきた。店の名前と道順は、あとで紙に書く」


ガルドはようやく戸板から顔を上げた。


「二日だろ」


「ああ」


「ずいぶん細かいな」


「何かあったときに困る」


「何かあれば、そのとき考える」


「俺がいないだろ」


「俺はいる。ロアン、そんなにおまえは神経質なやつだったか」


ロアンは口を閉じた。


ガルドはしばらくロアンを見ていたが、やがて短く息を吐く。


「食堂にいれば目に入る。外へ出るときに言わせる。戻らなければ探す。動かなくなったら、ギルドへ知らせる。それでいいな」


「ああ」


ロアンは上着の内側へ手を入れ、一クレドを取り出した。


削りかけの戸板の脇へ置く。


ガルドの視線が硬貨へ下がった。


「何だ」


「二日分だ」


「何の」


「いま頼んだことの分だ。何もなければ、見ておくだけでいい。何かあれば、ギルドか動力商まで動いてもらうことになる」


「たった二日だぞ」


「ああ」


「宿舎にいる者を見ておくくらいで金は取らん」


「何も起きないとは限らない」


「起きてから払えばいい」


「起きたあとで、俺が払えるとは限らない」


ガルドが顔を上げた。


ロアンは硬貨から手を離していた。


頼むだけなら、ガルドは引き受けるだろう。


金がなくても、異常があればギルドへ行く。


戻らなければ探す。


そうする人間だということは分かっていた。


だが、それを善意のまま受け取る理由はなかった。


金を渡せば、頼んだことになる。


ガルドが引き受け、ロアンがその手間を買う。


どちらが何を負うのかが分かる。


「預かっておけ」


ロアンが言う。


ガルドは硬貨とロアンを交互に見た。


「面倒なやつだな」


ガルドは鼻から息を吐いた。


硬貨を指で取り、上着のポケットへ入れる。


「分かった。何もなければ、戻ったときに返す」


「返さなくていい」


「これは余分な金だ」


ガルドはそれだけ言うと、戸板を削る作業へ戻った。


リゼがその横で尋ねる。


「ガルドへ伝えたあと、外へ出ればよいのですか」


「ガルドかマルタだ。必ずどっちかはいると思うが、二人ともいなければ、その日は出るな」


「分かりました」


「行き先も言え」


「はい」


ガルドは戸板を削りながら、二人の会話を聞いていた。


「それも紙に書いとけ」


「そうする」


食堂では、マルタが昼の支度を始めていた。


大きな鍋の前で豆を選り分け、欠けたものや石を小さな器へ移している。ロアンが明日の仕事について話すと、マルタは手を動かしたまま聞いていた。


「二日ね」


「ああ。明日の朝に出て、明後日の夕方には戻る」


「この子は食事をしないし、寝床を用意する必要もない。食堂に座ってるくらいなら、何も困りゃしないよ。暇そうだったら、何か手伝わせてもいいかい」


ロアンはマルタの手元を見る。


「本人が何かしたいと言ったら、危なくない範囲で頼んでもいい。ただし、重いものは持たせるな。水場へ長く立たせるのも駄目だ。床が濡れてると角材が滑る」


「はいはい」


「外へ出るときは――」


「ガルドから聞くよ」


マルタは手を止め、ロアンを見た。


「二日だろう。あんたが半年も帰ってこないみたいな顔をするんじゃないよ」


「そんな顔はしてない」


「してるよ」


ロアンは反論しようとしたが、何を言っても続けられそうだったため、やめた。


マルタはリゼへ向き直る。


「朝はいつもどおり食堂へおいで。あんたは食べないけど、部屋へ一人でいるより、何かあれば分かりやすい。昼も夜も、ここにいたければいればいい」


「はい」


「外へ出るなら、先に私かガルドへ言う。行く場所と、戻る頃合もね」


「分かりました」


「分からないことがあれば聞く。知らない人についていかない。暗くなるまで外へいない」


「はい」


マルタはロアンを見た。


「これでいいかい」


「ああ」


ロアンは財布から一クレドを取り出し、卓の端へ置いた。


マルタの手が止まった。


「何だい、これは」


「留守のあいだの分だ」


「何の分さ」


「何かあったら、頼ることになる」


マルタは硬貨を指先で押し戻した。


「この子を食堂に座らせておくくらいで、金なんか取れないよ」


ロアンは受け取らなかった。


「外へ探しに行かせるかもしれない。ギルドへ走ってもらうこともある」


「そんなことがあれば、金なんかなくてもするよ」


「それは分かってる」


「分かってて出すのかい」


「ああ」


マルタはロアンを見た。


その視線は、ガルドよりも長く留まった。


「頼むって言えば済むことまで、あんたは金にするね」


「頼んだだけじゃ、どこまで頼んだのか分からない」


「私は分かるよ」


「俺が分からない」


マルタの表情が、わずかに変わった。


ロアンは卓の硬貨を見る。


金額があれば、手間の大きさを決められる。


支払った側は頼むことができる。


受け取った側には、引き受けたことが残る。


後になって、どこまでしてもらってよかったのかを考えずに済む。


善意でしてもらったことは、その外側が分からなかった。


どこまで返せばいいのか。


何を返せば同じになるのか。


そもそも返すことを求められているのか。


金なら、そういうことを考えずに済んだ。


マルタはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


硬貨を押し戻していた指を離す。


「分かったよ。何かあって、外へ探しに行くことになったときの分として預かっておく」


「ああ」


「何もなければ返すからね」


「返さなくていい」


「それは私が決めるよ」


ガルドと同じことを言われた。


ロアンはそれ以上、口を挟まなかった。


マルタは一クレドを前掛けのポケットへ入れ、リゼへ向き直る。


「だからって、わざと面倒を起こすんじゃないよ」


「わざと起こすことはありません」


「分かってるよ」


マルタは笑った。


「なら、あんたは自分の仕事の心配をしな」


ロアンは返事をせず、食堂を出た。


階段を上りながら、後ろから聞こえる仮脚の音を数えた。

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