3-10. リゼとティナ
継暦六百二十七年 七月十五日
宿舎へ入ると、箒の音が止まった。
一階の通路の奥に、マルタが立っていた。朝の食堂にいたときとは違い、袖を肘まで捲り、長い柄の箒を両手で持っている。壁際には、住人たちの履物が運び込んだ砂や細かな木屑が細長く寄せられ、掃き終えたところだけ床板の色がわずかに明るくなっていた。
マルタは最初にリゼを見た。それから、後ろにいるティナへ視線を移す。腰の短剣や革具を一通り確かめたあと、見覚えのある顔かを考えるように目を細めた。
「ずいぶん早く客を連れてきたね」
「客ですか」
リゼが尋ねると、マルタは箒の柄へ片手を重ねた。
「あんたについてきたんだろう」
振り返ると、ティナは戸口の内側に立ち、宿舎の通路と食堂の入口を見回していた。見慣れない場所を確かめているだけで、勝手に奥へ入ろうとはしていない。
「宿舎を見たいと言われました」
「なら、あんたの客じゃないか」
マルタは、それを説明する必要もないことのように言った。
ティナが一歩前へ出る。
「ティナよ。ロアンとは、エルデンへ戻る商隊で一緒だったの」
「そうかい。私はマルタ。ここのハウスキーパーみたいなもんさ」
マルタの視線が、リゼの抱えている包みへ下がった。
「残りの服も受け取れたんだね」
「はい」
「そっちも、あとで見せておくれ」
そう言ってから、マルタはリゼへ顔を戻した。
「部屋へ入れるのかい」
「ロアンは構わないと言いました。ただ、ガルドに一応確認するよう言われました」
「それなら先に聞いておいで。裏の物置にいるはずだよ」
リゼが通路の奥へ向こうとすると、ティナも自然に続こうとした。マルタが箒の柄を横へ伸ばし、その前を軽く塞ぐ。
「あんたはここで待ちな」
「私も行ったら駄目?」
「許可をもらう前から、知らない建物の奥まで勝手に歩くんじゃないよ」
ティナは少し目を丸くしたものの、反発はしなかった。伸ばされた箒から一歩離れ、壁際へ寄る。
「思ったより厳しいのね」
「一人で住んでる家じゃないからね」
マルタはそれだけ言うと、再び箒を動かし始めた。
リゼは一人で通路を進み、裏口近くの物置へ向かった。開け放された扉の前では、ガルドが積まれた木箱の一つを動かしていた。声を掛けると、箱から手を離して振り返る。
「どうした」
「ティナを二〇三号室へ案内してもよいでしょうか」
「ティナ?」
「ロアンと同じ商隊にいた護衛です。ロアンは、部屋へ来てもらって構わないと言いました。ただ、ガルドに確認するよう言われました」
ガルドは物置の中へ一度目を向け、言われた内容を確かめるように考えた。外から入る者についての規則を、順に思い出しているらしい。
「騒がない。廊下を塞がない。ほかの部屋へ勝手に入らない。それを守るなら構わん」
「分かりました」
「何か壊したら、二〇三号室の者が弁償する」
「ティナへ伝えます」
ガルドは頷きもせず、再び木箱へ手を掛けた。許可に必要な話は終わったらしい。
リゼが戻ると、ティナは通路の壁際に立ち、マルタが掃除をする様子を見ていた。リゼの姿に気づくと、すぐに顔を向ける。
「どうだった?」
「騒がないこと。廊下を塞がないこと。ほかの部屋へ入らないこと。何か壊した場合は、二〇三号室の者が弁償すること。それを守れば構わないと言われました」
「ちゃんと許可が出たのね」
「はい」
マルタが箒を止めずに口を挟んだ。
「壊すような物は、ロアンの部屋にはほとんどないけどね」
「本当に、そんなに何もないの?」
「見れば分かるよ」
ティナは楽しそうに笑った。
リゼは階段へ向かう前に、食堂の入口を示した。朝には住人たちで埋まっていた長机が、いまはすべて空いている。椅子は机の下へ揃えられ、開けた窓から入る風が、拭かれた床と濡れた布の匂いを運んでいた。
「ここが食堂です」
ティナは入口から中を覗き、並んだ机を見回した。
「思ったより広いのね。どんな人がいるの?」
リゼは、朝に卓を囲んでいた者たちを思い出した。
「ロアンと、アルドと、カイルがいました。ほかにも複数の者がいました」
「話した?」
「人形なのかとか、服について話しました」
「それだけ?」
リゼは少し考えた。人形であることを珍しがった者、衣服が変わったことへ気づいた者、何も言わずに見ていた者。それらの中から、ティナへ伝える必要がありそうなものを探す。
「そういえば、カイルはティナと似ています」
ティナは意外そうに眉を上げた。
「なにそれ、気になるんだけど」
「今はいません」
「その言い方だと、余計に気になるわね」
ティナは食堂の中をもう一度見たが、誰の姿もなかった。
リゼはマルタへ向き直る。
「ダーレスという者もいます」
箒を動かしていたマルタの手が、わずかに止まった。
「昨日、私を壊れた道具と呼びました」
ティナの表情から笑みが消えた。
「誰、それ」
マルタが短く息を吐き、箒の先を壁際へ寄せる。
「口の悪い男だよ」
ティナは食堂ではなく、リゼの顔を見た。
「私は損傷しています。壊れた道具という表現は、間違いではありません」
「そうじゃないでしょう」
ティナの声は少し強くなったが、リゼへ腹を立てているわけではないようだった。
マルタは二人を見比べ、わずかに口元を緩める。
「ロアンも、だいたい今のあんたと同じ顔をしてたよ」
「どのような顔ですか」
「腹を立ててるのに、リゼへは怒れないって顔さ」
リゼには、その違いが分からなかった。
ダーレスの言葉は、自分の状態を表している。ロアンがなぜ反応したのかも、ティナがなぜ笑うのをやめたのかも、まだ理解できない。
ティナはしばらくリゼを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「部屋、見せて」
「はい」
二人は階段を上った。
リゼが先を歩き、ティナは一段ほど間を空けて続いた。急かすことも、過度に歩調を落とすこともなく、同じ距離を保っている。
二〇三号室へ着くと、リゼは扉を開けた。
ティナは戸口で立ち止まり、室内を見回した。
寝台が一つ。机と椅子が一脚。壁際に棒剣。中古の携行箱と、三段の棚。棚の下段には、暗い茶色の肩掛けが畳まれている。
「本当に物が少ないのね」
「何もないわけではありません」
「そうね。必要なものだけはある」
ティナは部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。
リゼは服の包みを机へ置いた。紐を解き、上衣と巻きスカート、下穿きを取り出して畳み直す。それを棚の下段へ重ねると、肩掛けだけだった場所が半分ほど埋まった。
ティナはその様子を、机の脇から黙って見ていた。
「そこが、リゼの場所?」
「はい。ロアンが空けました」
「服を置くために?」
「ほかに置く場所がないと言われました」
「じゃあ、そこはリゼの場所ね」
ティナは穏やかに言った。
服を収め終えると、リゼは椅子を示した。
「座ってください」
「リゼは?」
「私は立ちます」
ティナは椅子へ向かわず、寝台を見た。
「だったら、ここでいいんじゃない?」
「ロアンの寝台です」
「寝るわけじゃないわよ。少し座るだけ」
ティナは先に寝台の端へ腰を下ろした。柔らかな寝台が、わずかに沈む。
「ほら。怒られたら、私が勝手に座ったって言えばいいから」
「ロアンは、怒らないと思います」
「なら問題ないでしょう。リゼも座りなよ。ずっと立って見下ろされてたら、話しづらいわ」
ティナが隣を軽く叩いた。
リゼは寝台を見た。他人を座らせてはならないとは言われておらず、ガルドから示された規則にも含まれていない。
少し間を置いて、ティナの隣へ腰を下ろした。二人分の重さで寝台がさらに沈む。リゼは右脚を前へ出し、ティナと肩が触れない程度の間を空けた。
窓の外では、水路の流れに、荷車の車輪が石を踏む音が重なっていた。
ティナは両手を寝台へつき、部屋の中をもう一度見た。
「ベルグラートで、リゼが言ってたこと、覚えてる?」
「何をですか」
「左腕も右腕も左脚も、分解して売ればロアンの損失を減らせるって」
リゼは、エルデンへ向かう前のやり取りを思い出した。商隊への同行が決まったあと、護衛たちの前で、自分を分解した場合の価値について説明している。
「覚えています」
「本気だったの?」
「はい。いまも、売却すれば、今後の費用がかかりません。私を買うために使ったお金も一部取り戻せるかもしれません」
ティナはすぐに次を言わなかった。窓の外へ一度目を向け、それからリゼへ顔を戻す。
「いまも、ロアンにそうした方がいいって言える?」
「はい」と答えるため、リゼは口を開いた。
しかし、言葉はすぐには出なかった。
売却によって得られる金額。今後必要になるセルの充填費用。損傷した右脚や右腕の修理。衣服。宿舎で使う水や場所。
金銭だけを考えるなら、以前と結論は変わらない。
それでも、いまロアンへ同じ提案をした場合のことを考えると、前と同じ形にはならなかった。
「分かりません」
ティナの眉が、わずかに上がった。
「前は、迷わなかったでしょう?」
「はい」
「何が変わったの?」
リゼは答えを探した。
「ロアンが、私に何をさせるために買ったのか、まだ分かりません」
「それは、前から同じでしょう」
「はい」
ティナは身体を少しリゼの方へ向けた。
「じゃあ、最初から聞いていい? ロアンとは、どこで会ったの?」
「ナディルです」
「ナディルにいたの?」
「はい。私は遺跡で停止していたところを回収され、停止したまま商会の所有になったようです。ナディルで起動されたあと、およそ三カ月、荷運びをしていました。ベルグラートへ向かう商隊へ護衛として随行することになり、その中にロアンがいました」
街灯、浄水設備、発電のための機械、地面を走る機械、自律的に動く機械。さまざまなものが遺跡から回収されていることを、ティナも知っていたはずだった。
それでも、回収された当人の口から話を聞くことには、別の重さがあるらしい。ティナはすぐには質問を重ねず、リゼの横顔を見ていた。
「それより前の記録は? 昔のことを知っていたりするの?」
「ありません」
「そっか……でも、護衛だったのね」
「はい。私の型は防護型と言われています」
リゼは右膝へ手を添え、外殻の残る部分をティナへ見せた。
「外殻があるので、通常より耐久性があります。壊れましたが」
ティナの目が、巻きスカートの下へ向いた。
「何があったの?」
リゼは砂海で起きたことを思い出した。
荷車の揺れ。砂の下から伝わった振動。七番車の脇で上がった叫び。地面を押し上げた大きな影。
「商隊がサンドワームに襲われました。ロアンが攻撃を受ける位置にいたため、避けられないと判断して、私はその間へ入りました」
ティナは寝台へついていた手を離した。
「ロアンとサンドワームの間に?」
「はい」
「どうして?」
「商隊の積荷と、ワトと、人間を守るよう命令されていました」
「それで、脚を失ったの?」
「はい」
ティナの視線が、巻きスカートの下へ下がったまま止まった。
「ロアンはそれで助かったんだ」
「はい。ただ、私が何もしなくても、無事だった可能性はあります」
「でも、リゼは歩けなくなった」
「はい」
部屋の中には、しばらく水路の音だけが残った。
ティナが小さく息を吐く。
「そのあと、どうしたの?」
「ロアンが仮脚を作りました。角材を削り、残ったフレームへ布で固定しました。それで歩けるようになりました」
ティナは顔を上げた。
「ロアンが?」
「はい」
「誰かに頼まれたの?」
「頼まれてはいませんでした。作業を始める前に、ロアンが商会の者に許可を取っていたことは記憶しています」
リゼは、砂の上へ座らされたときのことを思い出した。
ロアンが荷から角材を探し、ナイフを当てて少しずつ形を合わせたこと。裂いた布を何重にも巻き、腕の力では動かないほど固定したこと。立つよう言われ、左脚と角材の位置を確かめながら歩いたこと。
「それから、ベルグラートまで一緒だったの?」
「はい。何度か、仮脚の状態を確認してもらいました」
「ベルグラートへ着いたあとは?」
「商会の第二倉庫で、再び荷運びをしました。ただ、以前と同じ量は運べなくなりました」
リゼは、赤い木札を付けられたことを話した。
処分することが決まった物へ付けられる札で、壊れた道具や廃棄する荷にも使われていた。右腕、左脚、感覚器、駆動部品を分けて売る予定だった。
「そのとき、怖くなかった?」
「何も思いません。商会の所有物なので、商会が用途を決めます。荷運びに使われることも、部品として売られることも、私が決めることではありません」
ティナはしばらくリゼを見ていた。
疑っているというより、その返答の中に、自分でも把握していないものが残っていないか確かめているようだった。
「商館の荷捌き場で、ロアンに声を掛けられました。どうしてそこにいるのかは分かりませんでしたが、近づくと、緩んでいた仮脚を付け直してくれました」
「処分されることが決まったあとに?」
「はい」
「ロアンは、そのことを知ってたの?」
「分かりません」
「リゼは何か言った?」
「もう処分されるため、直す必要はないと伝えようとしました」
「でも、言わなかった」
ティナはリゼへ身体を向けたまま、続きを待った。
「どうして?」
「分かりません」
ロアンが膝をつき、緩んだ布を外した。角材の位置を直し、使える布を選び直して締め直した。
処分されるなら、長く使うことはない。時間も布も、必要のないものだった。
そう言えば、ロアンは作業をやめたかもしれない。それでもリゼは言わなかった。
「直してほしくなかったわけじゃないんでしょう」
ティナの声は柔らかかった。
「処分されるまでの時間は短いと思っていました」
「短くても、歩ける方がよかったんじゃない?」
リゼは右脚へ視線を落とした。
「そうかもしれません」
ティナはそれ以上、その理由を求めなかった。
少し間を置いてから、次のことを尋ねる。
「そのあと、ロアンに買われた?」
「はい」
「何のために?」
「決まっていません」
「何をさせるためか、聞かなかったの?」
「確認しました。あとで決めると言われました」
「それから決めた?」
「いいえ」
ティナは一度、笑いかけた。けれど、リゼの顔を見て、その笑みを収める。
「いまも?」
「はい」
「じゃあ、何をさせてるの?」
リゼは、ベルグラートから今日までに受けた言葉を思い出した。
ついてこい。
部屋へ入れ。
座れ。
役に立たなくていい。
そこを使え。
服を選べ。
町を見てこい。
「分かりません。何も、ロアンの利益にはなっていないように思えます」
ティナは棚の下段を見る。
「毎日、ロアンは脚を見るの?」
「はい。固定布が緩んでいないか確認されます」
「服を買った」
「はい」
「棚を空けた」
「はい」
「宿舎へ話を通して、同じ部屋に住ませてる」
「はい」
「今日なんて、知らない人についていくなとか、蹴られたのかとか、金のことを話すなとか、ずっと心配してた」
「はい」
ティナは一つずつ確かめるように言った。
リゼの返答が重なるたび、部屋の中に短い間が生まれた。
「そんなことをしてる人が、リゼを分解して売れば利益になるって考えると思う? 買って損したって思ってるように見える?」
リゼは答えなかった。
売却すれば、得られる金額がある。今後のセル代や修理費を支払わずに済み、ロアンが自分へ使った金銭の一部を回収できる可能性もある。
金銭上の損失だけを考えるなら、分解して売る方が適切だった。それは以前と変わらない。
しかし、ロアンは仮脚を作った。
ベルグラートで緩んだ固定布を付け直した。
商会から買い取った。
セルを買った。
壊れないように気にしながら、エルデンまで連れてきた。
部屋へ入れ、二組の服を買い、棚の下段を空けた。
マルタとガルドへ自分のことを伝えた。
それらは、分解して売るためには必要のない行動だった。
いま分解すれば、ロアンがそれまでにしたことの多くは、何のために行われたのか分からなくなる。
「思いません」
リゼは答えた。
ティナは黙って続きを待った。
「分解して売る方が、金銭上の損失は少なくなります。今後もセルや修理に費用が掛かります。しかし、ロアンは私を売るためには必要のないことをしています」
ティナの表情が、わずかに和らいだ。
「そうね」
「いま私を分解すれば、仮脚を作ったことも、付け直したことも、買ったことも、服や棚を用意したことも、必要のなかった行動になります」
言葉にしながら、リゼはその順序を確かめた。
そのとき、以前ロアンへ理由を尋ねた場面を思い出した。
宿の部屋で、買った理由が分からないと伝えたとき、ロアンは長く説明しなかった。
――おまえが分解されると聞いて、買えるか訊いた。
それだけだった。
何に使うためとも、いくらで売れると思ったとも言わなかった。分解されると聞いたことと、買えるか尋ねたことが、ロアンの中ではそのままつながっていた。
「ロアンは、私が分解されると聞いて、買えるか訊いたと言いました」
ティナはすぐには返さなかった。
先ほどまでリゼへ向けていた身体をそのままに、少しだけ目を細める。
「何に使うかじゃなくて?」
「はい」
「売れば利益になるから、とも言ってないのね」
「はい」
「分解されると聞いた。そのあと、買えるか訊いた」
ティナは、確かめるように同じ順序で繰り返した。
リゼが頷くと、ティナは棚の下段へ視線を移した。肩掛けと、その上へ重ねられた二組目の服をしばらく見ている。
「それなら、売って金が戻ってくれば損を取り戻せる、なんて考えてはいないでしょうね」
「なぜですか」
「ロアンが最初に止めようとしたのは、金を失うことじゃなくて、リゼが分解されることだったから」
ティナはそう言ったものの、そこで話を終えなかった。
「それが最初のきっかけだったのかもしれない。自分を守って脚を失ったリゼが、そのまま分解されると聞いた。それで放っておけなくなった。そのくらいなら、私にも想像できる」
ティナは少し言葉を切り、部屋の中を見回した。
「でも、それだけなら、買ったあとに安全な場所へ預けることもできたはずよ。誰かに任せることも、最低限の修理だけして置いておくこともできた」
机。寝台。壁際の棒剣。棚の下段に置かれた衣服。
ティナの視線は、それらを一つずつ追った。
「ロアンは、リゼを自分の宿舎へ連れてきた。毎日脚を見て、服を買って、ここを使わせて、町を歩かせた。ダーレスの言葉には腹を立てて、街で起きた出来事を心配してた」
ティナはリゼへ顔を戻した。
「サンドワームのことが始まりだったとしても、それだけで、いまロアンがしてること全部を説明するのは無理だと思う」
「では、何のためですか」
「分からないわ」
ティナは、今度は迷わずそう答えた。ただ、そこで話を終えず、棚の下段に置かれた服へ一度目を向ける。
「ロアン自身も、まだ分かってないのかもしれない。リゼを何かに使いたくて買ったわけじゃないから、用途を決められない。でも、何も考えてないわけでもないでしょう」
「何を考えているのですか」
「リゼが困らないようにするとか、壊れないようにするとか、ここで過ごせるようにするとか。ロアンが実際にやってるのは、そういうことばかりよ」
リゼは、ティナの言葉とロアンの行動を照らし合わせた。
分解されるのを止めたことだけではない。服を選ばせ、棚を空け、一人で町を歩かせた。戻ったあとには何があったのかを確かめ、次に同じことが起きたときのために、安全に歩く条件を増やした。
それらが何のためなのかは、まだ分からない。
ティナは、答えを探すように黙ったリゼを見ていた。やがて、先ほどより少し静かな声で続ける。
「何をさせたいのかも、これからどうしたいのかも、ロアンにはまだ分からないのかもしれない。でも、リゼを分解されたくなかった。いまも、壊したくないし、失くしたくないと思ってる」
リゼはティナへ顔を向けた。
「私を、ですか」
「ええ」
ティナは頷いた。
「ロアンは、あなたのことを失いたくない。それは確かよ」
「なぜ、確かだと分かるのですか」
「失っても構わないものに、あんなことはしないから」
ティナは、棚の服からリゼの右脚へ視線を移し、最後に淡く光る目を見た。
リゼは答えなかった。
失いたくない。
その言葉は、用途や価値を表すものではなかった。
何のために必要なのかも示していない。
それでも、ロアンが自分を分解して売ることを望んでいないという判断とは、矛盾しなかった。
「いま、ロアンに分解して売るよう提案した場合、ロアンはどう思いますか」
ティナはすぐには答えず、両手を膝の上へ置いた。
「嫌がると思う」
「損失は減ります」
「それでもよ」
「なぜですか」
「ロアンが止めたことを、リゼが自分から元へ戻そうとすることになるからじゃない?」
リゼは顔を上げた。
「元へ戻す?」
「ロアンは、リゼが分解されると聞いて、それを止めるために買った。少なくとも、最初はそうだった。そのリゼから、やっぱり分解して売ってくれって言われたら、買ったことの意味をなくされたように感じると思う」
「私は、意味をなくすつもりはありません」
「でも、分解してしまえば結果は同じよ」
仮脚を作る必要はなかった。
付け直す必要もなかった。
買う必要も、連れて帰る必要もなかった。
服も、棚も、町を歩くための決まりも必要なかった。
それらをすべて終わらせ、部品へ分ける。
ロアンが止めたことを、自分の言葉で再び行わせる。
「それは、ロアンにとってよくないことですか」
「うん。よくないと思う」
ティナは静かに答えた。
「では、私は、分解して売るよう提案してはならないと思います」
言葉にすると、それは以前の判断とは違っていた。
分解することが不合理になったわけではない。金銭だけなら、いまも合理的だった。
しかし、ロアンは金銭上の損失を避けるために、自分を買ったのではない。
――おまえが分解されると聞いて、買えるか訊いた。
分解されるのを止めることが、始まりだった。
そのあと何が加わったのかは、まだ分からない。
それでも、自分から分解を提案することがロアンの意図に反することは分かった。
それはロアンのためにはならない。
ティナは、すぐに褒めることも、驚くこともしなかった。しばらくリゼを見たあと、わずかに笑った。
「うん。もう言わない方がいいと思う」
階下から聞こえていた箒の音は、いつの間にか止まっていた。建物の裏手で、濡れた布を振る音が一度だけ響く。
廊下から足音が近づいてきた。
「ロアンの足音です」
「わかるの?」
「はい」
一定の歩幅で階段を上り、二〇三号室の前で止まる。扉が二度叩かれた。
「開いてるわよ」
ティナが先に答えた。
扉が開き、ロアンが部屋へ入ってくる。
最初に机を見る。それから、寝台へ並んで座る二人へ視線を移し、しばらく止まった。
「そこに座ったのか」
「リゼは立ってるって言ったけど、私が座らせたの。怒る?」
ロアンは二人を見たあと、短く息を吐いた。
「別に怒らない」
「ほらね」
ティナがリゼへ笑いかける。
ロアンは扉を閉めた。
「ガルドには聞いたか」
「はい。騒がないこと、廊下を塞がないこと、ほかの部屋へ入らないこと、何か壊した場合は二〇三号室の者が弁償することを条件に、許可されました」
「そうか」
ロアンはそれ以上、寝台について何も言わなかった。
机の上に残っていた服の包みを脇へ寄せ、ギルドから持ち帰った紙を置く。
「依頼を決めた」
リゼは寝台から立ち上がった。
「どの依頼ですか」
「水門外の補修警護だ。明後日の朝に出て、翌日の夕方までには戻る。補修人員と荷車一台に同行する」
「二日ですか」
「ああ」
「私は、どうすればよいですか」
ロアンは紙を机へ広げながら答えた。
「宿舎に残れ。食堂にいてもいい。少しくらいなら外に出ても良いが、出るときはガルドかマルタに言え。セルや身体に異常が出たら、ギルドへ連絡してもらえ」
「仕事はしなくてよいのですか」
「勝手に受けるな。俺が戻ってから決める」
「分かりました」
「明日のうちに、ガルドとマルタにも話しておく」
リゼが頷くと、ロアンの視線が左腰へ下りた。上衣の下にあるセル挿入口の位置を見ている。
「セルはどれくらい残ってる」
リゼは内部表示を確認した。
「灰等セルの残量は減っています。現在の動作に問題はありません」
「充填したのは、十日くらい前だったな」
「はい」
エルデンへ向かう旅の途中、宿砦で充填されている。
ロアンは日程の紙を見ながら、少し考えた。
「明日、動力商へ行く」
「灰等セルを充填しますか」
「ああ。いま使ってる灰等を預けるあいだは、黒化へ入れ替える。灰等が戻ったら、今度は黒化も検査と充填に出す」
「黒化セルは、次の充填で使用不能になる可能性があります」
「分かってる」
ロアンは紙の余白へ、セルを預ける順序を書き加えた。
「それでも充填はする。使わずに置いておいても、予備にはならない。状態を見てもらって、充填できるなら充填する」
「充填中に使用不能となった場合、黒化セルは失われます」
「ああ。その可能性も含めて、店で聞く」
「分かりました」
「まず灰等を満たして、俺が出てるあいだに切れないようにする。黒化は、灰等を戻してからだ。仕事から戻ったあとになるかもしれない」
ロアンは依頼の日程と、二本のセルを順番に預ける予定を、同じ紙の余白へ書き加えた。
ティナは寝台へ座ったまま、その手元を眺めていた。
「すっかり生活の話ね」
「何がだ」
「仕事へ出る前に留守のあいだのことを決めておく。家を空ける人みたい」
ロアンは紙から顔を上げなかった。
ティナはしばらくその横顔を見ていたが、やがて小さく笑い、寝台から立ち上がった。
「そろそろ帰るわ」
「そうしろ」
ティナは服の裾を整え、扉へ向かった。
途中で棚の下段を見て、足を止める。
「また来てもいい?」
リゼはロアンを見た。
ロアンが先に言う。
「俺を見るな。リゼが問題ないなら構わない」
「私が決めるのですか?」
「みたいよ」
ティナは笑った。
「また来ても問題ありません」
扉を開き、廊下へ出る前に振り返る。
「じゃあまたね、リゼ」
「はい。また」
ティナの視線が、一瞬だけロアンへ向いた。
「ロアンも、また」
「ああ」
ティナは笑ったまま扉を閉めた。
足音が廊下を進み、階段を下りていく。やがて、それも聞こえなくなった。
部屋には、ロアンとリゼだけが残った。
机の上には、二日の依頼について書かれた紙がある。その余白には、明日、灰等セルを検査と充填へ出す予定が加えられていた。黒化セルについても、灰等を戻したあとに店へ預けることが記されている。
棚の下段には、二組の服と肩掛けが置かれていた。
明後日、ロアンは仕事へ出る。
そのあいだ何をすればよいかは、出発する前に決められる。何も分からないまま、置いていかれることはない。
ロアンは紙を見ながら、必要なものを指で確かめていた。
仕事へ持っていく装備。
補修隊との集合時刻。
戻る予定。
セルを預ける順序。
そのどこにも、リゼを分解して売る予定はなかった。
――おまえが分解されると聞いて、買えるか訊いた。
分解されることを止めたのが、始まりだった。
それだけでは説明できないことが、そのあとにも増えていた。
自分から元へ戻すよう求めてはならない。
それは、ロアンのためにはならなかった。
「何だ」
ロアンが顔を上げた。
リゼが見ていることに気づいたらしい。
「何でもありません」
ロアンは少しだけリゼを見たあと、再び紙へ視線を戻した。
窓の外から、水路の流れる音が入ってくる。




