3-8. リゼの冒険
継暦六百二十七年 七月十五日
ロアンの姿が角の向こうへ消えたあとも、リゼはしばらく分かれ道に立っていた。
南水路は左右へ伸びている。宿舎へ戻るなら、先ほど来た道をそのまま辿ればよい。中央通りへ近づく道も、ロアンが示した範囲に含まれていた。どちらを選ぶかは指定されていない。
腕の中には、ヘルマから受け取った服の包みがある。腰には五十ミルと引換札を入れていた巾着が下がっていた。引換札はすでに渡しているため、いま中にあるのは硬貨だけだった。
リゼは周囲を見た。
水路沿いを歩く者の多くには、進む理由があるようだった。籠を抱えた女は食料店へ入り、道具袋を提げた男は橋を渡って工房の並ぶ方角へ向かう。荷車は荷を積んでいるか、荷を下ろした場所から戻る途中だった。店の前で足を止める者は、並べられた品物を見ている。
リゼには、服を受け取ったあとの用事がなかった。
それでもロアンは、目的がなくても歩いてよいと言った。
リゼは水路の流れに沿い、宿舎とは反対の方向へ歩き始めた。
左足が石へ触れ、続いて角材の先が乾いた音を立てる。ロアンと歩いていたときにも同じ音はしていたはずだったが、彼の足音がなくなると、自分の歩行だけが周囲から切り離されたように聞こえた。
左足。角材。左足。角材。
その間へ、通行人の靴音や荷車の軋みが入り込む。音が重なっても、角材が石へ触れた瞬間は、身体へ返る振動によって分かった。
水路の幅は、宿舎の近くより少し広くなっていた。流れへ下りる石段が何か所か設けられ、桶へ水を汲む者や、布をすすぐ者がいる。石段の端には濡れた跡が残り、水の表面では建物の影が細かく崩れていた。
橋にも違いがあった。人だけが渡れる細い橋。荷車一台分の幅を持つ橋。二本の木材へ横板を渡しただけのもの。同じ水路を越えるための構造でも、使う者と荷の大きさによって形が異なっている。
リゼは一つずつ位置を記録した。
通りの店も、宿舎と服屋のあいだにあったものとは少し違っていた。食料を扱う店が減り、代わりに古道具や日用品を並べた店が増えている。曲がった釘を束にしたもの。刃の欠けた小刀。取っ手を付け替えた鍋。片方だけの手袋。長さの揃わない紐。別の箱から外したらしい留め具。
新品に見えるものは少なかった。
壊れた部分を取り除き、別の部品を付け、用途を変えて売られている。昨日ヘルマが直した服も、最初からリゼのために作られたものではなかった。別の者が着ていた上衣の肩と脇を詰め、幅の広い下衣を巻く形へ変えた。
店先に並ぶ道具と、自分の服には似たところがある。
それがよいことなのかは分からなかったが、使えるものを使える形にすることは、この町では珍しくないらしい。
小さな露店の前で足を止めた。
木の板の上に、磨かれた石がいくつか並べられている。白、茶、灰色。青いものもあったが、色は薄く、形も揃っていない。隣には木を削った小さな動物や、穴を開けて紐を通した金属片が置かれていた。
売り手の老人がリゼを見た。
「何か探してるのかい」
「いいえ」
「見るだけでも構わないよ」
リゼは品物へ視線を戻した。
見るだけでよいと言われても、何を見るべきかは分からない。石の形、色、表面の傷なら記録できる。しかし、どれを選ぶべきかを決める条件はなかった。
腰の巾着へ手を触れる。
五十ミルは自分のものだと、ロアンは言った。
使うことを禁じられてはいない。けれど、何を買うべきかも決められていない。
リゼは石を買わず、老人へ顔を向けた。
「見ました」
「ああ」
老人は少し笑った。
「また見たくなったら来な」
リゼは返す言葉を考えた。
「はい。また」
露店を離れ、さらに水路沿いを進む。
建物の並びが少し途切れた場所に、周囲より広い敷地を持つ家があった。二階建てではあるが、商館や宿舎ほど大きくはない。正面には窓が四つ並び、入口の脇には低い木の柵がある。庭と呼べるほど広くはない空地に、三人の子どもがいた。
男の子が二人、石を積んで小さな囲いを作っている。女の子は少し離れたところで、細い枝を何本か地面へ並べていた。
何を作っているのかは分からなかった。
リゼは家と子どもたちの位置を見ながら通り過ぎようとした。
最初に気づいたのは、枝を並べていた女の子だった。
顔を上げたまま動かなくなる。
それから、隣にいた男の子の腕を引いた。
「見て」
二人の男の子もリゼを見た。
視線はまず角材へ向かい、次に上へ移った。三人とも作っていたものをそのままにして、柵の近くまで来る。
リゼは歩き続けていたが、子どもたちが自分を見ているため、足を止めた。
女の子は柵へ両手を掛け、リゼの顔を見上げた。
「きれい」
リゼは周囲を確認した。
近くを歩く者はほかにもいたが、女の子の視線はこちらへ向いている。
「私ですか」
「うん。お人形さんみたい」
「私は機械人形です」
女の子は目を丸くした。
「本当にお人形さんなの?」
「はい」
男の子の一人が柵の隙間から身を乗り出す。
「でも喋ってるぞ」
「話すために作られています」
「動くし」
「移動もできます」
もう一人の男の子は、巻きスカートの下から伸びる角材を見ていた。
「そっちの脚、木なの?」
「右膝から下だけです」
「折れない?」
「強い衝撃を受ければ、破損する可能性があります」
「じゃあ蹴ったら折れる?」
「蹴らないでください」
男の子は伸ばしかけていた足を戻した。
「蹴らないよ。聞いただけ」
女の子は男の子たちを気にせず、リゼの顔を見続けていた。
「目もきれい」
「発光しています」
「青い」
「はい」
「暗いところだと、もっと光る?」
「周囲が暗ければ、見えやすくなります」
「見たい」
「いまは暗くありません」
女の子は少し考えたあと、両手で目の周りを覆い、指の隙間からリゼを見た。
「これなら暗い」
「周囲の明るさは変わっていません」
男の子の一人が笑った。
「それじゃ駄目だろ」
女の子は手を下ろし、もう一度リゼを見る。
「本当に人間じゃないの?」
「機械人形なので、人形です」
「でも、普通のお人形は喋らないよ。こんなに大きくないし」
「私のようなものを見たことはありませんか?」
「見たことない、人形はみんなきれいなの?」
「分かりません」
リゼは、朝の食堂で教えられた返答を思い出した。
「ありがとうございます」
女の子が笑う。
「いまの、うれしかった?」
「分かりません」
「きれいって言われたのに?」
「その言葉が肯定的であることは分かります」
「じゃあ、うれしいんじゃない?」
リゼはすぐには答えなかった。
女の子も、返事を長く待つつもりはないらしい。今度は腰の巾着へ目を向けた。
「それもかわいい」
白い布に赤い糸で花が縫われている。
「ヘルマにもらいました」
「誰? 中に何が入ってるの?」
「服屋の店主です。五十ミル入ってます」
男の子二人が同時に顔を上げた。
年上らしい方が、すぐに言った。
「そういうの、人に言わない方がいいぞ」
「なぜですか」
「盗るやつがいるから」
「あなたは盗りますか」
「盗らないよ」
「じゃあ、言っても問題ありません」
「俺たちが盗らなくても、ほかのやつが聞いてるかもしれないだろ」
男の子は通りを見回した。
「金を持ってるって、知らない人に言うなよ」
リゼは周囲の人の位置を確認した。
会話へ注意を向けている者はいないように見えたが、聞いていないとは断定できない。
「分かりました」
「ほんとか?」
「次からは言いません」
男の子は満足したように頷いた。
もう一人の男の子が、地面に作りかけの囲いを指した。
「これ、何だと思う?」
リゼは石と枝の配置を見た。
四角く積まれた石。
その内側へ、女の子が並べた枝が置かれている。
「小さな建物ですか」
「違う」
「囲いですか」
「違う」
「では、分かりません」
男の子は胸を張った。
「灰喰い獣を捕まえる罠」
リゼは囲いを見る。
高さは指二本分ほどしかない。入口に相当する箇所もなく、枝を動かす仕組みも見当たらなかった。
「この大きさでは、灰喰い獣を捕らえることはできません」
「子どもの灰喰い獣なら入る」
「幼体でも、これより大きい可能性があります」
「じゃあ、もっと小さいやつ」
「灰喰い鼠?」
女の子が言った。
「それなら入るかも」
男の子は少し不満そうだったが、すぐに石を一つ追加した。
「大きくすればいい」
三人は再び地面へ戻っていく。
女の子だけが途中で振り返った。
「お人形さん、また来る?」
「ここを通れば」
「じゃあ、通って」
それは命令なのか、希望なのか分からなかった。
「分かりました」
女の子は満足そうに頷き、男の子たちのところへ走っていった。
リゼは家を見た。
窓の数が多く、入口も通常の家より広い。庭にいた子どもは三人だけだったが、建物の中からは、ほかにも複数の足音と声が聞こえていた。
大人の声は聞こえない。
子どもたちだけが住んでいるとは考えにくいが、誰が管理しているのかは分からなかった。
リゼは家の位置を記録し、歩き出した。
少し進んだところで、腰の巾着へ触れる。
中身を尋ねられても、次からは答えない。
水路沿いの道は、やがて中央通りへ近づいていった。店の数が増え、建物の間口も広くなる。食料や日用品だけでなく、工具、革具、武器の手入れ道具、旅支度に使う品を扱う店が並んでいた。
通りを歩く者の出で立ちも変わった。
道具袋を背負う者。
腰へ剣や短槍を下げる者。
複数人で紙を見ながら話す者。
荷車の御者と料金を交渉する者。
声の中には、宿舎の食堂で聞いた言葉が混じっていた。
護衛。
補修。
荷運び。
三日。
二名。
水門。
依頼。
リゼは足を止めた。
通りの先に、人の出入りが絶えない大きな建物があった。
入口は通常の扉四枚分ほどの幅があり、分厚い戸は左右へ開け放たれている。外からでも、内部の広間が見えた。
正面には長い受付台がある。
壁際には多くの札が並べられ、その前で何人もの人間が立ち止まっていた。紙を読む者。受付で話す者。道具袋を床へ置き、仲間と相談する者。武器を持つ者だけでなく、木槌や縄、測量具らしい棒を持つ者もいる。
宿舎で聞いた、ギルドの仕事に関係する場所だと判断できた。
ギルド。
ロアンが向かった場所だった。
リゼは入口の外から広間を見た。
人の位置を順に確認する。
受付の前。
掲示された依頼札の前。
柱の近く。
壁際の長椅子。
その中に、暗い上着があった。
ロアンだった。
広間の奥にある掲示場所の前で、札を一枚ずつ見ている。服屋で別れたときと同じ上着。腰には短剣だけを下げている。
リゼは入口の前で止まった。
ロアンの現在位置は確認できた。
ギルドの中にいる。
それ以上の確認は必要ないはずだった。
けれど、ロアンが手に取った札へ目が向いた。
一枚を外す。
読む。
元へ戻す。
別の札を取る。
それを手に残す。
どの依頼を見ているのか、入口からでは文字までは読めない。
ロアンが仕事を受ければ、町を離れる可能性がある。期間も、リゼが同行するのか宿舎へ残るのかも、まだ決まっていない。
確認する必要がある。
そう判断したときには、リゼは広間の中へ足を踏み入れていた。
入口が広いため、境界を越えた感覚は小さかった。外の通りと内部の広間が、音と人の流れによって連続している。誰かに止められることもない。
それでも中へ入ると、いくつかの視線が向いた。
青い上衣。
巻きスカート。
角材の脚。
珍しいものを見る視線だったが、宿舎の食堂ほど長くは留まらない。ギルドにいる者たちは、それぞれ自分の用事を持っていた。
リゼは服の包みを抱えたまま、広間の端へ移動した。
屋根を支える太い柱が並んでいる。その一つの後ろへ立つと、ロアンの位置を確認しながら、正面から見られにくくなった。
隠れるよう命じられたわけではない。
しかしロアンは、今日は同行しなくてよいと言った。
ここにいることが見つかれば、なぜ来たのか尋ねられる可能性がある。尋ねられても問題は何もないはずだった。
町を歩いている途中で偶然ギルドへ着き、中にロアンを見つけた。
その説明に誤りはない。
それでも、ロアンは怒るかもしれなかった。
なぜ怒るのかは、明確には分からない。
一人で歩いてよいと言ったのに、結局自分のところへ来たから。
同行しなくてよいと言ったのに、ギルドまで入ってきたから。
あるいは、柱の後ろから見ているから。
最後の行動には、怒られる理由があるように思えた。
自分がどうしてそんな行動をとってしまうのか理解できないまま、リゼは柱から顔を少しだけ出した。
ロアンは依頼札を見ている。
長い札を一枚取り、内容を読んで戻す。
別の札も戻す。
そのあと、比較的小さな札を二枚手に残した。
受付の近くにいた人。エダという名前の女がロアンへ声を掛ける。
周囲の声が重なり、言葉のすべては聞き取れなかった。
「戻ったばかり」
「見るだけだ」
「長いのは?」
「今はいい」
断片だけが届く。
ロアンは長い仕事を選ばなかった。
理由は分からない。
エルデンへ戻ったばかりだからかもしれない。ほかの用事があるのかもしれない。報酬や危険が合わなかった可能性もある。
「何してるの?」
すぐ後ろから声がした。
リゼは振り返った。
ティナが立っていた。
旅の途中と同じ革具を身につけ、片手に細い書類の束を持っている。リゼを見たあと、その新しい服へ視線を下ろし、再び顔へ戻した。
「リゼ?」
「はい」
「見違えた。服、買ったんだ」
「ロアンに買ってもらいました」
「似合ってるじゃない」
「ありがとうございます」
ティナは少し笑った。
「それで、何してるの?」
「ロアンの位置を確認しています」
ティナは柱の向こうを覗いた。
依頼札を見るロアンがいる。
もう一度リゼを見る。
「それ、隠れてるつもり?」
「ロアンからは見えていません」
「今のところはね」
ティナは柱からはみ出している巻きスカートと、角材の先を見た。
「脚、丸見えだけど」
リゼも足元を見た。
柱は上半身の大部分を隠しているが、右側へ伸びた角材までは隠していない。
「ロアンは、こちらを見ていません」
「見つかったら怒られるよ」
リゼはロアンへ視線を戻した。
「怒りますか」
「たぶん」
「なぜですか」
「ついてくるなって言われたんでしょ」
「言われていません。今日は同行しなくてよいと言われました」
「同じようなものじゃない?」
「違います」
ティナは口元を押さえた。
「そんなにはっきり言うんだ」
「内容が違います」
「じゃあ、何も悪くないんだ?」
「町を歩く許可を得ています。ここは指定された範囲の内側です」
「ギルドの中まで入っていいって?」
「入ってはいけないとは言われていません」
ティナは声を立てないよう肩を揺らした。
「あなた、ほんと面白いね」
「何がですか」
「そのままのところ」
意味は分からなかった。
ティナはリゼの横へ移動し、同じ柱からロアンを覗いた。
「何を見てるの?」
「ロアンが選ぶ依頼です」
「聞けばいいじゃない」
「ティナが、見つかれば怒られると言いました」
「今さら気にするの?」
「ティナに言われるまでは、怒る可能性を高く見積もっていませんでした」
ティナはまた笑った。
「じゃあ、余計なこと言ったかな」
「可能性を知ることは必要です」
「あれなら、遠出じゃないよ」
ティナがロアンの手にある札を見た。
「分かるのですか」
「札の端に印があるでしょ。あっちは近郊で終わる仕事。長くても二日か三日じゃないかな」
リゼは札を見た。
入口からでは分からなかった印が、言われてみれば端に付いている。
「ロアンは長い依頼を戻しました」
「戻ったばかりだしね。しばらく休みたいんじゃない?」
「休むと言っていません」
「ロアンは言わないかもね」
ティナは柱へ肩を預けた。
「それで、いつまでここから見てるつもり?」
「ロアンが依頼を決めるまでです」
「見つかる方が先かも」
「その場合は、説明します」
「何て?」
「町を歩いていたらギルドへ着き、ロアンを見つけたため、現在位置と行動を確認していました」
ティナはしばらく黙った。
「それで許してもらえると思う?」
「命令には違反していません」
「そういう問題じゃないんだけどなあ」
ティナは楽しそうだった。
リゼには、何が楽しいのか分からない。
そのとき、ティナの持っていた書類の端が柱へ触れた。
乾いた音が広間に響く。
大きな音ではなかった。
しかし、リゼには、ロアンの動きが止まったことが分かった。
依頼札を持ったまま、顔を上げる。
視線が広間を横切る。
「まずい」
ティナが小さく言った。
「何がですか」
「見つかる」
ロアンの視線が柱のあたりで止まった。
最初に見たのは、ティナだった。
次に、柱の横から見えている青い袖。
さらに下へ移り、巻きスカートと角材を確認する。
リゼと目が合った。
ロアンはしばらく動かなかった。
リゼも柱の横に立ったまま、ロアンを見ていた。
隠れる必要はなくなった。
すでに発見されている。
ティナが、口元だけを動かした。
「ほら、怒られる」
ロアンは二枚の依頼札を持ったまま、こちらへ歩き始めた。




