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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
3. 帰る場所
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3-7. リゼの朝

継暦六百二十七年 七月十五日


窓から差し込む光が床へ届くより先に、宿舎の中では朝の音が動き始めていた。


一階で戸を開ける音がする。少し遅れて、水を満たした桶が床へ置かれた。廊下を進む足音は二つあり、一つは階段を下り、もう一つは二〇三号室の前を通り過ぎてから、三つ先の扉の前で止まった。


リゼは机の前の椅子に座り、それらを聞いていた。


昨夜のうちに視覚と聴覚の一部を低下させていたが、宿舎の中で人が動き始めたことを検知し、通常の状態へ戻している。目を閉じる必要はなかったため、窓の外が暗いあいだから、室内の形は途切れずに見えていた。


寝台。


壁際に置かれた棒剣。


机の端に載せられた財布と短剣。


それらの位置は昨夜と変わっていない。


変わったのは、三段ある棚のうち、下段に置かれた暗い茶色の肩掛け。それと、リゼが身につけているものだった。


褪せた青色の上衣は、肩と脇を身体に合わせて詰められていた。首元を覆う低い襟には指一本ほどの隙間があり、右袖の下には、露出した白い外殻と保護布が隠れている。


腰には暗い灰色の巻きスカートを着けていた。左側の裾はふくらはぎの半ばまであり、右側はそれより短い。右膝から下へ伸びる角材には触れず、膝を曲げても裾が固定布へ巻き込まれることはなかった。


腰についた巾着も、昨夜にはなかったものだ。


昨日まで着ていた服は、ヘルマの店で買い取ってくれた。


裂けた右袖も、右膝の下で大きく破れた下衣も、もうこの部屋にはない。


損傷した身体は変わっていない。


外側を覆う布だけが変わり、昨日まで見えていたものの多くが見えなくなっていた。


寝台から衣擦れの音がした。


ロアンの呼吸が変わり、目が開く。


リゼが顔を向けると、ロアンは一度窓の方を見たあと、上体を起こした。その視線がリゼへ移り、青い上衣から巻きスカートへ下りていく。


「おはようございます」


「ああ。問題はないか」


「はい」


ロアンは寝台から降り、上着を羽織った。


財布と短剣を身につける。棒剣は壁際へ置いたままだった。


動作に昨日との差は見られなかった。


「下りるぞ」


「はい」


リゼは椅子から立ち上がった。


右膝を曲げ、角材の先を机の下から引き出す。巻きスカートの布は脚の動きに沿ってわずかに開き、元の位置へ戻った。


部屋を出ると、廊下の奥で扉が開いた。


昨日の朝にも見た男が、肩へ道具袋を掛けながら出てくる。眠そうに口を開きかけていたが、リゼを見たところで動きが止まった。


男の視線は顔から青い上衣へ下り、巻きスカートの裾を通って角材へ移った。


「服、買ったのか」


「はい」


「昨日とはずいぶん違うな」


リゼは自分の上衣を見た。


「服が変わりました」


「それは見れば分かる」


男はそれ以上の説明を諦めたように一度頷いた。


「そっちの方がいい」


何がよいのかは特定できなかった。


布の色なのか、損傷が隠れていることなのか、裾が角材へ触れないことなのか。男は判断の理由を示さず、階段へ向かった。


リゼは問い返さなかった。


人間は、理由をすべて言葉にしないことがある。


ロアンのあとに続き、階段を下りる。


左脚を一段下へ置いてから、右膝を曲げ、角材の先を次の段へ運ぶ。巻きスカートの前が動きに合わせて開いたが、その下には下穿きがあった。


階段の途中で、両腕に布を抱えた女とすれ違った。女は下の段で壁際へ寄り、二人を先に通した。


「ありがとうございます」


リゼが言うと、女は新しい服を一度見た。


「昨日より歩きやすそうだね」


「はい。昨日、買ってもらいました」


「ならよかった」


女はそれだけ答え、二人が通り過ぎてから上階へ向かった。


一階へ近づくにつれ、食堂から聞こえる音が増えていった。


匙が器へ触れる音。長椅子が床を擦る音。今日の仕事を確かめる声。水門、荷車、道具、出発時刻。それぞれ別の位置から届いていた音が、戸口を越えると一つの室内へ収まった。


ロアンが食堂へ入る。


リゼも続いた。


いくつかの声が止まり、視線が集まる。


昨日と同じだったが、見られている場所は違っていた。


昨日は露出した外殻や、角材を固定する布へ視線が長く留まった。今朝は青い上衣から巻きスカートへ目が移り、そのあとで裾の下にある角材を確かめている。


同じ個体であることと、外見が変わったことを同時に確認しているようだった。


「おや」


調理場にいたマルタが手を止めた。


「ずいぶん変わったね」


「服を替えました」


「それは分かるよ」


マルタは近くまで来ると、襟元から右袖、巻きスカートの裾までを順に見た。


「青にしたんだね」


「これは、汚れた箇所を確認しやすいです」


「そういう理由かい」


マルタは少し笑った。


「まあ、よく似合ってるよ」


昨日ヘルマから色を選ぶよう求められたとき、似合うかどうかは選択条件に含まれていなかった。それでも、肯定的な言葉であることは分かる。


「ありがとうございます」


「そう返せばいいんだよ」


マルタは裾へ目を落とした。


「歩くときも邪魔にならないみたいだね」


「はい。右膝を曲げても角材へ触れません」


「ヘルマに頼んで正解だったよ」


マルタは食堂の端を示した。


「今日はあそこへ座りな。端なら脚も入れやすいだろう」


ロアンは朝食の盆を取り、示された長机へ向かった。


リゼも続き、右膝を曲げて長椅子へ腰を下ろした。角材の先を机の下へ入れると、昨日その位置を注意した年嵩の女が一度だけ確認した。


「そこなら通れるね」


「はい」


それ以上の説明は必要なかった。


マルタはロアンの前にだけ朝食を置き、リゼの前には何も置かなかった。食事を必要としないことを尋ねる者もいない。


ロアンの隣へ座ることにも、角材を通路へ出さないことにも、昨日のような間は生じなかった。


食堂にいる者たちは、リゼがどう振る舞うのかを少しずつ知り始めていた。


奥の長机から、アルドが声を掛けた。


「似合ってるじゃないか」


「ありがとうございます」


リゼがすぐに答えると、アルドは少し笑った。


「もう返し方を覚えたのか」


「いま、マルタに教えられました」


「覚えるのが早いな」


向かいにいた男も右袖を見た。


「腕は動かしにくくないのか」


「問題ありません」


リゼが肘を曲げると、男は納得したように頷き、自分の食事へ戻った。


入口に近い卓にいたカイルは、リゼをひとしきり見たあと、ロアンへ顔を向けた。


「ちゃんとしたじゃないか」


ロアンが器から顔を上げる。


「何がだ」


「服だよ。昨日とはずいぶん違って見える」


カイルは青い上衣から巻きスカートへ視線を移した。


「昨日は壊れてるところが先に目へ入ったけど、今日は服の方が先に見える。こっちの方がいいな」


「俺が直したわけじゃない」


「分かってるって。でも連れていって買ったのはロアンだろ」


カイルは今度はリゼを見た。


「歩きにくくないか」


「問題ありません」


「それならよかった」


近くの男が笑う。


「ずいぶん世話焼きだな」


「昨日あれだけ話したら、気にもなるだろ」


カイルは気にした様子もなく、もう一度ロアンへ向き直った。


「似合ってるじゃないか。ちゃんと本人にも言ってやったのか」


「必要あるのか」


「あるだろ」


リゼが二人を見比べる。


「マルタには、似合っていると言われました」


「ほら。マルタの方が分かってる」


「何がだ」


カイルは笑いながら器へ戻った。


食堂の声が、ふたたび重なっていった。


水路の補修。


倉庫の荷。


午後から降るかもしれない雨。


リゼについての会話も、ところどころに混じっていた。


「二〇三号室の人形、服を買ったんだな」


「ロアンのところのだろ」


名前ではなかったが、どの個体を指しているのかは分かった。


二〇三号室にいる。


ロアンと一緒にいる。


右膝から下に角材を取り付けている。


宿舎の中では、それらがリゼを識別する情報になり始めている。


リゼは声のした方を見たが、二人はすでに別の話へ移っていた。


マルタが空いた器を下げる途中で、右袖を指した。


「そこは布が重なってるんだろ。洗うときは裏返した方が乾きやすいよ」


「どこへ干せばよいですか」


「裏に干し場がある。水場も昼過ぎなら空いてるから、必要なときに教えるよ」


「分かりました」


リゼは自分の袖を見た。古着を仕立て直したものとは言っても、そこには染みや目立つ汚れもない。


「まだ洗わなくて大丈夫です」


ロアンが食事を終えるころには、宿舎の者たちも順に席を立ち始めた。


カイルは器を返し、リゼの横を通るところで足を止めた。


「またあとで」


「会う予定がありますか」


「予定はないけど同じ宿舎だから。次に会ったら、って意味で」


「分かりました。またあとで」


カイルは笑い、戸口へ向かう。


その背へアルドが声を掛けた。


「カイル。袋」


カイルは長椅子の下に残した革袋を見つけ、慌てて戻ってきた。


「人形つぎ会う約束をする前に、自分の荷物を覚えろ」


近くの男に言われ、カイルは袋を肩へ掛けた。


「今度こそ、また」


「はい。また」


カイルが出ていくと、食堂は急に広くなったように感じられた。


席を立つ者が増え、声が一つずつ戸の外へ消えていく。ダーレスの姿はなかった。


ロアンも残っていた茶を飲み終えた。


リゼは隣の女へ声を掛けてから立ち上がり、角材を机の下から引き出した。


食器を返すロアンの後ろへ続くと、マルタがもう一度服を見た。


「残りも今日、受け取るんだろ」


「はい」


「同じ形かい」


「上衣と巻きスカートの色が入れ替わります」


「戻ったら見せておくれ」


「はい」


それだけ答え、二人は食堂を出た。


廊下へ出ると、重なっていた声が戸の向こうへ薄くなる。


階段へ向かいながら、リゼは一度だけ振り返った。


「どうした」


ロアンが尋ねる。


「昨日より、話しかけられる内容が変わりました」


「服が変わったからだろ」


「はい」


昨日は、機械人形であることを確かめられた。


今日は、似合っている、洗うときはどうする、またあとで、と言われた。


同じ宿舎にいることを前提にした言葉が増えている。


「二〇三号室の人形と呼ばれていました」


「嫌か」


「いいえ」


「なら気にするな」


「はい」


二〇三号室へ戻ると、ロアンは机へ向かい、旅袋から数枚の紙を取り出した。


リゼは椅子へ座り、紙の端が机を擦る音を聞いた。


今朝、食堂で自分へ向けられた声が記録の中に残っている。


似合っている。


服は裏返して干す。


またあとで。


「今日は、どこへ向かいますか」


「まず服屋だ」


「そのあとは」


「俺はギルドへ行く」


ロアンは紙を重ね、机の端へ寄せた。


「おまえは残りの服を受け取れ」


「そのあと、宿舎へ戻りますか」


「戻ってもいい」


戻れ、ではなかった。


行動が一つに指定されていない。


「戻らない場合は、どこへ向かえばよいですか」


ロアンは窓の外を見た。


「宿舎の近くなら、昼過ぎくらいまで歩いてきてもいい」


「目的は何ですか」


「目的がなくてもいい」


「何もせずに歩くのですか」


「町を覚えておけば、あとで一人でも動けるだろ」


目的が完全にないわけではなかった。


町の形と、宿舎へ戻る道を記録する。それなら実行する内容を定められる。


「範囲はどこまでですか」


「南水路から中央通りまで。街門の方へは行くな」


「昼を過ぎたら戻りますか」


「ああ」


「道が分からなくなった場合は」


「水路へ出ろ。そこから北へ戻れば、この辺りまで来られる。それでも分からなければ、人に聞け」


リゼは条件を整理した。


服を受け取る。


南水路と中央通りの間を歩く。


街門へは行かない。


昼を過ぎたら宿舎へ戻る。


道が分からなければ、水路を基準にする。


「分かりました」


ロアンは立ち上がった。


「行くぞ」


「はい」


昼を少し過ぎる前に、二人は宿舎を出た。


朝より通りを歩く者が増えている。店先には木箱や籠が並び、水路へ向かう道を狭くしていた。


リゼはロアンの少し後ろを歩きながら、帰りに一人となる可能性を考え、途中の目印を記録していった。


宿舎を出て最初の角には、戸板の一部が白く削れた道具屋がある。そこから水路へ向かって二つ目の交差路を右へ曲がる。南水路へ出た場所からは、片側の柱が傾いた小さな橋が見える。


店の看板だけではなく、壁の傷や石段の数も記録する。同じ場所を逆方向から見ても判別できる必要があった。


ヘルマの店へ着くと、軒から下がった灰色の布が風に動いていた。


昨日と同じ位置にあるが、光の向きが違うため、布に落ちる影の形は異なっている。


店では、ヘルマが作業台の前に座り、服の端へ留め具を縫い付けていた。


リゼを見ると、最初に上衣へ目を向ける。


「昨日のは、ちゃんと着られたみたいだね」


「はい。すべての留め具を自分で扱えました」


「ならいい」


ヘルマは作業台の脇から、残りの服を取り上げた。


暗い灰色の上衣。


褪せた青色の巻きスカート。


右脇を開けられる下穿き。


昨日の一組とは、色の組み合わせが逆になっている。


「着て確かめておいで」


リゼは仕切りの中で服を替えた。


留め具を閉じ、左腰のセル挿入口へ手が届くことを確認する。右膝を曲げても、裾は角材へ触れなかった。


仕切りを出ると、ヘルマが肩と脇を見た。


「右肘を曲げて」


リゼは腕を曲げた。


昨日の上衣よりも、補強布が広い範囲へ触れている。動作は可能だったが、抵抗が少し大きい。


「昨日の上衣より、右肘を曲げたときの抵抗が増えています」


「そうかい」


ヘルマは袖を裏返し、補強布を留めた糸を数針ほどいた。外殻が触れる部分だけを残し、余分な布を切って縫い直す。


「これでどうだい」


「昨日の上衣に近くなりました」


「なら、それでいい」


確認はそれで終わった。


リゼは着てきた服へ戻り、残りの一組を包んでもらった。


腰の巾着から引換札を出すと、ヘルマは中に入った五十ミルにも目を向けた。


「まだ使ってないのかい」


「何を買えばよいか分かりません」


「分からないなら、使わなくていいさ。金は、持っていても悪くならないからね」


リゼは引換札と引き換えに包みを受け取った。


店を出ると、ロアンはしばらく同じ道を歩いた。


宿舎へ戻る道と、中央通りへ向かう道が分かれる場所で足を止める。


「俺はこっちへ行く」


「ギルドですか」


「ああ」


「同行しなくてよいのですか」


「しなくていい」


ロアンはリゼが抱えている服の包みを見た。


「町を見るなら、それを落とすなよ」


「落としません」


「昼を過ぎたら戻れ」


「はい」


ロアンが一歩を踏み出して、もう一度リゼを振り返る


「俺は過保護ではないよな?」


「どういう意味ですか?」


「いや、なんでもない」


そう言い残して、ロアンは中央通りへ向かった。


リゼは分かれ道に立ち、その背を見送った。


人の流れの中で、暗い上着が少しずつ遠ざかる。荷を担いだ男が間を横切り、次に姿が見えたときには、ロアンは角を曲がるところだった。


やがて、見えなくなった。


水路を流れる音が、先ほどより大きく聞こえた。


リゼは服の包みを抱え直した。


南水路から中央通りまで。街門の方へは行かない。昼を過ぎたら宿舎へ戻る。


条件は分かっている。


どちらへ歩くかは、決められていなかった。

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