3-6. 必要ではないもの
継暦六百二十七年 七月十四日
南水路へ向かうころには、通りの店もほとんど戸を開けていた。
水路沿いでは、朝の荷を下ろし終えた荷車が道の端へ寄せられ、空いた荷台を掃く者がいる。道具屋の前には木箱が並び、向かいの食料店では乾燥豆の袋が軒下へ積まれていた。
ロアンは人の流れを避けながら歩いた。
リゼは少し後ろをついてくる。
右の歩幅は左より短い。急ぐ者に追い抜かれることはあったが、ロアンが立ち止まるほどではなかった。
食堂を出てから、リゼは口を開かなかった。
昨夜から何度か必要かと尋ねていたため、もう言っても変わらないと考えたのかもしれない。
南水路へ出る角を曲がったところで、ようやく口を開いた。
「服は、どれくらいするのでしょうか」
「店で聞け」
「高ければ、買わないこともありますか」
「必要なものは買う」
「でも、私のために使う必要は――」
ロアンは足を止めた。
リゼも止まる。
「昨日から何度目だ」
「すみません」
「謝ることじゃない。嫌なのか」
「もったいないと思います」
「服を二着買うのを惜しむくらいなら、おまえをここまで連れてきてない」
マルタの言葉を借りただけだったが、嘘ではなかった。
リゼはロアンを見た。
「すみません」
「何も悪いことはしてない」
ロアンは再び歩き出した。
灰色の布を軒へ吊った店は、マルタに言われた場所にあった。
古い巻上げ機の手前。
通りに面した間口は広くない。戸は半分ほど開け放たれ、入口近くの木枠へ上衣や下衣が何枚か掛けられている。
どれも一目で古着だと分かった。
色の褪せたもの。肘や膝へ別布を当てたもの。裾を縫い詰めた跡があるもの。
店の奥には布の束と糸巻きが積まれ、壁際の台へ裁ち鋏と針箱が置かれていた。
並んでいる服のすべてが、そのまま誰かへ売られるものではないらしい。
大きめの服を身体に合わせて詰めた跡がある。肩や脇を縫い直し、袖や裾を切り、別の服から外したらしい留め具を付け替えたものもあった。
ロアンが中へ入ると、奥で布を畳んでいた女が顔を上げた。
五十をいくらか過ぎているように見えた。
灰色の髪を後ろで束ね、目元には細かな皺がある。袖を肘まで捲った腕は細いが、布を扱う指の動きに迷いがなかった。
女はロアンを見たあと、後ろから入ってきたリゼへ視線を移した。
裂けた上衣。
右肘に覗く白い外殻。
右膝から下の角材。
一通り見ても、表情は変わらなかった。
「マルタに聞いて来た」
ロアンが言った。
「古着を直して売ってる店だと」
「間違ってないよ」
女は畳んでいた布を台へ置いた。
「ヘルマだ」
「ロアンだ」
「そっちは」
「リゼです」
ヘルマはリゼをもう一度見た。
「機械人形の服は初めてだ」
「できないか」
「できないとは言ってない」
ヘルマはすぐに返した。
「服を着る身体なら、見るところは同じだよ。違うところがあれば、そこだけ考えればいい」
そう言って、店の中央を空けるように椅子と布籠を端へ寄せた。
「立ってみな」
リゼはロアンを見た。
「言われたとおりにしろ」
「はい」
リゼが店の中央へ進む。
ヘルマは正面へ立ち、肩から腰までを見た。
「腕を上げられるかい」
リゼが両腕を横へ上げる。
右腕は途中でわずかに遅れたが、肩の高さまで上がった。
ヘルマは近づき、裂けた右袖を持ち上げた。
白い外殻が露出している。その縁では、残った人工皮膚を押さえるように薄い布が巻かれていた。
「この布は、ずっと巻いておくのかい」
「汚れたときと、濡れたときには交換します」
「何のための布だい」
「皮膚が、これ以上剥がれないようにしています」
ヘルマは巻かれた布と、露出した外殻の位置を見比べた。
「この白いところは、服が触れても平気かい」
「はい。ただ、皮膚の縁や巻いた布へ引っ掛かるのは、よくありません」
「肘を曲げてみな」
リゼが右肘を曲げる。
裂けた袖がずれ、白い外殻の端へ触れた。
ヘルマはその位置を指で押さえ、袖の裏を見た。
「これでは服の方が先に破れるね」
「服がですか」
「その外殻は硬いんだろう。腕を動かすたびに同じところへ当たれば、薄い布じゃ持たないよ」
ヘルマは白い外殻へ直接触れず、その上へ袖を戻した。
「肘が当たるところへ、裏から丈夫な布を一枚重ねる。傷を守るためじゃない。服を擦り切れにくくするためだ」
ロアンが言った。
「袖は捲れる方がいい」
「布を替えるためかい」
「ああ」
ヘルマは袖口から肘までの長さを見た。
「捲り上げても締まらないようにするよ。袖口も少し広くしておく」
次に左腕も曲げさせ、肩を前後へ動かす。
背へ手を回せるか。
頭の上まで腕を上げられるか。
右肘の布を巻いたままでも、無理なく袖へ腕を通せるか。
ひとつずつ確かめていく。
「自分で着替えるのかい」
「できます」
「留め具は」
「指で扱えるものなら」
ヘルマはリゼの手を見る。
細い指。
右手にも人工皮膚の剥がれた箇所があるが、動きに問題はなかった。
「背中で結ぶものはやめよう。前か横で留める方がいい」
そう言って、今度は腰の位置へ目を移した。
リゼの上衣の左裾を持ち上げる。
左腰には、小さなつまみの付いたハッチがあった。人工皮膚をくり抜いたように、直径五センチほどの蓋が埋め込まれている。
「これは何だい」
「セルの挿入口です」
リゼが答えた。
「ここから入れ替えるのか」
「はい」
「どれくらいのものを入れる」
リゼは両手で間を示した。
「十二型セルです。長さは、このくらいです」
「細長いんだね」
ヘルマは上衣の裾を下ろし、ハッチが隠れる位置を確かめた。
「今までは、服をめくって替えていたのかい」
「はい」
「自分で届くか」
リゼは左手で上衣の裾を持ち上げ、右手を腰のハッチへ伸ばした。
つまみへ指を掛ける。
「届きます」
「開けられるかい」
「はい」
「なら、ここは余計に開けない方がいいね」
ヘルマは裾を戻した。
「左脇へ留め具を増やすより、今までどおりめくった方が早い。裾を長くしすぎず、腰へ張りつかないようにしておけばいい」
ロアンはハッチを見た。
「交換するときに邪魔にならなければいい」
「分かってるよ。身幅を詰めても、左は手が入るだけの余裕を残す」
ヘルマは上衣の左側を軽くつまみ、どこまで詰められるかを確かめた。
「少し歩いてみな」
リゼは店の奥まで歩き、向きを変えて戻ってきた。
ヘルマは脚だけでなく、腰と肩の動きも見ていた。
「右は膝から下だけかい」
「はい」
「膝は動くんだね」
「曲げられます」
「固定してる布は、どこまで巻いてある」
リゼが下衣の破れた部分を持ち上げる。
膝下の外殻が砕けた位置から、金属のフレームへ角材が添えられ、布が何重にも巻かれている。
ヘルマは腰を屈めた。
哀れむような目ではなかった。
布の巻き方と角材の位置を見て、リゼに右膝を曲げさせる。膝下を持ち上げたとき、どこへ裾が触れるのかを確かめていた。
「ここは、すぐ見られる方がいいのかい」
リゼがロアンを見る。
「固定が緩んでないか確かめたい」
ロアンが答えた。
「布も巻き直すことがある」
「なら、脚を通す形は向かないね」
ヘルマは立ち上がった。
「普通のズボンでも、通せないことはない。けど、着替えるたびに角材を押し込むことになる。見るときも裾をずっと捲り上げなきゃならない」
壁際へ向かい、吊ってあった服を何枚か外した。
腰回りの広い下衣を二枚と、前を留め具で開けられる長袖の上衣だった。
どれもリゼには少し大きい。
「店にあるものが使えるなら、一から作る必要はないよ」
ヘルマは上衣をリゼの肩へ当てた。
「大きいところを詰めて、余ったところを切る。小さい服へ布を足すより、きれいに直せる」
上衣をいったん台へ置き、幅の広い下衣を広げる。
「これは縫い合わせを少しほどけば、巻く形にできる。足を通さず、腰へ回して脇で留める」
一枚は暗い灰色。
もう一枚は褪せた青だった。
「巻きスカートなら、前か横を開けば脚を見られる。着るときも足を通す必要がない」
ロアンは布を見た。
「歩くのに邪魔にならないか」
「長くしなければね。左はふくらはぎの半ばまで。右は角材へ触れないよう、少し短くする」
「左右で長さを変えるのか」
「同じ長さにして引っ掛けるよりいい」
ヘルマはリゼの左脚へ目を向けた。
「腰を落とせるかい」
リゼは左膝を曲げ、腰を落とした。
右膝も曲がったが、左ほど深くは下がらない。
「そこまででいい。立って」
リゼが身体を起こす。
ヘルマは布をリゼの腰へ回し、右脇で端を重ねた。
「裾を広くしすぎると、立つときに左足で踏む。前の重なりも深すぎない方がいいね」
右脇へ重ねた布を押さえる。
「ここへ留め具を四つ付ける。上から順に外せば、脚を見るところまで開けられる。全部外せば、そのまま脱げるよ」
「丈夫な方がいい」
ロアンが言った。
「歩くのを邪魔しないこと。右脚をすぐ見られること。洗いやすくて、汚れが目立ちすぎないもの」
ヘルマはロアンを見た。
「注文が多いね」
「必要なことだ」
「分かってるよ」
ヘルマは再び壁際へ向かった。
先ほど外した上衣とは別に、似た形の服をもう一着選ぶ。
どちらも前開きで、低い立て襟が付いていた。肩と胴回りには余裕があり、袖もリゼには少し長い。
「上衣はこれを使う。肩と脇を詰めて、袖丈を合わせる」
ヘルマはリゼの首元へ指を添え、指ひとつぶんほど間を空けた。
「襟は立てるけど、首には沿わせすぎない。これくらい空けた方が窮屈に見えないし、着ても楽だよ」
上衣の前へ並ぶ留め具を指で数える。
「前に五つ。全部外せば、腕も通しやすい。右袖の裏だけ丈夫な布を当てて、破れにくくする。袖口は捲れるくらいの広さを残す」
左脇を持ち上げ、裾の位置をリゼの腰へ合わせる。
「左はセルを替えるときにめくれるよう、詰めすぎない。二着とも同じ形にするよ」
「はい」
リゼが答えた。
ヘルマは別の籠から、膝丈の下穿きを取り出した。
「これも二着だね」
ロアンはそれを見た。
「スカートの下に、まだ着るのか」
ヘルマが顔を上げる。
「着るよ」
「布は重なってるだろう」
「立ってるだけならね」
ヘルマはリゼの腰へ当てていた巻きスカートの端を開いた。
「歩けばここが開く。椅子へ座っても、膝を曲げても同じだよ。右脚を見やすい形にするなら、なおさら必要になる」
開いた布の間から、リゼの右腿と左脚の内側が見えた。
「これがなければ、少し動くたびに脚の付け根まで見える」
ロアンは布の重なりを見た。
巻きスカートというものを、自分で着たことはない。腰へ巻けば、それで済むものだと思っていた。
「長くすれば隠れるんじゃないのか」
「長くすれば歩きにくくなる。裾を踏むし、角材にも触れる。それに、長くしたって風で開くときは開くよ」
ヘルマは下穿きをリゼの腰へ当てた。
「これを下に着ておけば、巻きスカートが開いても困らない。水場や階段でも気にせず動ける」
「これも右脚を通すのか」
「普通の形ならね。でも、それでは着替えるたびに角材を押し込むことになる」
ヘルマは下穿きの右脇の縫い目を指でなぞった。
「ここをほどいて、腰から腿まで開けられるようにする。端を縫い直して留め具を四つ付ける。左脚だけ通して、右側はあとから閉じればいい」
ロアンは一度、リゼを見た。
「必要なのか」
「私には分かりません」
「本人に聞いても分からないだろうね」
ヘルマが言った。
「今まで自分で服を選んでないんだから。だから、着て動くのに困らないよう、こっちで考えるんだよ」
ロアンは下穿きと巻きスカートを見比べた。
「分かった。二着だ」
「最初からそう言ってるよ」
ヘルマは次に、厚手の布を一枚取り出した。
「寒さは感じるのかい」
「感じます。ただ、凍えるということはありません」
「雨は」
「内部へ入らなければ、すぐに問題は起きません」
「濡れたままは」
「関節や損傷した部分には、よくありません」
「なら肩掛けも一枚。雨を全部防ぐものじゃないけど、右肘へ水が入りにくくなる」
色は暗い茶だった。
ロアンは台の上を見た。
長袖の上衣が二着。
巻きスカートへ直す下衣が二着。
膝丈の下穿きが二着。
肩掛けが一枚。
いつの間にか買うものが増えている。
リゼがこちらへ顔を向けたのを見て、口を開く前に尋ねた。
「いくらだ」
「まだ直してないよ」
「直したらいくらだ」
ヘルマはそれぞれの服を手に取り、布の傷みと、直す箇所を確かめた。
「服と肩掛けで三クレド半。直しと留め具を入れて、全部で五クレド五十ミルだね」
ロアンは財布へ手を掛けた。
ヘルマが片手を上げる。
「色を決めてない」
「汚れが目立たないものなら何でもいい」
「あんたには聞いてないよ」
ヘルマはリゼを見た。
「暗い方と、少し明るい方。どっちがいい」
リゼは台の上を見る。
暗い灰色の上衣。
少し青みのある灰色。
巻きスカートも、黒に近いものと、褪せた青があった。
「違いはありますか」
「暗い方は汚れが目立ちにくい。明るい方は、汚れた場所が分かりやすい」
リゼはしばらく布を見た。
「分かりやすい方にします」
「汚れが見えるからかい」
「洗う時期を判断できます」
「そうかい」
ヘルマは褪せた青の上衣を一枚持ち上げた。
「なら、全部を同じにする必要はないね。上衣は一着ずつ。巻きスカートも暗いのと青いのを一枚ずつにする」
リゼは台の上の服を見た。
「それでお願いします」
ロアンもリゼを見た。
好みで選んだようには見えなかった。
だが、自分で答えたことに変わりはない。
ヘルマも、それ以上は尋ねなかった。
「まず着てみな」
店の奥に、布を吊っただけの狭い仕切りがあった。
ヘルマがそちらを示す。
リゼは動かなかった。
「どうした」
ロアンが尋ねる。
「ここで着替えるのですか」
「そのための場所だよ」
ヘルマが答えた。
「一人でできると言っただろう」
「はい」
リゼは仕切りの中へ入った。
布の向こうで、衣擦れの音がする。
ロアンは店の入口近くへ移り、通りを見た。
水路沿いを人が行き交っている。
荷を背負った男。
籠を抱えた女。
店の前で立ち話をする二人。
誰も、店の中を気にしてはいなかった。
「ずいぶん先回りするんだね」
背後からヘルマが言った。
ロアンは振り返った。
「何がだ」
ヘルマは針へ糸を通しながら、仕切りの方を見た。
「歩きやすさも、洗いやすさも必要だよ。けど、色を聞かれたときくらい、本人が答えるまで待ってもいいだろう」
「何でもいいと言っただけだ」
「それを先に言うと、あの子はそっちへ合わせるよ」
ロアンは仕切りの方を見た。
「選んだだろ」
ヘルマは糸の端を切った。
「答えを出すまで、少し待ってやってもいいと思っただけさ」
ヘルマはそれ以上言わず、手元へ視線を戻した。
しばらくして、リゼが仕切りから出てきた。
褪せた青の上衣を着ている。
低い立て襟と首の間には、わずかに余裕があった。前には丸い留め具が五つ並んでいる。
肩と脇はまだ余り、袖は手の甲へ少し掛かっていた。
腰には暗い灰色の布を巻き、仮留めしている。
裾は左の足首近くまであり、右側は角材へ触れていた。
ヘルマはまず上衣の肩を指でつまんだ。
「ここを詰める。脇も少し。袖はこれだけ切る」
折り返した袖へ印を付けたあと、左脇の余りをつまむ。
「ここは詰めすぎない。セルを替えるときに手が入らなくなる」
「確認しますか」
リゼが尋ねた。
「やってみな」
リゼは左の裾を持ち上げ、腰のハッチへ手を伸ばした。
つまみへ指を掛ける。
「今は届きます」
ヘルマはつまんでいた布を少し戻した。
「これくらいならどうだい」
リゼはもう一度、裾をめくった。
「届きます」
「腕も動かしにくくないか」
「問題ありません」
「なら、ここまでだね」
ヘルマは詰める位置へ印を付けた。
次に腰を落とし、巻きスカートの裾を持ち上げる。
「歩いて」
リゼが店の中を往復する。
左脚を前へ出すたび、裾が揺れる。
右膝を曲げると、重なった布の間から角材と固定布が覗いた。
ヘルマは歩幅と布の動きを見ていた。
「右はもう少し切る。左も、これでは長いね」
「脚は見えるか」
ロアンが尋ねる。
「留め具を下から外せば、すぐ見られる。歩いているときも、固定部の下までは見えるよ」
ヘルマは左右の布へ、それぞれ印を付けた。
「両腕を上げて」
リゼが腕を上げる。
余った上衣が肩の上へ寄った。
「そこも詰めれば落ち着く。右肘を曲げて」
リゼが右肘を曲げる。
袖の布が外側へ引かれ、白い外殻の形がわずかに浮いた。
ヘルマは肘へ当たる位置を押さえた。
「ここへ裏から布を足す。外殻が擦れても、すぐには破れない」
「保護布を交換するとき、袖は上まで捲れますか」
リゼが尋ねた。
「袖口は広く残すよ。肘の上まで捲れる」
「分かりました」
ヘルマの口元がわずかに緩んだ。
「脱いでおいで」
寸法の確認が終わると、ヘルマは服を作業台へ並べた。
どれも、リゼより一回り大きいものだった。
上衣は肩と脇の余りをつまみ、縫い直す。左脇には、裾をめくって腰へ手を入れられる余裕を残した。
袖を短くし、右肘が当たる部分へ、裏から丈夫な布を重ねる。
前の留め具はそのまま使い、身幅を詰めた分だけ受け側の位置を移す。
幅の広い下衣は、縫い合わせの一部をほどき、腰へ巻く形へ直す。左右の裾をそれぞれ切り、右脇へ縦に四つの留め具を付ける。
下穿きは右脇の縫い目を腰から腿までほどいた。開いた端を細く折り返して縫い、同じ形の留め具を四つ並べる。
新しく布から作り起こすのではない。
近い形の古着を選び、余ったところを詰め、必要なところだけ開く。
それでも二着ずつとなれば、すぐに終わる仕事ではなかった。
ヘルマは一着目の上衣を縫いながら言った。
「全部仕上がるまで、しばらく掛かるよ」
「どれくらいだ」
「昼を過ぎるね。先に一組だけ仕上げる。残りはそのあとだ」
ロアンは店の外を見た。
急ぐ用事はなかった。
「待つ」
「そうかい」
ロアンは店の隅にある椅子へ座った。
リゼは隣へ立っていたが、ヘルマが布を運ぶたびに邪魔になるため、もう一脚の椅子へ座らせた。
「これまで、服は誰が選んでいたんだい」
ヘルマが針を動かしながら尋ねた。
「この服しか着たことがありません。商会にいて、最初から着ていました」
ヘルマは一度だけリゼを見た。
それからロアンを見る。
言葉にはしなかったが、責められているような気がした。
「商会から買った。ベルグラートから戻ってきたばかりなんだ」
「仕方ないということにしとこうか」
ヘルマは手元へ視線を戻した。
「それなら、服を選ぶのも買うのも今日が初めてだね」
「はい」
リゼは台の上に置かれた二色の上衣を見た。
「選びました。汚れが分かりやすい方を選びました」
「ほかに理由がなきゃ、最初はそんなものだ」
ヘルマは糸を切った。
「着てみて、嫌なら次は変えればいい」
リゼは答えなかった。
次があるという言葉を、どう受け取ったのかは分からなかった。
ヘルマが服を仕立てる音が続いた。
針が布を抜ける。
糸が引かれる。
裁ち鋏が余った布を切る。
ときおり、留め具を入れた箱の中で、硬いもの同士が触れ合った。
旅を終えてから、ゆっくり座っている時間はほとんどなかった。
商会での精算。
ギルドへの報告。
宿舎へ入るための話。
二〇三号室へ運び込んだ荷の整理。
眠ったはずだったが、身体の奥には長旅の疲れが残っていた。
店の外を行き交う人の声が、次第に遠くなる。
昼を少し過ぎたころだった。
「あんた、できたよ」
ヘルマの声で、ロアンは目を開けた。
いつの間にか、椅子へ座ったまま眠っていたらしい。
身体を起こすと、リゼが隣から顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか。疲れていますか」
「大丈夫だ」
ヘルマが作業台の向こうからロアンを見ていた。
「よく眠ってたね」
「どれくらいだ」
「大した時間じゃないよ」
作業台の上には、一組の服が畳まれていた。
褪せた青の上衣。
暗い灰色の巻きスカート。
下穿き。
その横には、暗い茶の肩掛けが置かれている。
もう一組は、まだ大きさを詰める途中だった。
「先に一組できた。残りは明日だね」
ヘルマは仕上げた上衣を広げ、縫い目と留め具を確かめた。
「着替えていくかい」
それから、リゼが着ている古い服へ目を向ける。
「そっちはどうする」
ロアンは持って帰ると答えかけた。
先ほど、ヘルマに言われたことを思い出す。
リゼが答える前に、自分が決めようとしていた。
「好きにしろ」
リゼがロアンを見る。
「どうしたい」
突然尋ねられ、リゼはすぐには答えなかった。
自分の服を見る。
裂けた右袖。
長く着続けた灰色の布。
次に、作業台の上へ置かれた青い上衣を見る。
店内を見回し、入口近くへ掛けられた古着へ視線を移した。
「この服は、売れますか」
ヘルマが古い服を見る。
「買い取りもしてるけど、ずいぶんくたびれてるからね。高くはならないよ」
「いくらですか」
「脱いでから見ないと分からないね」
「分かりました」
リゼは仕切りへ入り、しばらくして新しい服へ着替えて出てきた。
低い立て襟の褪せた青い上衣。
首元にはわずかな余裕があり、前には丸い留め具が五つ並んでいる。
右袖は肘の上まで無理なく捲れ、下ろせば白い外殻と保護布を覆った。
暗い灰色の巻きスカートは、左側がふくらはぎの半ばまである。右側は少し短く、角材には触れていない。
脇に縦に並んだ留め具は、目立ちすぎるものではなかった。
ヘルマはリゼの周囲を一度回った。
肩と脇の縫い目を見る。
裾の位置を確かめる。
「歩いてみな」
リゼが店の中を往復した。
裾は左脚へ絡まず、右膝を曲げても角材へ触れない。
「左腰は」
ヘルマが尋ねる。
リゼは上衣の左裾を持ち上げ、ハッチのつまみへ手を掛けた。
「届きます」
「なら、それでいい」
ヘルマは頷いた。
リゼは脱いだ古い服を差し出した。
ヘルマは上衣と下衣を広げた。
裂けた袖。
右脚の破れ。
長旅で擦れた裾。
布そのものにも、落ちそうにない汚れが残っている。
何か所かを指で引き、布の強さを確かめた。
「五十ミルだね」
「では、それを今回の代金から差し引くことはできますか」
「待て」
ロアンが口を挟んだ。
リゼがこちらを見る。
ヘルマも顔を上げた。
「任せるんじゃなかったのかい」
「売るのは任せた」
ロアンは財布を取り出した。
「その五十ミルは、リゼに渡してくれ。代金からは引かなくていい」
「私にですか」
「おまえの服を売った金だ」
「でも、服は商会から――」
「いまはおまえのものだろ」
リゼは古い服を見た。
それから、新しく着た上衣の裾を見る。
「分かりました」
ヘルマは呆れたような、少し笑っているような顔をした。
「じゃあ、ひとまずあんたから代金をもらうよ」
ロアンは五クレド五十ミルを支払った。
ヘルマは帳面へ金額を書きつけ、引き出しから五十ミルを取り出した。
リゼへ渡そうとして、手を止める。
「そのまま持たせたら、落とすかね」
「財布は持っていません」
「そうだろうね」
ヘルマは硬貨を台へ置き、店の奥を探し始めた。
布籠を一つ動かし、その下から小さな箱を引き出す。
中には端布や紐、使われていない留め具が入っていた。
その中から、掌に収まるほどの小さな巾着を取り出した。
白い布地に、赤い糸で小さな花が刺繍されている。
ヘルマは巾着の口を開け、五十ミルを中へ入れた。
「これなら、なくさないだろう」
リゼは差し出された巾着を見た。
「これは、いくらですか」
「金はいらないよ」
「いいのですか」
「売り物じゃないからね。前に作ったけど、小さすぎて使い道がなかったんだ」
ヘルマはロアンを見る。
「あんたも、それでいいだろう」
「ああ。悪いな」
その言葉を聞いて、リゼがゆっくり手を伸ばした。
白い巾着を両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「紐を腰へ結んでおけばいい。服の留め具には掛けるんじゃないよ。引っ張れば取れるからね」
「分かりました」
リゼは巾着の紐を、上衣の下にある腰紐へ結んだ。
巻きスカートの脇から、赤い花の一部だけが覗いた。
ヘルマは残った服をまとめた。
肩掛けだけは、その場で持ち帰ることができる。
仕立ての途中にある暗い灰色の上衣と褪せた青の巻きスカート、それに二着目の下穿きは、明日以降に受け取ることになった。
ヘルマは木札へ印を付け、ロアンへ差し出した。
ロアンが受け取ろうとすると、ヘルマはその手を避け、リゼへ向けた。
「これは、あんたが持っておきな」
リゼは巾着の口を開き、木札を中へ入れた。
「明日、来ればよいのですか」
「明日の昼を過ぎてからなら、いつでもいいよ。急がなくても取っておく」
「分かりました」
「今度は一人でも来られるかい」
リゼはロアンを見る。
南水路までの道を思い出しているのか、少し間を置いた。
「道は覚えています」
「なら大丈夫だね」
ロアンは口を挟まなかった。
店を出ると、朝よりも水路へ差し込む光が高くなっていた。
通りを歩く者も増えている。
リゼは暗い茶の肩掛けを両腕に抱えた。
腰には、小さな白い巾着が下がっている。
しばらく歩いたところで、ロアンは隣を見た。
埃と染みのついた破れた服ではない。
褪せた青の上衣と、暗い灰色の巻きスカート。
服が変わっただけだった。
右脚の角材も、右肘の損傷も、そのまま残っている。
それでも、一度通り過ぎたあとでリゼを振り返る者は、朝より少なかった。
「歩きにくくないか」
「はい」
「袖は」
リゼは右肘を曲げ、続いて腕を上げた。
「問題ありません」
左手で上衣の裾をめくり、セルのハッチにも触れる。
「ここにも届きます」
「そうか」
リゼは裾を戻した。
歩きながら、何度か腰の巾着へ手を触れている。
「落ちないか気になるのか」
「はい」
「強く引くなよ」
「分かりました」
「中身は五十ミルだけだ」
「綺麗な花です」
ロアンは返事をしなかった。
はじめて自分で得た金のことを朧げながらに思い出す。自分はそうではなかった。
リゼにとっては金額よりも、花の模様に意識が向いているようだった。
宿舎へ戻るまで、リゼは巾着から手を離さなかった。
部屋へ入ると、リゼは中央で足を止めた。
肩掛けを抱えたまま、周囲を見る。
寝台。
机。
椅子。
壁際の棚。
携行箱。
「どうした」
「肩掛けを、どこへ置けばいいですか」
ロアンも部屋を見た。
中古の携行箱には、セルと清掃布、固定布、検査札、予備の革が入っている。
肩掛けを畳めば、入らないことはない。
だが、脚へ巻く布や革と一緒にすることになる。
明日には、残りの服も増える。
ロアンは壁際の棚へ向かった。
三段ある棚の上段には、砥石と使いかけの蝋、傷薬が置かれている。
中段には、予備の紐と依頼札を挟んだ薄い木箱。
下段には、折り畳んだ布と、使っていない小さな革袋があった。
ロアンは下段の布を自分の衣類箱へ移した。
革袋は中段へ置き、予備の紐をその中へ入れる。
依頼札の木箱を縦に立てると、棚の下段が空いた。
「そこを使え」
リゼは肩掛けを抱えたまま、空いた棚を見た。
「邪魔になりませんか」
「ほかに置く場所がない。この段はおまえのものを置く場所にする」
「携行箱があります」
「あれに入るわけないだろう」
リゼがロアンを見る。
「明日、残りの服もそこへ置け」
「はい」
リゼは肩掛けを机へ置き、丁寧に畳み直した。
棚の下段へ置く。
一度置いたあと、端が少しはみ出していることに気づき、もう一度畳んだ。
「そこまで揃えなくていい」
「このままだと崩れます」
「一枚しかないだろ」
リゼは肩掛けの端を棚へ揃えた。
腰へ下げていた巾着を外し、その横へ置こうとする。
「それは持ってろ」
リゼが振り返る。
「ここへ置くのではないのですか」
「金が入ってる」
「ここなら、なくしません」
「外で使うなら、持ってないと意味がないだろ」
リゼは巾着を見る。
何に使うのか分からないのだろう。
五十ミルを持っていても、買うものは決まっていない。
「腰へ付けておけ」
「はい」
リゼはもう一度、巾着を腰紐へ結び直した。
それから、棚の前へ立ったまま動かなかった。
「何してる」
「見ています」
「何をだ」
「私が使う場所を見ています」
棚の下段には、暗い茶の肩掛けだけが置かれている。
明日受け取る服の引換札は、腰の巾着に入っていた。
「ずっとここへ置いたままでいいのですか」
「使うときに出せ」
「使わないときは」
「そこへ戻せ」
リゼは少し間を置いた。
「分かりました」
リゼは肩掛けを手にとって、崩れがないかもう一度確かめた。そしてもう一度戻した。ロアンから見れば何を気にしているのかはわからなかった。
部屋の広さも、棚の形も変わっていない。
ロアンの物が別の場所へ寄り、その空いた一段へ、リゼの肩掛けが置かれている。
明日には、もう一組の服もそこへ加わる。
それだけのことだった。
「服はどうだ」
リゼが顔を上げた。
「問題ありません」
「そうじゃない」
ロアンは言ったあと、何を尋ねたかったのか分からなくなった。
そうじゃないと言われて、リゼはロアンの続く言葉を待った。
歩きやすいか。
留め具は使いやすいか。
セルを替えられるか。
必要なことは、すでに店で確かめている。
「嫌じゃないか」
「嫌ではありません」
「ならいい」
リゼは褪せた青の布へ触れた。
「いままでとは違います」
「ああ」
「私が選びました」
「そうだな」
「ロアンに買ってもらいました」
リゼはもう一度、青い袖を見た。
「ありがとうございます」
「気にするな」
棚の下段には、暗い茶の肩掛けが一枚置かれていた。
明日には、残りの服もそこへ加わる。
腰には、五十ミルの入った小さな巾着が下がっている。
服も、肩掛けも、金を入れる袋も、必要なものだ。
白い布に縫われた赤い花だけは、何の役にも立たなかった。
だからといって、それを外す必要もなかった。




