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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
3. 帰る場所
27/65

3-5. 朝の食堂

継暦六百二十七年 七月十四日


目を覚ますと、机の前にリゼがいた。


昨夜と同じ椅子へ浅く腰を下ろし、両手を膝の上へ置いている。背もたれには寄り掛からず、角材を取り付けた右の膝下だけが、机の下へ斜めに伸びていた。


窓の外はすでに明るい。


水路を流れる音に、通りを行く荷車の軋みが混じっている。一階で戸を開ける音がし、廊下を歩く足音が続いた。


ロアンは寝台から上体を起こした。


リゼの顔がこちらへ向く。


「おはようございます」


「ああ」


眠っていたあいだも、同じ姿勢でいたのだろう。


視覚や聴覚を落としていたのか。それとも、目を開けたまま周囲を見ていたのか。


尋ねかけて、やめた。


昨夜脱いだ上着を木釘から取り、羽織る。棒剣は壁際へ置いたままにし、財布と短剣だけを身につけた。


リゼはその動きを見ていた。


「立て」


「はい」


椅子へ手をつき、左脚で身体を持ち上げる。右膝を伸ばし、角材の先を床へ下ろした。


固定布に緩みはない。


上衣の右袖は、肘の周囲が裂けたままだった。剥がれた人工皮膚と、その下にある白い外殻が、布の間から覗いている。


下衣も右膝の下で大きく破れていた。


砕けた外殻の断端。その内側から伸びる金属のフレーム。角材を固定するために巻いた布まで、ほとんど隠れていない。


旅の途中では、何度も見てきた姿だった。


脚を確かめるには都合がよく、布が裂れていても歩くことには支障がなかった。


「出るぞ」


「どこへ向かいますか」


「昨日言われただろう。服を買う」


リゼは自分の上衣へ目を落とした。


「本当に必要ですか」


「必要なものは買う」


昨夜と同じ言葉を返した。


リゼは少し間を置いた。


「この服でも動けます」


「洗えないだろう」


「洗っているあいだは、着なくても――」


「それは駄目だと言った」


「はい」


返事をしたあとも、リゼは自分の服を見ていた。


裂けた右袖。


長旅の汚れが染み込んだ布。


右膝の下で大きく破れた下衣。


改めて見れば、そのままにしておいてよいものではなかった。


旅のあいだは、歩けるかどうかだけを見ていた。


洗うあいだのことも、宿舎で暮らすことも考えていなかった。


「食事をしてから出る」


「はい」


部屋を出ると、廊下の先で扉が閉まった。


部屋二つ分を隔てた奥の扉から男が出てくる。肩へ道具袋を掛け、眠そうに欠伸をしていたが、リゼを見ると口を閉じた。


顔から裂けた袖へ視線を下ろし、角材の脚を見る。


それからロアンへ目を向けた。


「戻ってたのか」


「ああ」


「昨日の夜か」


「そうだ」


男はそれ以上尋ねなかった。


二人の横を通り、階段へ向かう。途中で一度振り返ったが、ロアンが見ていることに気づくと、そのまま下りていった。


リゼは男の背を見ていた。


「同じ宿舎の者だ」


「名前は知っていますか」


「忘れた」


「話したことはあるのですか」


「挨拶くらいはな」


リゼは男が消えた階段の方を見た。


「同じ場所に住んでいても、名前を知らないことがあるのですね」


「全員と親しくなる必要はない」


「そういうものですか」


「ああ」


階段では、左脚を下へ降ろし、一歩ずつ進んだ。右膝を曲げて角材を次の段へ運び、その位置を確かめてから身体を下ろす。


ロアンは一段下へ立ち、腕を支えられる位置を取った。


リゼは手を借りなかった。


途中、下から上がってきた女が階段の半ばで足を止めた。


両腕に洗った布を抱えている。


狭い階段とリゼを見比べ、壁際へ身体を寄せた。


「先に下りて」


「すまない」


ロアンが言うと、女は首を振った。


「急いでないから」


リゼは前を通り過ぎるとき、女へ顔を向けた。


「ありがとうございます」


「べつに」


女は短く答え、二人が下りきってから階段を上っていった。


一階へ下りると、食堂の戸はすでに開いていた。


焼いた麦と煮た豆の匂いが流れてくる。


長机には宿舎の住人が何人か座り、仕事へ出る前の食事を取っていた。匙が器へ触れる音や、途切れ途切れの会話が重なっている。


ロアンが中へ入ると、調理場にいたマルタが顔を上げた。


「やっと起きてきた」


「別に遅くはないだろう」


マルタは後ろから入ってきたリゼを見た。


「店へ行くんだろうね」


「食ったら行く」


「それならいい」


ロアンはカウンターに並ぶ麦粥と煮豆、薄い茶の載った盆を持ち上げると、空いている長机へ向かった。その後ろをリゼが続く。


ぽつぽつと、食堂にいる者たちの視線が集まっていた。


会話を止めた者もいる。


一度リゼを見ただけで、自分の朝食へ戻る者もいた。


宿舎の住人のほとんどは顔見知りだった。


廊下や水場ですれ違えば挨拶をする。長い仕事から戻れば、無事だったかと尋ねられることもある。


だが、同じ建物で暮らしているからといって、誰もが親しく話すわけではない。


名前と顔だけを知っている者もいる。何の仕事をしているのか、よく知らない者もいる。


ロアンが普段から言葉を交わすのは、その中でも二人か三人ほどだった。


今朝、そのうち食堂にいたのは一人だけだった。


奥の長机に座るアルドが、茶の器を持ったまま、こちらへ軽く顎を引いた。


水路や水門の補修を請け負う人足で、同じ日に宿舎へいれば二言三言は話す。親しいと呼ぶほどではないが、ロアンが仕事から戻ったときに声を掛けてくる者の一人だった。


アルドの向かいにいる男は、一度リゼを見ただけで、自分の器へ顔を戻していた。


壁際に座る年嵩の女は、脚へ目を向けたあと、通路の幅を確かめるように卓の脇を見た。


入口に近い卓にいた男だけは、匙を止めたままリゼを眺めていた。


ダーレスという男だった。普段から、人の噂を聞きつけたときくらいしかロアンへ声を掛けてこない。


向かいにはカイルが座っていた。


同じ宿舎にいるため、顔と名前くらいは知っている。まだ若く、都市内や近隣の雑多な仕事を主に請けていると聞いたことがある。


誰とでもすぐに口を利く男だった。ロアンにも何度か話しかけてきたことはあるが、返事が短いと分かってからは、廊下ですれ違うたびに勝手に一言だけ喋って去っていくようになった。


ロアンはその視線を気にせず、手近な長椅子へ座った。


リゼは自分へ向けられた視線を順に見ている。


ロアンが腰を下ろしても、その場に立ったままだった。


「座れ」


振り向いたロアンが隣を示す。


リゼは長椅子と机の間を見た。


左脚を軸に身体の向きを変え、右膝を曲げて腰を下ろす。


壁際の女が、その脚を見た。


「通路に出さないでおくれよ。食事を運ぶときに引っ掛けそうだ」


リゼが顔を向ける。


「この位置なら大丈夫ですか」


「ああ。そこなら通れる」


「分かりました」


女は頷き、自分の朝食へ戻った。


近くに座っていた男が、肩越しにリゼを見た。


「座っててくれるなら助かる」


「立っていると邪魔になりますか」


「邪魔ってわけじゃない」


男は匙を置き、言葉を探すように口を曲げた。


「後ろに立たれると、少し落ち着かないだけだ。見慣れてないからな」


リゼは男を見た。


「では、近くでは座るようにします」


「ずっと座ってろって意味じゃない。狭い場所だけでいい」


「はい」


男はそれで納得したらしく、食事へ戻った。


カイルが煮豆を口へ運びながら言った。


「そこまで気にしなくても、後ろに立たれて困るようなことしてないだろ」


「してなくても嫌なものは嫌なんだよ」


「そういうものか」


「おまえは気にならないのか」


カイルはリゼを見た。


「俺は後ろに立たれたら、何か手伝ってくれるのか聞くな」


「何をだ」


「肩でも揉んでもらう」


リゼがカイルを見る。


「肩を揉むことはできます」


カイルの匙が止まった。


「できるんだ」


「強さを教えてもらえれば」


「それは便利だな」


「頼むんじゃないよ」


壁際の女が呆れたように言った。


カイルは笑いながら器へ視線を戻した。


「まだ頼んでないって」


ダーレスが鼻から息を漏らした。


「ずいぶんなものを持って帰ってきたな」


「何だ」


「商会から盗んできたわけじゃないんだろうな」


ロアンは顔を上げた。


「買った」


「それを?」


ダーレスは、リゼの裂けた袖から角材の先までを隠しもせずに眺めた。


「いくらしたか知らんが、ずいぶん損をしたな。まともな脚もないじゃないか」


アルドがダーレスを見たが、すぐには口を挟まなかった。


カイルは匙を咥えたまま、ダーレスへ目を向けた。


「朝飯を食いながら、他人の買い物に値をつけるのか」


ダーレスが顔を向ける。


「おまえに言ってない」


「聞こえるところで喋ってるだろ」


「黙って食ってろ」


「そっちもな」


カイルはそれだけ返し、煮豆を口へ入れた。


リゼは自分の右脚へ視線を落とした。


右脚は膝から下がなく、代わりに角材が取り付けられている。


商会では十分な仕事を任されず、セルが尽きれば分解される予定だった。


エルデンまで連れてこられたあとも、何をするのかは決まっていない。


「動くのか、それ」


ダーレスが続けた。


「歩くことはできます」


「見れば分かる。仕事ができるのかって聞いてるんだ」


リゼはすぐには答えなかった。


ロアンの方を見る。


許可を求めているようにも、自分が何を答えるべきか迷っているようにも見えた。


「聞かれたことに答えればいい」


「はい」


リゼはダーレスへ顔を戻した。


「荷を運んだり、周囲を見張ったりはできます。道具の使い方を教えてもらえれば、ほかの仕事もできると思います」


「その脚でか」


「以前と同じようには動けません」


「じゃあ、ろくに役に立たないだろ」


リゼの口が閉じた。


膝の上に置いた指が、わずかに重なった。


カイルが器から顔を上げた。


「見張りができるなら、俺より役に立つな」


ダーレスが眉を寄せる。


「何の話だ」


「俺、見張りをすると眠くなるから」


「自慢することか」


「眠くなるものは仕方ないだろ」


カイルはリゼを見る。


「眠くならないんだよね」


「眠る必要はありません」


「ほら、もう負けた」


「勝手に負けてろ」


ダーレスが吐き捨てる。


アルドが茶の器を持って立ち上がり、こちらの卓へ近づいてきた。


「おまえよりは働くんじゃないか」


ダーレスが顔を向ける。


「俺は人間だ。壊れた道具と比べるな」


カイルがすぐに口を挟んだ。


「人形だって性格の悪い人間と比べるなって思ってるだろうな」


「カイル」


「何だよ」


「黙れ」


「朝から機嫌が悪いな」


カイルの声には、ダーレスを怒らせようとするほどの棘はなかった。


ただ思ったことを口にし、相手が嫌がってもあまり気にしない。


ダーレスはカイルを睨んだが、言い返す相手を変えたくはないらしく、再びリゼへ目を向けた。


リゼは自分の右脚を見たまま動かなかった。


ロアンは匙を取ろうとして、やめた。


隣を見る。


リゼが顔を上げた。


ダーレスではなく、ロアンを見ていた。


「私にも、できることはあります」


声は小さかった。


言い返したというより、確かめるような言葉だった。


不安が、言葉の奥にあるように聞こえた。


「知っている」


ロアンは答えた。


リゼはしばらくこちらを見ていた。


やがて正面へ顔を戻す。


膝の上で重なっていた指も、元の位置へ戻った。


ダーレスは二人を見比べた。


「何をさせるかも決まってないんだろ」


「おまえに話すことじゃない」


「いくらで買った」


「それもだ」


「商会の人形なら、そんな状態でも部品には――」


「ダーレス」


ロアンは名前を呼んだ。


声を荒らげたわけではない。


それでも、ダーレスは言葉を止めた。


何を言おうとしていたのか、分からないほど鈍くはないらしい。


カイルも今度は何も言わなかった。


器の縁へ置いていた匙を取り、煮豆を一つ押し潰している。


短い沈黙のあと、ダーレスは鼻を鳴らした。


「部屋に置くつもりか」


「ああ」


「ガルドは許したのか」


「許可は出ている」


「夜中に動き回ったりしないだろうな。古い建物なんだ。床でも抜かれたら迷惑だ」


アルドが口を開いた。


「おまえが歩いて抜けないなら大丈夫だ」


アルドの向かいにいた男が、わずかに肩を揺らした。


壁際の女も茶の器へ口をつけたまま、目元を細めた。


カイルは声を出して笑った。


「それなら心配ないな。ダーレスが毎日歩いてる」


ダーレスの顔が険しくなる。


「冗談じゃなく言ってるんだ」


「俺もだ」


アルドが答えた。


「機械人形は重いって聞くぞ」


「ガルドが許したんだろ。だったら、おまえが心配することじゃない」


アルドが言った。


「何かあってからじゃ遅い」


「何かあったら、ガルドとロアンが考える。今の話なら、せいぜい床が抜ける程度だろうがな」


「床が抜けたら十分大事だろ」


カイルが言った。


「俺の部屋の床じゃなきゃいいけど」


「おまえは黙ってろ」


「さっきからそればっかりだな」


アルドは残っていた茶を飲んだ。


「とにかく、おまえが朝飯を食いながら考える必要はない」


ダーレスは何か言い返しかけた。


だが、周囲の者たちが自分を見ていることに気づいたのか、口を閉じた。


「金の使い方は勝手だが、他人に迷惑を掛けるなよ」


「朝から他人に絡んでるおまえが言うのかい」


マルタが調理場から出てきた。


片手に空の器を重ねている。


「見慣れないものが来たからって、口まで悪くする必要はないだろう」


「心配してるだけだ」


「誰をだい」


「宿舎の連中を」


「頼んだ覚えはないね」


「俺も頼んでない」


カイルが言った。


「おまえには聞いてない」


「俺も宿舎の人間だぞ」


「カイル」


マルタが名前を呼んだ。


「はい」


「おまえも少し黙って食べな」


「ダーレスと同じ扱いか」


「喋りすぎるところは同じだよ」


カイルは肩をすくめ、器へ向き直った。


マルタはリゼへ顔を向けた。


「こいつは昔からこういう男だよ。いちいち気にしなくていい」


リゼはダーレスを見た。


「分かりました」


返事はしたものの、何を気にせず、何を聞き入れるべきかまでは分かっていないようだった。


アルドが茶の器を持ったまま笑う。


「全部聞き流していいぞ」


「アルド、おまえまで余計なことを言うんじゃないよ」


「分かりやすくしただけだ」


カイルが顔を上げる。


「俺の話も半分くらい聞き流していいよ」


リゼがカイルを見る。


「半分ですか」


「全部だと少し寂しいから」


「どの半分を聞けばいいのですか」


カイルは少し考えた。


「面白い方」


「それは私が決めるのですか」


「そうなるね」


リゼは返事をせず、しばらくカイルを見ていた。


カイルはなぜか楽しそうに笑った。


ダーレスが匙を器へ置いた。


「人形相手に、何を本気になってるんだ」


「ダーレス」


マルタの声が低くなった。


「食べ終わったなら出ていきな」


「まだ終わってない」


「なら黙って食べな」


ダーレスは何か言い返しかけたが、マルタの顔を見てやめた。


匙を取り、自分の器へ向き直る。


止まっていた会話が、少しずつ戻ってきた。


アルドの向かいにいる男は、何事もなかったように食事を続けている。


壁際の女は席を立ち、空いた器を調理場へ返した。


別の卓では、今日使う道具の話が再び始まっていた。


リゼは食堂にいる者たちを見回した。


カイルは自分の器を食べ終えると、椅子の上で少し身体をずらし、リゼの方へ向いた。


「ところで、本当に機械人形なんだよね」


リゼが顔を向ける。


「はい」


「見れば分かるけど、見ても良く分からないね」


「人間に見えるという意味ですか?」


「顔だけなら」


カイルは裂けた右袖と角材へ目を向けた。


リゼも自分の袖を見る。


「今日は服を買いに行きます」


「それでマルタが朝からうるさかったのか」


「聞こえてるよ」


調理場から声が飛んできた。


「褒めてるんだ」


「どこがだい」


カイルは答えず、もう一度リゼへ顔を向けた。


「俺が見たことのある人形は、荷を運んでるか、商会の入口に立ってるだけだった。声を聞いたことがなくて」


「話す必要がなかったのかもしれません」


「話しかけたら、答えたのかな」


リゼは少し考えた。


「自分に話しかけられたと分かれば、答えたと思います」


「じゃあ、話しかければよかった」


「何を話したかったのですか」


「何だろうね」


カイルは天井を見るように顔を上げた。


「暇じゃないのか、とか」


「仕事をしていたのなら、暇ではなかったと思います」


「それもそうか」


「あなたは仕事中に暇になるのですか」


「よくあるよ」


「仕事がないのですか」


「やる気がなくなるだけだ」


近くの男が鼻で笑った。


「正直に言うな」


カイルはそちらへ手を振った。


「名前は、リゼ?」


「はい」


「俺はカイル」


「カイル」


リゼは一度、その名を口にした。


「ロアンは俺の名前、覚えてた?」


「ああ」


「本当に?」


「本当だ」


カイルは満足そうに頷いた。


「今の確認、必要だったか」


近くの男が尋ねる。


「必要だろ。忘れられてると思ってた」


ロアンは麦粥を口へ運んだ。


向かいのダーレスが鼻で笑う。


「喋る道具相手に、よくそこまで話せるな」


カイルは顔を向けた。


「返事があるからな」


「道具だぞ」


「匙にも話しかけるのか、ダーレスは」


「話すわけないだろ」


「そう、匙には話しかけない。何も返ってこないからな」


ダーレスはカイルを睨んだ。


カイルは気にした様子もなく、空になった器を持ち上げた。


「ごちそうさまでした」


リゼは二人を交互に見たあと、カイルへ顔を戻した。


「私を道具ではないと思っているのですか」


カイルは立ち上がりかけた姿勢で止まった。


「そこまで難しいことは考えてないよ」


「そうですか」


「話しかけて返事をするなら、話してもいいだろってだけだよ」


リゼはしばらくカイルを見た。


「分かりました」


「本当に?」


「たぶん」


リゼの返答に、カイルは少し目を見開いた。


それから笑った。


「今のは、人間みたいだった」


「どこがですか」


「たぶんってところ」


リゼはそれについて考えるように黙った。


カイルは器を持って席を離れた。


マルタが調理場へ戻りかけ、足を止めた。


「店は、もうちょっと経たないと開いてないよ」


「どれくらいだ」


「食べ終わって、少し部屋を片づけてから出ればちょうどいい」


そう言って、リゼの裂けた袖へ目を向けた。


「中古の服をそのまま売るだけじゃなく、身体に合わせて軽く直してくれる。何が合うかちゃんと見てもらいな」


「ああ」


「二着ずつだよ」


「覚えてる」


「上と下合わせて一着だよ」


「分かってる」


アルドが小さく笑った。


「一着ずつ買って帰りそうな顔をしてるから、言われるんだ」


「おまえまで口を出すな」


「ダーレスと一緒にするな。こっちは親切だ」


「頼んでない」


「知ってるさ」


アルドは席を立った。


空になった器を調理場へ返し、肩へ掛けていた道具袋を持ち直す。


ロアンの後ろを通り、リゼの横で足を止めた。


「遅れたな。俺はアルドだ。水路や道、発電設備、都市のインフラの仕事を主に請け負ってる」


リゼが顔を上げる。


「リゼです」


「知ってる。今一番この宿舎での有名人だ」


アルドは角材の脚へ目を向けた。


「水場の床は滑る。行くなら壁側を通った方がいい。朝は人も多いからな」


「分かりました」


「そうだ、階段で会ったら、先に下りてくれ。途中ですれ違うのは面倒だ」


「はい」


言葉はぶっきらぼうだったが、声に嫌悪はなかった。


一緒に暮らすうえで困りそうなことを、そのまま伝えているだけだった。


アルドは戸口へ向かった。


「またな」


リゼはその背へ顔を向けた。


「はい。また」


カイルもアルドの後ろを歩いていたが、戸口で振り返った。


「俺にも、またって言ってくれないかな」


リゼがカイルを見る。


「また」


「はい。また」


「早く来い」


アルドが外から言う。


「待ってくれてたんですか」


「道具を忘れてる」


カイルは自分の座っていた場所を見た。


椅子の脇に、小さな革袋が置かれている。


「ああ、本当だ」


それを取りに戻ると、ダーレスが呆れたように息を吐いた。


「人形に名前を覚えてもらう前に、荷物を忘れないようにしろ」


「気付いてたなら言ってくれたっていいだろ」


「わざと置いていったんだと勘違いしてたぜ」


ダーレスの言葉に構わずカイルは革袋を拾い上げ、リゼへ片手を上げた。


「今度こそ、また」


「はい。また」


カイルは満足したように食堂を出ていった。


食事を終えるころには、住人も少なくなっていた。


仕事へ向かう者たちが順に席を立ち、長椅子を戻して外へ出ていく。


リゼの前を通るとき、少し距離を取る者がいた。


特に気にせず横を通る者もいた。


先ほど背後に立たれるのを嫌がった男は、席を立つ際に一度リゼを見たが、何も言わず食堂を出た。


ダーレスも最後まで不満そうな顔をしていたが、食事を終えると一人で席を立った。


ロアンは残っていた茶を飲み干した。


器を持って立ち上がる。


リゼも続いて席を立った。


ロアンは自分の器を調理場へ返した。


マルタが受け取りながら、食堂の中を見た。


「最初にしては、まあ、こんなものかね」


「何がだ」


「何でもないよ」


マルタは器を水桶へ入れた。


「ヘルマの店は、南水路沿いを水門の方へ歩いて、古い巻上げ機の手前だ。灰色の布を軒に吊ってる。見れば分かる」


「ああ」


「値札だけ見て決めるんじゃないよ。直し代がどこまで入ってるか、先に聞きな」


「分かった」


「本当に分かったのかい」


「分かった」


マルタはまだ何か言いたそうにしていたが、別の住人が器を運んできたため、そちらへ顔を向けた。


ロアンはリゼを連れて食堂を出た。


廊下へ出ると、先ほどまでの話し声が少し遠くなる。


リゼは一度、食堂の戸を振り返った。


「どうした」


「知らない人たちから、あんなに話しかけられたのは初めてでした」


「嫌だったか」


「いいえ」


リゼは閉じかけた戸を見ていた。


「カイルは、ティナに少し似ています」


「どこがだ」


「よく話します」


ロアンは階段へ足を向けた。


「それだけか」


「まだ、それしか分かりません」


リゼは少し遅れてついてきた。


「また話しかけられるでしょうか」


「同じ宿舎にいるんだ。嫌でも会う」


「嫌ではありません」


階段を上りながら、ロアンは一度だけ後ろを見た。


リゼは食堂の方を振り返らず、こちらを見ていた。


二〇三号室へ戻り、旅袋の中身を片づけた。


使い終えた布をまとめ、洗うものと、まだ使えるものに分ける。昨夜は壁際へ置いただけだった携行箱も、通り道を塞がない位置へ動かした。


ロアンは棒剣を取り、寝台の端へ腰を下ろした。


布で表面を拭う。


旅の途中でも手入れはしていたが、長く携えていたあとの汚れが残っていないか、改めて確かめる。


金属部と柄の境。


細い溝。


先端近くについた傷へ指を当てる。


錆につながる汚れは見つからなかった。修理も必要ない。


リゼは椅子へ座り、その作業を見ていた。


「手伝えることはありますか」


「ない」


「はい」


返事のあとも、視線はロアンの手元へ残っていた。


「何だ」


「何かあれば、言ってください」


「ああ」


それでリゼは黙った。


ロアンは棒剣を裏返した。


先ほどの食堂で、リゼは自分にもできることがあると言った。


ダーレスに言い返したかったわけではないのだろう。


何をさせるか決めていないロアンへ、自分は役に立つと伝えたかった。


商会にいたころ、役に立たないと判断された先に何があるのか、リゼは知っている。


「ダーレスの言ったことは気にするな」


リゼが顔を上げた。


少し考えたあと、自分の右脚へ目を落とす。


「間違ってはいません」


「何がだ」


「脚がないことも、何をするか決まっていないことも、本当です」


「だから何だ」


リゼは答えなかった。


ロアンは棒剣の表面を拭った。


「おまえを買ったのは俺だ」


「はい」


「損をしたかどうかも、俺が決める」


リゼはしばらく黙っていた。


「分かりました」


分かったと言いながら、視線はまだ右脚へ向いたままだった。


その言葉だけで何かが変わるわけではない。


脚も、壊れた外殻も、何をさせるか決まっていないことも、そのままだった。


ロアン自身、これからどうするのか分かっていなかった。


ただ、ダーレスに言われたからといって、買ったことを損だと思うつもりはなかった。


「まず服を買う」


リゼが顔を上げる。


「あとは、そのあとだ」


リゼは少し間を置いた。


「はい」


窓の外から聞こえる音が変わっていった。


朝早く町を出る荷車の音が減り、代わりに店先の板戸を開ける音や、品物を並べる者の声が増えている。


ロアンは手入れを終えた棒剣を壁際へ戻した。


窓から通りを見下ろす。


そろそろ店も開くころだった。


「行くぞ」


リゼが椅子から立ち上がる。


「はい」

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