3-4. 二〇三号室
ギルド宿舎の前へ着いたころには、通りを歩く者も少なくなっていた。
水路沿いの食堂から、煮込みの匂いがかすかに流れてくる。窓から漏れる明かりはまだ消えていなかった。
ロアンは左手に中古の携行箱を提げていた。
中に収められているのは、動力商で検査と低速充填を終えた黒化十二型セルと、清掃布、固定用の布、帰路で買い足した予備の革だった。蓋の内側には、動力商から受け取った検査札が挟んである。
ベルグラートを出てから、携行箱は予備車両の荷台に置いていた。
これからは二〇三号室のどこかへ収め、必要なときに取り出せるようにしておかなければならない。
箱だけではなかった。
入口の前で足を止めると、少し後ろを歩いていたリゼも止まった。
これまでなら、帰還報告と精算を終えたあと、一人でここへ戻っていた。
護衛たちとはギルドで別れ、御者と荷役は商会へ残る。部屋へ帰れば、装備を外し、身体と武具の汚れを落として眠る。
それで仕事は終わった。
ロアンが扉へ手を掛けると、背後から声がした。
「ここですか」
振り返る。
リゼは宿舎の入口ではなく、ロアンを見ていた。
旅の途中で同じ宿駅に泊まったことはある。しかし、あのときは商隊の一員として割り当てられた場所にいただけだった。
ここは、ロアンが寝起きする場所だった。
「そうだ。ギルドの宿舎を借りている。部屋は二階だ。少し古いが」
それだけ答え、扉を開けた。
リゼも遅れて中へ入った。
宿のように一階が広間になっているわけではない。玄関代わりの小さな空間の先、正面にある扉は管理人室の戸。右手には廊下が伸びており、そのすぐ左手には上の階へ続く階段があった。
ロアンが戸を叩くと、男の声が返ってきた。
「なんだ、開いている」
その声に従ってロアンが扉を開ける。机の向こうで帳面を見ていた男が顔を上げた。この宿舎の管理を行っているガルドという男だ。
「戻ったか、久しぶりだな」
「ああ」
「遅かったな。食堂はもうすぐ片づけに入る時間だ」
その途中で、ロアンの後ろに立つリゼへ気づく。
手が止まった。
宿舎の入口は薄暗い。長旅で汚れた服を着た、黒髪の若い娘にも見える。顔立ちは人間と大きく変わらず、瞳の淡い光も、離れていれば油灯を映しているだけに見えなくはなかった。
ガルドはロアンを見て口を開く。
「誰だ」
「リゼという」
「そうじゃない。どういう連れだ」
「しばらく俺の部屋に置く」
ガルドの眉が寄った。
「置く?」
ロアンは答えず、携行箱を床へ下ろした。
「規約と料金を確認したい」
「その前に、説明しろ」
ガルドは椅子から立ち上がり、机の向こうからリゼの近くまで来た。
正面から顔を見たあと、視線が右肘へ落ちた。
裂けた袖の下に、人工皮膚の剥がれと白い外殻が覗いている。
さらに下へ視線を動かす。
下衣は右脚の途中で破れ、その下から角材が伸びていた。布を何重にも巻いて固定された、仮脚だった。
ガルドが足元を見たまま尋ねる。
「その脚はどうした」
「右脚を失ってる」
「それは見れば分かる。事故か」
「商隊が襲われたときに壊れた」
ガルドが顔を上げた。
「壊れた?」
その言葉を確かめるようにリゼの顔を見た。そしてようやく、リゼの瞳に宿る薄青い光へ気づいたらしい。
しばらく見たあと、ロアンへ視線を戻す。
「機械人形か」
「ああ」
「最初からそう言え」
「聞かれなかった」
「誰だと聞いただろう」
「名前を答えた」
ガルドは何か言いかけ、やめた。
もう一度リゼを見てから、机の向こうへと移動し席に座った。
「買ったのか」
「ああ」
「ベルグラートで?」
「ああ」
「また妙なものを持ち帰ったな」
「料金は」
「先に確認する。寝具は使うのか」
ガルドが帳面を開く。
「必要ありません」
リゼが答えた。
ガルドは少しだけ顔を向けたが、そのまま続けた。
「食事は」
「必要ありません」
「水は使うか」
「身体と仮脚の清掃に使う」
今度はロアンが答えた。
「どれくらいだ」
ロアンはリゼを見た。
これまでの旅では、身体の汚れを落とすために布を濡らす程度だった。角材や固定布の手入れに水を使うことはあっても、人間が身体を洗う量より多いわけではない。
「今のところ、たいした量じゃない」
ガルドは帳面を閉じた。
「朝と夕の食事と、水場を使う分は部屋代に入ってる。食事を取らないからといって、その分を引くことはしないが、清掃に水を使うくらいなら今までどおりでいい」
「ああ」
「今後、桶を何杯も使うようになるなら、そのときは上乗せする」
「分かった」
ガルドがリゼのほうへ向く。
「リゼと言ったか。共有の水場を長く塞ぐな。床を濡らしたら拭け。部屋の中で騒ぐな。お喋りが好きなら食堂のマルタのところにいけ」
「わかりました」
その返答に納得し、ガルドはロアンへと視線を戻した。
「床や壁を傷めたら、おまえが払うんだぞ」
「払う」
「ほかの住人と問題になったら、おまえが対応しろ」
「分かった」
ロアンの名の横へ、短く何かを書き加える。
「なら今のところ、部屋代はそのままにしておく。何か増えたら、そのとき決める」
「それでいい」
リゼがガルドの手元を見ていた。
「私がいることで、ロアンの支出が増える可能性がありますか」
「使うものが増えればな」
「わかりました」
「だが今増えるものはない」
「はい」
ガルドは筆を置いた。
「それから、廊下を塞ぐな。階段の途中で立ち止まるなら、後ろを見ろ。夜でも人は通る」
「気をつけます」
「話は終わりだ。連れて上がれ。飯を食うなら急げ。鍋を洗われるぞ」
ロアンは携行箱を持ち上げた。
「言い忘れていた。俺はガルドだ。この宿舎のことで何かあれば俺に言え」
「わかりました」
管理人室を出て左手、長く続く廊下の手前にある階段へ向かう。
一段目の前で、リゼが足元を見た。
左脚を上げ、仮脚を次の段へ運ぶ。通常の階段よりも少しだけ段差が高い。
ロアンは一段先へ上がり、左手を差し出した。
リゼはその手へ自分の右手を重ねる。踊り場を経由し、二階へと上がる。
二〇三という札のかかった部屋の前で、ロアンは鍵を開けた。
扉を押し、先に中へ入る。
数歩進んだところで、後ろから音が続かないことに気づく。
振り返る。
リゼは敷居の前に立っていた。
「どうした」
「私も入るのですか。ここはロアンの部屋です」
「さっき答えただろう」
「この建物に入ることと部屋に入ることは別です。物置に置いたほうが場所も取りません。動力を切っておいたほうが、お金もかかりません」
似たようなやりとりを、もう何度も重ねている。
「入れ」
「何もしないのにですか」
「そうだ」
少しの間を置いて、リゼが足を進めた。扉の内側へ入ったところで、また動きを止める。
左の壁際には机と椅子が一脚あった。
机の上には筆記具と明かりの灯っていない油灯がある。反対側の壁には上着を掛ける木釘が打たれ、その下に水差しと洗面用の器が置かれていた。
奥の左手には寝台と衣類箱があり、向かいの壁には、武具の手入れに使う布や細かな工具を並べた棚がある。屋の奥には窓があった。
散らかってはいない。
必要なものが少なく、それぞれ決まった場所へ収まっているだけだった。
長く閉め切っていたため、空気がこもっている。窓枠と机の端には薄く埃が積もっていた。
ロアンは窓を開けた。
水路から湿った風が入り、止まっていた部屋の空気をゆっくりと動かす。
携行箱を置く場所を探した。
机の下では足に当たる。洗面器の近くでは水が掛かる。寝台の脇へ置けば、暗い中で蹴るかもしれない。
手前と奥の境に近い壁際へ置く。
通り道から外れ、水差しからも離れている。
蓋を開けた。
中身を順に確認する。
清掃布。固定用の布。帰路の宿駅で買い足した予備の革。蓋の内側に挟んだ検査札。
どれも、リゼのために必要なものだった。
リゼが選んだものではない。
ロアンが必要だと判断し、用意した。
布の巻き方に緩みがないことを確かめ、検査札の日付を見て元へ戻す。
蓋を閉じた。
リゼは携行箱の近くに立っていた。
ロアンが振り返ると、一歩脇へ退いた。
旅袋を置こうとすると、さらに壁際へ移る。
ロアンが奥の部屋へ入ると、机の横へ動く。上着を掛けるために戻ると、今度は窓際へ寄った。
「何をしてる」
リゼは足を止めた。
「何もせず、どこにいればいいのかわかりません」
「動かれる方が気になる」
「では、移動しません」
リゼはその場で止まった。
ロアンは旅袋を寝台の脇へ置き、棒剣を壁際へ立て掛けた。
戻ると、リゼは動いていなかった。
ただし、視線はロアンの手元と部屋の中を行き来している。
机。
水差し。
携行箱。
寝台。
窓。
何か指示されるものがないか、次にロアンが何をするのかを見ているらしい。
「どうした」
「指示を待っています」
「今はない」
「では、待機します」
リゼは立ったまま答えた。
一階から、長椅子を動かす音が響いた。
食堂の片づけが進んでいる。
旅袋も装備も、まだほとんど片づけていない。身体の汚れも落としていなかったが、先に食堂へ行かなければ夕食がなくなる。
「食堂へ行く」
リゼはロアンを見た。
「私は、ここで待機しますか」
部屋へ残しても問題はない。
触れてはいけないものを指示すれば、勝手に動かすこともないだろう。
それでも、初めて入れたばかりの部屋へ一人で置くことに、わずかな引っ掛かりがあった。
「一緒に来い」
「私は食事を必要としません」
「知ってる」
「食堂で行う作業がありますか」
「ない」
リゼの瞳がロアンへ向いた。
「では、なぜ同行するのですか」
「俺が食うからだ」
理由になっていない。
ロアンにも分かっていた。
リゼは説明が続くのを待っていたが、やがて「はい」と答えた。
一階へ下り、廊下を歩いた先が食堂だった。食堂の長机はすべて空いていた。
夕食を取っていた者たちは、すでに部屋へ戻ったらしい。油灯の半分は消され、長椅子は机の下へ押し込まれている。
奥の調理場では、マルタが鍋の中身を小さな器へ移し、翌朝に使う食器へ布を掛けていた。
ロアンが入口へ立つ。
マルタは振り返った。
「いま来たのかい」
「ああ」
「あと少し遅かったら、鍋を洗ってたよ」
手を前掛けで拭きながら、ロアンの後ろを見る。
その手が止まった。
「その子は誰だい」
「リゼだ」
「名前だけで分かると思ってるのかい」
「俺と一緒に住む」
マルタの眉が上がった。
ロアンは空いた長机へ向かおうとした。
「待ちな」
「何だ」
「その脚はどうしたの」
マルタはリゼの右脚を見ていた。
下衣の裂け目から、布で固定された角材が伸びている。
「仮脚だ」
「それは分かるよ。それでよく立っていられ――」
全て言い終わる前にマルタの目が止まり、口をつぐんだ。
「機械人形だ」
マルタはしばらく黙った。
それからリゼの正面へ回る。
薄青く光る瞳を見て、裂けた右袖の下に覗く人工皮膚と外殻へ目を向けた。
「こんなに間近で見るのははじめてだよ」
「ああ」
「最初から言いな。暗いところじゃ、若い娘にしか見えないよ」
「そんなことがあるわけないだろう」
「だろうね」
マルタはリゼへ向き直る。
「私はマルタ。ここの朝と夕の食事を作ってる。洗濯と共用部の掃除も」
「リゼです」
「食事は?」
「必要ありません」
「そう。なら器は一つだね」
それ以上は尋ねず、調理場へ戻った。
ロアンは長椅子へ腰を下ろす。
リゼは少し離れた場所で止まっていた。
ロアンが隣を示す。
「座れ」
リゼは長椅子と調理場を見た。
「料理を運べます」
「運ばなくていいよ」
マルタが調理場から答えた。
「はい」
リゼが座ってしばらくすると、マルタが煮込みと固いパンを運んできた。
器は一つだった。
ロアンが匙を取る。
マルタは卓から離れず、リゼの服を見ていた。
「にしても、その格好で置いておくのかい」
「何が問題だ」
「服だよ」
リゼが自分の上衣へ目を落とした。
右肘の周囲は大きく裂け、布の端には長旅の汚れが染み込んでいる。野盗にしがみついたときについた土は払いきれるものではなかった。
開いた箇所から、剥がれた人工皮膚と白い外殻が見えていた。
下衣は右膝の下で大きく裂けていた。
本来なら人工皮膚に覆われている部分には、白い外殻の砕けた縁が残り、その内側から金属のフレームが伸びている。角材の仮脚は、そのフレームへ布を幾重にも巻いて固定されていた。
「着替えは?」
「ない」
「洗っている間はどうする」
ロアンは匙を止めた。
「乾くまで部屋にいればいい」
「何を着せて待たせるのさ」
「部屋から出なければいい」
「何も着せずに部屋へ置くつもりかい」
ロアンはマルタの顔を見た。そしてリゼを見る。淡く光る目を除けば、ほとんど人間とは変わらない顔をしていた。風邪を引くことはないが、それがあまり良くないことだということはロアンにもわかった。
マルタは裂けた袖を指した。
「それに、その布をどこかへ引っ掛けて転ばれたら困る。食堂の椅子や壁を巻き込まれても困るんだよ」
「歩くのに支障はない」
「支障が出てから言うんじゃ遅い」
マルタはリゼへ顔を向けた。
「同じ服を着たまま、その服を洗えるのかい」
「できません」
「なら替えが要る」
リゼは少し考えた。
「服は着なくても問題ありません」
「いや、それは問題だ」
ロアンが間髪入れずにリゼに向かって言った。
マルタはロアンを見る。
「明日、買いな」
「どこで」
「南水路の古着屋。水門へ向かう通りの角に、色の抜けた布を吊ってる店がある。店主に私から聞いたと言えば分かる」
「何を買えばいい」
「服を売ってる人間に聞きな。脚と肘を見せて、歩く邪魔にならず、その仮脚を確かめやすいものが要ると伝えればいい」
「一着でいいか」
「いま洗い替えの話をしただろう」
「二着」
「上も下もだよ」
マルタはそれだけ言うと、鍋を持って調理場へ戻った。
必要な店と、伝えるべきことは教えた。
あとはロアンがやることだった。
リゼは、自分の裂けた袖を見ていた。
左手の指で布の端をつまみ、外殻が露出している部分へ寄せる。だが、布が足りず、完全には覆えなかった。
「気になるのか」
ロアンが尋ねる。
「気になりません」
リゼは袖を見たまま答えた。
「洗うこともできます。このままで問題ありません」
少し間があった。
「お金がかかってしまいます」
ロアンは何も言わず、残った煮込みを食べた。マルタが口を開く。
「リゼ、服を二着買ったくらいで困るなら、最初から連れて帰ってこないはずよ」
「ああ、必要なものは買う」
食堂には三人しかいなかった。
匙が器へ触れる音と、調理場でマルタが鍋へ水を張る音だけが続く。
食事を終え、器を返した。
マルタは鍋を洗いながら、振り返らずに言った。
「店の場所は覚えてるね」
「ああ」
ロアンは食堂を出た。
リゼが続く。
二〇三号室へ戻り、扉を閉めた。
リゼは部屋の中央で足を止める。
ロアンが上着を脱ぐと、木釘へ掛ける動きを見ている。胸当てを外せば、受け取るべきか判断するように手元へ視線を向ける。
旅袋を動かすと、通り道を空けるために一歩下がった。
「動かなくていい」
リゼは止まった。
「手伝える作業はありますか」
「今はない」
「では、すぐに指示へ応じられる位置で待機します」
「どこだ、それは」
リゼは部屋の中を見た。
机の前では、ロアンが椅子を使うときに邪魔になる。
奥の部屋との境では、出入りを塞ぐ。
窓際では、窓を閉めるときに動かなければならない。
携行箱の近くなら、補修材を使うときに邪魔になる。
視線が部屋の中を何度か移る。
どこに立っても、ロアンが何かをするときには動く必要があった。
「壁際にいます」
「そこだと箱が開かない」
リゼは一歩ずれた。
「では、ここにいます」
ロアンは机の前の椅子を見た。それを少し引き出し、部屋の中央に向けて置き直した。
「座れ」
リゼも椅子を見る。
「あなたが使用するのではありませんか」
「今は使わない」
「使うときに、私に言う必要がでてきます」
「使うときは言う。それでいい」
「わかりました」
リゼは椅子へ向かった。
「ここで待機します」
「そうしろ」
リゼは腰を下ろした。
両手を膝の上へ置き、背もたれには身体を預けない。いつでも命令に応じて立てる姿勢だった。
壁際には、清掃布や固定用の布、予備の革を収めた携行箱が置かれていた。
昨日まで何もなかった場所へ、旅の途中で増えたものが収まっている。
同じ部屋でどう過ごすのかについて、決められた手順はない。
ロアンはリゼへ、ここで何をすればいいのかを説明できていない。
リゼも、どう過ごせばよいのか知らない。
ロアンは部屋を見回した。
壁際の携行箱。
机の前の椅子。
その椅子へ浅く腰掛け、次の指示を待つリゼ。
奥には、寝台が一つあった。




