1-3. 残ったもの
継暦六百二十七年 五月十四日
戦闘が終わっても、すぐに静かにはならなかった。
負傷者を呼ぶ声が重なり、ワトの荒い鼻息がその間へ混じっている。砂へ落ちた陶器は、誰かが踏むたびにさらに細かく割れ、倒れた荷車の木枠は、残された荷の重さに耐えながら低く軋み続けていた。
サンドワームは動かない。
それでも護衛たちは、すぐには武器を下ろさなかった。
ダリオが短槍の先で口の縁を押したが、反応はなかった。少し離れた場所では、ベックが弓を引いたまま前方の砂面を見ている。最初にサンドワームが潜った場所には、風に削られ始めた窪みだけが残っていた。
「前は」
ダリオが訊いた。
「動きなし。重弩の矢は一本なくした。最初の車両は旧舗装へ残した」
「人は」
「歩ける」
ダリオはうなずいた。
前方の一番車は、ワトを切り離したまま旧舗装の縁へ残されている。車体は傾いていたが、車輪も車軸もまだ生きていた。砂中へ深く沈んだ七番車とは違い、周囲の安全を確かめたあとで引き戻すことができる。
サンドワームが完全に沈黙したかどうかは、ロアンが止めたあともすぐには信用できなかった。重弩の矢を受けて一度潜り、七番車の下から再び現れた相手だった。ダリオは商隊を再編するあいだも砂面から目を離さないよう命じた。
「負傷者を先に八番へ。水は動かすな」
声に従って、商隊の者たちが動き始めた。
戦闘中のような速さは求められていない。代わりに、何を先に行うかを間違えてはならない。生きている者を数え、歩けない者を運び、水と薬を確保する。そのあとで荷車の状態を調べ、最後に失ったものを記録する。
ロアンは棒剣の先を砂へ向けた。
刀身には暗い粘液が付着し、その上へ細かな砂が貼りついている。先端の片側は、わずかに潰れていた。柄を握る右手に痺れはなかったが、肩の奥には鈍い痛みが残っている。
腕は動く。
それだけを確かめ、棒剣を鞘へ戻した。
倒れた七番車の周囲では、荷役たちが散らばった積荷を分けていた。割れた陶器はその場へ捨て、形を保っている箱は荷縄を切って硬い路面側へ寄せていく。
染料の樽は四つとも破損していた。一つはすでに中身を砂へ流しきり、残る三つも樽板が割れ、動かせば漏れ出す状態だった。修理して運ぶ時間はない。
七番車そのものも、片側の車輪が外れ、荷台の底板が割れていた。車軸は砂の中へ深く沈んでおり、引き上げられないことは見れば分かった。
御者は硬い路面へ座らされ、傷めた足首を布で固定されていた。失ったワトのいた場所を見たまま、何も言わない。
書記がその前へ立った。
「七番車、喪失で記録する。積荷は染料四樽、陶器十二箱」
御者がわずかに顔を上げた。
「陶器は、まだ三箱ある」
「回収できれば九番へ移す。喪失は九箱に訂正する」
「いや、三箱とも外箱が割れてる。中も欠けてる」
書記は足元の箱を見てから、短くうなずいた。
「分かった。十二箱で記録する」
御者は再び黙った。
数字として記録されれば、それは商会へ報告される損失になる。御者が失ったものは帳簿の一行だけではない。車もワトも、次に自分が扱うはずだった仕事もなくなっている。
ロアンは視線を外した。
いま考えることではなかった。
負傷者は五人いた。
額を切った荷役。右肩を脱臼したらしい男。足首を傷めた七番車の御者。切れた牽引縄を避けきれず、腕に深い擦過傷を負った別の御者。
前方では、サンドワームの尾に巻き込まれた護衛が脇腹を打っていた。息を吸うたびに顔を歪めるため、自力では座らせず、敷物へ横たえられている。
人間の死者はいなかった。
運がよかったという一言で済ませられる損害ではない。それでも、全員がまだ生きていた。
全損した赤髪の機械人形は、七番車の残骸から少し離れた場所に倒れていた。
胸部から腹部にかけて潰され、上半身と腰のフレームはほとんど分かれている。片腕は外れ、砂へ半ば埋まっていた。人工皮膚の一部を失った頭部は形を残していたが、目の光は消えている。
ここに商会の技師はいない。どの部品が使え、どこまで損傷しているのかを判断できる者もいなかった。それでも、捨てていくという判断は保留された。
荷役たちは油紙と厚い布を持ち寄り、頭部、外れた腕、腰部、白い外殻の大きな破片、露出した内部から取り出せる金属部品を、順番に砂から拾い上げていく。戦闘で曲がった二本の長杖も、商会の財産として一緒に回収された。
それらは人間の遺体のようには扱われなかった。
だからといって、乱暴に投げ出されることもない。持ち帰れるものを見分け、砂を落とし、壊れないよう包む。必要なものを、必要な手順で集めているだけだった。
黒髪の機械人形は、そこから少し離れた場所へ上体を起こしていた。
両手を砂についている。右脚は膝下から失われていた。
何も残っていないわけではない。人工皮膚は大きく裂け、白い保護外殻が砕けている。その内側から、途中で破断した金属フレームと暗い繊維束が露出し、細い配線が数本、砂の上へ垂れていた。
機械人形の顔は、赤髪の部品が木箱へ収められていく方へ向いていた。
見ているのかもしれない。
ただ次の命令を待ち、その方向へ顔を向けているだけかもしれない。
ロアンには分からなかった。
「八番、これ以上は載らない!」
荷役の声が上がった。
八番車には、すでに負傷者が三人乗せられている。水樽を下ろすことはできず、薬箱と補修具も残さなければならない。
九番車には、七番車から拾い出した荷と、前方の車両から移した荷が積み込まれていた。残る車両にも大きな余裕はない。全損した機械人形の部品箱は十番車の最後尾へ括りつけられ、それだけでも荷台の空きはさらに狭くなっていた。
ヴァルドが車両の間を歩いてきた。
上着の片袖は砂で白くなっている。負傷者、水樽、壊れた七番車、赤髪の部品箱、そして黒髪の機械人形を順に見た。
「載せられるか」
八番車の荷役が首を振った。
「無理です。人を一人下ろすなら」
「下ろさない」
ヴァルドはすぐに答え、九番車へ目を向けた。
「こっちも駄目か」
「車軸が持ちません。七番の荷をさらに分ければ、後ろも同じです」
修理担当が答えた。
ヴァルドは黒髪の機械人形を見た。
感情を探しているのではない。いま何が残り、何が使えるかを確かめる目だった。
「立てるか」
「右脚が接地できません」
機械人形は普通の声で答えた。
痛みを訴える調子でもなく、壊れた箇所を機械的に読み上げる硬さもない。ただ、できないことを伝えている。
「腕は」
「動きます」
「左脚は」
「動きます」
ヴァルドはしばらく考えた。
「運べないなら、ここで分解しセルと動力核だけでももっていく」
誰も反応しなかった。
当然の選択肢だった。
機械人形をそのまま砂漠へ置けば、本体も内部部品も失う。荷車へ載せられず、自力で動けないなら、持ち帰れる部品だけを外す。それは赤髪の機械人形へ行った処置と同じだった。
黒髪の機械人形も、ヴァルドの言葉へ何も返さない。命令が出れば、そのまま従うのだろう。
ロアンは反発しなかった。
ヴァルドの判断は間違っていない。人間の負傷者を下ろして機械を載せる理由はなく、水や薬を捨てる理由もない。積荷には、ベルグラートへ届かなければ困る者がいる。動けない商会財産のために、残る全員を危険へ晒す価値はなかった。
ロアンは黒髪の機械人形へ近づき、正面ではなく右側へ回った。
しゃがみ込み、砕けた脚を見る。
「動かすぞ」
「はい」
右膝を支え、破断箇所を少し持ち上げた。
軽くはないが、腕で位置を変えられる程度だった。金属フレームは膝のすぐ下ですべて失われたわけではなく、元あった脛の中央あたりまで短く残っている。
外殻の破片を避けて指を入れると、フレームの側面に浅い窪みがあった。反対側には折れた支材が張り出している。膝そのものは動き、股関節も問題ないようだった。
右脚を前へ運ぶことはできる。
地面へ接するものがないだけだった。
「ロアン」
ヴァルドが呼んだ。
ロアンは破断面を見たまま答えた。
「膝は残っている」
「それで歩けるのか」
「そのままでは無理だ」
「なら――」
「支えるものがあれば、試せる」
ヴァルドは黙った。
ロアンは立ち上がり、倒れた七番車へ目を向けた。荷台の脇には、車輪や車軸が壊れた際、仮の支えや梃子として使う角材が何本か括られている。
七番車はもう使えない。
補修材は残る車両へ移すことになるが、そのうち一本を使っても隊列全体が動かなくなるわけではなかった。
「一本くれ」
ヴァルドは角材と黒髪の機械人形を見比べた。
「やれるのか」
「分からん。だが、何もしないよりましだろう」
ヴァルドは一度だけ息を吐いた。
「好きにしろ。ただし時間は掛けるな」
「どれくらいだ」
「日が落ちる前に、ここを離れる」
「ああ」
荷役へ声を掛け、角材を一本外してもらう。
長さは人間の腿ほどで、太さは片手で掴める程度だった。完全に真っ直ぐではなく、片側には節がある。表面も粗かったが、目立つ割れはない。
ロアンは機械人形の前へ戻った。
「座れ」
すでに座っていた。
口にしてから気づいたが、言い直さなかった。
「身体を右へ向けろ」
機械人形は両手を使い、上体の向きを変えた。
ロアンは角材を破断面へ当てた。
そのまま地面へ立てると長すぎて、右膝が不自然な位置まで持ち上がる。左脚の長さを目で測り、角材へ印をつけると、腰の短刀で四方から少しずつ切れ目を入れた。
乾いた木は硬かった。深く刃を入れれば、狙った位置とは違うところから裂ける可能性がある。周囲を均等に削り、最後に力を掛けると、角材は印の近くで折れた。
切断面のささくれを落とし、もう一度破断箇所へ当ててみる。
長さは近づいたが、金属フレームの形にはまだ合わない。
ロアンは角材を当てて位置を確かめてから外し、接する部分を少しずつ削った。何度か合わせ直すうちに、どこを薄くし、どこを残せばよいかが見えてくる。
機械人形の内部構造を理解しているわけではなかった。
どの配線が何につながり、白い外殻の内側でどの部品がどの動きを支えているのかは分からない。
ただ、折れた木の柄へ新しい材を噛ませたことはある。骨折した脚へ添え木を当てたことも、壊れた荷車の支柱を仮に固定したこともあった。
力を正面から受けられなければ、角材は横へ外れる。斜めに荷重が掛かれば、残ったフレームまで壊しかねない。膝から下へ落ちる重さを、できるだけ真っ直ぐ地面へ逃がす必要があった。
角材の一端を薄くし、フレームの窪みに合わせる。張り出した支材の横には、木がずれない程度の浅い溝を作った。
再び角材を当てると、先ほどより深く収まった。
「動かすな」
「はい」
機械人形は、淡い青白い目をロアンへ向けていた。
角材を見ているのか、彼の手元を見ているのかは分からない。作業の手順を記録しているだけかもしれず、自分の損傷箇所を確認しているのかもしれなかった。
ロアンは目を合わせず、旅袋を引き寄せた。
取り出したのは、傷へ当てたり、水を濾したり、道具を包んだりするための予備布だった。短刀で端へ切れ目を入れ、両手で細長く裂いていく。
一本では足りないため、同じ幅のものを何本か作った。
最初の布を角材と金属フレームへ当て、木が窪みから外れないよう強く引きながら、上から下へ巻いていく。次の布は下から上へ巻き、最初の巻き目へ交差させた。
割れた外殻の縁へ布が食い込まないよう端を折り、張り出した支材の後ろへ通す。角材を膝側へ押し込んだまま、巻く方向を変えながら何重にも重ねていった。
途中で、人工皮膚の裂け目から白い外殻の破片が一つ落ちた。
砂の上へ転がったが、ロアンは拾わなかった。
一度目の結びでは、角材を揺するとまだわずかに動いた。ロアンは結び目をほどき、角材をさらに深く押し込み直してから、布を締め直した。
今度は結び目を支材の裏へ入れ、余った端も巻き目の下へ押し込んだ。
最後に角材を両手で掴み、左右と前後へ力を掛ける。
膝そのものはわずかに動いたが、角材と破断箇所の間にずれは出なかった。
腕で揺すった程度に耐えることと、身体の重さを受けながら何日も歩くことは違う。それでも、立たせて試すところまではできる。
ロアンは立ち上がった。
長くしゃがんでいたため腰が固まり、右肩の痛みも作業前より強くなっている。短刀を布で拭って鞘へ戻すと、機械人形がまだこちらを見ていることに気づいた。
日の傾きで、黒い髪が顔へ影を落としていた。その奥で、青白い目だけが淡く光っている。
ロアンは視線を外さなかった。
何を見ている、と訊く理由はなかった。
「立ってみろ」
機械人形は両手を砂へつき、左脚を身体の下へ入れた。残った右膝を曲げ、角材の先を地面へ当ててから、左脚へ力を掛ける。
上体が持ち上がる途中で、身体が大きく右へ傾いた。
ロアンは手を伸ばしかけた。
だが、機械人形の左手が砂を掴み、腰が動いた。左脚の位置を変え、角材を身体の下へ引き寄せると、傾きが止まる。
そのまま立ち上がった。
完全に真っ直ぐではない。右肩は少し下がり、腰も左へ寄っている。
角材には駆動する部品がない。残った右膝から前へ運び、地面へ置くしかなかった。
「歩けるか」
「試します」
機械人形は左脚を前へ出した。
角材は砂の中へ残る。腰を捻り、右膝を持ち上げると、遅れて木の脚が前へ運ばれた。
木の先が砂へ沈み、身体が再び右へ傾く。左脚と腰で姿勢を戻し、それから二歩目へ移った。
一歩目より小さい。
三歩目では、さらに身体の動かし方が変わっていた。
正常な脚のように角材で地面を蹴ろうとはせず、左脚と腰で身体を前へ運び、木の脚は倒れないための支柱として使っている。
速くはない。
走ることもできないだろう。砂が深くなれば、さらに時間が掛かる。
姿勢を保つための動作が増える。
それでも、一歩ずつなら前へ進めた。負傷者を乗せた荷車も、戦闘前と同じ速度では進めない。商隊の歩調についていける可能性はあった。
機械人形は十歩ほど進んでから止まり、ゆっくり身体の向きを変えた。一度だけ角材を引きずったが、自分で位置を戻し、ロアンの方へ歩いてくる。
布がずれる様子はない。
角材も外れなかった。
「もういい」
ロアンが言うと、機械人形は彼の前で止まり、顔を上げた。
淡く青白い目が、正面からロアンへ向けられる。
「ありがとうございます」
声は、それまでと変わらなかった。
大きくも、小さくもない。
損傷の状態を伝える言葉ではなく、普通の礼だった。
ロアンは黙った。
何と返せばよいのか、すぐには決まらなかった。
親切をしたつもりはない。歩けなければ荷車へ載せる必要があるが、その空間は残っていなかった。膝が残り、角材があり、布もあったから、歩ける形へした。
それだけだった。礼を言われるようなことではなかった。
仕事だからだ。
問題ない。
どの言葉も違うように思えた。
返事を選べずにいると、後ろからヴァルドの声がした。
「器用なものだな」
ロアンは機械人形から視線を外した。
ヴァルドは腕を組み、角材の脚を見ている。
「それで白塔まで歩けるか」
「分からん。歩かせながら見る」
「荷は持たせるな」
「ああ」
「止まったら、そのときは諦める」
「分かっている」
ヴァルドはうなずき、荷車の方へ戻っていった。
ロアンはもう一度、角材の固定を見た。
布は動いていない。
結び目も残っている。
機械人形はその場に立ち、次の命令を待っていた。
日が落ちる前に、商隊は沈み道を離れなければならなかった。




