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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
2. 灯火の都
21/65

2-17. 帰路の準備

継暦六百二十七年 六月八日


翌朝、ロアンはリゼを連れて南商業区へ向かった。


通りにはすでに荷車と人が出ていた。店の戸を開ける音、台車の車輪が石を擦る音、荷を運び出す声が、建物の間へ重なっている。


リゼは前日と同じように、ロアンより半歩ほど後ろを歩いていた。


左足の音に続いて、角材の仮脚が石を打つ。右脚へ体重を移すたびに腰の位置を修正し、遅れて角材を次の一歩へ運ぶ。歩みは遅いが、昨日より悪くなってはいなかった。布の固定にも緩みはなく、先端へ当てた革も外れていない。


動力商へ着くと、入口の金属看板は朝の光を受けて鈍く光っていた。


店内には前日と同じ低い唸りが満ち、受付には同じ男が立っている。


男はロアンの顔を見ると、差し出された預かり札へ目を落とした。


「黒化十二型だな」


「ああ」


番号を確かめ、格子の奥へ声を掛ける。


しばらくして、別の店員が細長い金属盆を運んできた。盆の上には、前日に預けた黒化セルが横向きに載せられている。外装の暗い変色は変わっておらず、端面には新しい検査札が括りつけられていた。


店員はセルを受付台へ移し、札を開いた。


「満杯までは戻っていない」


ロアンは検査札を見る。


数字と線がいくつも並んでいるが、それだけでは意味が分からなかった。


「どこまで入った」


「劣化後の容量を満杯とした場合で、八割前後だ」


店員は札の一か所を指した。


「ここから発熱が上がった。低速のまましばらく見たが、下がらなかったから止めてある」


「続ければ入ったのか」


「入ったかもしれん。壊れたかもしれん」


男は淡々と言った。


「黒化品へ、入るだけ入れればいいというものじゃない。熱が上がるのは、中で余計な抵抗が増えているということだ。そこで押し込めば、次に使う前に死ぬこともある」


ロアンは黒化セルを見た。


前日に預けたときと同じ外装だった。どこまで満たされたのかも、外から見ただけでは分からない。


「街道では、どれくらい持つ」


「昨日も言ったが、日数は目安だ。いま入っている量なら、歩行で五日から七日ほどは見込める」


「七日は使えるのか」


「保証はしない」


店員はすぐに答えた。


「地面、歩く時間、荷、気温で変わる。その脚なら、通常の機体より腰と左脚を使う。途中で出力が落ちる可能性もある」


検査札を裏返し、別の印を示す。


「黒化は空に近いところまで使い切るな。本人が残量低下を報告したら、その時点で交換を考えろ。歩き方が遅くなる、姿勢を戻すのに時間が掛かる、腕へ力が入りにくい、普段と違う熱が出る。そういう変化があれば止める」


ロアンはリゼを見た。


「分かるか」


「はい」


店員が続ける。


「主に使うのは、昨日入れた灰等だ。黒化は予備へ回せ。灰等を充填へ出すときか、次の設備まで届かないときだけ使う」


「白塔では十二型を扱えないんだったな」


「ああ。ナディルまで灰等で持たせ、充填時のみ黒化に切り替えるのが良いだろう」


「途中で足りなくなりそうなら」


「残量を見て黒化へ替える。ただし、黒化を先に使い切ろうとは考えるな。状態のよい方を主にする」


店員は検査札を受付台へ置いた。


「昨日買った携行箱は持ってきたか」


ロアンは左手に持っていた箱を台へ載せた。


店員が蓋を開け、内部の受けと端子側の覆いを確かめる。


「ここへ入れる」


厚い布を使って黒化セルを持ち上げ、六角柱を横向きにして箱の受けへ静かに載せた。セルは左右へ動かず、端子側も覆いの内側へ収まる。


店員は蓋を閉じ、二つの留め具を掛けると、箱を前後へ揺らした。


内部で音はしなかった。


「荷車へ横向きに固定しろ。普通に走る程度の振動は問題ないが、箱が壊れるほど強く打たれる場所へ置くな」


「車輪の近くは」


「真上は避けた方がいい。路面から強く突き上げられたときに負荷が集まる。荷台の端や、荷が崩れれば潰される場所も駄目だ」


「水樽のそばは」


「漏れたときに面倒だ。できれば離せ」


店員は箱の側面にある金具を示した。


「この二か所へ革紐を通せ。一か所だけだと、強く揺れたときに箱が動く。上へ重いものを載せなければ、それで十分だ」


予備セルは、ロアンの持ち物だった。


商会の積荷として扱わせるものではない。ただ、荷車へ載せる以上、勝手に場所を使うわけにはいかなかった。翌日、ラウルへ話し、邪魔にならない位置を空けてもらう必要がある。


「検査札は箱と一緒に持て」


店員が言った。


「充填日、入った量、発熱が上がった位置を書いてある。次に持ち込むとき、これがあれば話が早い」


ロアンは札を受け取り、箱の金具へ革紐で結びつけた。


「出発前にも見せろと言っていたな」


「ああ。灰等を入れたまま連れてこい。残量と熱、端子を見る。黒化は箱のままでいい」


「前日の朝か」


「それでいい」


店員は料金の札を出した。


「検査、低速充填、停止後の冷却確認で五クレド五ミル」


ロアンは硬貨を数え、受付台へ置いた。


店員は金額を確かめて帳面へ記入し、検査札へ支払い済みの印を押した。


「箱は落とすな。黒化を予備にするからといって、放っておくな。使わなくても僅かにだが減っていく」


「ああ」


ロアンは携行箱を持ち上げた。


セルが入ったことで、昨日より明らかに重くなっている。片手で持てないほどではないが、長く歩けば持ち替える必要がありそうだった。


「行くぞ」


リゼへ言う。


「はい」


二人は動力商を出た。


南商業区の通りを北へ戻りながら、ロアンは携行箱を何度か持ち替えた。箱の中から音はせず、留め具も動いていない。


宿へ戻ると、そのまま階段へは向かわなかった。


帳場にいた宿主が、携行箱へ目を向ける。


「中身が入ったのか」


「ああ」


「部屋へ持っていくなよ」


「そのつもりだ」


宿の奥には、旅人の大きな荷や、客室へ置くのに向かない品を預かる小部屋があった。


床は石で、壁際には木箱や樽を置くための低い台が並んでいる。入口には錠があり、宿主か女将に声を掛けなければ開けられない。


宿主が鍵を持って先に立った。


「熱は」


「今はない」


「爆発しないだろうな」


「箱へ入っている。検査もしてもらっている」


宿主は小部屋の中を見回し、壁際の空いた石台を指した。


「そこへ置け。油と酒の近くはだめだ」


ロアンは携行箱を横向きに置いた。床へ直に置かず、低い石台の上へ載せる。検査札は箱の側面へ結びつけたままだった。


宿主は位置を確かめてから扉を閉めた。


「出すときは声を掛けろ」


「ああ」


宿主が錠を掛けた。


ロアンはリゼを連れて二階へ上がった。


最後の一段では、リゼは言われたとおり端へ足を置いた。軋みはしたが、前夜より音は小さかった。


部屋へ入ると、ロアンは旅袋を荷物台から下ろした。


床へ布を一枚広げ、その上へ、水袋、火口箱、縫い針、傷薬、油、細縄、革紐、予備の布を並べていく。


リゼは壁際の椅子へ座っていた。


前夜、そこを使ってよいと伝えてある。ロアンが何も言わなければ、自分から同じ場所へ座るようになっていた。


ロアンは水袋を持ち上げた。


縫い目に漏れはなく、口の栓も緩んでいない。表面へ残った砂を乾いた布で払い、元の場所へ戻す。


火口箱を開くと、火打石と鋼片は揃っていた。乾いた繊維は半分ほど残っているが、予備は足した方がよい。


縫い針は二本あり、そのうち一本は少し曲がっていた。無理に戻さず、使える一本だけを残し、曲がった方は別に置く。


傷薬の小瓶を振ると、一つはほとんど空だった。


砂海で負傷者へ使い、右肩にも塗っている。瓶の底に残った量では、街道へ出るには足りない。


油の瓶は半分より少し多く、棒剣と革具、荷車の簡単な手入れに使うなら不足はなかった。ただし、リゼの人工皮膚や外殻へ使ってよいものではない。


細縄を伸ばすと、一本に擦れて毛羽立った箇所があった。引けばすぐに切れるほどではないが、荷を固定するには使わない方がよい。


傷んだ部分を切り落とし、短くなった縄は小物用へ回す。


革紐も確かめた。


一本は硬くなり、曲げると表面へ細かな亀裂が出た。携行箱を固定するには向かないため、これも交換する。


最後に、予備の布を広げた。


残っている量は、以前に数えたときより少なかった。


砂海で、リゼの右脚へ角材を固定するために使っている。長い一枚を裂いて何重にも巻き、そのあと緩んだ箇所を締め直したため、旅袋へ戻った分はさらに減っていた。


いま残っている量でも、傷口を押さえることはできる。だが、角材の固定が外れた場合に巻き直し、ほかの負傷者にも使うことを考えれば足りない。


ロアンは布を、傷の手当てへ使うものと、補修へ使うものに分けた。


どちらも買い足す必要がある。


リゼが床へ並べられた布を見ていた。


「何だ」


ロアンが訊いた。


「右脚へ使用したものと、同じ布ですか」


「ああ」


「不足していますか」


「少ない」


「私の脚に使ったためですか」


「ああ」


リゼは少し間を置いた。


「補充に必要な金額を、私の費用として記録しますか」


ロアンは顔を上げた。


「しない」


「なぜですか」


「布は使えば減るものだ」


「私へ使用した分です」


「だから何だ」


リゼはすぐには答えなかった。


ロアンは布を畳んだ。


特別に与えたものではない。旅の途中で必要だったから使い、減ったから買い足す。水や薬、縄と同じだった。


ただ、以前なら自分の傷や装備に必要な量だけを数えていた。いまは、角材を巻き直す分、外殻の亀裂へ砂が入らないよう覆う分、人工皮膚の裂け目を保護する分、携行箱を固定するための革紐も要る。


必要なものが増えていた。


それを特別な世話だとは思わなかった。


街道へ出るなら、不足を残さない。ただ、それだけだった。


ロアンは傷薬、火口用の乾燥繊維、細縄、革紐、予備の布を紙へ書いた。曲がっていない縫い針も、もう一本買う。


油は足りる。


水袋も、そのまま使える。


昼前に宿を出て、近くの道具店と薬屋を回った。


リゼも連れていった。


傷薬は同じ種類を二瓶。縫い針は太さの違うものを一本ずつ。細縄は一束、革紐は携行箱の固定に使える幅のものを二本。


予備の布は、包帯用の柔らかいものと、補修に使える厚手のものを分けて買った。


店員は用途を尋ねたが、ロアンは負傷用と荷の補修用だとだけ答えた。角材の脚へ巻くとは説明しなかった。


宿へ戻り、買ったものを旅袋へ収める。


傷薬は割れないよう布で包み、火口箱から離した。縫い針は小さな革片へ刺し、細縄と革紐は輪にして結ぶ。


予備の布は、傷用と補修用が混じらないよう別に畳んだ。


リゼは椅子へ座ったまま、その作業を見ていた。


ロアンは最後に、翌日の商館で伝えることを紙へ書き始めた。


リゼを街道へ連れていく。


そのことは、すでに決まっていた。


いつ決めたのかは分からない。商会から連れ出したときか、灰等セルを買ったときか、宿へ連れ帰ったときか。


少なくとも、ベルグラートへ残す方法を考えたことはなかった。


残るのは、連れていくための条件だけだった。


片脚が角材の状態では、護衛の一人として数えることはできない。歩調も荷車や人間とは異なるため、隊列ではロアンの近くを歩かせるのがよいだろう。


セルの消耗、仮脚の破損、内部の故障。どれかが起きれば、リゼは街道で動けなくなる。


予備車両へ載せられるか、ラウルへ先に確認する必要がある。空きがあれば、有料でも載せてもらう。空きがなければ、そのときに考えるしかない。


当然のように、商会の荷車を使うつもりはなかった。


予備セルの携行箱については、荷車のどこかへ載せる場所を作ってもらう。


ロアンの所持品であり、大きな場所は取らない。箱が強い衝撃を受けず、重い荷の下にならない位置であればよい。


白塔では十二型セルを充填できないため、灰等セルの残量を確認し、必要なら黒化セルへ交換する。ナディルへ着けば、設備の空きを待って充填へ出す。


整備用の水と布も、わずかに増える。


大量に使うわけではない。それでも、外殻の亀裂へ砂が入れば拭う必要があり、角材の固定が緩めば布を使う。


ロアンは、リゼの歩く位置、歩行不能時の予備車両、予備セルの積載場所、白塔とナディルでのセル運用、整備用の水と布、携行箱を固定する位置を紙へ記した。


書き終えると、紙を折って上着へ入れた。


そのあと、リゼを見た。


「出るぞ」


「はい」


リゼは椅子から立ち上がった。


「どこへ行くのでしょうか」


「遺物工房だ」


リゼはわずかに間を置いた。


「私を持ち込むのですか」


「ああ」


「わかりました」


それ以上は尋ねなかった。


東の遺物工房は、南商業区の動力商より宿に近かった。工房区の外れにあり、旧時代の機械部品や機械人形、制御設備を扱う店が集まる一帯に建っている。


入口の上には、歯車と細い人形の腕を組み合わせた金属札が掛けられていた。


ロアンが扉を開けると、油と薬品の匂いが流れてきた。


壁には大小の工具が並び、棚には白い外殻片、金属の関節、細い繊維束、人工皮膚を巻いた筒が収められている。奥では作業台へ機械の腕が一本固定され、職人が指の関節を動かしていた。


受付にいた若い男が顔を上げ、ロアンのあとに入ってきたリゼへ視線を移した。


「検分ですか」


「見てほしい」


「どこをです」


ロアンはリゼの右肘と仮脚を見た。


「問題がないかだ」


若い男は答えず、もう一度リゼを見た。


「修理を希望されていますか」


「何が必要かも分からん」


「使用する予定は」


「街道へ出る」


「いつです」


「六月十二日だ」


男はそこでようやくうなずき、奥へ声を掛けた。


出てきたのは、五十に近い女だった。髪を短く切り、革の前掛けへ細かな白い粉をつけている。


女は事情を尋ねず、リゼの周囲を一度回った。


右肘、脇腹、右脚膝下、角材の仮脚。最後に、淡く青白い目を見る。


「どこまで行く」


「エルデン」


「一月近いな」


リゼの顔が、わずかにロアンへ向いた。


行き先も、どれほど歩くのかも、まだ伝えていなかった。ロアンはそのことに初めて気づいた。


女はリゼの右脚を見下ろした。


「その脚のまま連れていくのか」


「正式に直す時間はない」


「金も掛かる」


「ああ」


「なら、止まるような問題がないか見て、必要なところだけ処置する。それでいいか」


ロアンは少し考えてから、うなずいた。


「それでいい」


リゼは何も言わなかった。


女は壁際の低い台を示した。


「座らせろ」


「座れ」


「はい」


リゼが腰を下ろすと、女は右肘の裂け目へ灯りを寄せた。人工皮膚の縁を細い棒で持ち上げ、露出した外殻と肘関節を順に見る。


「関節までは届いていない。ただ、このまま歩かせれば、砂が皮膚と外殻の間へ入る」


「乾いた布を当てて巻くんだろう」


女がロアンを見た。


「誰かに聞いたか」


「動力商で聞いた。濡れたまま巻かない。強く締めない」


「それでいい。ただ、肘を伸ばした状態で巻くな。曲げたときに布が裂け目へ食い込む」


女はリゼの肘を浅く曲げさせ、布を当てる位置を指した。


「この角度で巻け。指が一本入る程度にする。汚れたら交換。雨に濡れたら外して乾かす」


次に脇腹と腕の外殻へ灯りを移し、亀裂へ細い板を当てて深さと方向を確かめていく。


「開けなければ内部までは分からん。いまは動作へ出ていないが、砂を入れ続ければ駆動部まで届く可能性がある」


「普段から塞ぐのか」


「完全には塞ぐな。熱が逃げなくなる。砂風のときだけ乾いた布を当て、その上から幅のある帯で押さえる。雨のあとも外して乾かせ」


「油は」


「使うな。埃を抱え込む」


ロアンはうなずいた。


女は右脚の前へしゃがみ、人工皮膚の裂けた縁と砕けた外殻、残った金属フレームを調べた。


角材へ前後左右の力を掛ける。


「固定は動かない」


「それは何度も見てもらった」


「誰にだ」


「商会の技師と動力商だ。布が緩んだら一度外して巻き直す。先端の革も毎日見る。砂と水を固定部へ入れない」


女は角材から手を離さなかった。


「そこまでは合っている。だが、ここを見ろ」


残ったフレームの縁へ指を当てる。


ロアンは腰を落とした。


砕けた外殻の内側で、金属フレームの縁がわずかに外へ向いている。固定布がその上を通り、歩行のたびに擦れていた。


「いまは布が厚いから持っている。長く歩けば、こいつが内側から布を切る」


「どうする」


「縁へ当て材を入れる。硬すぎるものは駄目だ。薄い革を二枚重ね、その上から布を巻く」


女は角材を軽く引いた。


「巻き直すたびに、同じ場所へ結び目を作るな。内側へ押し込むのはいいが、残ったフレームへ当たり続ければ傷が広がる。少しずつ位置をずらせ」


ロアンは固定部を見た。


砂海で巻いたときには、そこまで考えていなかった。


「右腰の音は」


「音が出ているのか」


「商会の技師が、小さな摩擦音があると言った」


女はリゼを立たせ、数歩歩かせた。


左脚を出し、角材を運ぶ。向きを変え、もう一度戻らせる。


女は腰の横へ器具を当て、動作音を聞いた。


「仮脚を運ぶために、通常より腰を使っている。今すぐ止める音じゃない。ただ、音が大きくなる、引っかかる、歩幅が急に変わる。そのどれかが出たら歩かせるな」


「分かるか」


ロアンがリゼへ訊いた。


「はい。動作抵抗と異常音は確認できます」


「出たら言え」


「わかりました」


女は棚から、薄い革、乾いた布、幅の異なる固定帯を取り出した。


「最低限なら、右肘を覆う。外殻用の帯を用意する。脚のフレームへ当て革を入れて固定も巻き直す。先端の革も替えた方がいい」


「いくらだ」


女は卓へ品を置き、一つずつ数えた。


「検分が二クレド。右肘と外殻の処置で六クレド。脚の当て革と巻き直し、先端革の交換で一クレド。予備の布と帯を入れて、九クレド七十ミルだ」


ロアンはすぐには答えなかった。


リゼ本体と黒化セルで二百四十クレド。灰等十二型セルが九十八クレド。携行箱、黒化セルの検査と充填。そのうえ、九クレド七十ミル。


黒化セルをもう一本買うよりは安い。


それでも、購入してから掛かった額は増え続けていた。


ロアンは卓に置かれた革と布を見た。


街道へ連れ出すなら必要になる。処置をせずに歩かせ、途中で固定が切れれば、これまでに支払った額とは関係なく動けなくなる。


払わないという選択を考えたわけではなかった。


ただ、いくら使ったのかを数えただけだった。


その沈黙のあいだ、リゼがロアンを見ていた。


「両腕は正常です」


ロアンは顔を上げた。


「何だ」


「手と指も、明確な反応遅延はありません。左脚、視覚、聴覚、発声、保持電源も、商会の検分では正常範囲でした」


工房の女がリゼを見る。


「それがどうした」


「外殻と右脚に損傷がありますが、分解後も使用できる部品は多いと思います」


ロアンは何も言わなかった。


リゼの声に変化はない。それでも、質問されていないことを、自分から説明していた。


「視覚部品と両腕は、個別に価値を見込めます。左脚も現在は使用可能です。黒化十二型セルも、低速充填後の予備として使用できます」


「分解する話はしていない」


ロアンが言った。


「処置の費用が、私を使用し続ける価値に見合うか確認しているのではないのですか」


「違う」


「では、何を考えていたのですか」


「今までに払った額を数えただけだ」


「その結果、処置を行わない可能性はありますか」


「ない」


リゼは数秒、ロアンを見た。


「九クレド七十ミル払う」


ロアンは工房の女へ言った。


女は二人のやり取りへ口を挟まず、品をまとめた。


「では、いま処置する。半刻ほどだ」


リゼはまだロアンを見ていた。


「分解しないのですか」


「ああ」


「処置後も街道で使用できないと判断された場合は」


「いま決めることじゃない」


「その場合、分解した方が支払った金額の一部を回収できます」


「分かっている」


「使用可能な部品が失われる前に行った方が、回収できる額は――」


「リゼ」


名前を呼ぶと、言葉が止まった。


淡く青白い目が、正面からロアンへ向けられる。


リゼが何を急いでいるのか、本人にも分かってはいないのだろう。


使えないと判断される。


費用に見合わないと判断される。


置いておく価値がないと判断される。


その先に分解があることを、リゼは初めから当然の順序として受け入れていた。


処置を受け、さらに金を掛けられたあとで同じ結論へ至るより、使える部品が多いうちに分けた方が、ロアンの損失は少ない。


そう説明すれば、少なくとも自分にはまだ価値があると示せる。


同時に、その結末がいつ来るのかを待たずに済む。


リゼがそこまで考えているようには見えなかった。ただ、問いを重ねるたび、話をその方向へ近づけていた。


自分が使い続けられる未来を、初めから計算へ入れていないようだった。


「分解するために買ったんじゃない」


ロアンが言った。


「では、何のためですか」


「それはまだ分からん」


「分からないまま、さらに費用を支払うのですか」


「ああ」


「利益にはなりません」


「知っている」


「私が役に立てなければ、支払ったものを回収できません」


「回収するつもりはない」


リゼは黙った。


工房の奥から、工具が小さく金属を打つ音が続いていた。


「使用できなくなってもですか」


「そのときのことは、そのとき決める」


「いま決めた方が、残る価値は大きいと思います」


「決めない」


ロアンはそれだけ答えた。


理由を説明することはできなかった。


この先も使えると保証することも、壊れても捨てないと約束することもできない。


ただ、まだ動いているリゼを前にして、使えなくなった場合の値段を決めるつもりはなかった。


リゼはしばらくロアンを見ていた。


「わかりました」


声の調子は変わらなかった。


それでも、両腕や左脚の価値を続けて説明することはなかった。


女はリゼを台へ座らせ、右肘の清掃を始めた。


裂け目へ残った砂と粉を乾いた布で取り除き、肘を曲げた状態で薄い当て布を巻く。外殻の亀裂には密閉しない帯を当て、砂が入りやすい部分だけを覆った。


右脚の固定は、一度すべて外された。


角材が離れると、リゼは台へ腰を預けたまま動かなかった。女は残ったフレームの縁を薄い革で覆い、その上へ角材を戻す。


ロアンが砂海で削った接合面は、そのまま使われた。


布を張り出しと窪みへ掛け、巻く方向を変える。外側への動きを止めるよう交差させたあと、結び目の位置だけを以前より少しずらした。


角材の先端へ巻かれていた革も外し、新しいものへ替える。


最後にリゼを立たせ、数歩歩かせた。


歩き方は変わらなかった。


左足を出し、遅れて角材を運ぶ。腰を戻し、次の一歩へ移る。


ただ、布がフレームの縁へ直接擦れる状態ではなくなり、先端の革も均一な厚さへ戻っていた。


「これで壊れなくなるわけじゃない」


女が言った。


「長く歩けば緩むし、革も減る。右肘と外殻の布も汚れる。毎日見ろ」


「分かっている」


「音が変わったら止める」


「ああ」


「濡れたまま巻かない。亀裂を塞ぎすぎない。脚の布を足し続けず、一度外して巻き直す」


「ああ」


女は予備の布、当て革、固定帯を袋へ入れて渡した。


ロアンは代金を支払った。


全面修理をしたわけではない。


失われた右脚は戻らず、人工皮膚の裂け目も、外殻の亀裂も残っている。


塞ぐ。


巻く。


濡らしたままにしない。


緩んだら締め直す。


街道で悪化させないための手順と、そのための品を得ただけだった。


工房を出ると、午後の光が通りへ傾き始めていた。


リゼはロアンより半歩後ろを歩いた。


新しく巻かれた布と革に変わっても、左足と角材が交互に続く音は変わらない。


しばらく進んだあと、リゼが言った。


「エルデンまで、一月近く掛かるのですか」


「ああ」


「なぜ行くのですか」


「仕事だ。それに、拠点にしている」


「この宿には戻らないのですか」


「六月十二日に出たあとはな」


リゼは少し間を置いた。


前夜、ここにいてよいのかと尋ねられた。


いまは、この場所から移ることが決まっている。


「おまえも連れていく」


ロアンは言った。


「商隊と一緒に、エルデンまでだ」


「歩けなくなった場合は」


「荷車へ載せられるか、明日確認する」


「載せられない場合は」


「そのときに考える」


「分解する場合は、ベルグラートで行った方が――」


「その話は終わりだ」


リゼは口を閉じた。


「わかりました」


ロアンにとっては、拠点へ戻るための準備だった。


リゼにとっては、行き先も、どれほど歩くのかも、この日まで知らされていなかった。


命令すれば従うからといって、伝える必要がないわけではない。


そのことに、ロアンは遅れて気づいた。


宿へ戻ると、翌日の商館で確認する項目を、もう一度紙へまとめた。


リゼの歩く位置。


歩行不能時の予備車両。


予備セルの積載場所。


白塔とナディルでのセル運用。


整備用の水と布。


携行箱を固定する位置。


リゼを連れていくことは、すでに決まっている。


あとは、そのための場所を商隊の中へ作る必要があった。

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