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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
2. 灯火の都
19/65

2-15. 宿へ連れ帰る

継暦六百二十七年 六月七日 夜


南商業区を出たころには、通りへ夕方の影が伸びていた。


ロアンは左手に空の携行箱を持ち、いつもの宿へ向かった。背には棒剣があり、胸当ても身につけたままだった。


リゼは半歩ほど後ろを歩いている。


左足の音に続いて、角材の先が石を打つ。右脚へ体重を移すたびに腰の位置を修正し、遅れて仮脚を次の一歩へ運ぶ。灰等セルへ交換しても、その歩き方は変わらなかった。


変わったのは、次の充填地点まで動ける見込みが立ったことだけだった。


通りを歩く者の中には、振り返る者もいた。


ベルグラートでは、機械人形そのものが見世物になるほど珍しいわけではない。ただし、片脚へ角材を縛りつけ、裂けた人工皮膚と外殻を晒したまま歩くものは、そう多くなかった。


リゼは周囲へ顔を向けず、ロアンの進む先を見て歩いていた。


宿のある通りへ入るころには、街灯が点き始めていた。


白い光が金属柱の上へ順に灯り、建物の壁と石畳を淡く照らしている。宿の入口には夕食の匂いが漂い、開いた窓から食器の触れ合う音が聞こえていた。


ロアンは扉の前で足を止めた。


リゼも止まる。


この宿へ機械人形を連れて戻るとは、誰にも伝えていない。買うつもりだったことさえ、昼前には自分でも知らなかった。


ロアンは扉を開けた。


一階の広間には、夕食を取る客が四人いた。窓際の卓に二人、壁際に一人、奥の小さな卓には見覚えのない男が座っている。


帳場の向こうには宿主がいて、厨房へ向かって何か声を掛けていた。


扉が開いた音に顔を向け、まずロアンを見る。


次に、その後ろから入ってきたリゼを見た。


宿主の動きが止まった。


広間にいた客も、何人かが食事の手を緩めた。


リゼの左足が床板へ触れ、続いて角材が乾いた音を立てた。


宿主は帳場から出てきた。


「それは何だ」


「機械人形だ」


「見れば分かる」


宿主はリゼの顔ではなく、右脚の角材と床を見た。


「連れてきたのか」


「ああ。商会から買った」


「買った」


宿主はしばらく何も言わなかった。


驚いてはいるようだったが、追い返す言葉は出なかった。代わりに、入口から階段までの床板を見て、次に階段の幅と手すりへ目を移す。


「重いのか」


「人間と大きくは変わらない」


ロアンはそう答えたが、正確な重さは知らなかった。


宿主も同じことを考えたらしい。


「大きくは、というのはどれくらいだ」


リゼが答えた。


「現在の重量は、およそ七十キロです」


宿主はロアンを見た。


「おまえより軽いんじゃないか」


「ああ」


「それなら、重さだけで床が抜けることはなさそうだな」


広間の客の一人が、わずかに口元を動かした。


宿主はそちらを見ず、リゼの仮脚へ視線を戻した。


「だが、その木は床を傷めないか」


角材の先には革が巻かれている。石床を歩いてきたため、革の外側には細かな砂と黒い汚れがついていた。


「革を当ててある」


ロアンが言った。


「まず見せろ」


宿主はリゼの前へしゃがんだ。


触れはせず、角材の先と革の状態を見る。釘や金属片が突き出していないことを確かめてから、床板へ目を戻した。


「革は外れそうにないな」


「ああ」


「濡れてもいない」


「ああ」


宿主は立ち上がり、今度はリゼの衣服と人工皮膚、露出した外殻を見た。


砂海から持ち込んだ細かな埃と、倉庫で付着した汚れが残っている。肩より少し長い黒髪も毛先の艶が鈍く、右肘の裂け目の周囲には白い石の粉が薄くついていた。


「ずいぶん汚れてるな」


宿主が言った。


リゼは返事をしなかった。


「食事も水も要らんのかもしれんが、そのまま部屋へ入られるのは困る。床も寝具も汚れる」


「寝台は使わない」


ロアンが言った。


「寝台だけの話じゃない。壁へ触れるかもしれんし、椅子へ座るかもしれん。まず身体を拭いてくれ」


宿主はリゼへ向き直った。


「水で拭いて問題はないのか」


「亀裂の奥へ水を入れなければ、問題ありません」


「湯は」


「水で構いません」


「どれくらい要る」


「布を湿らせる程度で足ります」


厨房の奥から女将が顔を出した。手には木の匙を持っている。


「何を騒いでるの」


宿主はリゼを指した。


「ロアンが買ってきた」


女将は何も言わず、リゼを上から下まで見た。


黒髪、淡く青白い目、裂けた右肘、角材の仮脚。最後にロアンを見る。


「何を」


「機械人形を」


「それは見れば分かるよ」


宿主と同じことを言った。


女将は厨房から出てきたが、リゼの近くまでは寄らなかった。追い返そうとしているのではなく、どう接すればよいのか測っているようだった。


「食事は」


「必要ありません」


リゼが答えた。


女将は少し眉を上げた。


「寝るのは」


「必要ありません」


「じゃあ、夜はずっと立ってるのかい」


リゼはすぐには答えなかった。


「そうしろと言われれば、そうします」


女将はロアンを見た。


「それは休んでることになるのかい」


「俺に聞くな」


「買ったのはあんただろう」


ロアンは返事をしなかった。


宿主は階段へ目を向けた。


「部屋は同じか」


「ああ」


「もう一部屋取るんじゃないのか」


「寝台は使わない」


「寝台を使わなくても、部屋へ置くなら場所は取る」


「追加が必要なら払う」


宿主は指で帳場を二度叩いた。


「使う部屋が増えないのであれば追加は不要だ。しかし夜中に廊下を歩かせれば、ほかの客が驚く。同じ場所へ立たせ続ければ、角材で床を傷めるかもしれん。部屋の中で何をさせるのかも分からん」


「何もさせない」


答えてから、ロアンは自分の言葉の曖昧さに気づいた。


宿主も眉を寄せた。


「何もさせずに、ずっと置いておくのか」


ロアンには答えがなかった。


女将がリゼをもう一度見た。


「とにかく、身体を拭く水は出すよ。その髪も服も、ずいぶん埃をかぶってる」


「はい」


リゼが答えた。


「先に階段だ」


宿主が言った。


「上がれなければ、部屋へ入れるも何もない」


広間にいた客たちは、すでに露骨には見ていなかった。それでも、食器の音は少なくなっている。


宿主は階段の前まで行き、手すりを掴んだ。


「上がってみろ。ただし、急ぐな」


リゼはロアンを見た。


命令を待っている。


「上がれ」


「はい」


リゼは階段の前へ立った。


左足を一段目へ載せ、手すりには触れずに左脚へ体重を移して身体を持ち上げる。そのあと角材の仮脚を斜めに運び、同じ段へ置いた。


革と木が触れる乾いた音がした。


二段目も同じだった。


左足を上げ、身体を引き上げ、角材を横へ逃がさないよう斜めに運ぶ。平地を歩くより時間は掛かるが、角材が段の縁へ引っかかることはなかった。


宿主は一段下から、仮脚の先と床板を見ている。


「手すりを使わなくていいのか」


「現在は必要ありません」


「必要になったら使え。下に落ちる方が困る」


「はい」


リゼは階段を上がり続けた。


最後の一段へ左足を載せる。


体重が掛かり、板がわずかに沈んだ。


軋む音がした。


リゼは動きを止めた。


階段の下で、宿主が顔をしかめる。


「ほら鳴った」


ロアンは一段下から答えた。


「俺でも鳴るんだが」


「おまえは普段から床を鳴らすような歩き方だ」


「壊れてはいない」


「壊れてからでは遅い」


宿主は階段の下から声を上げた。


「端を踏め。中央よりはましだ」


リゼは左足の位置を段の端へずらした。角材も中央を避けて置き、身体を二階へ上げる。


軋みはしたが、先ほどより音は小さかった。


宿主は手すりを揺らし、階段の状態を確かめた。


「上り下りは必要なときだけにしろ。夜中に勝手に歩かせるな」


「ああ」


「それと、最後の一段は端を使え」


リゼが階段の上から答えた。


「はい」


「俺の言葉にも返事はするんだな」


宿主が呟いた。


女将が厨房から浅い桶と古い布を持ってきた。


「部屋で拭けばいいのかい」


「ああ」


ロアンは階段を下り、女将から桶を受け取った。


片手には携行箱があるため、宿主が箱を見た。


「それは何だ」


「セルを入れる箱だ」


「中身は」


「空だ。明日受け取る」


「部屋で熱を出したりしないだろうな」


「今は何も入っていない」


「入れたあとの話だ」


「荷車へ積む。部屋には置かない」


宿主はそれで納得したらしい。


「ならいい」


ロアンは水の入った桶を持って、もう一度階段を上がった。


最後の一段では端へ足を置いた。


板が軋む。


階下から宿主の視線を感じたが、何も言われなかった。


二階の廊下では、リゼが階段を上がった場所から動かずに待っていた。


宿へ入ることはできた。


階段も上がれた。


だが、どこへ立ち、何をしてよいのかまでは、まだ何も決まっていなかった。

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