2-15. 宿へ連れ帰る
継暦六百二十七年 六月七日 夜
南商業区を出たころには、通りへ夕方の影が伸びていた。
ロアンは左手に空の携行箱を持ち、いつもの宿へ向かった。背には棒剣があり、胸当ても身につけたままだった。
リゼは半歩ほど後ろを歩いている。
左足の音に続いて、角材の先が石を打つ。右脚へ体重を移すたびに腰の位置を修正し、遅れて仮脚を次の一歩へ運ぶ。灰等セルへ交換しても、その歩き方は変わらなかった。
変わったのは、次の充填地点まで動ける見込みが立ったことだけだった。
通りを歩く者の中には、振り返る者もいた。
ベルグラートでは、機械人形そのものが見世物になるほど珍しいわけではない。ただし、片脚へ角材を縛りつけ、裂けた人工皮膚と外殻を晒したまま歩くものは、そう多くなかった。
リゼは周囲へ顔を向けず、ロアンの進む先を見て歩いていた。
宿のある通りへ入るころには、街灯が点き始めていた。
白い光が金属柱の上へ順に灯り、建物の壁と石畳を淡く照らしている。宿の入口には夕食の匂いが漂い、開いた窓から食器の触れ合う音が聞こえていた。
ロアンは扉の前で足を止めた。
リゼも止まる。
この宿へ機械人形を連れて戻るとは、誰にも伝えていない。買うつもりだったことさえ、昼前には自分でも知らなかった。
ロアンは扉を開けた。
一階の広間には、夕食を取る客が四人いた。窓際の卓に二人、壁際に一人、奥の小さな卓には見覚えのない男が座っている。
帳場の向こうには宿主がいて、厨房へ向かって何か声を掛けていた。
扉が開いた音に顔を向け、まずロアンを見る。
次に、その後ろから入ってきたリゼを見た。
宿主の動きが止まった。
広間にいた客も、何人かが食事の手を緩めた。
リゼの左足が床板へ触れ、続いて角材が乾いた音を立てた。
宿主は帳場から出てきた。
「それは何だ」
「機械人形だ」
「見れば分かる」
宿主はリゼの顔ではなく、右脚の角材と床を見た。
「連れてきたのか」
「ああ。商会から買った」
「買った」
宿主はしばらく何も言わなかった。
驚いてはいるようだったが、追い返す言葉は出なかった。代わりに、入口から階段までの床板を見て、次に階段の幅と手すりへ目を移す。
「重いのか」
「人間と大きくは変わらない」
ロアンはそう答えたが、正確な重さは知らなかった。
宿主も同じことを考えたらしい。
「大きくは、というのはどれくらいだ」
リゼが答えた。
「現在の重量は、およそ七十キロです」
宿主はロアンを見た。
「おまえより軽いんじゃないか」
「ああ」
「それなら、重さだけで床が抜けることはなさそうだな」
広間の客の一人が、わずかに口元を動かした。
宿主はそちらを見ず、リゼの仮脚へ視線を戻した。
「だが、その木は床を傷めないか」
角材の先には革が巻かれている。石床を歩いてきたため、革の外側には細かな砂と黒い汚れがついていた。
「革を当ててある」
ロアンが言った。
「まず見せろ」
宿主はリゼの前へしゃがんだ。
触れはせず、角材の先と革の状態を見る。釘や金属片が突き出していないことを確かめてから、床板へ目を戻した。
「革は外れそうにないな」
「ああ」
「濡れてもいない」
「ああ」
宿主は立ち上がり、今度はリゼの衣服と人工皮膚、露出した外殻を見た。
砂海から持ち込んだ細かな埃と、倉庫で付着した汚れが残っている。肩より少し長い黒髪も毛先の艶が鈍く、右肘の裂け目の周囲には白い石の粉が薄くついていた。
「ずいぶん汚れてるな」
宿主が言った。
リゼは返事をしなかった。
「食事も水も要らんのかもしれんが、そのまま部屋へ入られるのは困る。床も寝具も汚れる」
「寝台は使わない」
ロアンが言った。
「寝台だけの話じゃない。壁へ触れるかもしれんし、椅子へ座るかもしれん。まず身体を拭いてくれ」
宿主はリゼへ向き直った。
「水で拭いて問題はないのか」
「亀裂の奥へ水を入れなければ、問題ありません」
「湯は」
「水で構いません」
「どれくらい要る」
「布を湿らせる程度で足ります」
厨房の奥から女将が顔を出した。手には木の匙を持っている。
「何を騒いでるの」
宿主はリゼを指した。
「ロアンが買ってきた」
女将は何も言わず、リゼを上から下まで見た。
黒髪、淡く青白い目、裂けた右肘、角材の仮脚。最後にロアンを見る。
「何を」
「機械人形を」
「それは見れば分かるよ」
宿主と同じことを言った。
女将は厨房から出てきたが、リゼの近くまでは寄らなかった。追い返そうとしているのではなく、どう接すればよいのか測っているようだった。
「食事は」
「必要ありません」
リゼが答えた。
女将は少し眉を上げた。
「寝るのは」
「必要ありません」
「じゃあ、夜はずっと立ってるのかい」
リゼはすぐには答えなかった。
「そうしろと言われれば、そうします」
女将はロアンを見た。
「それは休んでることになるのかい」
「俺に聞くな」
「買ったのはあんただろう」
ロアンは返事をしなかった。
宿主は階段へ目を向けた。
「部屋は同じか」
「ああ」
「もう一部屋取るんじゃないのか」
「寝台は使わない」
「寝台を使わなくても、部屋へ置くなら場所は取る」
「追加が必要なら払う」
宿主は指で帳場を二度叩いた。
「使う部屋が増えないのであれば追加は不要だ。しかし夜中に廊下を歩かせれば、ほかの客が驚く。同じ場所へ立たせ続ければ、角材で床を傷めるかもしれん。部屋の中で何をさせるのかも分からん」
「何もさせない」
答えてから、ロアンは自分の言葉の曖昧さに気づいた。
宿主も眉を寄せた。
「何もさせずに、ずっと置いておくのか」
ロアンには答えがなかった。
女将がリゼをもう一度見た。
「とにかく、身体を拭く水は出すよ。その髪も服も、ずいぶん埃をかぶってる」
「はい」
リゼが答えた。
「先に階段だ」
宿主が言った。
「上がれなければ、部屋へ入れるも何もない」
広間にいた客たちは、すでに露骨には見ていなかった。それでも、食器の音は少なくなっている。
宿主は階段の前まで行き、手すりを掴んだ。
「上がってみろ。ただし、急ぐな」
リゼはロアンを見た。
命令を待っている。
「上がれ」
「はい」
リゼは階段の前へ立った。
左足を一段目へ載せ、手すりには触れずに左脚へ体重を移して身体を持ち上げる。そのあと角材の仮脚を斜めに運び、同じ段へ置いた。
革と木が触れる乾いた音がした。
二段目も同じだった。
左足を上げ、身体を引き上げ、角材を横へ逃がさないよう斜めに運ぶ。平地を歩くより時間は掛かるが、角材が段の縁へ引っかかることはなかった。
宿主は一段下から、仮脚の先と床板を見ている。
「手すりを使わなくていいのか」
「現在は必要ありません」
「必要になったら使え。下に落ちる方が困る」
「はい」
リゼは階段を上がり続けた。
最後の一段へ左足を載せる。
体重が掛かり、板がわずかに沈んだ。
軋む音がした。
リゼは動きを止めた。
階段の下で、宿主が顔をしかめる。
「ほら鳴った」
ロアンは一段下から答えた。
「俺でも鳴るんだが」
「おまえは普段から床を鳴らすような歩き方だ」
「壊れてはいない」
「壊れてからでは遅い」
宿主は階段の下から声を上げた。
「端を踏め。中央よりはましだ」
リゼは左足の位置を段の端へずらした。角材も中央を避けて置き、身体を二階へ上げる。
軋みはしたが、先ほどより音は小さかった。
宿主は手すりを揺らし、階段の状態を確かめた。
「上り下りは必要なときだけにしろ。夜中に勝手に歩かせるな」
「ああ」
「それと、最後の一段は端を使え」
リゼが階段の上から答えた。
「はい」
「俺の言葉にも返事はするんだな」
宿主が呟いた。
女将が厨房から浅い桶と古い布を持ってきた。
「部屋で拭けばいいのかい」
「ああ」
ロアンは階段を下り、女将から桶を受け取った。
片手には携行箱があるため、宿主が箱を見た。
「それは何だ」
「セルを入れる箱だ」
「中身は」
「空だ。明日受け取る」
「部屋で熱を出したりしないだろうな」
「今は何も入っていない」
「入れたあとの話だ」
「荷車へ積む。部屋には置かない」
宿主はそれで納得したらしい。
「ならいい」
ロアンは水の入った桶を持って、もう一度階段を上がった。
最後の一段では端へ足を置いた。
板が軋む。
階下から宿主の視線を感じたが、何も言われなかった。
二階の廊下では、リゼが階段を上がった場所から動かずに待っていた。
宿へ入ることはできた。
階段も上がれた。
だが、どこへ立ち、何をしてよいのかまでは、まだ何も決まっていなかった。




