2-13. 検分と購入
「分からん」
ロアンがそう答えたあと、記録室には荷捌き場の音だけが残った。
閉じた木戸の向こうを台車が通り、金属を載せた車輪が石の継ぎ目を越える。低い振動が床から卓の脚へ伝わり、積まれた紙の端をわずかに震わせた。
ヴァルドは椅子へ座ったまま、ロアンを見ていた。
問いを聞き返すことも、笑うこともしなかった。
ロアン自身にも、それ以上の答えはなかった。
黒髪の機械人形が、現在のセルを使い切れば停止すること。そのあと検査され、両腕や左脚を外されること。
それを聞いたあとで、買えるのかと尋ねた。
その順序だけは確かだった。
ヴァルドは卓の上へ視線を落とし、契約書の角を揃えた。商会保管分の木箱へ収め、蓋を閉じてから、その上へしばらく手を置いた。
「売ること自体はできる」
やがて言った。
「もともと、停止すれば解体へ回す予定だった。現状のまま買う者がいるなら、商会にとっても手間は減る」
ロアンは扉から手を離した。
「ただし、俺の見立てだけで値は決められん。一度、技師に検分させる。どの部品が動き、どこまで損傷しているか。セルも含めて、現在の価値を出す」
「どれくらい掛かる」
「時間か、金額か」
「時間だ」
ヴァルドは荷捌き場の方へ目を向けた。
「技師が空いていれば、今日中に終わる。分解して内部まで見るわけではない。動作確認と、外からできる検査だけだ」
「内部は見ないのか」
「見れば値が上がる」
「なぜだ」
「開けるにも人が要る。閉じたあと正常に動く保証も要る。部品へするなら、いずれ解体するから構わん。だが、一体のまま渡すために分解し、また組み直すのは無駄だ」
ヴァルドは立ち上がった。
「外から分からない損傷は、分からないまま売る。動作保証もつけない。買ったあとで停止しても、返品は受けない」
「それでいい」
即答すると、ヴァルドが一度だけ目を細めた。
「まだ値も聞いていないぞ」
「検分してからだろう」
「ああ」
ヴァルドは扉を開けた。
渡り廊下へ出ると、荷捌き場の音が一気に近くなった。
午前より荷車は減っていたが、作業は続いている。第一倉庫の前では、人足が長い木箱を台車から降ろしていた。検査台には封を切られた荷が並び、書記が中身を帳面へ記している。
第二倉庫の扉は片側だけが開いていた。
内部から差す灯りは弱く、入口を数歩入ったところまでしか見えない。黒髪の機械人形の姿はなかった。
ヴァルドは第二倉庫の前へ立つ警備役へ声を掛けた。
「倉庫技師は中か」
「検査室におります」
「赤札をつけた黒髪の人形がいるだろう。護衛補助型だったか、それを現状売却の検分へ回す。倉庫番にも伝えろ」
警備役はヴァルドと、その後ろにいるロアンを見た。
「一体での売却ですか」
「そうだ。許可はこれから出す。先に検分を行う」
「承知しました」
警備役の一人が倉庫へ入っていく。
ヴァルドは近くの書記を呼び止め、短い指示を書いた木札を渡した。
「倉庫責任者へ。現状売却の査定を一件。買い手はロアン・ハルヴァ。検分後、価格をこちらへ回せ」
書記は札を読み、ロアンを一度見た。何も尋ねず、本館側の通路へ急いでいった。
新しい柄革が、肩の動きに合わせて背へ触れた。
胸当ての右脇には、昨日交換されたばかりの留め具がある。
黒髪の機械人形も、まだ動いていた。
右脚を失い、角材を当てただけの状態で歩いている。人足に蹴られて緩んだ布を、締め直したのも自分だった。
だから買うのか。
違う気がした。
金なら払える。
それだけでもなかった。
商会が解体を決めた理由は分かる。倉庫仕事なら人間を雇う方が安く、劣化したセルを充填してまで使う価値はない。
間違った判断ではなかった。
それでも、まだ動いている。
ロアンはそこから先を考えなかった。
「ここで待つのか」
「検査室へ入る。買うつもりなら、状態を自分で見ておけ」
ヴァルドは第二倉庫の扉へ向かった。
警備役が道を空ける。
倉庫へ入った瞬間、外より冷えた空気が肌へ触れた。
厚い石壁と高い天井のため、昼の熱が中まで入り込んでいない。柱や棚の脇へ固定された白い灯りだけが、狭い範囲を照らしている。光の届かない棚の間には、深い影が残っていた。
第一倉庫より静かだった。
人の声は低く、荷を置くときも床へ投げる者はいない。金属箱、セルを収めた容器、布で何重にも包まれた部品が、種類ごとに棚へ並べられていた。
すべてに札がついている。
回収地。
持ち込んだ者。
動作確認の有無。
用途。
危険性。
外から中身の分からない箱にも、赤や黄の印が記されていた。
右手には、金属格子で区切られたセルの保管区画があった。二人の作業員が長い器具を使い、充填前後のセルを一本ずつ移している。
ヴァルドはそこを通り過ぎ、倉庫の奥へ向かった。
最奥の壁には、通常の保管扉より低い鉄扉が三つ並んでいる。中央の扉の上には、検分を示す白い札が掛けられていた。
中から出てきたのは、灰色の作業着を着た男だった。
五十を越えているように見える。額から右のこめかみにかけて古い火傷の跡があり、腰には大小の工具を収めた革帯を巻いていた。
「何だ」
男はヴァルドを見た。
「予定にない検分を入れるな。夕方までに四十型セルを二本見なきゃならん」
「長くは取らせない。右脚膝下を失った機械人形だ」
「何を目的とした検分だ」
「一体のまま買いたい者がいる」
技師はロアンへ視線を移した。
背負った棒剣。
胸当て。
外套の下から覗く黒い染み。
最後に顔を見て、ヴァルドへ戻る。
「現状でか」
「ああ」
「物好きだな」
ロアンは答えなかった。
技師も返事を求めていなかった。
「商会用と売却用で記録を二通作る。今の状態を見て判断してもらう。動作保証はしない」
ヴァルドの最後の言葉はロアンに向けられたものだった。
「分かっている」
技師はロアンを見た。
「聞いたことと、分かったことは同じじゃない。今日動いても、明日動くとは限らん。開けずに見るなら、内部の割れも断線も、制御部の損傷も分からない」
「ああ」
「返品も修理も、商会へ持ち込めると思うな」
「分かった」
「なら入れ」
技師は鉄扉を押し開けた。
検査室は、記録室より広かった。
中央の石床へ白い線が引かれ、壁際には高さの異なる台と椅子、工具棚、金属机が並んでいる。奥には大小の印と色の違う石片を貼りつけた黒い板があり、反対側の壁には小さな鐘や金属板が吊られていた。
「そこへ立て」
技師は、まだ誰もいない入口へ向かって言った。
少し遅れて、木の先が床を打つ音が近づいてきた。
黒髪の機械人形が、倉庫番とともに現れた。
両腕には何も持っていない。
作業を中断させられたためか、衣服と裂けた右肘に細かな埃がついている。肩より少し長い髪も乾いた空気を含み、毛先が作業着の襟へ触れていた。
右脚の仮脚には、ロアンが巻き直した布が残っている。
緩みはなかった。
左脚を前へ出し、仮脚を引き寄せる。歩みは遅いが、身体は大きく揺れなかった。
機械人形は検査室の入口でヴァルドを見た。
次に技師。
最後にロアンへ目を向けた。
表情は変わらない。
「検分を行う。指示に従え」
「はい」
人形は白い線の中央へ進んだ。
「向こうまで歩いて戻れ。普段どおりでいい」
「承知しました」
左足が前へ出る。
腰が移動し、遅れて仮脚の先が床へ下りた。
硬い音が検査室へ響いた。
人形は線の端まで進み、左脚を軸に身体の向きを変えた。仮脚を浮かせて置き直す動作には時間が掛かるが、途中で姿勢を崩すことはない。
同じ速度で戻ってきたところで、技師が手を上げた。
「止まれ。足を揃えろ」
人形は左足の隣へ仮脚を置いた。
技師は右膝の前へしゃがみ、作業着の裾を上げた。
人工皮膚の裂けた縁は固まり、その下から白い外殻と金属フレームが露出している。外殻は割れ、断面の一部が細かく砕けていた。
残ったフレームには窪みと張り出しがあり、角材はその形へ合わせて削られている。
技師は布の巻き方を確かめ、角材へ上下左右の力を掛けた。
動かなかった。
「これをつけたのは」
ヴァルドがロアンを顎で示した。
技師は角材をもう一度見た。
「工房の人間か」
「違う。荷車の補修材を削っただけだ」
「刃物だけでか」
「ああ」
技師は角材の上部を指でなぞった。
フレームへ当たる面だけが削られ、下側には太さが残されている。先端には、旅の途中で当てた革片も残っていた。
「見た目よりまともだ」
褒める調子ではなかった。
検査した結果を、そのまま口にしているだけだった。
「固定は安定している。残った膝関節も動く。角材には駆動がないから、歩行は腰と残る脚で補っている」
技師は人形の左側へ回った。
左足へ体重を掛けさせ、踵とつま先を順に上げさせる。膝を曲げ伸ばしさせたあと、腰の外側へ細い金属棒を当てた。
「動作抵抗は」
「ありません」
「右脚を失う前と比べて、左脚か腰に負荷は」
「多少あるかもしれません」
精密な機械という想像とは裏腹に、返答はぼんやりとしていた。技師は器具の印を見た。
「左脚と腰に明確な異常はない。姿勢を戻す制御が増えているぶん、電力は余計に使う」
ヴァルドが訊いた。
「このまま歩かせられるか」
「歩行自体は続けられる。速くはならんがな」
技師は椅子を示した。
「座れ」
人形がゆっくり腰を下ろし、仮脚を前へ伸ばした。
両腕を上げさせ、肩、肘、手首を順に動かす。左右の手で細い金属輪をつまませ、棒へ通させたあと、握力を測る器具を持たせた。
「両腕と手指、正常範囲。目立つ反応遅延なし」
右肘の裂けた人工皮膚へ灯りを寄せる。
技師は肘を曲げ伸ばしさせ、露出した外殻を指で押した。
「ここは表面の擦過傷だ。関節には影響していない」
前腕や肩口にも、旅と倉庫作業で増えた傷があった。左膝の外側には古い損傷痕が残り、脇腹の人工皮膚も一部が剥がれている。
技師は灯りを動かしながら、外殻を金属棒で軽く叩いた。
場所によって音が違った。
「人工皮膚は、商品外観として値をつけられる状態じゃない。外殻も腕と脇腹に亀裂がある」
「内部まで割れているのか」
ロアンが尋ねた。
「開けなければ分からん。外殻だけで止まっているかもしれない。内側の固定部へ届いているかもしれない」
「動作には出ていない」
「今はな」
技師は立ち上がった。
「脚を失うほどの衝撃が右側へ入っている。歩けて腕が動き、話せるからといって、内部まで無傷とは言えない」
機械人形は椅子へ座り、両手を膝へ置いていた。
右の仮脚だけが前へ伸びている。
黒髪の隙間から、淡く青白い目が技師の動きを追っていた。
「目と耳を見る」
技師は椅子を黒い板の正面へ向けた。
明るさを変えながら、大小の印と色の違う石片を示す。人形はそれぞれの色と位置を答え、視線は技師の動きへ遅れずついていった。
続いて、左右と背後で小さな鐘や金属板を鳴らす。
人形は正しい方向へ顔を向けた。
「視覚、聴覚とも正常範囲。距離と音の位置に大きな誤認なし」
技師は正面へ戻った。
「登録名を」
「リゼです」
ロアンは顔を上げた。
特別な調子で告げられたわけではなかった。
検分項目の一つへ答えただけだった。
技師は紙へ記す。
登録名、リゼ。
ロアンは初めて、黒髪の機械人形に呼ぶための名があることを知った。
商隊に同行していたあいだ、その名を聞いた覚えはない。
人足も御者もヴァルドも、黒髪の方、壊れた方、人形と呼んでいた。
ロアンも同じだった。
砂海で角材を固定したときも、名前を訊かなかった。
「所属識別」
「エゼル商会。ベルグラート第二倉庫管理下です」
「現在の作業」
「倉庫内運搬です」
短い文章を読み上げさせても、声や言葉の間に異常はなかった。
「発声も正常範囲」
技師は記録へ印を入れた。
「次はセルだ。自分で外せるか」
「はい」
リゼは服の左側の裾をめくり、腰にある交換口の留め具を外す。
技師が砂時計を置く。
「保持電源へ移れ」
リゼの目の光が一瞬弱くなり、すぐに安定した。
内部の固定が外れる音がした。左手を腰の左側にあるつまみに持っていき引っ掛けるようにして、セルが引き出された。
十二型セルは角の落ちた六角柱状をしていた。かつては灰白色だった外装の大半が黒ずみ、暗い斑点と筋が内側から浮いている。
汚れではない。
黒化していた。
技師はセルを検査具へ載せ、複数の端子を接続した。
針が動く。
「残量は少ない。倉庫作業を続ければ、今日か明日には保護停止へ入っていただろう」
「俺の見積もりと同じだな」
ヴァルドが言った。
「残量だけならな」
技師は別のつまみを回した。
セルの内部から低い音が生じ、針が大きく振れてから戻る。
「十二型。黒化。実効容量は新品時の三割前後。最大出力も落ちている」
「充填はできるか」
ロアンが尋ねた。
「今まではできている。次もできるとは言わん。黒化セルは充填時に熱を持つ。内部の劣化が進めば、充填所に断られることもある」
「満たしたら、どれくらい動く」
技師はリゼを見た。
「この脚なら、待機だけで二十日前後。軽い仕事をさせて九日から十五日。街道を歩かせるなら、休憩を入れて七日から十日だ」
「前回はそれ以上歩いている」
「途中で替えている」
ヴァルドが答えた。
「ナディルで商隊へ加わったあと、シャルガとダハムで交換した。ベルグラートへ着いたあとも、倉庫用の黒化セルへ替えている」
技師は続けた。
「荷を持たせるか、長時間歩かせれば短くなる。戦闘のような高出力は当てにするな。途中で出力が落ちるか、保護停止する可能性がある」
「残りの寿命は」
「分からん」
技師は明確に言った。
「次の充填で使えなくなるかもしれん。十回使えるかもしれん。値をつけるなら、黒化セルとして最低限の価値だけだ」
主セルを外してから数分が経っていた。
リゼは椅子へ座ったまま、目と耳を保ち、技師の動きを追っている。
技師は右腕を上げさせ、片方の指を動かさせた。
動作は主セル使用時より遅いが、指示には従った。
「保持電源も生きている。十分前後。交換には足りる。保持電源中は歩けず、重い物も持てない。時間を越えれば順番に機能を落として休止する」
「休止したら」
「記憶は残る。ただ、自分ではセルを戻せない。他人が入れるまで、そのままだ」
技師は検査具からセルを外し、リゼへ渡した。
「戻せ」
「はい」
リゼはセルの向きを合わせ、交換口へ差し込んだ。固定を閉じると、目の青白い光が元の明るさへ戻る。
蓋と作業着を元へ戻すまで、一連の動作に迷いはなかった。
「自己交換は正常」
技師は記録へ印を入れた。
そのあと、首の付け根、肩、胸部、脇腹、腰を外から調べた。リゼへ腕と腰を動かさせ、内部の駆動音を聞く。
ロアンには違いが分からなかった。
技師は右腰で同じ動きを何度か繰り返させた。
「歩行時、右腰に小さな摩擦音がある」
「故障か」
「故障とまでは言えない。仮脚を運ぶため、通常より腰を使っている音かもしれん。衝撃で内部の部品が歪んだ可能性もある」
「すぐ直す必要は」
「今すぐ停止させる音ではない。だが、保証はできない」
技師は金属棒を机へ置いた。
「思考と制御に明らかな異常は見えない。指示も理解している。姿勢制御も、右脚がない状態へ合わせて動いている」
「内部の損傷はないのか」
技師はロアンを見た。
「分からん」
ロアンが聞きたかったかもしれない答えを、先に断つような言い方だった。
「外から確認できる範囲では、致命的な異常はない。左脚も両腕も動く。目も耳も声も正常。セル交換もできる。保持電源も残っている」
技師はリゼの右脚を示した。
「だが、これだけの損傷を受けている。内部の線が切れかけているかもしれない。固定具に亀裂があるかもしれない。制御部が衝撃を受け、今は動いていても後から止まるかもしれない」
「調べるには」
「全部開ける」
「費用は」
「安い機械人形を一体買えるほど掛かることもある」
ヴァルドが言った。
「だから、商会はやらない」
技師は記録紙を机へ置いた。
「検分はここまでだ。立て」
リゼは椅子から立ち上がった。
左脚へ体重を移し、仮脚を床へ置く。
検査室の中央へ立った姿は、検分前と変わらなかった。
技師は記録を読み返した。
「右脚膝下欠損。角材による代用。固定良好。歩行は遅いが、現在は安定」
次の欄へ進む。
「左脚と腰に明確な異常なし。仮脚歩行に伴い、姿勢制御動作と電力消費が増加。両腕、手指、視覚、聴覚、発声は正常範囲」
さらに続ける。
「人工皮膚は多数損傷。外観上の価値はほぼない。外殻に複数の亀裂。内部損傷の可能性は除外できない」
セルの欄。
「十二型黒化セル一本。現在残量少。実効容量は新品時のおよそ三割。高出力動作と次回以降の充填は保証不能。保持電源はおよそ十分。自己交換可能。街道移動は、満充填時に七日から十日を目安。ただし地形、荷重、歩行時間によって短くなる」
技師は紙の下へ署名した。
「これで査定を出す」
「いくらになる」
技師は棚から別の帳面を取り出した。
部品ごとの最近の売却額と在庫数が記されているらしい。
「一体として正常に売る値じゃない。解体した場合に使えると見込める部品の値から、解体、検査、保管、売却の手間を引く」
両腕と手指。
左脚。
視覚と聴覚に関わる部品。
内部の駆動部と制御補助部品。
外殻と残ったフレーム。
そこから、解体と選別に掛かる人件費、ほかの機体へ適合するか調べる費用、売れるまでの保管費、内部損傷が見つかる可能性を差し引く。
技師が数字を書いた。
「本体は二百」
「セルは」
「四十」
ヴァルドが計算を確かめた。
「合計、二百四十クレド」
ロアンはリゼを見た。
二百四十。
今回の商隊護衛で得た報酬に近い。
一月を費やし、棒剣と胸当てを傷め、右肩を痛めて得た金だった。
安いとは思わなかった。
高すぎるとも思わなかった。
ヴァルドが検分記録を受け取る。
「商会が解体して得ると見込む正味額と変わらない。値引きではない」
「ああ」
「一体のまま渡せば、部品を外し、買い手を探し、在庫へ置いておく手間がなくなる。その分を含めた値だ」
「分かった」
技師は帳面を閉じた。
「これ以上、俺から言うことはない」
ヴァルドは検査室の扉を開け、外の警備役へ書記を呼ぶよう命じた。
待つあいだ、リゼは白い線の中央に立っていた。
検分が終わったからといって、倉庫作業へ戻るよう命じられたわけではない。
両腕を身体の横へ下ろし、ロアンとヴァルドの間へ視線を置いている。
自分につけられた価格を理解しているのか。
どう受け取っているのか。
ロアンには分からなかった。
顔には何も表れていない。
それは機械人形だからというだけではなかった。人間であっても、何を考えているか分からない者はいくらでもいる。
足音が近づき、契約と精算を担当する痩せた書記が検査室へ入ってきた。
手には売却用の帳面と数枚の紙がある。
「現状売却の許可が下りました」
倉庫責任者の署名と印がついた紙をヴァルドへ渡す。
ヴァルドは技師の検分記録を添えた。
「買い手はロアン・ハルヴァ。売却額は二百四十クレド。機体一体と、現在装着中の十二型セル一本を含む」
書記が記入する。
「支払い方法は」
「商会の預かり金から払う」
ロアンが答えた。
エゼル商会の預かり勘定には、今回入れた二百三十二クレドのほかに、以前の仕事で残した分があった。
書記はロアンの名義を確認し、別の帳面を開く。
二百四十を差し引き、残高を示した。
「こちらで間違いありませんか」
「ああ」
書記が印を押す。
硬貨を積むことはなかった。
帳簿の一方から数字が減り、売却欄へ同じ額が移る。それで支払いは終わった。
次に売却条件が読み上げられた。
現状のまま引き渡す。
動作保証なし。
内部損傷について保証なし。
セルの容量、出力、充填成功について保証なし。
購入後の故障、停止、部品破損について、商会は責任を負わない。
返品不可。
買い戻しの義務なし。
ロアンは一項ずつ聞いた。
書記が紙を回す。
売却対象の記録が記されていた。
防護・護衛補助型機械人形、一体。
登録名、リゼ。
右脚膝下欠損。
十二型黒化セル一本を装着。
作業着一式。
角材による仮脚を含む。
ロアンは登録名の文字をもう一度見た。
リゼ。
技師の問いへ、本人がそう答えた名だった。
紙の末尾へ署名する。
ヴァルドが担当者として名を書き、倉庫責任者、技師、エゼル商会の印が順に押された。
最後に書記が細い木札を二枚取り出した。
一枚は商会へ残す。
もう一枚は購入者へ渡す所有証だった。
表にはエゼル商会の印。裏には登録名、売却日、購入者の名が記されている。
「これで売却手続きは完了です」
ロアンは札を受け取り、腰袋へ入れた。
ヴァルドがリゼへ向き直った。
「エゼル商会の管理を外れる。いまから、おまえの所有者はロアン・ハルヴァだ」
リゼはロアンを見た。
淡く青白い目が、正面から彼の顔へ向けられる。
砂海で仮脚をつけたときにも、同じ目で見られた。
いまは白い検査灯の下にいる。
裂けた右肘。
外殻の亀裂。
布を巻いた角材。
何一つ直ってはいなかった。
違うのは、商会の帳簿からロアンの所有証へ、名が移ったことだけだった。
リゼは数秒、ロアンを見ていた。
それから、わずかに頭を下げた。
「かしこまりました」
声に喜びも、拒絶もなかった。
ヴァルドは検分記録をまとめ、書記へ渡した。
「写しを一通、ロアンへ」
書記はうなずき、検査室を出ていく。
技師はすでに工具を片づけ始めていた。
「セルは早めに扱う店へ持っていけ」
器具を戻しながら言う。
「この残量なら、宿まで歩く程度にしておけ。遠くへ連れ出すな」
「ああ」
「充填するなら低速だ。状態によっては断られる」
「交換用のセルは」
「買える。良いものは、人形本体より高い」
「黒化なら」
「安いが、同じ問題を抱える。どれを選ぶかは、どこまで使うつもりか決めてからにしろ」
どこまで使うのか。
ロアンには、まだ答えがなかった。
技師はリゼの仮脚へ目を向けた。
「右脚の布は毎日見ろ。ずれたまま歩かせれば、残ったフレームが歪む」
「ああ」
「人工皮膚の裂け目と外殻の亀裂へ、砂と水を入れるな。すぐ止まるものではないが、良くもならん」
ロアンは聞いたことを覚えた。
ヴァルドは記録室へ戻るため、扉へ向かった。
途中で足を止める。
「本当に買ったな」
「ああ」
「理由はまだ分からないか」
ロアンは答えなかった。
分からないままだった。
ヴァルドも、それ以上聞かなかった。
「商会の仕事は明後日の顔合わせからだ」
リゼを見る。
「これを連れていくつもりなら、そのとき連れてこい。先にラウルへ話を通す」
「まだ決めていない」
「なら、決めてからだ」
ヴァルドが検査室を出た。
ロアンとリゼが残った。
技師は次の検査の準備を始めている。机へ別の器具を出し、セルを調べた端子を布で拭っていた。
「そこに立っていられると邪魔だ」
ロアンは入口へ向かった。
数歩進んでから、背後の足音がないことに気づく。
振り返る。
リゼは白い線の中央へ立ったままだった。
命じられていないため、動いていない。
名前を知ったからといって、何と言えばいいのか急に分かるわけではなかった。
商会の者なら、倉庫へ戻れと言う。
人足なら、荷を持てと命じる。
所有者になった者が、最初に何を言うべきなのか。
ロアンは考えたことがなかった。
技師が工具を置く音がした。
ロアンは扉の外を示した。
「来い」
「はい」
リゼが歩き出した。
左脚と仮脚の音が交互に白い床へ響く。
ロアンのところまで来ると、二人で第二倉庫の通路へ出た。
作業員たちは、脇を通る黒髪の機械人形を見た。売られたことを知らない者もいるのだろう。いつもの作業場所へ戻ると思ったのか、声を掛ける者はいなかった。
少し遅れて出てきた書記が、倉庫番へ売却札を渡した。
倉庫番は内容を読み、リゼを見る。
「もう荷を運ばせなくていいのか」
「商会の管理から外れました」
倉庫番は短くうなずき、手元の作業札から一枚を抜いた。
それだけだった。
リゼが運ぶ予定だった荷は、近くにいた人足へ回される。
第二倉庫は何事もなかったように作業を続けた。
ロアンは入口へ向かった。
その後ろを、リゼが仮脚の音を立ててついてくる。
外へ出ると、荷捌き場へ午後の光が差していた。
高い建物に囲まれた敷地の中央だけが明るい。第一倉庫の前では荷の積み替えが続き、整備場からは木槌の音が聞こえている。
四日前、リゼが押され、蹴られた場所を通った。
そこには別の台車が止まっていた。
床には何も残っていない。
ロアンは歩く速度を落とした。
振り返らなくても、仮脚の音でリゼとの距離が分かった。
自分の歩幅のまま進めば、少しずつ離れる。
二つの足音が遅れれば、立ち止まる。
荷捌き場の出口へ着くまで、ロアンは普段より短い歩幅で歩いた。
受付の広間を通る。
正面扉の前で、書記が検分記録の写しを持って追いついた。
「こちらをお持ちください」
ロアンは紙を受け取り、折らずに上着の内側へ入れた。
「商会の印は所有証にあります。都市を出る際に確認される場合がありますので、なくさないようにしてください」
「ああ」
扉が開く。
ベルグラートの大通りが見えた。
荷車。
露店。
商会の使い。
歩く者。
白い街灯の柱。
ロアンは外へ出た。
リゼも続く。
背後で商館の扉が閉じた。
ロアンは通りの端で足を止めた。
これから向かう場所は決まっている。
技師に言われたとおり、まずセルを扱う店へ行く。
その先のことは、まだ何も決まっていなかった。
隣では、リゼが仮脚を床へ置き、静かに立っている。
ロアンは初めて、その名を口にした。
「リゼ」
淡く青白い目が、彼へ向いた。
「はい」
それだけを確かめ、ロアンは南商業区の方角へ歩き出した。




