2-8. ヴァルドとの打ち合わせ
第二倉庫の扉が開き、ヴァルドが姿を見せたのは、それからしばらくしてからだった。
先に出てきたのは、薄い木箱を抱えた書記だった。箱の上には帳面と数枚の札が載せられており、書記はそれらを落とさないよう顎で押さえながら、荷捌き場の奥へ足早に去っていく。
ヴァルドはその後ろから出てきた。
到着した日の旅装とは違い、今日は商館で働くための上着を着ている。濃い色の布地に目立つ装飾はなく、袖口と肩だけが革で補強されていた。腰には細い帳面入れを下げ、左手に巻いた紙と二枚の木札を持っている。
外見だけなら、周囲を行き交う商人や書記と大きく変わらない。
荷捌き場の者たちも、ヴァルドが現れたからといって作業を止めなかった。第一倉庫では人足が荷を積み替え、検査台では金属容器の蓋が一つずつ開けられている。第二倉庫の警備役も軽く頭を下げただけで、すぐに入口へ視線を戻した。
ヴァルドはエゼル商会の主ではなく、この商館全体を動かす立場でもない。
それでも長距離輸送へ何度も同行し、街道上で荷と人間を動かしてきた。商隊の編成、経路の選択、護衛や案内人の推薦については、商会内でも相応の裁量を与えられている。
彼が歩けば、人足は作業を止めずに進路だけを空けた。
ヴァルドは第二倉庫を出ると、荷捌き場を見渡した。
ロアンが石柱の脇から一歩出ると、すぐに気づいた。
「待たせたな」
「ああ」
「中で一件、帳簿が合わなかった」
ヴァルドはロアンの腰と背を見た。
「剣はどうした」
「修理へ出している」
「胸当てもか」
「ああ」
「肩は」
「骨は折れていない。筋を傷めているだけだ」
「だけ、か」
ヴァルドはそれ以上問い詰めなかった。
出発予定は九日後だ。いまこの場で腕が動くかを確かめても意味はない。装備の修理と肩の回復を含め、仕事を遂行できる状態へ戻るかどうかは、最終的にロアン自身が判断することだった。
「ここでは話しにくい」
ヴァルドは、新しく入ってきた荷車へ目をやった。誘導役の声が飛び、人足が荷下ろし台の前を空けている。
「裏の記録室を借りてある。来い」
第一倉庫の横へ伸びる渡り廊下へ向かい、ロアンもそのあとに続いた。
廊下の片側には、荷捌き場を見下ろす木の欄干がある。反対側は倉庫の石壁で、荷札の保管室、倉庫番の詰所、記録室の扉が順に並んでいた。
ヴァルドが開けたのは、最も奥の小部屋だった。
四人が座れば余裕のなくなる卓と、椅子が三脚。壁際の棚には巻いた地図や木札、古い通行記録が収められている。
荷捌き場側の窓は半分閉じられていた。それでも、台車の車輪が石床を転がる低い音や、荷札を読み上げる声が壁越しに聞こえてくる。
ヴァルドは卓へ紙の束を置き、巻いていた地図を広げた。
一枚で全行程を示したものではない。
ベルグラートからカルダ。カルダからダハム。サルハ砂海西側。シャルガから白塔。白塔からナディル。そこからさらに東のオルディス、灰境、セルカ、エルデン。
区間ごとに縮尺も描き方も違う。古い測量を写したもの、砂路衆から得た経路を足したもの、商隊が通るたびに井戸や宿砦の状態を書き加えたものが重ねられていた。
ヴァルドは椅子を一脚引いた。
ロアンは座らず、卓の向かいに立った。
「座らないのか」
「このままでいい」
「肩を休めろと言われたんじゃないのか」
「肩で立っているわけじゃない」
ヴァルドは椅子を戻さず、自分だけ卓の側へ座った。
「まず、ギルドへ出した内容からだ」
一枚目の紙を手前へ引く。
「荷車は五台。予備車両が一台」
「予備車両は空か」
「完全な空車にはしない。交換用の車輪と車軸、荷縄、補修材、水の一部を積む。それでも積載量の半分以上は空ける予定だ」
「負傷者か、故障車の荷を受けるためか」
「両方だ。五台のうち一台が動けなくなれば、積荷を移す必要がある。人を乗せる場合もある」
前の商隊では七番車を失ったあと、残る荷車へ荷と負傷者を分散した。予備車両があっても、出発時から荷を詰めていれば役には立たない。
「荷は」
「いま確定しているのは、医薬品、精密工具、浄水設備の交換部品、密閉材、書類だ。十二型を含むセルも候補に入っているが、数量はまだ決まっていない」
「危険物は」
「ない。薬品も通常輸送できるものだけだ」
「重量は」
「五台へ偏りなく分けられる。ただ、代わりの利きにくい荷が多い」
ヴァルドは積荷の紙へ視線を落とした。
医薬品も、浄水設備の部品も、単に高く売れるから運ぶものではない。届かなければ治療や修理が止まる場所がある。
だからといって、荷を守るために商隊全体を失うわけにはいかなかった。
ロアンは尋ねた。
「荷を捨てる判断は誰がする」
「ラウルだ。おまえも知っているだろう」
「俺の判断と割れた場合は」
「商会財産についての最終権限はラウルにある。ただし、人員と隊列の安全については、おまえを護衛責任者に置く。戦闘、停止、撤退、隊列の分割については、おまえの判断を優先するよう明記する」
「荷を捨てなければ撤退できない場合は」
「おまえが必要だと判断し、ラウルが拒むなら理由を記録させろ」
「記録する時間がなければ」
「捨てろ」
ヴァルドは迷わなかった。
「戻ってから、ラウルとおまえの報告を聞く。損失の責任は商会が判断する。だが、荷を守って全員死ぬようなら、報告する者もいない」
ロアンは短くうなずいた。
現場で商会の返事を待たなければ動けない構成ではない。それだけでも確認する価値はあった。
「商隊責任者は、通知どおりラウルだ」
ヴァルドは次の紙を出した。
「書記として二年。区間輸送の補佐として三年。サルハ越えは四回。全行程の責任者になるのは今回が初めてだ」
「本人は知っているのか」
「昨日伝えた」
「何と言った」
「受ける、と」
「それだけか」
「水の積載量と予備車両の空きを先に確認していた。出発日だけを聞いて喜ぶような馬鹿ではない」
ヴァルドは、経験の不足を隠していない。そのうえで任せられると判断していた。
「補佐は」
「商会の書記が一人つく。荷と帳簿を担当し、中継地での交渉も補助する」
「御者と荷役は」
「御者が六人。荷役は四人。御者の中へ、車輪と革具の補修ができる者を一人入れる」
「治療係は」
「専任は置かない。荷役の一人が基礎的な処置を学んでいる。薬と処置具は別に積む」
小規模な商隊で専任の治療係を置かないことは珍しくない。
ただ、その者自身が負傷した場合のことは考える必要がある。ロアンはそこまで記憶した。
「護衛は」
「おまえを含めて六人」
荷車の数と護衛の数は比例しない。守るべき荷車の数が減ったからと言って、単純に減らせるものではないことをヴァルドもロアンもわかっていた。
「二人は商会との継続契約。残る三人はギルドへ照会中だ。明日までに返事を取る」
「経験は」
「全員、都市間護衛を複数回。砂海を越えたことがない者が一人いる」
「なぜ入れる」
「弓を使える。街道経験もある。砂海を知らないことを隠してもいない」
経験がないこと自体は問題ではない。
知らないことを知っており、指示へ従えるなら使える。何度か通っただけで、自分は砂海を理解したと思っている者の方が危険な場合もある。
「顔合わせは」
「出発前に一度」
「その前に名と経歴をよこしてくれ」
「用意する」
ヴァルドは札を紙の束へ戻した。
「報酬は、前回と同じ日当を基準にする。護衛責任者としての加算がつく。危険手当は経路次第だ」
「その経路が決まっていない」
「ああ」
ヴァルドは地図のうち、白塔からナディルまでの区間を開いた。
「沈み道では、前回の襲撃後も砂の状態が安定していない。引き返した商隊もある。北側岩盤路は距離が延び、標杭と水に不安が残る」
「いまの情報だけでは選べないということか」
「そうだ」
沈み道は短いが、地形とサンドワームの状況が分からない。
北側岩盤路は深い砂を避けやすいが、古い標杭を頼りに進み、途中の水を当てにせず日数を増やす必要がある。
ヴァルドは地図の隣へ、何も書かれていない紙を置いた。
「街道情報を集めて、経路を提案してほしい」
「どこまで調べる」
「沈み道と北側岩盤路。水場、標杭、案内人を出せるか。灰境以東の宿砦、橋、充填設備も見る。盗賊や武装集団の目撃があれば拾ってくれ」
砂海だけを見ても足りない。
北側へ回れば、その先の宿駅へ入る日もずれる。灰境で足止めされれば、さらに日数が延びる。橋や充填設備が止まっていれば、予定そのものを組み直さなければならない。
ロアンは地図を見たまま答えた。
「ギルドの記録と、東門外の隊商宿から当たる。戻った商隊がいれば、御者か護衛に直接聞く」
「紹介状は用意する」
「宿駅連の報告も見る。商会へ写しが届くなら回してくれ」
「ああ」
「話を聞くために金が要る場合は」
「調査費へ入れていい」
「上限を決めろ」
ヴァルドは紙へ数字を書いた。
三日間の拘束と、記録の閲覧、聞き取りに必要な費用を考えれば不足はない。追加の謝礼が必要な場合は、確認できる範囲で別に精算することも書かれていた。
「三日で集められるか」
「今日を含めるのか」
「含めない。明日から三日だ」
「なら、三日後の昼までに持ってくる」
ヴァルドは調査依頼の紙へ署名し、商会の担当印を押した。
「経路の最終決定は商会とラウルが行う。ただし、おまえの提案と違う道を選ぶなら、理由は説明する」
「危険だと思えば、護衛は受けない」
「ああ。それも承知している」
ロアンは依頼書を折り、上着の内側へ入れた。
護衛依頼そのものを受けたわけではない。
受けたのは、三日間の経路調査だけだった。集めた情報をもとに行程と報酬が決まり、そのあとで護衛責任者を引き受けるか判断する。
ヴァルドは地図を重ね、巻き直し始めた。
仕事の話は終わった。
ロアンが扉へ手を伸ばしかけたとき、石床を硬いものが擦る音が聞こえた。
先ほど第二倉庫へ戻った、黒髪の機械人形の歩行音に似ていた。
ロアンは扉を開けず、ヴァルドを見た。
「あれは、まだ使っているのか」
ヴァルドにも音は聞こえていた。
答えるまでに一拍置く。
「右脚を失った人形のことか」
「ああ」
「動くうちはな」
「脚は直さないのか」
「費用に見合わない」
声に冷たさはなかった。
値段と用途を説明する商人の声だった。
「同じ型の脚が都合よく見つかるとは限らん。部品を探し、適合を調べ、取りつけたあとで全身を調整する。それだけで人を何か月も雇える額になる」
「仮脚でも歩けるだろう」
「だから、いまは使っている」
ヴァルドは木戸の隙間から荷捌き場を見た。
「現在のセルが残っているあいだは、第二倉庫で荷を運ばせる。遅いが、箱を持つ力は残っている」
「セルを充填して使い続けるのか」
「いや」
ヴァルドは即答した。
「倉庫仕事なら、人間を雇う方が安い。棒の脚で姿勢を取るぶん、正常な個体よりセルを使う。セル自体も劣化している。長く使う理由はない」
硬い歩行音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「残量が尽きたら停止させる。そのあと検査して、分解する。両腕、左脚、手指、目、耳、発声部、内部の駆動部品。使えるものは外す。セルも別に検査する」
「いつだ」
「残量次第だ。正確には決めていないが、いまの働かせ方なら長くはない」
ヴァルドは木札を揃えた。
「ナディル支部でたいした用途も与えていなかった人形だが、砂海でサンドワーム相手に働いた。おまえがつけた棒でベルグラートまで歩き、到着後も荷を運んだ。商会としては、十分に役目を果たしている」
それは事実だった。
砂海で歩けなければ、荷車へ載せる必要があった。角材をつけたことで、機械人形は自力でベルグラートまで移動し、到着後も倉庫で働いている。
修理費を掛けず、残る稼働時間を使い切り、その後は部品へ戻す。
エゼル商会にとって、不自然な判断ではなかった。
「そうか」
ロアンは扉を開け、荷捌き場へ戻った。
第一倉庫の前では、新しく入った荷車の幌が上げられている。第二倉庫の扉は半分開いていたが、中は暗く、黒髪の機械人形の姿は見えなかった。
「調査の札は、今日中にギルドへ回す」
ヴァルドが後ろから言った。
「明日の朝には記録を見られる。三日後、ここへ来い」
「ああ」
ロアンは本館側へ戻り、商館を出た。
外では、昼に近づいた大通りを荷車と人足が行き交っている。近くの屋台で硬いパンと豆の薄い煮汁を買い、立ったまま食べた。
木椀を返してから、上着の内側へ手を入れる。
調査依頼の紙はそこにあった。
明日から三日。
ギルドの記録、東門外の隊商宿、砂路衆、御者、街道護衛、灰境方面から来た商人。
調べる相手と項目を分けながら、ロアンは宿へ向かった。




