第6話 俺の平凡な大学生活は何処へ
沢渡由奈は、俺たちが近づいたあともしばらく壁際から動かなかった。
怯えているというより、自分の立っている場所から離れていいのか分からないみたいな顔だった。腕を身体の前で軽く組み、指先だけが落ち着きなく袖口をつまんでいる。目の下には薄い隈があって、髪も整っているとは言いがたい。大学の講義終わりに少し疲れた一年生、という説明だけで通せなくもない見た目なのに、その背後へまとわりつく空気が、普通の疲労とか寝不足とか、そういう日常の言葉では片づかない濁り方をしていた。
……ああ、やっぱりだな、と思った。
その感覚は、ひどく久しぶりというほどではないにしろ、少なくとも大学へ入ってからの日常生活の中では、あまり思い出したくない種類のものだった。旧棟三階の端に漂っている気配が、ただの学生怪談とか、講義棟の古さが作り出した雰囲気とか、そういう軽いもので済まないことくらい、ここへ向かっている途中から頭のどこかでは理解していた。理解していたのに、いざ現場へ来て、沢渡由奈という一年生の顔色を見て、空き教室の扉の向こうにまとわりつく濁った気配まで拾ってしまうと、心の底から面倒くさいというか、…もっと正直に言えば今すぐ帰りたいという気持ちが先行していた
にしたって、だ。
大学の旧棟で相談者の一年生が壁際に立ち尽くし、本人の背後に妙な気配が揺れていてしかもサークルのメンバーが全員そろっている状況というのは、オカ研の活動としてはかなり“らしい”のかもしれない。らしいのかもしれないが、当事者としてそこに立たされる側からすると、そんなジャンル適性なんて一ミリもありがたくなかった。
「沢渡さん、落ち着いて話してくれて大丈夫だから」
朝比奈が、必要以上に近づきすぎない距離で声をかけた。
沢渡は小さくうなずいたものの、その視線は俺たち全員の顔を順番に見るのではなく、どこか斜め上、教室の扉のガラスあたりへ吸い寄せられていた。本人は見ないようにしているつもりなのかもしれない。けれど視線の端が何度もそこへ戻っていく。そういう動きは、見える側の俺にはかなり嫌な意味を持っている。
「……呼ばれてるんです」
沢渡が、かすれた声で言った。
柏木がぴくっと肩を跳ねさせ、三宅がスマホの画面から顔を上げるそばで、水野先輩の表情が少しだけ真面目になる。黒田先輩はメモを取る手を止めず、朝比奈だけがほとんど表情を変えないまま「誰に?」と聞いた。
「分かりません。でも、声がするんです。最初は気のせいだと思ってました。夜、寝る前とか、講義中にぼーっとしてる時とか、誰かが呼んでるみたいで……名前じゃなくて、こっちだよ、みたいな」
「いつ頃から?」
「二週間くらい前です。最初は、ほんとにたまにだったんです。疲れてるのかなって思って、寝不足かなって。でも、だんだん増えてきて……」
沢渡はそこで一度、唇を噛んだ。
「最近は、大学にいる時のほうが強いです。特に、このあたりに来ると」
その“このあたり”が、俺たちのいる旧棟三階の端を指していることは、聞くまでもなかった。
俺は扉のガラス越しに空き教室の中を見た。机と椅子が壁際へ寄せられ、前方には古いホワイトボードが残っている。夕方の光が窓から斜めに入っているのに、教室の奥だけ妙に暗い。蛍光灯は一本だけ点いているが、その光が届いていない場所がある。そう見えるだけかもしれない――そう思いたかった。
香澄さんはよく言っていた。
俺たちが大雑把に“悪霊”と呼ぶような思念の強い霊体の中には、時として現世にも干渉し得るほどの異様な現象を起こす個体がいる、と。
普通、幽霊というものは実体を持たない。少なくともこっちの世界で机を持ち上げたり、壁を殴ったり、人を直接引きずったりするような物理的な力を、簡単に発揮できるわけではない。見えるとか音がするとか、寒気がするとか、そういう現象の大半は、こっち側の霊感、つまり普通の五感とは少しずれた感覚器官が、霊素の揺らぎや零核の残滓に反応しているだけなのだと、香澄さんは言っていた。
だけ、という言い方は少し乱暴かもしれない。
見える側としてはそれだけでも十分怖いし、気味が悪いし、日常生活へ支障が出る。けれどその段階ではまだ、向こうの存在が現世へ本格的に手を伸ばしているわけではない。簡単に言えばこっちが感じているだけ、こっちが拾っているだけ、という範囲に収まっているんだ。
ところが思念の密度が異常に高い霊体や、霊素量そのものが大きすぎる化け物じみた存在は、その境界を無理やり揺らすことがある。
現世と霊界の間にある薄い膜を内側から押すように揺さぶり、空気の温度や音の反響、光の見え方、時には物の位置にまで影響を及ぼす。そういう存在は、普通の人にも“変なことが起きている”と分かる形で現れることがあり、霊感の強い体質者にはさらにくっきりとした輪郭を見せることが多い。
俺も一度や二度、そういった“存在”に遭遇したことがあった。
そのたびに、関わらないのが正解だと学んできた。
見えたからといってわざわざ近づく必要はない。感じたからといって、話しかける必要はない。むしろ気づいていないふりをして目を合わせず、気配を拾いすぎないようにしてそっと距離を取るのが一番安全だ。香澄さんみたいな本職に近い人ならともかく、俺みたいな中途半端な体質者が興味本位で手を出していい相手ではない。
まさかとは思う。
思いたい。
けれどこの気配は、ただの地縛霊とか、ちょっと強めの浮遊霊という感じではなかった。
「その声って、ここへ来いって言ってるの?」
水野先輩が穏やかに聞く。
沢渡は首を横へ振りかけて、途中で迷ったように動きを止めた。
「言葉としては、はっきりしてないです。でも、ここに来ると楽になるんです。頭の中でずっと鳴ってる音が、ここにいると少しだけ静かになるっていうか……だから、来ちゃって」
「一人で?」
「はい」
「どれくらいの頻度で?」
「最近は、ほぼ毎日です」
柏木が小さく「毎日……」と呟いた。声が震えているが、その気持ちはよく分かる。
三宅は黙って廊下と教室の扉付近を交互に見ていた。普段ならここで温度や湿度の数値を嬉々として確認しそうなものなのに、今日に限っては顔つきが少し硬い。何か数字に出ているのか、それとも本人の直感が珍しく危険信号を拾っているのかは分からない。
「授業中にぼーっとするって話も聞いてるけど、それも声のせい?」
朝比奈が続ける。
「たぶん……。気づくと、ここのこと考えてます。授業中も、ノート取らなきゃって思ってるのに、気づいたら余白に同じ字を書いてたりして」
「同じ字?」
黒田先輩が反応した。
沢渡はバッグの中からノートを取り出した。手が震えている。朝比奈が受け取り、俺たちへ見えるように開く。
ノートの余白に、細い文字が何度も書かれていた。
かえして。
かえして。
かえして。
同じ言葉がページの端から端まで、びっしりではないにしろ何度も繰り返されている。沢渡本人の字なのだろう。ところどころ筆圧が強く、紙が少し凹んでいた。
「うわ……」
柏木が素直に声を漏らす。
「自分で書いた記憶は?」
黒田先輩が聞く。
「あります。あるんですけど、書こうと思って書いた感じじゃなくて、気づいたら手が動いてて……途中で止めようとしたら、すごく気持ち悪くなって」
かえして。
何を、とは書かれていない。
それが逆に嫌だった。具体性がない要求ほど怖いものはない。相手の欲しいものが分からないまま、返せとだけ迫られる。しかも沢渡に心当たりがないなら、なおさら厄介だ。
俺は、教室の扉の向こうをもう一度見た。
奥の暗がりが、さっきより少し濃くなっている気がする。気のせいかもしれない。疲れているせいかもしれない。寝不足のせいかもしれない。そういう逃げ道をいくつか並べてみても、内側ではもう分かっていた。
ここは、よくない。
「沢渡さん」
俺は、なるべく声を落ち着かせて言った。
「その声、今も聞こえてる?」
沢渡は俺を見た。初めて、正面から目が合った気がした。
「……聞こえます」
「何て?」
「開けてって」
廊下が、妙に静かになった。
誰もすぐには喋らなかった。開けて。何を開けるのかなんて、目の前にある扉を見れば分かる。空き教室。沢渡が毎日のように来ていた場所。何かがいる気配の中心。
ここで入るのはまずい。
勘ではなく、ほぼ確信だった。
香澄さんの声が、頭の中で蘇る。
強い霊体に引っ張られている人がいる時、その人を中心に境界が薄くなることがある。本人が「扉」になってしまう、と香澄さんは言っていた。もちろん物理的な扉ではない。現世と霊界の境界をつなぐ媒介として、その人の零核や霊素が利用されるという意味だ。
沢渡がここへ“呼ばれている”なら、彼女はもう少しずつ引っ張られている。
最悪な可能性が頭をよぎった。
この空き教室の向こうにいるのは、沢渡へ執着している霊ではなく、沢渡を使って現世側へ出ようとしている何かかもしれない。
俺は、そこで決めた。
「一旦、ここから離れた方がいいです」
自分でも驚くくらい、声がはっきり出た。
最初に反応したのは朝比奈だった。目を見開き、こちらを見た。問い返すような顔ではない。俺がどういう意味で言っているのか、かなり正確に察した顔だった。
朝比奈は何も言わず、小さく頷いた。
「黒田先輩」
朝比奈がすぐに動く。
「嶋野くんの言う通り、一度場所を変えましょう。沢渡さんも、このままここで話すより、明るいところへ移ったほうがいいです」
判断が早いのはありがたい。…いやまじで。
黒田先輩は一瞬だけ俺を見た。たぶん理由を聞きたかったのだと思うけれど、この場で詳しく説明する時間が惜しいと判断したのか、すぐに資料を閉じた。
「分かった。移動しよう。学生会館の会議室が空いてるはずだ」
「え、え、もう行くんですか?」
柏木が慌てる。
「行く。今すぐ」
水野先輩の声も、さっきより硬い。
三宅はスマホをポケットへしまいながら、低く呟いた。
「ここの温度、さっきから二度下がってる」
「そういうのは早く言えよ」
「下がり方が自然じゃないのか確認してた」
「確認結果は?」
「自然じゃないかもしれない」
「最悪の言い方だな」
軽口を叩いている余裕はないのに、こういう時ほど口が勝手に動く。たぶん怖いからだ。怖いから、少しでもいつもの空気を保とうとしてしまう。
朝比奈は沢渡のそばへ近づいた。
「沢渡さん、歩ける?」
「……はい」
「じゃあ、私の隣で」
沢渡は頷いたものの、足が動かない。視線が、また扉へ吸い寄せられていた。
「開けないと」
小さく、そう言った。
朝比奈の表情が硬くなる。
「開けなくていい」
「でも、呼ばれてるから」
「呼ばれてても、行かなくていい」
朝比奈の声が少しだけ強くなった。その瞬間、沢渡の肩がびくりと震えた。
扉の向こうで、何かが動いた気がした。
音はない。少なくとも、普通の耳で聞こえる音はない。ただ、空気の重さが一段増した。水の中へ顔を沈めた時みたいに、周囲の音が遠くなる。廊下の蛍光灯が一瞬だけちらついた。
「……離れて」
俺はほとんど反射で言った。
「扉から離れてください」
全員が動く。朝比奈が沢渡の腕を取り、水野先輩が柏木を後ろへ下がらせ、黒田先輩が廊下の反対側へ視線を走らせる。三宅はポケットから小型のライトを取り出した。何でそんなものを常備しているんだと思うが、今だけはありがたい。
俺は扉を見ていた。
ガラスの向こうの暗がりが、ゆっくりと広がっている。
ただ暗いだけじゃない。影が増えている。教室の奥にあった黒さが、床を這うように机の足の間を通り、こちらへ近づいてくる。蛍光灯の明かりが届いているはずの場所まで、その黒さがにじんでくる。
まずい。
本当にまずい。
「廊下の反対側へ!」
黒田先輩が叫ぶ。
俺たちは走り出そうとした。
その時、沢渡が急に足を止めた。
「返さなきゃ」
声が、沢渡のものではなかった。
いや、声帯は彼女のものだろう。けれど、そこに乗っている響きが違う。低く湿っていて、言葉の奥にざらついた重さがある。朝比奈がすぐに沢渡の肩を支えたが、沢渡の体は小柄な見た目からは想像できない力で扉の方へ向かおうとした。
「沢渡さん!」
「朝比奈、離すな!」
水野先輩が駆け寄る。柏木が半泣きの顔で固まり、三宅が「筋力の出方おかしいだろ」と場違いに冷静な感想を漏らす。いや本当におかしいんだけど、そこを今分析してる場合じゃない。
俺も沢渡を止めようと一歩踏み出した。
その瞬間、扉のガラスの向こう側から、何かが張りついた。
顔、ではなかった。
手、でもなかった。
目のようなものが複数、暗がりの中に浮かんでいた。輪郭はぐちゃぐちゃで、形として安定していない。人の上半身に似ているようにも見えるし、いくつもの影が溶け合って一つになっているようにも見える。首があるべき場所から黒い枝のようなものが伸び、肩のようなふくらみの下には、腕とも触手ともつかない細いものが何本も揺れていた。
異形。
その言葉が、いちばん近かった。
俺の見えているものが、どこまで現実の形なのかは分からない。霊感が拾った像なのか、向こうが見せている姿なのか、それとも恐怖で脳が勝手に形を補っているのか。そんな分析はあとでいい。今はとにかく、あれがこちらを認識しているという事実だけで十分だった。
「……っ」
喉が詰まった。
一度や二度、こういう存在に会ったことはある。あると言っても慣れるわけがないし、慣れたくもない。強い霊体が見せる輪郭は、普通の幽霊とは違う。そこにいる、というより、そこからこちらを押し返してくるような確かな圧がある。視線を合わせるだけで胸の奥を掴まれるような感覚がした。
柏木が小さな悲鳴を上げた。
「な、何か、いるんですか……?」
「見えてないなら見ないほうがいい!」
俺が言うと、柏木は両手で目を覆った。素直で助かる。
三宅は扉を見ながら、顔を青くしていた。
「俺にも、ちょっと見える」
「おまえ、そういう初体験を今ここで済ませるなよ!」
「俺だって選びたくなかった!」
こんな時にまでつっこみが出る自分の口を少しだけ褒めたいが、褒めている場合ではない。
扉の向こうの異形がガラスに張りついたまま、ゆっくりと形を広げる。ガラスは物理的には割れていないはずなのに、こちら側の空気が揺れている。現世と霊界の境界が“薄い”。香澄さんの言葉が、嫌なくらい具体的に理解できた。
「沢渡さん、聞こえる?」
朝比奈が、沢渡の耳元で言った。
「こっち見て。扉じゃなくて、私を見て」
「返さなきゃ……返さなきゃ……」
「何を?」
「わたし、持ってないのに……持ってないのに……」
沢渡の声が震える。本人の意識が完全に消えているわけではない。中で必死に抵抗しているのだろう。だからこそ危ない状態だった。引っ張られながら抵抗している人間は、無理に動かすと零核に負担がかかると香澄さんが言っていた。
黒田先輩が低く指示を出す。
「水野、柏木を下げろ。三宅、廊下の照明確認。嶋野、あれの位置、分かるか」
「扉の内側に張りついてます。でも、たぶん本体は奥です」
「本体?」
「見えてるのは先端みたいなものです」
「最高に聞きたくない報告だな」
黒田先輩の声が苦くなる。
扉の向こうから、かすかな音が聞こえた。
こつ、こつ、こつ。
内側から誰かが爪で叩いているような音。ガラスではなく、廊下の床の奥から響いているようにも聞こえる。沢渡がその音に合わせて、小さく肩を揺らした。
「空介」
不意に、朝比奈が俺の名前を呼んだ。
苗字じゃなく、名前だった。
一瞬、場違いに心臓が跳ねる。今そこに反応するな俺。
「どうすればいい?」
朝比奈の声は落ち着いていた。けれど目は真剣だった。俺を信じる、というより、俺が何か分かっている前提で聞いている目だった。
…荷が重いな。
俺は香澄さんじゃない。祓う能力はもちろんないし、術だって使えない。できることなんて見えているものを伝えるくらいだ。けれど、今はそれでも何か言わなきゃいけない。
「沢渡さんを扉から離す。目を合わせさせない。できれば階段まで下がる。あれを刺激しない方がいいです」
「刺激って具体的には?」
三宅が聞く。
「扉を開けない。大声で煽らない。写真も撮らない」
「撮らないよ!」
柏木が泣きそうな声で言う。いや、柏木は撮らないと思う。問題は三宅だ。
三宅は不満そうに眉を寄せた。
「記録は?」
「命あっての記録だろ!」
「それはそう」
納得が早いのはいいことだ。
朝比奈と水野先輩が沢渡を支え、少しずつ扉から離そうとする。沢渡の足は床へ根を張ったように動きにくそうだったが、完全に動かないわけではない。俺は扉と沢渡の間に立つ位置へ移動した。正直に言うと立ちたくない。全力で立ちたくない。それでも、あれが沢渡を見ているのか、俺たち全員を見ているのかを確認するには、視線の流れを遮る必要があった。
ガラスの向こうの目が、俺の方を向いた。
見られた。
その瞬間、耳の奥で低い音が鳴った。言葉ではない。意味にならない音の塊。胸の奥が冷え、胃のあたりが重くなる。
かえせ。
頭の中に、直接その意味だけが押し込まれた。
俺は奥歯を噛んだ。
「返すものなんかない」
小さく言ったつもりだったのに、廊下へやけに響いた。
朝比奈が俺を見る。黒田先輩も見る。沢渡だけが、扉を見たまま震えている。
異形の輪郭が、――ぶれる。
ガラスの向こうで黒い枝みたいなものが広がり、その先端が扉の隙間へ入り込もうとする。実体がないはずなのに、扉の下の空気が黒くにじんだ。霊素が濃すぎる。香澄さんの説明を思い出す。強すぎる思念は、現世側へ擬似的な物理干渉を起こす。今まさにそれだった。
「下がれ!」
黒田先輩が叫ぶ。
沢渡の体がようやく動いた。朝比奈と水野先輩が引き、柏木が半泣きで後ろへ走り、三宅がライトを向ける。ライトの光が扉のガラスへ当たった瞬間、異形の輪郭が一瞬だけ薄れた。
「光、効いてる?」
三宅が叫ぶ。
「分からないけど続けろ!」
俺も後ろへ下がる。足がもつれそうになる。寝不足の体で怪異相手に撤退戦をやるの、本当に勘弁してほしい。昨日からイベント密度がおかしい。香澄さんが家に来た翌日に、大学の旧棟で異形と遭遇する大学生活なんて、履修登録のどこにも書いてなかっただろ――ッ
廊下の蛍光灯が激しくちらつく。
扉の下から黒い影が、ぬるりと廊下へ染み出した。
全員の足が一瞬止まりかける。
「止まるな!」
黒田先輩の声で、俺たちは再び動いた。
影は床を這うように伸びてくる。その動きは決して速くはない。けれど、確実にこちらへ向かっている。沢渡へ向かっているのか、俺へ向かっているのか、その両方なのかはハッキリとは分からない。
階段まではあと少し。
朝比奈が沢渡の肩を支えたまま、こちらへ視線を寄越した。
「空介、後ろ!」
今度も名前だった。だから今反応するなって、俺。
振り返ると、教室の扉がゆっくりと内側から開き始めていた。
鍵はかかっていなかったらしい。いや、かかっていたとしても、今のあれに意味があるかは分からない。錆びた蝶番がきしむような音が、廊下に細く伸びる。
扉の隙間から、黒いものが覗いた。
顔に似た何か。
目の数が合わない。口があるべき位置が裂けている。首から下は影の塊で、そこから何本もの細い腕が生えている。その腕の先には指らしきものがあり、一本一本が妙に長い。
それが、廊下へ出ようとしていた。
「無理無理無理無理!」
柏木がついに泣き声で叫ぶ。
「柏木、前見て走れ!」
水野先輩が叱るように言いながらも、彼女の背を押している。三宅はライトを向けたまま後退し、黒田先輩は全員の位置を確認しながら最後尾を取ろうとしていた。
俺は扉から目を離せなかった。
異形は、俺を見ている。
沢渡ではなく、たぶん今は俺を。
見えていることに、気づかれた。
最悪だった。
俺が下手に見えるせいで、向こうがこちらを認識する。昔から何度もあったパターンだ。見えないまま通り過ぎれば済んだかもしれないものを、見えていると分かった瞬間、向こうの関心がこっちへ向く。だから嫌なんだ。だから関わりたくないんだ。
影の腕が、床を滑るように伸びる。
俺の足元へ。
「嶋野!」
黒田先輩の声。
体が動かなかった。足首を掴まれたわけではない。まだ触れられてもいない。それなのに、足が床へ貼りついたみたいに動かない。
耳元で、声がした。
かえせ。
かえせ。
かえせ。
「何をだよ……!」
怒鳴った瞬間、朝比奈が俺の腕を掴んだ。
強く引かれる。
その力で、足が動いた。影の腕が床を払うように伸び、俺の靴先すれすれをかすめる。冷気が足首を撫でた。触れていないのに、皮膚が一瞬で粟立つ。
「走って!」
朝比奈の声に従い、俺は走った。
全員で階段へなだれ込む。柏木がほぼ泣きながら手すりを掴み、水野先輩がそれを支え、三宅がライトを後ろへ向けながら下り、黒田先輩が最後に続く。沢渡は朝比奈に支えられたまま、足元がおぼつかない。俺はその横で、後ろから来る気配を感じながら、階段の一段一段を踏み外さないよう必死だった。
三階から二階へ下りたところで、空気が少しだけ軽くなった。
それでも完全には切れていない。上から、まだ見られている感じがする。
一階まで下り、旧棟の入口を出る。外の夕方の空気が肺へ入った瞬間、ようやく自分がかなり息を詰めていたことに気づいた。中庭へ出たところで、柏木がその場にしゃがみ込み、三宅が壁にもたれ、水野先輩が大きく息を吐く。
沢渡は朝比奈に支えられたまま、ぼんやりと旧棟を見上げていた。
「……ごめんなさい」
小さく言った。
朝比奈は首を振る。
「謝らなくていい。今は座って」
黒田先輩がスマホを取り出し、誰かへ連絡しようとしている。たぶん学生課か、少なくともサークルだけで処理しない方向へ動くつもりなのだろう。その行動はかなり正しい。あれを学生サークルだけでどうにかしようとするのは、無謀を通り越して自殺志願に近いからな
俺は中庭のベンチへ腰を下ろした。
足が震えていた。情けないと思うかもしれないけどが、あんなものに遭遇すればそりゃ震える。異形の影に足首を持っていかれかけた直後に、冷静でいられるほど俺は修行を積んでいない。
朝比奈が隣へ来た。
「大丈夫?」
「大丈夫に見える?」
「見えない」
「じゃあ聞くなよ」
「確認」
その短いやり取りで、少しだけ呼吸が戻った。
朝比奈は俺の腕から手を離していたが、さっき掴まれた感覚がまだ残っている。名前で呼ばれたことも腕を引かれたことも、今ここで意識するべきではないのに、妙に頭の片隅に残っているあたり、自分の脳は本当に余計なことをする厄介な作りのようだ。
「さっき、何が見えてたの」
朝比奈が低く聞いた。
俺は旧棟の三階を見上げた。窓の向こうはもう暗く、何も見えない。見えないはずなのに、そこにまだ何かがいると分かる。
「顔みたいなものと、腕みたいなもの。形は安定してない。たぶん、霊体というより、思念の塊に近いです」
「危険?」
「かなり」
朝比奈は黙った。
その横顔を見て、俺はふと思った。こいつは怖くないんだろうか。いや、怖くないはずがない。旧棟であれだけのことがあって、沢渡を支えながら逃げて、それでも今こうして落ち着いて話している。怖さを顔に出さないのがうまいだけなのかもしれない。
「朝比奈」
「何」
「さっき、俺のこと名前で呼んだ?」
…おいおい、今それを聞くなよ
口に出した直後にそう思った。寝不足と恐怖で判断力がかなり壊れているせいかもしれない
朝比奈は一瞬だけ目を細めた。
「呼んだと思う」
「何で」
「急いでたから」
「急いでたら名前になるの?」
「知らない」
あ、ちょっと照れている。
「嶋野」
黒田先輩がこちらへ来た。
「今日はここまでだ。沢渡は朝比奈と水野が学生相談室へ連れていく。俺は学生課と話す。三宅、柏木、おまえらも一人で帰るな」
「はい……」
柏木はまだ顔が青い。三宅は頷きながらも、旧棟を見上げていた。
「黒田先輩、あれ、記録取る必要ありますよね」
「今日は取らない」
「ですよね」
三宅が妙に素直だった。さすがに今回ばかりは堪えたらしい。
沢渡はベンチに座ったまま、両手で自分の腕を抱えていた。さっきまでの引っ張られる感じは薄れているようだが、完全に切れたわけではないだろう。彼女の周囲には、まだ細い糸のような気配が残っている。旧棟三階から伸びた何かが、薄く絡んでいるように見える。
このまま終わるとは思えなかった。
あれはまだ、沢渡を諦めていない。
それどころか、俺のことも見つけた。
スマホが震えた。
画面を見ると、香澄さんからのメッセージだった。
『ごはんどうする?』
『カレー残ってたから温めておく?』
あまりにも非日常的な“日常”だった。
旧棟三階の異形と、家でカレーを温めようとしている香澄さんが、同じ画面の上で頭の中に並ぶ。落差ひどくない?ひどすぎて、少し笑いそうになっちまったよ。
いや、笑っている場合じゃないな…
香澄さんなら、今の状況について何か分かるかもしれない。
あの人は降霊術を使えるし、霊素や霊核の話をどこぞの大学の教授かってくらいに熟知している。悪霊の危険性だって詳しすぎるくらいよく知っている。俺よりずっと強く、ずっと詳しい。頼るべきかもしれない。だけど頼ればまた、あの人を危ないことへ巻き込むかもしれない。
俺はスマホを握ったまま、旧棟の三階をもう一度見上げた。
窓の奥に、一瞬だけ黒い影が揺れた気がした。
見間違いではない。
あれは、ずっと深いところから今もこちらを見ている。
そしてたぶん、まだ呼んでいる。
沢渡を。
俺を。
何を返せと言っているのかも分からないまま、俺たちは、その厄介なものとつながってしまった。
大学二年の春。地方公務員を目指して政治経済学部に通っている平凡なはずの俺の一日は、寝不足と同居とオカ研の怪異案件によって、かなり手に負えない方向へ転がり始めていた。
とりあえず、今日だけは早く帰りたい。
そう思いながら、俺は香澄さんへ短く返信した。
『カレーお願いします』
送信してから少しだけ考え直し、もう一文を追加する。
『あと、霊のことで相談があります』
既読は、すぐについた。
数秒後、香澄さんから返事が来る。
『先にごはん食べよっか』
その文面を見て、俺はなぜか少しだけ息を吐けた。
怖いものは怖い。旧棟三階にいるあれは、本当にまずい。
それでも帰る場所にカレーがあって、そこに香澄さんがいるという現実は、今の俺には妙に心強かった。
心強いはずなのに、別方向では相変わらず心臓に悪い。
俺の生活はどこからどう見ても、もう平凡ではなかった。




