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第5話 オカ研のやつらは怖がり方の方向がおかしい



 民俗文化研究会――通称オカ研の連中は、良くも悪くも幽霊とか怪異とかその手の存在に対して変な意味で耐性がついている。


 「耐性」という言い方をすると、まるでみんながみんな日常的に心霊現象へ巻き込まれて鍛えられてきたみたいに聞こえるかもしれないが、実際にはもっと雑で、それぞれが違うルートからこのサークルへたどり着き、違う角度で“普通の人よりはそっちに寛容”な精神を身につけてしまった結果、同じ部室へ集まっている感じに近い。


 黒田先輩みたいに、伝承や民俗学の資料を追っているうちに、気づけば怪談や土地の因縁を普通の歴史資料と同じテンションで語るようになった人もいる。水野先輩みたいに、最初はホラー映画と都市伝説が好きだっただけなのに、実際に何度か妙な現場へ立ち会っても逃げ出さず、そのままサークルの副部長にまでなってしまった人もいる。柏木みたいに、怖い話を聞くのは好きなくせに暗い廊下の先に一人で立てないという、かなり健全なビビり方をしているやつもいる。


 三宅修二なんて、その最たる例だ。


 あいつは、少なくとも本人の申告ベースでは、一度もはっきりした霊的体験をしたことがない。何か見えたこともなければ、心霊スポットで肩を叩かれたこともなく、怪談の録音へ妙な音が入ったのを自分の耳で聞き分けたことすらないらしい。なのに霊的現象の解明にはやたら熱心で、心霊スポットへ行けば真っ先に温度計を出し、メモ帳を広げて磁場測定アプリの数値を気にし、空気の流れと音の反響で“この部屋の異様さ”を理屈へ落とし込もうとする。


 単純にこっち系の話とかジャンルとか、怪異を“未知の現象”として扱うこと自体が好きなんだろうと思う。怖いから惹かれるとか、見えないものの正体を暴きたいとか、そういう知的好奇心の塊みたいなやつで、幽霊がいると信じたいのか、全部勘違いだったと証明したいのか、たまに本人ですら分かっていない気がする。


 それに比べると、俺はかなり中途半端だ。


 “見える”っていう言い方が正しいのかは、正直いまでもよく分からない。たとえばテレビの心霊番組みたいに輪郭がはっきりしていて、そこに人がいると断言できるわけじゃないし、写真に撮れるようなものでもない。ただ、じゃあ何もないのかと言われるとそれも違う。俺にとって幽霊っていうのは、いわゆる怪奇現象みたいな“特別な出来事”じゃなかった。どっちかというと、もっと日常的な生活に混じっているものだ。場所によっては空気の歪みみたいなものを拾うこともあるし、人のいないはずの空間へ輪郭のあいまいな気配が立っているのを認識することもある。


 だからといって、オカルトそのものに強い興味があるかと聞かれると、そこは何とも答えづらい。オカ研へ所属しているくせにそんなことを言うのも変だが、正直なところ、俺は“幽霊が好き”とか“怪異を追いかけたい”という情熱でここにいるわけじゃない。


「嶋野くん、顔こわい」


 旧サークル棟の階段を下りながら、柏木がこちらを見上げて言った。


「寝不足の顔だよ」


「それもあるけど、もうちょっとこう、心ここにあらず感あるよ?」


「…そうか?」


「階段の段数数えてるみたいな?顔してたし」


 そんな顔をしていた自覚はないが、まあ、それに近いことはしていた気がする。階段の段数を数えていたわけではなく、自分の頭の中にある知識を現場へ行く前にどうにか並べ直していたのだ。


 俺は別に、幽霊という存在そのものを蔑ろにしたいわけじゃない。


 仲良くできるならしたい、と言うと少し変な表現になるが、むやみに敵だと思っているわけでもないし、何でもかんでも怖がり散らかしたいわけでもない。小さい頃からぼんやり見えてきたものの中には、ただそこにいるだけで特に害意を感じないものもいたし、悲しさや心残りだけが強く残っているような気配もあった。全部を一括りに“悪いもの”として扱うのは乱暴だと思っている。


 思っているのに、下手に関わらない方がいい、とも強く思うようになった。


 それはたぶん、俺が中途半端にしか見えないからだ。はっきり見えて、相手の状態や危険度まで読めるわけじゃない。祓えるわけでもないし、説得して送れるわけでもない。なのに、まったく感じない人間よりは確実に引っかかる。引っかかるだけ引っかかって対処の手札がないっていう、この構造が最悪なのだ。


 関わったって、どうせろくなことにならない。


 これは小学生の頃から何となく思っていたし、高校三年の夏に岬の件を経験して、その実感がかなり強くなった。見えるだけならまだいい。問題は、見えた相手がこっちへ気づく時と、こっちが向こうを気にしたせいで距離が縮まる時だ。悪意があるかどうかも、最初から分かりやすいわけじゃない。普通に立っているだけの気配に見えても、近づいた途端に輪郭が濃くなるやつもいるし、最初は弱っているようにしか見えなかったのに、根っこに妙な執着や攻撃性を抱えているものもある。


 幽霊、という言葉ひとつでまとめるには、俺の中で存在の振れ幅が大きいというか、そう単純なものじゃないっていうのを最近はとくに感じるようになっていた。


 今日向かう場所も、そういう意味ではあまり“幽霊が出るかも”みたいな軽い言い回しをしたくない空気がある。旧棟三階の端。使われなくなった小教室が並ぶ、昼でも少し薄暗いあたり。あそこはただのありきたりな大学の怪談として消費するには、何となく気が引ける場所だった。


 実際に何か起きたわけじゃない。少なくとも俺が知る範囲では、明確な事故や事件の話が大学の公式記録にあるわけではない。それでも古い建物特有の湿気や、人があまり通らないことで空気がよどんでいる感じとは別に、あのあたりにはときどき“何かが引っかかる”気配がある。


 そういう時は大抵、見ないようにして通り過ぎるのを心がけているんだが、それは見えているものを全部直視したところで得しないと知っているからだ。視界の端で黒ずんだ輪郭が揺れた時も、階段の踊り場で誰もいないのに衣擦れみたいな感覚がした時も、あえて振り向かないことのほうが大事な場合が多い。


 学生会館の裏から講義棟旧棟へ向かう途中、黒田黒田先輩が振り向かずに聞いてきた。


「嶋野、何か感じてる?」


「まだそんなには」


「まだ、ね」


 その“まだ”を拾うあたり、この人も相変わらずだ。俺がまったく何も感じていない時と、少しだけ嫌な予感を抱えている時の違いくらいは、表情で見分けているのかもしれない。


「そもそも、嶋野くんの“感じる”ってどのレベルなんですか」


 三宅が本気で知りたそうに聞いてくる。研究対象を見るような目はやめろ。


「レベルって言われてもな……。何となく変な感じがするとか、そこに人じゃない何かがいる気配がするとか、その程度だよ」


「視認率は?」


「おまえ、それ心霊じゃなくて統計の話し方だろ」


「体感でいいから」


「知らないよ。体感で数字にするほど日常的にログ取ってないし」


「取ればいいのに」


「取らないよ。そんな毎日、自分の生活の中で“今日は廊下の角に何かいたので一件”とか記録したくない」


「それはたしかに気が滅入る」


 水野先輩が笑った。笑い事ではないが、実際そういう生活管理をし始めたら精神衛生が終わる気がする。


 朝比奈は相変わらず静かに歩いていたが、不意にこちらへ半歩だけ近づいて、小声で言った。


「旧棟入ったら、無理しないで」


「急に優しいな」


「無理してる人に無理しないでって言うの、普通でしょ」


「その理屈は正しい」


「寝不足なのもまだ引きずってるし」


「そこ、ほんとによく見てるな」


 朝比奈は返事の代わりに軽く眉を動かしただけで、また前を向いた。ほんの短いやり取りなのに、この人と話していると妙に言葉が残る。言い切らないところがあるのに、不思議と足りない感じはしない。こっちが勝手に意味を拾って、それで会話がちゃんと成立している気になる。……いや、たぶん実際に成立しているんだと思う。


 そういう感覚を心地いいと思えている時点で、俺はもうだいぶ、この人のペースに慣らされているのだろう。


 そして、その理由のひとつが、あの一言だった。


 ——“見えてるんでしょ”。


 初めてそう言われたときのことを、まだはっきり覚えている。


 驚いたって言うより、心臓を内側からつかまれたような感覚に近かった。図星を突かれたとき特有の、逃げ場がなくなるようなあの感じ。それと同時にどこかで「やっぱりか」と思ってしまった自分もいて、それが余計に嫌だった。


 何で分かるんだっていう怖さや、ようやく誰かに見つけてもらえたような、妙な安堵。


 その二つが同時に来て、頭の中が少しだけぐちゃぐちゃになったのを覚えている。


 結局そのときは深く聞けなかったし、いまも聞けていないことのほうが多い。けれど、少なくとも一つだけは分かっている。


 朝比奈は、俺のそれを——


 “気のせい”とか、“思い込み”とか、そういう雑な言葉で片付ける人じゃない。


 そんなことを考えながら歩いているうちに、旧棟の入口が見えてきた。


 新しい棟と比べると、見た目からして少し違う。外壁の色は同じような白灰色でも、塗装のくたびれ方が違うし、窓の縁も細くて古い。入口の自動ドアも動きが鈍く、ガラスの端には小さな傷がいくつも入っている。


 中へ入ると、空気がひんやりしていた。


 冷房のせいだけではない。人の出入りが少なく、日差しも届きにくい建物特有の、少し湿り気を帯びた冷たさだ。


 旧棟の一階は、昼間でも少し暗い。蛍光灯の色味が新しい棟より青白く、床のワックスも剥げ気味で、足音が乾いた反響を返してくる。廊下の片側には閉め切られた教員準備室、もう片側には古い講義室が並び、掲示板には剥がし忘れたポスターの跡みたいな白い四角が残っている。大学の施設として使われてはいるけれど、メインの人流から半歩外れた場所ならではの時間の溜まり方があった。


「やっぱちょっと空気違うな」


 三宅がスマホ画面を見ながら呟く。


「何か出た?」


 柏木がすぐ反応する。


「いや、数値は別に。ただ湿度高い」


「湿度でそんな得意げな顔しないでよ」


 水野先輩のつっこみが入る。柏木が少しだけ笑って、それでも足取りは俺の近くから離れない。怖いのに来るんだから偉いのか物好きなのかよく分からない。


 階段を上がりながら、俺は頭の中で香澄さんから聞いた話を思い出していた。


 幽霊にもいくつか種類がある、というのは、香澄さんがかなり前に俺の質問へ答える形で教えてくれたことだ。


 未練とか、恨みとか。そういう感情を強く残したまま死んだ人間の霊——いわゆる亡霊とか怨霊ってやつ。


 特定の場所に縛られて、そこから離れられなくなる地縛霊。生きている人間の強い感情だけが飛んできて、こっちに干渉してくる生霊。さらに言えば、「これ本当に人間の霊か?」って首をかしげたくなるような存在もいるらしい。浮遊霊だとか、動物霊だとか、そのへんまで含めていくと、分類はもうかなり雑に広がる。


 ……いや、“雑に”って言ったら怒られるか。


 でも実際、そのあたりの区分けって、理科の教科書みたいにきっちり整理されてるわけじゃないんだ。何かの公的機関が定義してるわけでもなければ、「これが正解です」っていう統一見解があるわけでもないらしい。


 らしい、という言い方をするのは、そのへんの知識が全部、どこかの公的機関がまとめた学術書ではなく、香澄さんの経験則と説明に由来しているからだ。理科の教科書みたいに体系化されているわけじゃないし、専門家の共通見解があるわけでもない。ただ、少なくとも香澄さんの話は、俺が実際に見たり感じたりしてきたものへそこそこ整合性があった。


 思念が強い霊ほど、見え方が違う。


 それも、香澄さんがよく言っていた。弱い気配は空気の揺らぎみたいにしか見えないことが多い。ところが、未練や執着が濃いもの、あるいは自分の存在を誰かへ認識させたい意志が強いものは、輪郭が濃くなりやすい。色も、気配も、立ち方も違ってくる。人間の残像みたいに見えるものもあれば、もうそれを人の形と呼ぶのがためらわれるくらい、感情だけが煮詰まって歪んだ存在もある。


 階段の踊り場へ差しかかったところで、俺は無意識に息を浅くした。


 嫌な感じがする。その妙な気配がはっきり見えるわけじゃないが、旧棟特有の空気とは別種の、少しざらついた圧みたいなものが上の階から下りてきている気がした。


「嶋野?」


 黒田先輩が足を緩める。


「……少しだけ、上が重いです」


「三階?」


「たぶん」


 三宅がポケットからスマホを取り出して、慣れた手つきで画面を確認する。数秒見つめたあと、「……何も出てないな」と肩をすくめた。


 いや、そんな簡単に結論出されても困るんだけど。


 というか、おまえのその“なんとなく確認しただけのスマホ”で全部分かるなら、俺はもっと平和で分かりやすい人生を送れているはずなんだよな。


 幽霊とか魂とか、そういう話になると、香澄さんはよく妙な単語を使っていた。


 “霊素”とか、“霊核”とか。


 初めて聞いたときは、正直かなり身構えた。いや、だって語感がもう完全にそれじゃない?ノートの端っこに書いてある中二設定ランキング上位みたいなやつ。霊核って何。必殺技でも出るの?


 しかも「魂は霊素の集合体で〜」とか言われても、こっちは高校までの教育でそんな単語一切習ってないんだが。物理でも化学でも出てこなかったぞそんな概念。


 ただ、香澄さんの説明をちゃんと聞いていると、妙に筋は通っている気がしてくるのがまた厄介だった。


 人間を人間たらしめている“核”みたいなものがあって、それを彼女は“霊核”と呼ぶ。で、その周囲に集まっているエネルギー的な何か——それが“霊素”。一般的に“魂”って呼ばれているものは、その霊核と霊素のまとまりとして考えると理解しやすい、らしい。


 ……つまりあれか。芯があって、その周りにふわっと何かがまとわりついてる感じか。


 ボールの中にコアがあって、その周りに綿が詰まってる、みたいな。いや、違うな、もっとこう……目に見えないゼリーみたいなものがまとわりついてるイメージ?自分で言ってて全然しっくりこないな。


 とにかく霊核が中心で、霊素がそれを形作ってる材料、みたいな認識でいいらしい。


 もちろん、そんな単語が世間一般で通用しているわけじゃない。論文に載ってるわけでもないし、霊媒師の業界で統一されているのかも怪しい。そもそも業界って何だよ、という話ではある。


 ただ、“見えないもの”を扱う以上、何かしら言葉で整理しないとやってられない、というのは何となく分かる。


 怖いもの、変なもの、で全部まとめてしまうと、逆に輪郭がぼやけて余計に怖くなる。何が起きているのか分からない状態が、一番精神的にくるからだ。


 香澄さんは、そういう曖昧さを嫌う人だった。


 ちゃんと名前をつけて、構造を考えて、納得できる形に落とし込む。たとえそれが“仮の理解”でも、何も分からないよりはずっとマシだという考え方だった。


 ……まあ、その結果として出てくる単語が霊核とか霊素なんだけど。


 魂と肉体が別物で、死んだあとにそれが分離する。


 そこまではまあなんとなく分かる。宗教とか昔話とかでもよくある話だし、なんとなくイメージもしやすい。体があって中身が抜ける、みたいな。


 問題は、その先だ。


 肉体を離れた“それ”が、どこへ行くのか。


 これも最初に聞いたときは、正直かなり悩んだ。信じるべきなのか聞き流すべきなのか。判断基準がどこにもなかったからだ。


 香澄さんいわく、この世界には“霊界”っていう層があるらしい。


 層、っていう言い方がまたややこしいんだけど。


 普通に考えたら、霊界って聞くと、もっと分かりやすい場所を想像するじゃないか。天国とか地獄とか、雲の上とか炎の中とか、完全に別の場所として存在してるやつ。


 死んだらそこへ行きます、みたいな。


 でも香澄さんの話は、そういう感じじゃなかった。


「完全に分かれてるわけじゃないよ。どっちかというと、重なってる」


 前にそう言っていたのを思い出す。


 現世と霊界は、きっぱり切り離された別世界じゃない。


 むしろ——


 同じ場所に、違う層として存在している。


 ……らしい。


 いや、分かるような分からないような説明やめてほしいんだけど。


 でも、もしそれが本当だとしたら。


 いま俺たちが立ってるこの場所にも、目に見えないだけで、別の“何か”が重なって存在していることになる。


 “重なってる”というのは比喩ではなく、わりとそのままの意味らしい。


 現世と霊界は、一枚の薄い境界を挟んで並行していて、構造そのものはかなり似ている。俺たちが暮らしている街や建物や地形に近いものが向こう側にもあり、人は死後、そういう“よく似ているのに完全には同じではない場所”へ辿り着く。そこで魂はしばらく留まり、やがて霊界側の仕組みの中で時間をかけて分解され、最後には痕跡もなくほどけていくらしい。


 管理局みたいなものがある、と聞いた時には、さすがに何だそれと思った。


 役所かよ、とも思った。死後の世界にまでお役所仕事を持ち込まないでほしい、とも思った。けれど、香澄さんはかなり真顔で、あらゆる生物の魂の流れを管理するような機構があるのだと話していた。名前が正式に“管理局”なのかは知らない。あれは単に、俺みたいな素人へ分かりやすく伝えるための仮の呼び方だったのかもしれない。


 それでも、その手の話を全部笑い飛ばせない自分がいた。


 世界のあちこちに、どう見ても“放置しておいていい存在”ではないものがいる。怨念みたいに濁って、気配が重くて、近づくだけで嫌な汗が出るようなやつら。そういうものがただの気のせいで、死後の世界も魂の管理も一切ありません、ときっぱり言われても、じゃああいつらは何なんだよとしか思えない。


 現世と霊界が地続きで、しかもその境界がところどころ薄くなる場所があるのだとしたら、旧棟三階の端みたいな場所は、そういう“少し面倒な場所”に分類されてもおかしくない気がした。


「嶋野くん、顔また難しくなってる」


 柏木が後ろから小声で言う。


「考え事してるだけ」


「怖いこと?」


「怖いことっていうか、整理」


「その整理の結果、怖くないの?」


「怖くないとは言ってない」


「やっぱ怖いじゃん!」


 声が少し上ずった柏木へ、水野先輩が「静かにね」と笑いながら指を立てる。笑いながらでもちゃんと抑えるべきところを抑えるのが、この人の不思議なところだ。


 三階へ着くと、廊下の空気は一段静かだった。


 この時間帯なら、普通はどこかしらの教室から話し声や椅子の音が漏れてきてもよさそうなのに、旧棟のこのあたりは本当に人の気配が薄い。窓から入る夕方の光が廊下の床へ斜めに落ち、壁際の消火器がやけに赤く目立っている。遠くから別の階のざわめきは聞こえるのに、ここだけ音が一枚向こうにあるみたいだった。


 旧棟三階の端へ向かって歩く。途中までは普通の空き教室が並び、掲示板には古い講演会のポスターが色褪せたまま残っている。そこを過ぎると、廊下の幅は同じなのに急に狭く感じる場所へ入る。壁の色が少し暗く見えるのは照明のせいだけではない気がした。


「ここ、ほんと好きじゃないんだよなあ」


 水野先輩が珍しく低い声で呟く。


「先輩でも苦手なんですね」


 柏木が少し安心したように聞く。


「苦手だよ。苦手じゃなきゃこういうサークル続かないって」


「それ、どういう理屈ですか」


「怖いものを怖いって分かった上で近づいてる人のほうが、たぶんまだまとも」


 その言い方に、俺は少しだけ納得した。


 怖がらない人間より、怖いと理解しながらも必要があって動く人間のほうが、線引きはまともかもしれない。無謀なのは違う。興味だけで踏み込むのも違う。その辺の境界が曖昧になった時がいちばん危ない気がするからだ。


 廊下のいちばん端が見えてきた。


 突き当たりには、今は使われていない小教室が二つ並んでいる。片方は施錠され、もう片方は扉の上部へ「空き教室」とだけ簡素に貼られていた。窓は曇り気味で、中の様子が少し見えにくい。古い蛍光灯が一本だけついていて、その光が扉のガラスへ冷たく反射している。


 そしてその手前の壁際に、女の子が一人立っていた。


 たぶん、沢渡由奈だ。


 一年生らしいやや幼さの残る顔立ちで、肩までの髪は少し乱れ、制服ではなく私服の上に大学指定ではない薄手のパーカーを羽織っている。遠目に見ても分かるくらい落ち着きがなく、指先を何度も服の裾へ触れさせては離していた。


「沢渡さん?」


 朝比奈が先に声をかける。


 その瞬間、沢渡がびくっと顔を上げた。


 目の下に薄い隈がある。顔色もあまりよくない。こちらを見たものの、視線の焦点が一瞬遅れて合う感じがした。緊張しているのか疲れているのか、…いや、その両方か。


「……朝比奈先輩」


「うん。来たよ」


 朝比奈の声は穏やかだった。こういう時の彼女は、本当に必要以上の圧をかけない。そういうところがほんとにうまい。


「こっち、うちのサークルの人たち。ちょっと話を聞かせてもらっていい?」


 沢渡は少しためらったあと、小さく頷いた。


 その様子を見ながら、俺は視界の端へ意識を向ける。


 いる。


 はっきり見えるわけじゃない。けれど、この空き教室のあたり、特に沢渡の立っている壁際から扉のガラスの向こうにかけて、薄く濁ったような気配がまとわりついていた。ただの空気の重さではない。誰かが立っている、というほど鮮明でもない。もっと曖昧で、でも確実にそこへ“何か”が寄っている感じがある。


 嫌な種類の気配だった。


 攻撃的と断言するにはまだ早い。ただ、未練や悲しみみたいな湿ったものより、もっと絡みつく感じがする。相手を見ている、というより、寄生先を探しているみたいな。


「嶋野?」


 黒田先輩が小声で呼ぶ。


「……います。弱くはないです」


 俺がそう答えた瞬間、朝比奈がほんのわずかだけこちらを見た。


 その視線には驚きも否定もなく、ただ“やっぱり”みたいな静かな確認だけがあった。


 廊下の空気が、さらに一段、冷たくなった気がした。


 オカ研の連中は怖がり方の方向がおかしい。怖いものを面白がるわけでもなく、面白くないのに確かめに行く。気味が悪いのに逃げず、逃げないくせに軽視もしない。その変なバランスの上で、いま俺たちは、旧棟三階の端に立っていた。


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