第4話 相談案件
中京学院大学の正門は、地方私大らしい妙な真面目さと、時代に合わせて少しずつ増改築してきた結果のちぐはぐさが、不思議とうまく同居している見た目をしている。
正門前の車道に沿った広めの歩道から眺めると、まず目に入るのは腰の高さほどの石積みの門柱だ。そこへ埋め込まれた金属プレートには「中京学院大学」と端正な書体で刻まれていて、朝の光を受けた表面がきらりと反射している。その輝き方が必要以上に自信ありげに見えるのは、たぶん気のせいじゃない。門柱の左右には手入れの行き届いた植え込みがあり、四角く刈り込まれた低木と季節ごとに植え替えられる小さな花壇が並んでいて、大学の顔として最低限きちんとして見せたいという意志だけはよく伝わってくる。その奥に見える本館は、少し年季の入った建物だった。外壁は白と灰色のあいだみたいな曖昧な色で、ところどころに経年のくすみが残っている。いかにも昔からありますという雰囲気で、そこへ後付けされたらしいガラス張りのエントランス部分だけがやけに新しいのは、毎度のことながら目についてしまう。
正門からまっすぐ続くメインストリートは、キャンパスの中心を縦に貫くように伸びていて、両脇にイチョウとケヤキが交互に植えられていた。春先は新芽の色がまだやわらかく、夏が近づくにつれて葉が濃くなり、秋になれば足元が黄色くなる作りだそうだ。受験案内パンフレットに載る時期だけ妙にきれいなのではなく、普段からそこそこ手入れされているあたり、大学としてこの並木道には妙な自信があるのかもしれない。朝のこの時間帯は、講義へ向かう学生たちがその道を絶えず行き交っている。スーツに近い真面目な格好のやつ、ジャージ姿の体育会系、寝癖のまま来たようなやつや化粧が完璧な女子学生、イヤホンで外界との縁を切っているやつまで、いろんな種類の若者が一本の並木道へまとめて流し込まれていく。
本館の左手には政治経済学部が主に使う講義棟があり、四階建ての長方形の建物が二つ、渡り廊下でつながっている。遠くから見ると事務的で面白みのない箱にしか見えないのに、近づいてみると窓のサッシの古さと改修済みの自動ドアがちぐはぐで、長く使われてきた大学らしい味がある。政治経済学部の講義棟は外観の堅さに反して中へ入るとそこそこ賑やかで、一階には学部掲示板、履修変更の案内、ゼミ募集のポスター、地方公務員講座の広告、政治学研究会の勧誘チラシなんかが重なり合って貼られている。階段は幅が広めで、人の流れが多い朝でも詰まりにくい。廊下はワックスの匂いが少し残っていて、窓際には年季の入ったベンチと自販機が等間隔に置かれている。
講義棟のさらに奥には、図書館棟と学生会館がある。図書館は数年前に改修されたらしく、外壁の色味が他の校舎より明るく、正面のガラス面が広い。中へ入ると空調がよく効いていて、閲覧席の机も新しく、静かすぎるせいで眠い日に入ると高確率で意識が飛ぶ危険地帯だ。学生会館は逆で、建物自体は少し古く、壁の白さもくすみ気味なのに、人の熱気だけはいつもある。一階に食堂と売店、二階にサークル室と多目的室、三階に小さな会議室が並び、夕方になるとだいたいどこかから笑い声か楽器の音か、少なくとも勉強以外の何かが漏れてくる。
俺が通っているのは、その中京学院大学の政治経済学部政治経済学科だ。
政治と経済をまとめて一つの学部へ押し込んだ、名前だけ見るとかなり真面目そうなところで、実際入学前の俺も、ここへ通う学生は全員もう少し志が高いのではないかと勝手に思っていた。ところが入ってみれば、きっちり将来を見据えているやつもいれば、とりあえず公務員が無難そうだから来たやつもいるし、経済の仕組みが何となく面白そうだったやつもいれば、親に勧められてここへ来たやつもいて、案外どこにでもいる大学生の集まりで安心した。もちろん授業内容はそれなりに現実と地続きなので、法律だの行政だの財政だの、単語だけで少し眠気を誘うものが多い。それでも高校までの“テストのための知識”よりは、世の中とどうつながっているかが見えやすい分、俺にはまだ噛みやすかった。
朝の講義棟前にはすでに人だかりができていて、サークル勧誘の看板をまだ片づけていない連中が端へ寄せられ、履修登録でつまずいたらしい一年生がスマホを片手に立ち尽くし、ゼミ資料を抱えた四年生が足早に本館のほうへ歩いていく。自販機前では眠そうな顔で缶コーヒーを買うやつがいて、階段の踊り場ではレポートの締切を思い出したらしい男子が声にならない声を上げていた。平日朝の大学は、どこかが少しずつ間に合っていない人間の集合体みたいで、そういう雑な生命力というかチグハグな感じがわりと嫌いじゃない。
「おはよ、嶋野。おまえ今日、ひどい顔してんな」
背後から遠慮のない声が飛んできて、俺は振り向いた。
中西航太だった。寝癖なのかセットなのか境目の分かりにくい髪型と、起きてから家を出るまでをだいたい十五分で済ませてそうな服装と、顔自体はそこそこ整っているくせに第一声がいつも雑なところまで含めて、朝のコンディションがそのまま人格に反映されてるみたいなやつである。悪いやつではない。むしろ人当たりはかなりいい。そのわりに合コンとか行くと、最初の五分だけやたら好印象を稼いで、その後の雑さで全部台無しにするタイプでもある。
「…別に普通じゃない?」
「いや、だって目の下やばいぞ?昨日の夜何してたんだよ」
「人生っていろいろあるだろ?」
「大学二年のセリフとして重いんだよなあ」
中西の隣には木下駿もいた。こっちは中西と正反対で、眼鏡の奥の目がいつも冷静で、ノートまとめが異様にきれいなタイプだ。見た目も言動も落ち着いているので、初対面では話しかけにくく見えるかもしれないが、慣れるとわりと淡々と毒を吐く。中西の雑なノリをいい感じに減衰してくれるので、三人でいると妙に収まりがいい。
「嶋野、ほんとに大丈夫か。今日は一限から長いぞ」
「大丈夫じゃないけど、どうにかするしかない」
「どうにか、じゃなくて、たぶん寝る顔してる」
「それは俺が一番分かってる」
実際、かなり危険だった。ソファで寝たせいで身体のあちこちが微妙に痛いし、眠気は中途半端に残っているし、頭も少しぼんやりしている。こんな日に限って一限は政治過程論で、油断すると語尾が全部子守歌みたいに聞こえ始める科目だった。…まあ、先生の話自体は面白いんだけどさ?
三人で講義棟へ入り、階段を上がる。廊下には出席カードを片手に急いでいるやつ、すでに自主休講を決めたのか窓際でだるそうに座っているやつ、ゼミの先輩へ呼び止められて固まっている一年生なんかがいて、朝からそこそこ騒がしい。
一限の教室へ入る直前、俺は何となくスマホを確認した。これといって通知はないのに、香澄さんのことをどうしても考えてしまう…。昨日あれだけ好き勝手に動いてたし、朝も勝手に起きて勝手に過ごしてそうな気もするけど、逆にあの人のことだから昼近くまで平気で寝てる可能性もある。目覚ましかけてるのかどうかすら怪しいし、なんならなんなら俺の部屋を完全に自分の拠点として再配置して、家具の位置とか変わってるんじゃないかとすら思う。
というか、そもそも朝ごはんをちゃんと食べるタイプだったっけ。
昔はどうだった?いや、小学生の頃の記憶なんて参考にならないだろ。あの頃は親の用意したものを普通に食べてただけかもしれないし、そもそも今と生活リズムが違いすぎる。
冷蔵庫の中、何あったっけ。
卵とヨーグルトと、昨日の残りのカレー……あと麦茶くらいか。あれでちゃんとした朝食になるかと言われると微妙だし、かといって自分で何か作るタイプかと言われると、それもまた微妙な気がする。
……いやいや、何考えてんだ俺。
別に子どもじゃないんだから、朝ごはんの心配とかする必要ないだろ。二十六歳だぞ?年上だぞ?むしろ俺のほうが心配される側じゃないのか普通。
頭では分かってる。分かってるのに、どういうわけか意識がそっちへ引っ張られてしまう。
ていうか普通に考えて、今ごろ俺の部屋でテレビつけてソファに寝転がって、“完全に自分の家の朝”みたいな顔してる可能性あるよな。昨日の時点でだいぶそうだったし。
で、たぶん部屋着とかいう概念も曖昧なまま、適当に俺のTシャツ引っ張り出して着てたりするんだろ。サイズ感ゆるいままコーヒー飲んで、「あ、これいいね」みたいな顔してるやつ……
講義は案の定、危なかった。前の方へ座ったおかげで完全に意識が飛ぶところまではいかなかったものの、板書を写す字が少しだけ揺れているし、先生の問いかけへ一拍遅れて反応してしまう。中西が横で無駄に元気なのがいい感じに腹立つ。なんであいつ、あのテンションでちゃんと授業理解してんだよ。人間としてのバランスどうなってるんだ。
一限をどうにか乗り切り、教室の外へ出たところで俺は本気で深いため息をついた。
「生き延びた……」
「大げさだな」
中西が笑い、木下が「まだ午前中始まったばっかりだぞ」と釘を刺してくる。まったくその通りなのだが、寝不足の日の九十分って普段の一・五倍くらい長く感じるんだから仕方ないだろ?
二限までの空き時間、俺たちは講義棟二階の廊下、そのいちばん端にあるベンチへ腰を下ろしていた。人通りも少なくて、こういう中途半端な時間にだらだらするにはちょうどいい場所だ。
目の前の窓からは中庭が見える。
中庭っていってもパンフレットに載せるような綺麗なやつじゃない。芝生はところどころ色が抜けてて元気があるのかないのかよく分からない感じだし、真ん中にある小さな噴水も、正直“らしきもの”の域を出ていないただのオブジェみたいなやつだ。水が出ているのかどうか遠目だと判断に迷うレベルで存在感が薄いんだよな。
ただ、それでも昼どきになるとそれなりに人は集まってくる。
ベンチに座って弁当を広げるやつもいれば、芝生に直接座り込んでだべっているグループもいる。晴れている日なんかはそこそこ“キャンパスっぽい光景”になるから不思議だ。設備の微妙さと学生の適応力って、わりと釣り合ってるのかもしれない。
「そういや嶋野、今日サークル行くの?」
中西がペットボトルのお茶を開けながら聞いてきた。
「たぶん行く」
「オカ研のほう?」
「その言い方やめろって。ちゃんと名前あるから」
「正式名称なんだっけ。民俗文化……なんとか」
「民俗文化研究会」
「長いんだよな」
民俗文化研究会。中京学院大学の中でも、部室棟のいちばん端でひっそり活動している、オカルト寄りのサークルだ。名前だけ見ると民俗学のフィールドワークでもしてそうだが、実態は心霊スポットの噂や地域伝承の調査、怪談会、古い宗教施設の歴史調べ、たまに依頼という名目で起きる“ちょっと変な相談ごと”の確認、そういう方向へかなり寄っている。世間一般で言うところの“オカルトサークル”と聞いて差し支えない。
そのサークルに入った理由は、まあ分かりやすく言えば「そっち系」に多少なりとも理解のある人間と最低限の距離で関わっておいたほうが楽だと思ったからだ。
設立されたばかりのまだ人数もそこまで多くない新しいサークルで、正直なところ活動内容もかなりふわっとしていた。怪談を集めたり心霊スポットの話をしたり、たまに実際に見に行って、行ったはいいけど怖くなってコンビニでアイス買って帰るだけの日もあるらしいみたいな。いわゆるオカルト研究会っぽいけどそこまでガチでもない、ちょっと興味ある人が集まってみましたくらいの温度感だったと思う。
だから最初は本当に軽い気持ちだった。なんとなく面白そうだな、とか、ほんとにその程度で。
ただ、俺にとってはそれだけじゃなかった。
普通の人よりは、ほんの少しだけ“そういうもの”に引っかかることがある。わざわざ誰かに説明するほどでもないし、日常生活に支障が出るほどでもないけど、完全に無関係です、で通せるほど割り切れるわけでもない。だったらいっそ、似たような話題を冗談半分でも共有できる場所にいたほうが、“変に一人で抱え込まずに済むだろう”くらいの打算はあった。
地元を離れて、一人暮らしを始めて、周りに知ってる人間がいなくなったタイミングで、自分の感覚だけを頼りに過ごすのが思っていたより面倒だったってのもある。怖いとかじゃなくて、確認する相手がいないのが地味に困るというか。見間違いで済ませていいのか、本当に気にしたほうがいいのか、その判断を全部一人でやるのがじわじわ疲れるっていうか…
だったら多少なりとも「そういう話」をしても変な顔をされない場所に、ひとつくらい所属しておいてもいいと思った。
……まあ、このサークルにいる連中がどこまで本気で信じてるのかは、また別の話だったりするんだけど。
もっとも、入部の決定打になったのは別の理由もある。
「今日、朝比奈も来るんじゃない?」
木下が何気なく言った瞬間、俺はペットボトルのキャップを閉めかけた手を少し止めた。
「……たぶんな」
「何だその間」
「別に」
朝比奈澪。同じ学科の同期で、民俗文化研究会のメンバーでもある。
最初に見たときの印象は、正直あまりよくなかった。
――というより、正確に言うなら、「どう接していいか分からないタイプだな」というのが一番しっくりくる。
嫌いとか苦手とか、そういう単純な話ではない。むしろ逆で、見た目だけで言えば普通に目を引くし、かなり高いレベルで綺麗な人だなって思う。
肩に触れるくらいで揃えられた黒髪は、外を歩いてきたはずなのにほとんど乱れていなくて、前髪もきっちり目にかからない位置で止まっている。たぶん毎朝ちゃんと整えているんだろうな、というのが一目で分かるくらいには完成度が高かった。
ただ、その「ちゃんとしている感じ」が、そのまま距離の取りづらさになっているというか。
近づいていいのか、どこまで踏み込んでいいのか、そのラインがよく見えない。
隙がないっていうよりは、最初から“ここより先には来ないでください”みたいな線が引かれているような印象だった。
別に睨まれたわけでも冷たくされたわけでもないのに、なぜかこちらから一歩引いてしまう。そんなタイプ?
服装はもっと分かりやすいんだ。白、紺、グレー。そのあたりの色しか見たことがない。柄もほぼなし。ロゴもない。アクセサリーもつけていない。大学生ってもう少し自由にやるもんじゃないのかと思うけど、朝比奈はそういうところを一切広げない。なのに地味かと言われるとそうでもなくて、むしろ“無印良品の棚に紛れてても違和感ないのに、なぜか一番目立つ”みたいな、妙な存在感がある。
たとえるなら、背景に溶け込むはずのモノトーンなのに、なぜかピントだけ合っている感じ。
で、その印象を決定的にしているのがあの目だ。
じっと見る。ほんとにじっと見てくる。別に睨んでいるわけでも威圧しているわけでもない。ただ瞬きの回数が少ないのか、視線を外すタイミングが遅いのか、とにかく“観察されている感じ”がどうしても残るんだ。何か悪いことをした覚えがあるわけじゃないのに、テストでも受けているみたいな気分になるのはあれのせいだと思う。
たぶん本人にそのつもりはない…はずなんだけど、結果としてそう見えてしまう。
だから最初は、正直かなり話しかけづらかった。
朝比奈と距離が近くなったのは、入学して間もない頃の“ある一言”がきっかけだった。
そのことを思い出すと、いまでも背中のあたりがじわっと落ち着かなくなる。
いや、別にトラウマってほどじゃないんだけど、なんというか——「あ、これ普通じゃないやつだな」って、じんわり理解させられた感じというか。嫌な汗とは違うけど、でも確実に“日常の外側”に片足突っ込まされた感覚がある。
きっかけは、本当に何でもないタイミングだった。
サークルの帰りか、講義のあとだったか、そのへんは正直あやふやだ。ただ、廊下でたまたま二人きりになって、なんとなく並んで歩いていたときのこと。
朝比奈はいつも通りの顔をしていた。
特別な話題でもなければ、意味ありげな前振りもない。むしろさっきまで他の連中とどうでもいい雑談をしていた延長みたいな、ゆるい空気のまま。
なのに、急に。
「見えてるんでしょ」
って言ったのだ。
いや、待ってほしい。
その言い方、どう考えても日常会話の流れじゃないよな?
たとえば「それ見えてる?」なら分かる。黒板とかスマホの画面とか、そういう具体的な“何か”が前提にある質問ならわかるよ?けどあいつの場合、主語も目的語も全部すっ飛ばしてきた。なのに“もうすでに成立してます”みたいな顔で言うから余計タチが悪かった。
——間違いなく、確信してるやつの言い方だった。
一瞬で言葉に詰まったけど、何か返さないといけない気もして「何が?」とか「急に何の話?」とか、それっぽい逃げ道を頭の中で探す。でも、そのどれもが妙に的外れな気がして、結局うまく口に出せなかった。
だってあいつ、こっちの反応を待ってる感じでもなかったんだ。
ただ普通に歩きながらこっちを一回だけ見て、それで十分って顔をしていた。
あの時の目を今でもちょっと思い出せる。
問い詰めるでもなく試すでもなく、ただ「確認しただけ」みたいな視線。
……いや怖い怖い怖い。
何をどう確認されたんだよ俺は。
結局そのあと、朝比奈は何事もなかったみたいに話題を切り替えた。さっきまでと同じテンションで、「あ、そういえば次のレポートさー」とか言い出して、完全に日常へ戻っていった。
変に距離を詰めてくるわけでもなければ、意味ありげに触れてくるわけでもない。ただ自然に隣にいる頻度が増えていくタイプ。
気づけば、授業の相談をする相手はだいたい朝比奈になっていたし、サークルの連絡も「とりあえずあいつに聞けばいいか」で済むことが増えていた。
「おまえ、朝比奈が話題に出るとちょっと分かりやすいよな」
案の定、中西が横からにやついた顔で言ってくる。
「何が」
「いや別にー」
「その言い方がいちばんうざい」
「嶋野、おまえ今ただでさえ顔死んでるんだから、そういう話でエネルギー使うな」
木下に正論を言われて、俺は素直に口を閉じた。寝不足の日に中西の恋愛センサーへ付き合っている余裕なんて本当にない。
二限と三限をどうにか終え、昼休みを挟んで四限まで乗り切った頃には、さすがに眠気より倦怠感のほうが強くなっていた。講義内容は頭へ入ったような入っていないような怪しい感触で、今日のノートはあとで見返したら自分でも少し悲しくなる気がする。
四限終わりにスマホを見ると、民俗文化研究会のグループチャットへ朝比奈から連絡が入っていた。
『今日、部室集合で』
『相談案件あるから』
相談案件。うちのサークルでは珍しくない言い方だが、文字で見るとやっぱり普通の大学サークルからは少し外れている気がする。飲み会の相談でも合宿の相談でもなく、相談案件である。そこがすでにだいぶおかしい。
俺は『行く』とだけ返し、学生会館の裏手へ向かった。
民俗文化研究会の部室は、学生会館から少し離れた旧サークル棟の二階にある。旧サークル棟は、名前の通りやや古い。コンクリートの外壁はところどころ色がくすみ、非常階段の手すりには塗装の剥げた部分があり、廊下の窓も最新のものとは言いがたい。新歓の時期だけは賑わうが、普段は文化系の小規模サークルと非公認に近い団体がひっそり使っている場所で、夕方になると廊下の薄暗さが少しだけそれっぽい雰囲気を出すような場所だった。
民俗文化研究会の部室は、その二階のいちばん奥だった。ドアには手書きの札で「民俗文化研究会」とあり、その下へ誰が貼ったのか分からない小さな護符っぽいシールが斜めについている。新歓の時に一年生が怖がるポイント第一位だと思う。
扉を開けると、いつもの面々が揃っていた。
「遅い」
最初にそう言ったのは朝比奈だった。窓際の机に寄りかかるように立っていて、黒のカーディガンに淡い色のブラウスという、やたらシンプルなのにちゃんとして見える格好をしている。髪はいつも通りきれいに整っていて、部室みたいな雑多な空間にいると余計に浮く。いや、浮くというと悪く聞こえるが、実際サークルの中でこの人だけ空気が一段引き締まっている感じがあるのだ。
「講義終わってすぐ来たよ」
「顔がもっと遅刻してる」
「…どういう意味だよ」
「寝不足でしょ」
相変わらずよく見ている。俺が返事に困っていると、部室の奥のソファから笑い声が上がった。
「朝比奈、嶋野くんにだけちょっと当たり強くない?」
そう言ったのは、三年の水野千尋先輩だった。民俗文化研究会の副部長で、見た目だけならどう考えてもオカルトサークルより演劇部か写真部にいそうな人である。肩までの茶色い髪をゆるくまとめ、カラコンでも入っていそうなくらい目がぱっちりしていて、服装も毎回しゃれている。話し方は柔らかいが、妙なところで勘が鋭く、怪談を話す時だけ声の温度が一段下がるので、初見だとちょっと怖い。
「別に当たり強くないです」
朝比奈が即答すると、水野先輩は「へえ」と面白そうに笑った。
「そういうことにしとく」
「何ですかその言い方」
「いや別にー」
その横で、机に資料を広げているのが部長の黒田遼先輩だった。四年生で身長が高く、いつも少し猫背気味。黒縁眼鏡の奥の目は眠そうに見えるのに、民俗信仰とか都市伝説の話になると急に饒舌になる。部室の本棚の整理を一人でやり続けているせいで、蔵書の位置を全部頭に入れている化け物でもある。会話のテンポはゆっくりだが、資料を読み込む速度が異様に速い。
「揃ったなら始めるか」
黒田先輩が言うと、部室の空気が少しだけ締まった。
ほかにもメンバーはいる。窓際のパイプ椅子へ浅く座って、ずっと何かの数値をノートへ書き込んでいるのが二年の三宅修二。理系に行くべきだったのではと思うくらい数字と測定が好きで、心霊スポットへ行っても温度、湿度、磁場、音圧をいちいち測りたがる。オカルトに対して信じているのか信じていないのか分からないくせに、異常値だけはめちゃくちゃ嬉しそうに報告してくる。
その隣で、床に座ってコンビニのおにぎりを食べているのが一年の柏木ひなた。新歓で勢いよく入ってきた新入生で、怪談好きのくせに実際の暗い場所は苦手という、うちのサークルでは珍しくない矛盾を堂々と抱えている。声が大きく感情も顔へ出やすいので、部室のリアクション担当みたいな立ち位置になりつつある。
「相談案件って何ですか」
俺が椅子を引きながら聞くと、黒田先輩が手元のクリアファイルを軽く持ち上げた。
「政治経済学部の一年で、最近様子がおかしいって相談だ」
「様子がおかしい、って何の」
「授業中に急にぼーっとするとか、誰もいないところ見てるとか、帰りたがらないとか、そのへん」
三宅が顔も上げずに付け足す。
「あと、教室の隅で一人で何かしゃべってるって証言もある」
「それはもう普通に心配案件じゃないですか」
「うん、だからこっちに来たんでしょ」
朝比奈が淡々と言った。
その言い方で、俺は少しだけ状況を理解する。
相談の持ち込み元は、たぶん朝比奈だ。
「朝比奈、知り合い?」
「同じ学部の一年。直接はそんなに話したことないけど、顔は知ってる」
「誰から聞いたの」
「その子と同じゼミの子。最近ちょっと変だって」
朝比奈は机の上に置かれた資料を指で軽く押さえながら続けた。
「最初は単純にメンタルの問題かなと思ったけど、話を聞いてると少し引っかかるところがあって、黒田先輩に相談した」
少し引っかかる。その表現が、こっち側の人間には妙に重い。
俺が黙っていると、水野先輩が椅子の背にもたれながら言った。
「でね、その一年の子、この前講義棟の三階の端っこの空き教室へ一人で入って、しばらく出てこなかったらしいの」
「三階の端って……旧棟側ですか」
「そうそう。いちばん使われてないあたり」
旧棟側。政治経済学部の講義棟は途中で増築されていて、古い棟と新しい棟が渡り廊下でつながっている。古い方の三階端にはいまはほとんど使われていない小教室がいくつか並んでいて、昼でも少し薄暗い。何があるというわけではないが、学生の間では妙な噂が長く残りやすい場所だった。
「その一年、名前は?」
俺が聞くと、朝比奈が資料をめくった。
「沢渡由奈。政治経済学部経済政策学科の一年」
「女の子か」
「それ関係ある?」
朝比奈に即座に突っ込まれ、俺は首を振った。
「いや、別に深い意味はないけど」
「嶋野くんの“深い意味はない”は、たまに信用ならないの」
「今日は全体的に俺への信頼が低くない?」
「寝不足だから」
寝不足、便利な言葉だなと自分でも思う。いや、実際今日は便利に使われすぎている。
黒田先輩が資料を回し始める。沢渡由奈という名前、学籍番号、所属ゼミ、最近の目撃証言のメモ、相談者の簡単な聞き取り。さすがにサークルで持つ資料としては最低限に留めてあるが、それでも大学の内部事情へ片足を突っ込んでいる感じは否めない。
「これ、どう動くんですか」
三宅がシャーペンを置いて初めて顔を上げた。
「まず話を聞く。直接」
「本人に?」
「本人に」
「嫌がられません?」
柏木が不安そうに聞くと、水野先輩が肩をすくめる。
「嫌がられたら無理に踏み込まない。そのへんはちゃんとやるよ。うち、別に自称霊能集団じゃないんだから」
その言い方に、俺は心の中で少しだけ苦笑した。少なくとも外から見たら、だいぶ怪しい集団ではある。
それでも黒田先輩は真面目な顔で言う。
「様子がおかしい理由が全部オカルトなわけじゃない。むしろ違う可能性のほうが高い。体調かもしれないし、家庭のことかもしれないし、精神的な問題かもしれない。そのへんを雑に決めつけないためにも、最初は普通に話を聞く」
その線引きがちゃんとしているところは、うちのサークルの好きな部分だった。怪異を扱うサークルだからといって、何でもかんでも幽霊のせいにするわけではない。少なくとも黒田先輩と水野先輩がいる限り、そのへんのバランスは保たれている。
「で、嶋野」
黒田先輩が俺を見る。
「おまえも来い」
来るとは思っていた。思っていたが、言葉にされると少しだけ胃のあたりが重くなる。
「……理由、聞いてもいいですか」
「朝比奈から聞いた。この手の空気に、おまえたまに引っかかるんだろ」
部室の中が一瞬だけ静かになった。
視線が集まる。柏木は“えっ”という顔をし、三宅は興味深そうに目を細め、水野先輩は口元だけで笑った。朝比奈だけが、別に隠し事でもないような顔で腕を組んでいる。
完全に深い話をする流れではない。そう分かるからこそ、朝比奈の言い方が少しだけ頭に残る。
引っかかる。
たしかに、そうだ。見えると言っても鮮明じゃない。ただ、場所や相手によっては、妙に気配を拾うことがある。拾いたくないのに拾うから厄介で、役に立つのかと聞かれると微妙で、でも何も感じないわけではない。その中途半端さを、朝比奈は最初からかなり正確に見抜いていた。
「行きますよ」
俺がそう言うと、黒田先輩は短くうなずいた。
「よし。今日このあと、授業終わりで沢渡に会えるよう朝比奈が連絡取ってる。場所は講義棟旧棟三階の空き教室前」
「場所、そこなんですか」
「本人がそこを指定してきた」
その瞬間、部室の空気がわずかに変わった。
旧棟三階の端。しかも本人指定。偶然で片づけてもいいが、こっちのサークルにその場所を指定してくる時点で、少なくとも普通の相談の仕方ではない。
「……嫌な感じがしますね」
柏木が素直に言うと、水野先輩が「分かる」と頷いた。
「でも、行くしかないよね」
朝比奈がそれに続いた。その声は落ち着いていて、必要以上に怖がってもいなければ、軽んじてもいない。そういうところがこの人らしい。
俺は無意識にスマホを握り直していた。
大学の中には、当然ながら色々な噂がある。昔事故があっただの、夜に旧棟の窓へ何か映るだの、空き教室の鏡がおかしいだの、階段の踊り場で足音が増えるだの、その手の話は新入生歓迎会の時期から勝手に広まっていく。ほとんどは噂だ。よくて勘違い、悪くて学生の悪ノリ。ところがその中に、ごく稀に“何もないとは言い切れないもの”が混じるから面倒だった。
「時間まで少しあるし、情報整理しようか」
黒田先輩がそう言って、ホワイトボードを引き寄せる。民俗文化研究会の活動は、外から見たらふざけているようで、こういう時だけ妙に手順がちゃんとしている。
沢渡由奈。一年。最近ぼんやりする。誰もいない場所を見て話す。帰りたがらない。旧棟三階の空き教室へ入る。今日の夕方、そこで会う約束。ホワイトボードへ項目が一つずつ書かれていくたび、俺の眠気は少しずつ引いていった。寝不足の頭でも分かる。この流れは、たぶんこのまま何事もなく終わらない。
それにしても、朝比奈がこっちへ相談を持ち込んだ、という事実が妙に引っかかった。
あいつは怖がりではないし、いたずらにオカルトへ寄せるタイプでもない。むしろ、うちのサークルの中では一番現実的に線を引く側だ。その朝比奈が“少し引っかかる”と言って持ってきた案件なら、単なる噂話で片づけるには少し足りない何かがあるのだと思う。
それを考えていると、不意に朝比奈がこちらを見た。
「嶋野くん」
「何」
「今日、無理そうなら言って」
「急に優しいな」
「寝不足の人を旧棟に連れて行くの、ちょっとどうかと思っただけ」
「その言い方だと、旧棟へ行くこと自体はもう決定なんだ」
「決定してるでしょ」
朝比奈は当然みたいに言った。その顔を見ていると、この人も案外サークル向きなんだよなと思う。冷静な顔で変なところへ足を踏み入れる度胸がある。
部室の窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変え始めていた。講義棟の壁へ当たる斜めの陽射し、帰宅する学生の流れ、遠くで鳴るチャイム。大学の一日が終わりに向かう空気の中で、俺たちはこれから、少しおかしな一年生の相談を受けに行こうとしている。
普通の大学生活から少しだけ外れた場所へ踏み出す時のこの妙な静けさを、俺はもう何度か知っている。
そしてたぶん、朝比奈も知っている。
そう思ったところで、俺のスマホが短く震えた。
画面を見ると、香澄さんからだった。
『今日は何時くらいに帰る?』
その文面を見た瞬間、大学の部室にいる俺と名古屋のアパートへ帰る俺が、頭の中で急に並んだ。
片方ではオカルトサークルの相談案件。片方では、押しかけてきた親戚のお姉さんとの同居初日二日目。
どっちも普通じゃない。
俺は小さく息をついてから、短く打ち返した。
『少し遅くなるかもです』
それだけ送って顔を上げると、黒田先輩がホワイトボードの前でこちらを見ていた。
「じゃあ、行くか」
俺たちは立ち上がった。
旧棟三階の空き教室へ向かうために。




