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第7話 虚核



 帰りたいと思った時ほど、帰り道が遠く感じるのは何でなんだろうと考えかけて、俺はその疑問を途中でやめた。


 いま考えるべきことは、名古屋の夕方の地下鉄が混むとか、香澄さんが温めてくれるカレーに具がどれだけ残っているかとか、昨日買ったばかりの布団が今日も俺の部屋の床に敷かれるという現実をどう受け止めるかとか、そういう生活寄りの問題ではなかった。いや、香澄さんのカレーも布団も俺にとっては十分すぎるほど重大な問題なのだけれど、旧棟三階の空き教室から黒い異形がこちらを覗いてきた直後に考えるには、さすがに優先順位が少し低い。


 世界をこじ開けるための扉。


 そういうふうに表現すると、何だか少しだけ格好よく聞こえてしまうかもしれない。古い伝承とかゲームの設定資料とか、深夜アニメの二話終盤くらいで意味ありげに出てきそうな単語だ。けれど実際のところ“それ”はそんなふうに軽く扱えるものではまったくなく、俺が子どもの頃から何となく感じ続けてきた不安と、香澄さんから聞かされていた話と、今日旧棟で見てしまった黒いもの全部を乱暴にひとつの形へ押し固めたような、かなりシャレにならない現象として世界の足元に横たわっている。


 霊界。


 死者の魂が行き着くところ。


 そう説明されれば単純だし、言葉だけなら昔話や仏壇の前で聞いたことのあるような響きにも近い。死んだらあちらへ行く。残った者は手を合わせる。やがて成仏する。そういう理解で済ませられるなら、たぶんそれが一番楽なのだと思う。けれど香澄さんから聞いた霊界の話は、俺が子どもの頃にぼんやり想像していた天国とか地獄とか、そういう分かりやすい場所とは少し違っていた。


 現世と霊界は完全に切り離された別世界ではなく、薄い境界を挟んで並行している。現世で生きている俺たちのすぐ隣に、死者の魂が流れていく層がある。こちら側の街や建物や場所に似たものが向こう側にも影みたいに重なっていて、魂はそこへ移り、時間をかけてほどけ、やがて形を失っていく。


 香澄さんはそう言っていた。


 正直、聞いただけではよく分からないことが多かった。霊界の管理局だの、霊素の循環だの、零核の分解だの、そんなややこしい言葉を並べられても、俺の頭は大学の講義で財政政策のグラフを見ている時みたいな顔になっていたと思う。香澄さんはわりと説明が丁寧なのに、その話の根本が一般的な常識からかなり外れているので、聞く側が日常の言葉へ変換するのにだいぶ時間がかかる。


 ただその話の中で一つだけ、ずっと気になっていることがあった。


 それは香澄さんの説明で初めて知ったというより、子どもの頃から俺の中に引っかかっていた感覚へ、あとから名前がついたようなものだった。


 人はいつか死ぬ。


 その話を、俺はばあちゃんからよく聞かされて育った。


 ばあちゃんは別に、毎日のように死生観を語る重たい人だったわけではない。むしろ普段はよく笑って、漬物の味を毎回少しだけ変えてきて、俺が小学生の頃にゲームで負けて不機嫌になると「負けて怒るうちはまだ遊べてる証拠だねえ」と妙に達観したことを言う人だった。庭の草むしりをしながら昔の話をしてくれたり、夏になると麦茶の入った大きなポットを冷蔵庫へ入れておいてくれたり、冬にはこたつでみかんをむきながら、俺の学校の話をちゃんと聞いてくれる人だった。


 そんなばあちゃんが、ときどき何でもない顔で言うのだ。


 人はいつか死ぬんだよ、と。


 その言い方は怖がらせるためのものではなく、季節が巡るとか、花が咲いて散るとか、そういう当たり前の話をする時の声に近かった。子どもの俺は、当たり前の話として受け取るには少しだけ難しくて、でも大人にとってはそれが当たり前らしいから深く聞き返せなくて、その言葉だけを胸の隅へ置いたまま大きくなった。


 生と死。肉体と魂。


 子どもながらに感じてきたのは、ぼんやりとした不安だったのだと思う。


 人は死んだあと、どこへ行くのか。


 その疑問は、幽霊がぼんやり見えていた俺にとって、たぶん他の子どもより少しだけ現実味があった。道端や古い家の隅に、人ではない気配を感じることがあったからだ。あれが死んだ人なのだとしたら、死んだあとに全部が終わるわけではないのかもしれない。終わらないなら、どこへ行くのか。どうして残るものと残らないものがあるのか。誰かのもとへ向かえるのか。それとも、どこにも行けずに同じ場所へ立ち続けるのか。


 霊界と言えば、それで済む話なのかもしれない。


 死んだら霊界へ行く。残った未練があれば現世へ留まる。成仏すれば向こうへ流れて、やがて魂はほどけていく。そう理解すれば、だいたいの筋は通る。けれど俺の中では、どうしても腑に落ちない部分があった。


 結局、そこは現世と何が違うのか。


 生きていることと、どう違うのか。


 肉体があるかないか。心臓が動いているかどうか。誰かに触れられるかどうか。ご飯を食べられるかどうか。朝起きて、学校へ行って、友達と喋って、夜になると眠る。そういう生活がなくなることを死と呼ぶのなら、魂だけになってどこかへ行くというのは、本当に“まだいる”と言えるのか。


 変な話だとは思う。死んだら死んだで、ようするに天国へ行くとか、成仏するまで彷徨うとか、そういう話で済ませればいいだけなのかもしれない。けれど俺は昔から、その“済ませる”ということが少し苦手だった。


 ばあちゃんが最後に言ってくれたことを覚えている。


 病室は白くて、やたら静かで、消毒液の匂いがしていた。窓際には小さな花が飾られていて、誰が持ってきたのか忘れたけれど、淡い色の花びらだけは今でもぼんやり覚えている。ばあちゃんの手は小さくて、昔よりずっと軽く、握ると骨の形が分かるくらい細かった。


 俺は何を言えばいいのか分からなかった。


 ありがとうも、元気になってねも、また来るねも、全部薄っぺらく聞こえそうで、口に出す前に喉の奥へ引っかかった。ばあちゃんはそんな俺を見て、少しだけ笑って、手を握り返してくれた。


「いつか生まれ変わっても、きっとまた会おうね」


 俺は、その手を握りしめることしかできなかった。


 生まれ変わる、という言葉の意味を、その時の俺がどれだけ理解していたのかは分からない。ただ、その言葉はずっと心の中に残った。俺もいつかばあちゃんのように死んで、途方もない時間の隔たりの向こうに生まれ変わった先で、誰かと出会い、誰かと手を繋いでいたりするのだろうか。ばあちゃんの言葉通り、また会えるのだろうか。会えたとして、その時の俺は俺だと分かるのか。ばあちゃんはばあちゃんだと分かるのだろうか。


 人はいずれ死ぬ。


 その運命が未来で決まっているのなら、生きるというのはそもそも何なのか。


 そんな答えの出ないことを、子どもの頃の俺はわりと真剣に考えてしまう時期があった。今思えば、見える体質のせいで余計に考え込んでいたのかもしれない。普通に暮らしていれば死は遠い。だけど俺はその境界の向こうに佇む影を見るたびに、考えないわけにはいかなかった。



 旧棟三階で見たあれは、そういう子どもの頃の不安を最悪な形で目の前へ引きずり出してきた存在だった。


 沢渡を媒介として、あの化け物は扉を開こうとしている。


 俺はそう感じていた。


 沢渡本人が何かを望んでいるわけではない。少なくとも、さっき見た限りでは彼女はたんに呼ばれていて、自分でも何が起こっているのか分からないまま旧棟へ通っていた。あの化け物は、彼女の中にある“不安定さ”を利用している。沢渡の零核を、世界へ干渉するための鍵として使おうとしている。


 零核というのは、香澄さんの言い方を借りるなら生命力の根幹にあるコアだ。


 より危険な言い換えをするなら、“世界に干渉するための鍵”でもあるらしい。


 この“世界に干渉する”という言葉の意味を、俺は最初あまり理解できていなかった。物を動かすとか、風を起こすとか、そういう単純な物理現象の話だと思っていた。けれど、香澄さんの説明はもう少し深かった。


 現世と霊界の境界には、生と死の臨界点みたいなものがある。


 肉体を持つものと、肉体を失ったもの。物質として存在するものと、非物質として存在するもの。時間の流れへ乗って生きるものと、流れから外れかけているもの。その二つの領域を隔てている境目には、本来なら越えてはいけない繋ぎ目があり、零核はそこへ干渉するための鍵になる。


 強い霊体が霊素を大量に集め、媒介となる零核へ執着し、その境界へ圧をかけ続けると現世と霊界のあいだに一時的なゲートが開くことがある。


 ゲート、なんて言うとまた少し軽い言葉に聞こえてしまうかもしれない。


 実際には、生と死そのものの境界を無理やり押し広げ、現実の壁を越えて時間と空間の物理限界点を一時的に引き伸ばす現象に近いのだと、香澄さんは言っていた。かなり分かりにくいけれど、今日旧棟で見た影の動きは、その説明へ嫌になるほど合っていた。


 ガラスの向こうにいるはずのものが、こちら側の床へ影を染み出させた。


 実体を持たないはずの霊が、廊下の空気を冷やし、蛍光灯をちらつかせ、沢渡の体を引っ張り、俺の足元へ腕のようなものを伸ばした。


 もう、ただ見えているだけではなかった。


 すでにあれは“こちら側”へ手を届かせている。


 要するに、状況はかなりまずい方向へ進んでいる。


 学生会館の外れにあるベンチで一息ついたあと、俺たちは一度、民俗文化研究会の部室へ戻ることになった。沢渡は朝比奈と水野先輩が学生相談室へ連れていき、黒田先輩は学生課へ状況を説明するために別行動を取った。もっとも、学生課へ“旧棟三階の空き教室に異形が出ました”と正直に言っても通じるわけがないので、体調不良の学生が危険な場所へ入り込んでいた可能性があるとか、照明や設備に不具合があるかもしれないとか、現実的な言い換えをする必要があった。


 残された俺と三宅と柏木は、部室で待機という名のぐったりタイムへ突入した。


 部室のドアを閉めた瞬間、柏木は椅子に座るというより崩れ落ちるように腰かけた。


「……もう、帰っていいですか」


「気持ちは分かる」


 俺が答えると、三宅が机の上へスマホとメモ帳を並べながら、やけに真剣な顔で言った。


「帰る前に記録だけ整理した方がいい。時間が経つと細部が曖昧になるし」


「おまえ、ほんとにすごいな。怖くなかったのか」


「怖かった。今も手が少し震えてる」


 三宅はそう言って、ペンを持つ指先を見せた。たしかに小さく震えている。本人も余裕なわけではないらしい。それなのに記録を優先しようとしているあたり、やっぱりこいつはこいつでだいぶオカ研向きだと思う。


「でも、俺にも見えたんだよ。初めて。はっきりじゃないけど、扉のところに黒い塊みたいなのがいた」


「見えたの、やっぱり」


「うん。正直、テンション上がる余裕はなかった」


「そこでテンション上がってたら、本気で引いてた」


 柏木が涙目のまま言う。三宅は「俺も自分で引くと思う」と真面目に返した。


 部室の蛍光灯は普通に点いていた。窓の外からは夕方のキャンパスのざわめきが聞こえる。遠くでどこかのサークルが笑っていて、グラウンドのほうから笛の音がして、廊下では誰かが自販機の前で喋っている。ほんの少し前に旧棟で異形から逃げてきたことが、急に現実味を失いそうになるくらい部室の中はいつもの大学だった。


 そういう落差が、逆に怖い。


 怪異は、世界の外から急にやってくるわけではない。普通の大学、普通の廊下、普通の空き教室、普通の学生の生活のすぐ横に、薄く滲むようにある。俺たちが見ないふりをしているだけで、足元には別のものが横たわっていて、何かの拍子にそれが浮き上がってくる。


 考えすぎかもしれない。


 でも、旧棟であれを見たあとでは、考えすぎと切り捨てるほうが難しかった。


「嶋野先輩」


 柏木が、いつになく小さい声で呼んだ。


「さっきのって、幽霊なんですか」


 俺はすぐ答えられなかった。


 幽霊。


 その単語で済ませるには、あれは少し違う気がした。死者の霊。怨念。地縛霊。生霊。浮遊霊。そういう分類のどれかへ入れてしまえば楽なのかもしれないけれど、あれはもっと、零核そのものがねじれた存在というか、霊素の塊が空洞を抱えたまま動いているような、普通の霊体とは違う圧があった。


「分からない」


 俺は正直に言った。


「ただ、普通の幽霊ではないと思う」


「普通の幽霊って言葉もだいぶ嫌です」


「俺も言ってて嫌だった」


 三宅がペンを止める。


「普通じゃないなら、分類名とかあるのか」


「……ある、かもしれない」


 その言葉を口にした瞬間、俺は香澄さんの声を思い出した。


 あれは、いつだったか。たぶん高校の頃より前、小学生か中学生の間くらいだったと思う。祖父母の家の縁側で、夏の夕方にスイカを食べていた時か、あるいは虫取りから帰ってきて汗だくで麦茶を飲んでいた時か、記憶は少し曖昧だ。香澄さんが、珍しく真面目な顔で“見えても近づいちゃいけないもの”について話してくれたことがある。


 “ある一定の零核の強さを持つ霊体が、現世へ干渉し、そのエネルギーを具象化することがある”


 具象化、という言葉が当時の俺には難しくて、香澄さんは少し考えたあと、「幽霊なのに、こっちの世界へ形を持って出てきちゃう感じ」と言い換えてくれた。


 普通の幽霊は、見える人にだけ見える。感じる人にだけ感じる。こちら側の物質へ直接触れる力は弱い。ところが霊素量が異常に多く、零核の歪みが強い霊体は、自分の存在を現世側へ押し出し、影や音や温度、時には腕や顔のような形として具象化することがある。境界を揺らし、現実の法則へ一時的に穴を開けることがある――と。


 その現象化には名称がある。


 その変異を遂げて現世へ侵入してくる霊体にも、特有の総称が与えられている。


 香澄さんは、その名を口にした。


 ヴォイド。


 虚核。


 零核の中心に空洞を抱えたまま霊素を吸い込み、現世へ干渉する異常霊体。


 その言葉を思い出した瞬間、背中のあたりが冷たくなった。


 まさか、と思った。


 まさか大学の旧棟で、そんなものと遭遇するとは思わない。…思いたくない。香澄さんの話の中では、“それ”はかなり危険な存在として語られていた。ほとんど伝承や災害の類に近く、普通の霊媒師が単独で対処するものではない、とも言っていた気がする。


 俺が黙り込んでいると、三宅が少し身を乗り出した。


「あるんだな、分類」


「……香澄さんに聞かないと断言できない」


「香澄さん?」


 柏木が反応する。


「あ、親戚の……その、霊関係に詳しい人」


 危ない。うっかり説明が雑になった。昨日から俺の部屋に泊まっている年上の親戚のお姉さんで、しかも高校の頃にいろいろありまして、なんて説明は絶対にできない。したら俺の社会的零核が砕ける可能性がある。


「霊関係に詳しい親戚、いるんですか」


「いる」


「嶋野先輩の周り、設定濃くないですか」


「俺が一番そう思ってる」


 三宅は真顔で「その人に相談できるならした方がいい」と言った。


「だよな」


「今日見たものが普通の霊現象じゃないなら、俺たちだけで扱うのは危険だと思う」


 三宅がそんな正論を言うとは、と一瞬失礼なことを思ったが、こいつは元々、好奇心が強いだけで無謀とは違う。自分に見えたことで、危険度の認識が一段上がったのだろう。


 俺はスマホを取り出した。


 香澄さんからのメッセージは、さっきの“先にごはん食べよっか”で止まっている。家に帰れば話せる。話せるのだが、その前に少しだけ情報を送っておくべきか迷った。重い内容を文字で送るのもどうかと思うし、かといって帰ってから突然“大学にヴォイドっぽいのが出ました”と切り出すのも、夕飯の話題としてはかなり最悪だ。


 いや、そもそもカレーを食べながらする話ではない。


 カレーが悪いわけではない。カレーはいつだって悪くない。悪いのは旧棟三階の異形だ。


 そんなくだらないことを考えていると、部室のドアが開き、朝比奈が戻ってきた。


「沢渡さん、相談室に預けた。水野先輩が付き添ってる」


「大丈夫そう?」


 俺が聞くと、朝比奈は少しだけ眉を寄せた。


「落ち着いてはいる。けど、旧棟の方を何度も見てた」


「まだ繋がってる感じがする」


「やっぱり」


 朝比奈はそう言って、机の近くへ立った。


 その顔に、さっき沢渡を支えて逃げていた時の緊張がまだ少し残っている。いつも涼しげで感情をあまり表へ出さない人なのに、今日はさすがに無傷ではないのだと思う。そう考えた瞬間、少し心配になった。


「朝比奈は大丈夫なのか」


「私は平気」


「平気って言う人の平気、わりと信用ならない時あるぞ」


「嶋野くんに言われたくない」


「それはそう」


 言い返せなかった。


 柏木がこちらと朝比奈を交互に見て、何か言いたそうな顔をしたが、空気を読んだのか黙っていた。えらい。今だけは本当にえらい。


 朝比奈は俺の隣の椅子へ腰かけ、声を落とした。


「さっきの、何だと思う?」


「まだ断言はできないけど」


「うん」


「…突拍子もない話に聞こえるかもしれないけど、俺の親戚、…要するに霊関連に詳しい人が昔言ってた言葉を借りると、あの「悪霊」の正体は、ヴォイドっていう異常霊体に近い気がする」


 口に出した瞬間、部室の空気が少しだけ変わった。


 柏木は当然知らない顔をした。三宅はすぐメモを取ろうとして、俺が睨むとペンを止めた。朝比奈だけは知らない単語を聞いても騒がず、静かに反復した。


「ヴォイド」


「虚核とも言うらしい。零核が歪んで、空洞みたいになった霊体。霊素を大量に吸い込んで、現世に干渉する」


「さっきの扉の向こうのやつが、それ?」


「可能性はある」


「危険度は」


「親戚の話が本当なら、かなり高い」


 朝比奈は黙った。


 俺も言っていて気分が沈んだ。かなり高い、なんて言葉で済ませたが、実際には俺たち学生サークルがどうこうできる相手ではないと思う。少なくとも、俺が立ち向かう類のものでは絶対にない。


「沢渡さんを使って、こっちに来ようとしてるってこと?」


「たぶん」


「理由は」


「分からない。返せって言ってたから、何かを求めてるのは確かだと思う」


「沢渡さんが持ってるもの?」


「本人は持ってないって言ってた。あれが何を返せと言ってるのか、沢渡さんにも分かってない可能性が高い」


 かえして。


 ノートの余白に繰り返し書かれていた文字を思い出す。


 単なる言葉なのに、あれはかなり嫌な“手触り”だった。とくに思念の強い悪霊相手の“目的が分からない要求”は、どこまで行っても終わりが見えない。何を渡せばいいのか分からないまま責められる。しかも相手がヴォイド級の異常霊体なら、交渉という概念が通じるかどうかも怪しい。


「香澄さんって人、頼れるの?」


 朝比奈が聞いた。


 その問いに、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。


 頼れる。


 能力面では、間違いなく頼れる。香澄さんは俺よりずっと見えるし、ずっと分かるし、降霊術も使える。現世と霊界の境界についても詳しい。あの人なら旧棟三階の現象を見て、俺たちより正確に判断できる可能性が高い。


 問題は、頼っていいのかどうかだ。


 香澄さんは今、事業に失敗して疲れて、引きこもりたいと言ってうちへ来た。休むために来たのだ。誰にも会わず、何にも追われず、しばらく息をするために来たはずだ。なのに同居二日目で大学の怪異案件を持ち込むのは、いくら何でもひどいんじゃないか…?


 それでも、頼らないと危ない気もした。


 沢渡はすでに引っ張られている。俺たちも巻き込まれた。…しかも厄介なことに、あれは俺を「認識」した。放っておけばまた旧棟へ呼ぶかもしれない。沢渡だけじゃなく、朝比奈やオカ研のメンバーへ影響が出る可能性だってある。


 俺はため息をついた。


「頼れると思う。でも、頼りたくない部分もある」


「どうして」


「休むために、こっちに来てる人だから」


 朝比奈は少しだけ目を伏せた。


「それなら、無理に巻き込みたくないね」


「うん」


「でも、必要なら相談した方がいい」


「分かってる」


「分かってる顔じゃない」


「今日、顔で色々判断されすぎじゃないか」


「分かりやすいから」


 さらっと言われた。そんなに分かりやすいんだろうか。…だとしたらかなり不本意だな。


 その時、黒田先輩からグループチャットへ連絡が入った。


『旧棟三階は明日まで立入制限をかけてもらう方向で話した』

『設備点検名目』

『今日は全員帰れ。単独行動禁止』

『沢渡については学生相談室と連携する』


 黒田先輩、仕事が早い。さすが部長というべきか、こういう時に現実的な処理ができるのはかなりありがたい。


 続けて水野先輩からもメッセージが来る。


『沢渡ちゃん、今日は親御さんに連絡して迎えに来てもらうことになった』

『朝比奈、嶋野くん、三宅くん、柏木ちゃんも無理しないで』

『特に嶋野くん、顔死んでたから寝て』


 部長と副部長、そろって顔の話をしてくるのやめてほしい。


 柏木がスマホを見ながら、少しだけ笑った。


「水野先輩、こういう時でも嶋野先輩の顔いじるんですね」


「今日一日で俺の顔面評価が地に落ちてる」


「寝た方がいいと思います」


「寝たいよ。心の底から」


 寝たい。帰って、カレー食べて、風呂入って、寝たい。


 その帰る場所に香澄さんがいることを思い出した瞬間、また別方向で落ち着かなくなるの、本当にどうにかしてほしい。怖い目に遭った直後なのに、家に帰るのも心臓に悪い。…はあ、逃げ場が少なすぎないか?今の俺の生活…


 結局、俺たちは部室を片づけて解散することになった。


 柏木は水野先輩が送っていくことになり、三宅は同じ方向の黒田先輩と帰るらしい。朝比奈は駅まで俺と同じ方向だったので、自然と二人で歩くことになった。


 夕方のキャンパスは、昼間より少しだけ色が濃い。講義を終えた学生たちが正門へ向かい、サークルへ行く連中は学生会館へ流れ、グラウンドからは運動部の声が聞こえる。普通の大学の夕方だ。旧棟三階で起きたことを知らない大多数の学生にとって、今日はただの平日で、少し眠い講義があり、友達と昼を食べ、帰りにどこかへ寄るかどうかを相談するだけの日なのだろう。


 それが少し羨ましかった。


「嶋野くん」


 並木道を歩きながら、朝比奈が言った。


「さっき、足止まってたよね」


「見られたから」


「向こうに?」


「たぶん」


「それ、まずい?」


「かなり」


 朝比奈は黙った。責めるような沈黙ではなかった。言葉を探している沈黙だ。


「私にも、少しだけ分かった」


 やがて、朝比奈が言った。


「何が」


「扉の向こうに、何かいるってこと。形は見えなかったけど、見られてる感じがした」


 俺は足を止めかけた。


「朝比奈も?」


「少しだけ」


 やっぱり、と思った。


 朝比奈が俺に“見えてるんでしょ”と言った時から、ただの勘が鋭い人ではないとは思っていた。本人がどこまで自覚しているのかは分からないが、少なくとも完全に鈍い側ではない。


「前に言ってたよな」


「何を」


「俺に、見えてるんでしょって」


 朝比奈は歩きながら、少しだけ目を細めた。


「あれ、気にしてたんだ」


「そりゃ気にするだろ。普通言わないし」


「普通じゃなかったから」


「何が」


「嶋野くんの見方」


 見方。


 その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。


 朝比奈はそれ以上すぐには続けなかった。正門へ向かう学生の流れの中で、俺たちは少しだけ歩幅を落とす。


「人がいない場所を見る時の目が、変だった」


「それだけ?」


「それだけじゃないけど、今日はここまで」


「何で」


「話すと長くなるから」


 今日ほど“話すと長くなる”を聞きたくない日もない。けれど、朝比奈の口調が本当に“いずれ話す”という感じだったので、無理に聞き出すのはやめた。


 正門を出ると、名古屋の夕方の空気がじっとりとまとわりついた。朝より人の流れが速い。駅へ向かう学生、バス停へ急ぐ社会人、コンビニへ寄る二人組。街の音が戻ってくる。車の走行音、信号の電子音、店の自動ドアが開く音。そういう普通の音が、旧棟の静けさから俺を少しずつ引き離していく。


 駅へ向かう途中、朝比奈がふと聞いた。


「今日はその香澄さんに話すの?」


「たぶん」


「たぶん?」


「話す。話さないとまずい」


「うん」


「ただ、カレー食べてからにする」


 朝比奈が一瞬だけこちらを見て、少しだけ口元を緩めた。


「そこ大事なんだ」


「大事だろ。怪異の話は空腹だと判断を誤る」


「それ、誰かの格言?」


「今作った」


「まあ、分かる気はする」


 その小さな笑い方を見て、少しだけ気が楽になった。


 駅の改札前で朝比奈と別れ、俺は地下鉄へ乗った。夕方の車内はそれなりに混んでいて、吊り革につかまりながら窓に映る自分の顔を見る。水野先輩の言う通り、だいぶ死んだ顔をしていた。目の下が少し暗いし、髪も朝より乱れている。これで家に帰って香澄さんへ会うのかと思うと、まず第一声で心配されそうだった。


 地下鉄が揺れる。


 俺はスマホを取り出し、香澄さんとのメッセージ画面を見る。


『カレーお願いします』

『あと、霊のことで相談があります』


 その下の返信。


『先にごはん食べよっか』


 あまりにも香澄さんらしい。


 怖い話も、重い相談も、まずはご飯を食べてから。そういうところがあの人らしいし、今の俺にはありがたかった。腹が減っているのも事実だし、寝不足で頭が回っていないのも事実だ。何よりあの異形の輪郭を思い出し続けたまま一人で考えていると、どんどん悪い方向へ沈みそうだった。


 最寄り駅で降り、アパートへ向かう道を歩く。


 夕方の住宅街には、大学周辺とは違う生活の匂いがあった。スーパーの袋を下げた主婦らしき人、犬の散歩をする老人、塾へ向かう小学生、マンションのベランダから揺れる洗濯物。どれも普通で、旧棟三階の暗さとはまるで違う。その普通さが今は少しだけありがたい。


 アパートの階段を上り、自分の部屋の前に立つ。


 中から、かすかにカレーの匂いがした。


 それだけで、体の力が少し抜ける。単純だと思う。単純でいいとも思う。怖いものを見たあとに、帰る場所から食べ物の匂いがするというのは、思った以上に強い。


 鍵を開けて中へ入る。


「ただいまです」


 口に出してから、少しだけ違和感を覚える。


 ただいま。


 昨日までは誰に向けるでもなく部屋へ戻っていたのに、今日はその言葉がちゃんと部屋の中へ届く相手を持っている。


 キッチンのほうから、香澄さんが顔を出した。


「おかえり、空介くん」


 エプロン姿だった。


 いや、正確には俺が持っていた安い無地のエプロンを勝手に使っているだけなのだが、香澄さんがそれを着けているという事実だけで、俺の脳は一瞬、旧棟三階の異形を忘れた。忘れたというより、別方向の衝撃で上書きされた。


「……何でエプロン」


「カレー温めるだけでも服に飛ぶと嫌だから」


「合理的ですね」


「でしょ」


 本人は何も分かっていない顔で笑う。分かっていない。たぶん一ミリも分かっていない。風呂上がり、部屋着、エプロン。昨日からこの人は、俺の理性へ生活感という形で攻撃してくる。旧棟のヴォイドより即効性があるかもしれない。いや、それは言い過ぎか。…うん、言い過ぎじゃないかもしれない。


「顔色悪いね」


 香澄さんがすぐに眉を寄せた。


「やっぱり」


「やっぱりって?」


「相談って書いてあったから、何かあったんだろうなって」


「ありました。かなり」


「うん。先にご飯食べよ」


 香澄さんはそう言って、鍋の火を弱めた。


 テーブルには二人分の皿とスプーンが用意されていた。カレーは昨日の残りに少し具材を足したらしく、じゃがいもと肉の量が微妙に復活している。どうやったんだろう。冷蔵庫にそんな材料あったか。もしかして買い物へ行ったのか。そういう現実的な疑問が浮かぶくらいには、部屋の空気は日常だった。


 俺は手を洗い、席へ着いた。


 向かいに香澄さんが座る。これだけでまだ少し落ち着かない。けれど、今日はそれ以上に話すべきことがある。


「いただきます」


「いただきます」


 カレーを一口食べる。


 温かい。


 それだけで、旧棟で冷えた体の内側へ少しずつ熱が戻ってくる気がした。味は昨日より少し濃くなっていて、具も柔らかい。残り物のカレーは二日目のほうがうまいというかなり平和な事実が、今だけは救いみたいに思えた。


「おいしいです」


「よかった」


「香澄さん、何か足しました?」


「玉ねぎとウインナー」


「冷蔵庫にウインナーありましたっけ」


「なかったから買ってきた」


「外出したんですか」


「うん。近くのスーパーまで。ちゃんと鍵閉めたよ」


「保護者みたいな心配してすみません」


「保護者みたいだったねえ」


 香澄さんは楽しそうに笑った。俺は少しだけ恥ずかしくなり、カレーを食べるペースを上げる。会話が普通すぎる。普通すぎて、これからヴォイドの話をするのが嫌になる。


 皿の半分ほどを食べたところで、香澄さんがスプーンを置いた。


「それで、何があったの」


 声の温度が変わった。


 さっきまでの柔らかい調子ではなく、昔から俺が知っている“見える側”の香澄さんの声だった。ゆるくて天然なところもある人だけれど、こういう話になると、急に空気の芯が通る。俺は水を一口飲み、今日のことを順番に話した。


 民俗文化研究会で相談案件があったこと。


 沢渡由奈という一年生が、最近“呼ばれている”と感じていたこと。


 旧棟三階の端の空き教室へ通っていたこと。


 ノートに“かえして”と書いていたこと。


 扉の向こうに黒い異形が見えたこと。


 影の腕が廊下へ染み出し、俺を見たこと。


 沢渡を媒介にして、何かがこちら側へ出ようとしているように感じたこと。


 話している間、香澄さんは一度も茶化さなかった。スプーンも持たず、姿勢を少し前へ傾けたまま、静かに聞いていた。途中で何度か短く質問を挟む。旧棟の場所。沢渡の年齢。いつから症状が出ていたか。声の内容。黒い影の見え方。温度変化の有無。俺が足を止められた時の感覚。


 質問が具体的すぎて、俺は改めて、この人が本当に専門側の人なんだと感じた。


「……ヴォイド、だと思いますか」


 最後に俺が聞くと、香澄さんはすぐには答えなかった。


 沈黙が落ちる。


 部屋の中にはカレーの匂いが残っていて、外からは車の音が微かに聞こえる。その日常の中で、香澄さんの表情だけが少しずつ硬くなっていく。


「可能性はある」


 やがて、香澄さんはそう言った。


 思っていたより重い声だった。


「虚核。零核の中心が欠けて、そこに霊素を吸い込み続ける異常霊体。普通の霊と違って、自分の形を保つために外側からエネルギーを取り込もうとする。未練や恨みだけじゃなくて、存在そのものが空洞になってるから、近くにある強い零核へ寄りやすい」


「沢渡さんが狙われてるのは」


「その子の零核が、たぶん合ってしまったんだと思う。鍵穴と鍵みたいに」


「じゃあ、やっぱり扉を」


「開こうとしてる可能性が高い」


 香澄さんはそこで、小さく息をついた。


「空介くん」


「はい」


「その旧棟、明日から近づかないで」


「……サークルの案件で」


「近づかないで」


 もう一度、はっきり言われた。


 その声に、俺は少しだけ背筋を伸ばす。


「それ、そんなにまずいんですか」


「かなりまずい。ヴォイドは、見える人を見つけるとそっちへ寄ることがある。空介くん、もう見られたんだよね」


「たぶん」


「たぶんじゃなくて、見られてる。話を聞く限り」


 香澄さんの表情が、いつになく厳しい。


 それだけで、俺の中にまた冷たいものが戻ってくる。


「ヴォイドはね、普通の悪霊とは違うの。恨んでる相手を探してるとか、未練を晴らしたいとか、そういう分かりやすい目的じゃないことが多い。欠けた零核を埋めるために、近い波長の零核や霊素へ執着する。だから“返せ”って言ってるのも、本当に何かを返してほしいんじゃなくて、自分に足りないものを外から奪おうとしてる可能性がある」


「沢渡さんは」


「危ない」


 即答だった。


「その子の症状が二週間続いてるなら、かなり深く繋がってる。早めに切らないと、零核を削られるかもしれない」


「削られると、どうなるんですか」


「体調を崩す。意識が不安定になる。最悪の場合、魂の輪郭が薄くなる」


 言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。


 魂の輪郭が薄くなる。


 それは、死ぬということなのか。それとも、生きているまま何かを失うということなのか。どちらにしても、軽く聞ける話ではなかった。


「……香澄さん」


「うん」


「手伝ってもらえますか」


 言ってしまった。


 言いたくないと思っていた。巻き込みたくないと思っていた。休むために来た人へ、同居二日目でこんな危険な相談をするのはひどいと思っていた。それでも沢渡のことを考えたら、言わないわけにはいかなかった。


 香澄さんは俺を見た。


 少し困ったように笑うかと思った。あるいは、疲れているから無理だと言われるかもしれないとも思った。むしろ、それでも仕方ないと思っていた。


 けれど香澄さんは、ゆっくりと頷いた。


「うん。行く」


「いいんですか」


「いいかどうかで言うと、よくはないけど」


「ですよね」


「でも、放っておいたらもっとよくない」


 その言い方が、昔の香澄さんだった。


 小学生の頃、川で俺が危ない場所へ行きそうになった時、何でもない顔で手を引いて戻してくれた人。縁側で庭の気配に気づいた時、俺より先にそちらを見ていた人。高校三年の夏、岬のために来てくれた人。


 あの頃からこの人は、俺にとってヒーローみたいな存在だった。


 そしてそのことを思い出してしまった自分に、少しだけ胸が痛んだ。


「ごめんなさい。休むために来てるのに」


「空介くんが謝ることじゃないよ」


「でも」


「それに、引きこもり生活を始める前に、準備運動くらいしてもいいかなって」


「準備運動がヴォイド案件なの、体操の強度高すぎません?」


「ちょっとハードだねえ」


 香澄さんは軽く笑った。


 その笑顔を見て、俺も少しだけ笑いそうになった。怖い話をしているのに、こういうところで空気をゆるめてくれる。昔からそうだった。


 ただその直後、部屋の照明が一瞬だけちらついた。


 俺と香澄さんは、同時に天井を見た。


 カレーの鍋が置かれたキッチンの奥で、何か黒いものが、壁の端を走った気がした。


 斑点。


 小さな黒い染みのようなものが、壁紙の上を一瞬だけかけ抜け、天井の角へ消えた。


 俺の息が止まる。


 香澄さんの表情が、すっと消えた。


「……空介くん」


「今の」


「部屋の中心に来て」


 声が低い。


 俺はすぐ椅子から立ち、テーブルから離れた。香澄さんも立ち上がり、部屋の中央へ移動する。照明がまたちらつく。今度は一瞬では終わらない。白い光が明滅し、壁の隅、天井の縁、玄関へ続く廊下の床に、小さな黒い斑点がぽつぽつと浮かび上がった。


 それはインクの染みみたいに見えた。


 最初は小さい。豆粒くらいの黒が、壁紙の白い面へ滲む。次に、それが一斉に走り出した。虫ではない。液体でもない。影に近い「影」なのに、光の向きと関係なく、壁や天井を這う。黒い斑点は廊下から室内へ、室内から天井へ、天井から窓の方へ、夥しくかけ走っていく。


 得体の知れない思念と、水溜まりのような霊素の奔流。


 旧棟三階で見たものと同じ気配が、ほんの薄く、俺の部屋の中へ滲んでいた。


「嘘だろ……」


 声がかすれた。


 すでに奴は、こちら側に手を届かせている。


 それも、旧棟から離れた俺の部屋まで。


 香澄さんは右手を軽く前へ出した。指先がほのかに白く光ったように見える。部屋の空気がきゅっと締まる。香澄さんの周囲だけ、見えない膜が張られたみたいに、黒い斑点の動きが鈍った。


「空介くん、あれに見られた時、何か言った?」


「返すものなんかない、って」


「うん、喧嘩売ってるね」


「売ったつもりないです!」


「向こうからはそう聞こえたかも」


「最悪だ……」


 黒い斑点が壁の角で集まり、ひとつの大きな染みになる。染みの中心が沈むように暗くなり、そこから細い腕のようなものが、ぬるりと伸びかけた。


 香澄さんが、短く何かを唱えた。


 聞き取れない言葉だった。日本語のようでもあり、音そのものが意味を持っているようでもある。その声が部屋に響いた瞬間、黒い腕が弾かれるように縮んだ。壁の染みがぶわっと広がり、霧のようにほどける。


 照明のちらつきが止まった。


 部屋に静けさが戻る。


 カレーの匂いがまだ残っている。テーブルには食べかけの皿。昨日買った布団。ソファ。俺の教科書。全部いつも通りなのに、壁の隅にだけ、かすかな黒ずみの残像みたいなものが見えた。


「……今の、来てましたよね」


「うん」


 香澄さんは真剣な顔で頷いた。


「完全に来たわけじゃない。糸みたいなのを伸ばしてきただけ。でも、空介くんの気配を辿ってる」


「辿るって、そんな宅配便みたいに」


「見られたってことは、繋がったってことだから」


「俺、明日からどうすれば」


「とりあえず一人で旧棟へ行かない。沢渡さんにも近づきすぎない。あと、今夜は私の近くにいて」


 その最後の一言で、俺の脳が一瞬だけ怪異から別方向へ跳んだ。


「近くに」


「うん。結界まではいかないけど、私の周りのほうが安全だから」


「あ、安全面の話ですよね」


「他に何があるの?」


「何もないです」


 何もない。あるわけがない。今この状況で変なことを考える俺が悪い。壁に黒い斑点が走った直後に、香澄さんの近くにいてと言われて動揺するな。命がかかっている。命が。いや、でも近くに。近くか。


 香澄さんはそんな俺の内心に気づいているのかいないのか、食べかけの皿をちらっと見た。


「カレー、冷めちゃうね」


「この流れでカレー戻れます?」


「食べないと動けないよ」


「強いな、この人……」


 結局、俺たちは少し冷めたカレーを食べ直した。


 味はさっきより分かりにくかった。そりゃそうだ。壁から黒い腕が出かけたあとに食べるカレーなんて、人生でそう何度も経験したくない。香澄さんは普通に食べていた。普通に見えるだけで、内心はかなり考えているのかもしれないが、少なくとも食事を中断してパニックになるような人ではなかった。


 食後、香澄さんは俺の部屋の四隅を確認し、持ってきていたらしい小さな紙片を数枚取り出した。白い紙に細い墨のような線が書かれている。護符というやつだろうか。俺が見ていると、香澄さんは部屋の角、玄関、窓際、洗面所の入口へそれを貼っていく。


「そんなの持ち歩いてるんですか」


「一応ね。仕事道具だったから」


「引きこもり志望なのに」


「引きこもりにも防犯は大事でしょ」


「それ防犯のカテゴリでいいんですか」


「広い意味では」


 広すぎる。


 護符を貼り終えた香澄さんは、部屋の中央に戻ってきて、ゆっくり息を吐いた。


「今夜、もう一度来るかもしれない」


「脅しですか」


「警告」


「もっと嫌だ」


「大丈夫。ここにいる限り、すぐ引きずられることはないと思う」


「すぐ、って言いました?」


「言ったねえ」


「そこ濁してほしかった」


「変に安心させる方が危ないから」


 香澄さんの言葉は柔らかいのに、内容は全然柔らかくない。


 俺はソファへ腰を下ろし、頭を抱えたくなった。昨日、香澄さんが突然転がり込んできた。今日、大学でヴォイドらしき異形に見られた。帰宅したら部屋まで追跡された。改めて思うが、…情報量が多すぎる。


 香澄さんは俺の隣ではなく、少し離れた床の布団の上へ座った。


「空介くん」


「はい」


「怖い?」


 その質問に、俺は少しだけ黙った。


 怖いに決まっている。旧棟で見た異形も怖い。部屋の壁を走った黒い斑点も怖い。沢渡がどうなるのかも怖い。自分が見られてしまったことも怖い。香澄さんを巻き込んでいることも怖い。


「怖いです」


 正直に答えた。


「でも、沢渡さんを放っておくのも怖いです」


 香澄さんは少しだけ目を細めた。


「そっか」


「俺、自分から関わりに行くタイプじゃないんですけど」


「知ってる」


「でも、もう関わってしまったので」


「うん」


「……何とかしたいです」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 何とかしたい。


 そんなことを言えるほど、自分に力があるわけではない。分かっている。分かっているのに、沢渡の青い顔や、ノートに書かれた“かえして”の文字や、旧棟に残された黒い気配を思い出すと、完全に背を向けるのは違う気がした。


 香澄さんはしばらく俺を見て、それから小さく笑った。


「空介くん、大きくなったねえ」


「今それ言います?」


「言う」


「いや、状況が状況なんですけど」


「昔は、見えても見ないふりが一番だったのに」


「今も基本はそう思ってます」


「でも、放っておけなくなったんだ」


 その言い方に、少しだけ返事ができなかった。


 たぶん、そうなのだと思う。


 岬のことがあるからかもしれない。あの時、交差点に残っていた岬を見て、俺は放っておけなかった。その結果、とんでもないことが起きた。今でも忘れられない傷みたいな記憶になっている。けれどだからといって、あの時頼らなければよかったとは思えない。


 沢渡も、たぶん同じだ。


 見えてしまった。知ってしまった。なら、知らなかったふりはもうできない。


 香澄さんは、静かに言った。


「明日、大学へ一緒に行く」


「え」


「その旧棟を見せて。沢渡さんにも、できれば会いたい」


「大学に? 香澄さんが?」


「うん」


「いや、目立ちません?」


「私、そんなに目立つ?」


「目立つに決まってるじゃないですか」


「そうかなあ」


 そうかなあ、ではない。六つ年上の美人が急に大学へ来たら、普通に目立つ。しかも俺と一緒に歩いていたら、サークル内どころか中西あたりに見つかった日には、一生分いじられる未来が見える。見える体質じゃなくても見える。


「親戚のお姉さんって説明すればいいでしょ」


「それは事実ですけど」


「事実なら大丈夫」


「世の中、事実だけで大丈夫じゃないこともあるんです」


「難しいねえ」


 ほんとに難しい。香澄さんが大学へ来る。ヴォイド案件の調査。沢渡の保護。朝比奈との関係。中西のいじり。俺の平常心。全部が一気に明日の予定へ乗ってくる。スケジュール帳に書いたら、文字が黒くにじみそうだ。


 照明はもうちらついていなかった。


 護符を貼った部屋は、さっきより少しだけ空気が澄んでいる気がする。香澄さんがいるからなのか、護符の効果なのか、単に俺がそう思いたいだけなのかは分からない。それでも、黒い斑点が走った直後よりは落ち着いていた。


 俺は天井を見上げた。


 死者の魂が向かう霊界。現世と霊界の境界。零核。霊素。虚核。ヴォイド。


 ばあちゃんが言った、生まれ変わってもまた会おうね、という言葉。


 岬のこと。


 沢渡のこと。


 全部が、頭の中で緩くつながっている気がした。生きていることと死んでいることの境目。そこへ無理やり穴を開けようとする存在。扉。鍵。返せと呼ぶ声。


 世界の足元には、ずっとそういうものが横たわっていたのかもしれない。


 俺が見ないふりをしていただけで。


「空介くん」


 香澄さんが、少し柔らかい声で言った。


「今日は寝よう」


「寝られると思います?」


「私の近くにいれば、昨日よりは寝られるよ」


「その言い方、別の意味で寝られない可能性ありません?」


「別の意味?」


「何でもないです」


 自爆しかけた。危ない。ヴォイドより先に自分の口を封じる護符が必要かもしれない。


 香澄さんは不思議そうに首をかしげていたが、深く追及はしてこなかった。ありがたい。俺はベッドへ向かおうとして、香澄さんに止められた。


「今日は布団、少し近づけるね」


「近づける」


「うん。安全のため」


「安全のため」


 復唱するしかなかった。


 香澄さんは本当に、俺のベッドの近くへ自分の布団を少し寄せた。昨日でも十分近かったのに、今日はさらに近い。ヴォイド対策として必要なのは理解している。理解しているけれど、俺の心臓には別の意味で危険だ。


 部屋の電気を落とす前、香澄さんは最後にもう一度、壁の四隅を確認した。


「大丈夫。今夜は私がいるから」


 その言葉は、子どもの頃と同じだった。


 私がいるから。


 そう言われると、信じてしまう。


 信じてしまうから、怖いのだと思う。香澄さんがいれば何とかなると、俺は昔から思ってしまう。あの夏もそうだった。そして、その結果として俺は、今でも忘れられない夜を抱えている。


 それでも今夜、俺はまた同じようにその言葉へ縋ろうとしていた。


 灯りを消す。


 暗くなった部屋の中で、護符だけがかすかに白く見える気がした。気のせいかもしれない。隣の布団からは香澄さんの気配がする。昨日より近い。緊張する。怖い。安心する。落ち着かない。感情が忙しい。


 目を閉じる直前、俺は旧棟三階の窓に揺れた黒い影を思い出した。


 ヴォイド。


 虚核。


 現世と霊界の境界をこじ開け、欠けた零核を埋めるために、こちら側へ手を伸ばしてくる異常霊体。


 それが本当に旧棟にいるなら、明日からの大学生活はもうこれまで通りには戻らない。


 そして、俺の部屋にいる憧れの親戚のお姉さんも、たぶん完全には引きこもれない。


 引きこもりニート志望の霊媒師と、見えるだけの大学生。


 その組み合わせでヴォイドに挑むなんて、冷静に考えればかなり無謀だ。


 冷静に考えなくても無謀だ。


 それでも俺は、隣で静かに呼吸する香澄さんの気配を感じながら、明日もう一度、あの旧棟へ向かうことになるのだろうと思っていた。


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