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第2話 これって現実だよね?



 風呂場のほうからシャワーの音が続いている。


 その事実ひとつだけで、俺の一人暮らし用アパートは、さっきまで俺が知っていた部屋とはだいぶ別物になっていた。別物になっていた、という表現はかなり穏当で、本音を言えば、同じ間取りと家具を使っているのに空気の密度だけ急に変わったような感覚に近い。さっきまで普通に冷蔵庫の中身を確認していただけなのに、風呂の向こうに香澄さんがいると意識した瞬間から、俺の部屋にあるもの全部が妙に意味ありげに見えてきてしまうみたいな。


 キッチンの流し。電子レンジ。二人掛けにしては中途半端に小さいソファ。ローテーブル。洗面所のタオル掛け。壁に立てかけてある掃除機。どれもさっきまで、大学生男子が一人で何とか回している生活の装置でしかなかったのに、そこへ年上の女性が入り込む前提になるだけで、急に生活感の種類が変わったような感じがした。まあそりゃ変わるよねって話なんだけど、そんな客観的な感想で自分をごまかしても、問題の本質はそこじゃないというのが率直な感情である。


 そうだ。大の問題は、風呂の向こうにいる人物が俺にとって“ただの魅力的な大人の女性”ではないということ。


 俺が昔から好きだった人で、しかもどう考えても忘れようのないあの夜の当事者で、さらにその肝心の一番まずい部分を本人だけ覚えていない、あの香澄さんである。


 冷蔵庫の扉を閉めたあと、俺はしばらくその場から動けなかった。手には卵のパックを持っている。夕飯をどうにかしようと思って開けたのだから、ここは何か作るなり買い足しに行くなり考えるべきだろう。もうすっかり夜なんだしご飯だって早く炊かなきゃいけないのに、脳の処理能力がそちらに全然回ってくれない。パカパカ冷蔵庫の扉を無意味に開けたってなんにもないぞ?狭いキッチンでぐるぐる歩き回ったって、現実が気を利かせて「やっぱ今のなしで」と撤回してくれるわけでもないし、炊飯器が空気を読んでメンタルケア機能付きに進化するわけでもない。とりあえず卵より先に、自分の心拍数をどうにかしたかった。


 そもそも、あの日のことを忘れられるわけがない。


 忘れようとしたことはあった。大学へ入って一人暮らしを始めて、地元を離れ、環境が変わり、生活のリズムが変われば、少しは頭の中の棚へ奥のほうへ押し込めると思っていた時期もあった。思っていたし、意識的にそうしようともした。バイトや講義やレポートで忙しくして、無駄に疲れて帰ってきて、そのまま寝る。余計なことを考える隙を減らす。そういう方向へ努力した時期は確かにある。


 ところが心というか記憶というか、そういうものは本当に都合が悪く出来てるんだ。忙しくしている間は何とかなるのに、ふとした匂いとか夏の夜の湿った空気とか、スマホの通知欄に香澄さんの名前が表示された瞬間とか、そういう拍子に簡単に引きずり出されてしまうから、人間の脳みそには、消えてほしい記憶ほど定期的におすすめ表示してくる最悪の動画サイトみたいな機能でもついてるんじゃないかと思う。何なら昨日の夜に見た夢の内容を朝には忘れているくせに、二年前の夏の、あまりにも説明のつかないあの夜のことだけは変に質感まで残っていたりするから余計たちが悪かった。


 思い返したくない、と言い切るのも違う。


 思い返したい、と言うともっと違う。


 そこが面倒だった。綺麗に整理できる感情ではないのだ。たとえば恥ずかしいだけなら、恥ずかしい思い出として蓋をしてしまえばいい。怖いだけなら、トラウマとして距離を取ることもできる。ところがあの夜についての俺の感情は、そのどちらへもきれいに収まってくれなかった。


 そもそも降霊術というものを、俺はあの日に至るまでろくに理解していなかった。見える側の人間がいて、香澄さんは俺よりずっとその能力が強く、死者と対話に近いこともできるらしい。その程度の認識だ。小さい頃から何となく知っていたのは、香澄さんがそういう“向こう側”に強い人で、俺はその足元にも及ばない中途半端な感覚しか持っていないという事実だけだった。


 実際に何が起こるのか。どこまでが可能で、どこからが危険なのか。そういう細かいことを俺は知らなかったし、知らないまま、神田岬をどうにかしたい一心で香澄さんへ連絡を取ってしまった。いま振り返っても、あの時の判断を責めきれない自分がいる。だって、交差点に立ち尽くしていた岬を放っておけるほど、俺は冷たくなれなかったからだ。幼馴染が死んで、しかもまだそこにいると分かってしまって、自分の力では何もできないなら、頼れる相手に頼ろうとするのは自然な流れだったと思う。


 思うのだけれど、その先で起きたことがまあ、…自然という言葉からあまりにも遠かった。


 俺には、まともに彼女がいたことなんてない。


 高校生の頃の俺は、恋愛にまったく関心がないタイプではなかったけれど、かといって積極的に誰かへアプローチできるほど器用でもなく、文化祭のあとに連絡先を交換して妙にそわそわした、みたいな一般的な青春イベントともほぼ無縁だった。友達の恋バナを聞けばそれなりに盛り上がるし、雑誌や漫画でそういう展開を見て、へえ、いいなと思う程度の感情はあった。けれど、自分がその輪の中へ入る感じは薄いというか、イマイチ現実感を持てなかったっていうのが表現としては近い。


 理由のひとつは、たぶん(というか100パー)香澄さんの存在だ。


 昔から好きだった。少なくとも、他の誰かを好きになるときの基準が、ずっとあの人の残像に引っぱられていたくらいには。小学生の頃は憧れに近くて、中学に入る頃にはちょっと意識するようになり、高校生になったらもう、いろいろ面倒な意味で特別だった。


 ただその特別さを、いわゆる“そういう方向”へ変換することは、俺の中ではかなり強い抵抗があった。


 何というか、香澄さんは俺にとってあまりに“お姉さん”として完成されすぎていたのだと思う。もちろん完璧という意味ではなくて、もっと個人的で幼い感覚として、勝手に高い棚へ置いてしまっていた、と言ったほうが近いのかな…?綺麗で優しくて、ちょっと抜けていて、何でもできるわけじゃないのに、俺にとっては昔からずっと特別で、その特別さが強すぎるせいで俗っぽい想像へ踏み込むこと自体に妙な罪悪感があった。


 しかも親戚だ。


 実際の距離感としては毎日顔を合わせるほど近くはないにせよ、親戚は親戚である。法律とか倫理とか以前に、“なんとなくダメ”が全方向から殴ってくるカテゴリーにしっかり分類されている存在だ。思春期の男子の脳みそが多少どうかしていても、そこには最低限越えちゃいけない“立入禁止区域”のロープが張られている。小さい頃から一緒に遊んでもらって、親にも祖父母にも顔を知られていて、家族の延長みたいな空気の中で付き合ってきた相手に対して、変な方向へ想像力を伸ばしきるのは、俺の中でずっと“やってはいけないこと”の棚へ入っていた。


 まったく考えなかったと言えば、それは嘘になる。


 高校生男子なので、そのへんの想像力が完全に清廉潔白で通り過ぎていたわけではない。ふとした瞬間に香澄さんの私服姿とか、昔より大人っぽくなった横顔とか、そういうものへ意識が引っ張られることは普通にあった。ただそのたびに、いやいやいや、と自分の頭を全力で押し戻してきた。そこは踏み込まないほうがいい、と自分できっちり線を引いてきたのだ。


 ところがそんな涙ぐましい自制心というか、せめて自分の中だけでも神聖さを保っておきたいみたいな、小さくて無駄に一途な努力なんてあの夜にまとめて吹き飛んだ。


 吹き飛んだという表現すら甘い気もする。もっと乱暴だった。もっと容赦がなかった。


 風呂場の水音を聞きながら、俺は流しの前に立ったままあの夜の光景を勝手に引っぱり出してしまっていた。思い出したいから思い出しているのではなく、いまの状況があまりに同じ相手と状況を強く意識させるから、連想が止まらないだけだ。そう自分へ言い訳しながら、記憶のほうは容赦なく細部の感覚まで再生してくる。


 きちんと説明しようとすると、何をどう整理すればいいのか分からなくなる。


 岬の残存意識が強すぎたこと。香澄さんの体を器として借りていたこと。会話から始まったはずの降霊が、途中から完全に制御を外れてしまったこと。俺がその場で何を止めるべきか分からないまま、圧倒されて、押し切られて、岬の暴走を受け止めるしかできなかったこと。ひとつひとつは理解できても、全部まとめると頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 あれは甘酸っぱい初体験の思い出、みたいな幻想的かつ穏やかな箱へ入るような出来事ではなかった。


 先に言っておくと、そこに初々しさなんてほとんどない。気まずく照れながら手を繋ぐとか、緊張して視線をそらすとか、そういう段階を踏んでくれる世界ではまったくなかった。もっと切迫していて、もっと一方的で、もっと意味の分からない現実だった。


 俺はあの時、香澄さんの姿を直視したくないと思っていた。したくないというのは、嫌悪とかそういうのじゃなく、見たら一生忘れられなくなると本能的に分かったからだ。見ないほうがいいと分かっているのに、目の前で起きていることの重みが大きすぎて、視界を閉じるような逃げ方もできない。岬の感情はどストレートに暴走していて、こちらの都合なんて一切待ってくれなかった。名前を呼んでも、落ち着けと言っても、その勢いは止まらなかった。


 そういう混乱の中で、俺は香澄さんの体を香澄さんの体として知ってしまった。


 それがいちばんまずいというか、実際にあった出来事の一部として処理するには刺激的すぎた。


 相手の意思がどうこうという問題以前に、俺の記憶の中にその感覚が残ってしまっている事実がかなりまずい。しかも当の本人は覚えていないんだ。降霊術を実行している間は霊に意識を乗っ取られるみたいで、その間に起こったことの記憶がない。術式にも色々段階みたいなものがあるらしく、記憶があるかないかは一概には言えないっぽい。ただ少なくともあの日の夜はもっともレベルの高い高位術式だったらしく、身体は香澄さんのまま、中身はほぼ完全な岬だったらしい。つまり何が問題かっていうと、“誰と何をしたのか”という説明がまったく成立しないところだ。外見は香澄さん、中身は岬、でも俺の記憶として残っているのはその両方が混ざった状態での出来事で、第三者に説明しようものならたぶん途中で「ちょっと待って」と言われて終わる。俺だって言いながら整理できる気がしない。なのに、その曖昧なままの記憶だけはやたら鮮明で、忘れようとしても勝手にディテールだけ残ってくるあたり本当に質が悪い。そこに罪悪感みたいなものまで乗ってくるからさらに面倒だ。


 思い出すたび、自分が何かとんでもなく後ろめたい秘密を抱え込んでいるような気持ちになるんだよな…。


 秘密であること自体は事実なのだけれど、その秘密は俺が進んで作ったわけでもない。不可抗力だった。事故に近かった。いや、事故という言葉で済ませるには、あまりにも俺の感情へ深く刺さりすぎている気もするが。


 初めてのキスも、初めての経験も、そういう“人生の節目っぽいやつ”を地雷原へ足を突っ込んだみたいな勢いで、一気に消し飛ばされたんだ。


 高校生男子としての淡い夢とか、少しくらいあった。そりゃある。誰だって、もう少しこう段階とか準備とか、心の整理とか、そういうものがある形を想像すると思う。少なくとも俺はそうだった。経験がないなりに緊張して、たぶんぎこちなくて、それでもちゃんと相手と向き合って、みたいな、それらしいイメージは持っていた。


 現実にあったのは、そういう悠長な想像を全部まとめて踏み抜くような出来事だった。


 何が起きているのか把握するだけで精一杯で、気持ちの準備も、意味の理解も、何ひとつ追いつかないままあの夜は過ぎていった。終わったあとでようやく、え、いまの何だったんだ、これ本当に現実か、と頭が追いついてくる感じだったと思う。むしろその場では現実感が薄すぎて、ひどく長い悪夢の中にいるような、でも感触だけは妙に生々しいという、最悪に整理しづらい記憶になった。


 翌朝になっても、全部が夢だったことにはならなかった。


 岬が成仏したのかどうかも、完全には分からなかった。気配は薄れていた。少なくとも、交差点で感じていたあの重さは消えていた。だから結果として送れたのだと思いたい。思いたいのだけれど、その過程があまりにまともではなかったので、胸を張って“よかった”とだけ言えない自分が残っていた。


 数日は、本当に何も考えられなかった。


 学校へ行って、周りの会話を聞いて教科書を開いても、頭のどこかにずっと別の音が鳴っている感じがした。自分の体が自分のものじゃないみたいに落ち着かないし、岬のことを思えば悲しさと混乱が絡まるし、香澄さんの顔を思い出せば恥ずかしさと罪悪感で胃が痛くなる。あの夜にあったことをどの感情から手をつければいいのか分からないまま、時間だけが進んでいった。


 それでも案外ちゃんと学校へも行けてしまうし、周囲からはそれなりに普通に見えてしまうのが不思議だった。内側では大事故なのに、外から見ると一見歩けている。そういう状態でしばらく過ごして、結局俺は誰にも何も言えないまま今に至る。


 ――そこまで思い出したところで、風呂場の排水の音が聞こえてきた。


 現実へ引き戻される。


 いや、引き戻されたところで、現実のほうもだいぶ危険なんだけど。


「……ちょっと待て」


 思わず口に出た。


 冷静に考えなくても、いま香澄さんは裸で風呂に入っている。俺のアパートの風呂で。たった一枚の壁を挟んだ向こう側で。ここはラブコメの主人公の部屋か何かか。そんな雑な展開に巻き込まれるほど俺の人生はライトではなかったはずなのに、現実として起きていることの字面だけ抜き出すと、かなりラブコメに寄っているのが腹立たしい。


 しかも、ただの“憧れのお姉さんが風呂に入っている”では済まないのが本当に悪い。


 俺たちは仮にも“一線”を越えている。


 もちろん、それを普通の意味で“関係を持った”と呼んでいいのかはかなり怪しいよな?あの夜の主体は岬の未練と暴走だったし、香澄さん自身の意思でそうなったわけではない。だから“香澄さんと本当の意味で一線を越えた”と断言するのは違うと分かっている。分かっているのだが、体の記憶というか、…こっちの認識としてはそんな綺麗な線引きだけで済むわけがなかった。


 何度も頭の中で訂正してきた。あれは事故だ。不可抗力だ。自分から望んだ形ではない。香澄さんは覚えていない。そこを取り違えるのは卑怯だ。そうやって理屈を積み上げても、俺の心臓は理屈だけで静かになってくれない。


 いま同じ空間にいる。しかも、同居初日の夜。風呂。風呂上がり。着替え。洗面台。ドライヤー。寝る場所。ひとつひとつの単語が、高校生の頃の俺なら卒倒できたかもしれないくらいの破壊力を持っている。


「やばいだろこれ……」


 また口に出てしまった。


 やばい。かなりやばい。思春期を卒業しかけた大学生の理性が、急に実践試験へ放り込まれている感じがする。しかも試験監督は不在だ。誰も止めてくれないし、誰も正解を教えてくれない。


 落ち着け、嶋野空介。


 心の中で自分へ言い聞かせる。親戚だろ。昔から姉と弟みたいな関係だっただろ。いま困っている相手を一時的に受け入れただけで、そこに変な意味を持ち込むのは違うだろ。平常心を保て。平常心。平常心ってどうやって保つんだっけ。


 こういうときに限って、脳内の再生機能だけはよく働く。風呂の水音が止まるたびに、余計な想像が勝手に湧いてくる。何を着て出てくるんだとか、髪が濡れているんだろうなとか、タオルは足りていたっけとか、いやいやそこまで考えるな、と否定するたびに別の方向へ思考が飛ぶ。どうあがいても落ち着きが戻らない。


 こういうときは何か具体的な作業へ逃げるのが一番いい。俺はようやくその結論にたどり着き、残り物のカレーを温め直すことにした。とりあえず夕飯が必要だ。香澄さんも新幹線で移動して、そのあと買い物まで付き合っている。腹は減っているだろう。カレーだけでは足りないかもしれないが、コンビニへもう一回行くのも気力がいる。卵があるので、せめて温玉っぽいやつでも乗せれば少しはそれらしく見えるかもしれない。


 鍋へカレーを移し替え、弱火にかける。玉ねぎと肉の匂いが立ちのぼる。普段ならこの匂いだけでかなり気分が日常へ戻る。なのに今日は戻りきらない。背中の向こうに風呂場がある、その一点がずっと視界の外で光っている感じがする。


 せめてテレビでもつけておくかと思い、リモコンを手に取ったところで風呂場の扉が開く音がした。


 俺はリモコンを持ったまま固まった。


「ふー、生き返った」


 香澄さんの声が、いつもより少しだけ緩んで聞こえる。そりゃ風呂上がりだし、移動で疲れていただろうしさ?


「空介くん、タオルここで干していい?」


「は、はい」


 振り向くと、そこには風呂上がりの香澄さんがいた。


 いや、当たり前なんだけど。風呂から出てきたのだからいる。当然の話だ。ただ実際にその“現実”が視界へ入ると想像の何倍か破壊力がある。淡い色の部屋着に着替えていて、露骨に何かがどうこうという格好ではまったくない。ないのに髪が濡れていて、頬が少し赤くて、肌が湯上がりの熱をまとっているだけで何でここまで現実味が増すんだろう。


 しかも部屋着が妙にゆるい…。楽そうで、たぶん本人も深く考えず選んだのだろうという感じの前ボタンの薄手のシャツと、柔らかい素材のパンツ。露出が激しいわけではないのに、生活の中へ入り込んできた感が強すぎて、こっちの理性にじわじわ来る。


「どうしたの、変な顔して」


「してます?」


「してるね」


 自覚はある。あるから余計に言わないでほしい。


「疲れてるんじゃない?」


「まあ、疲れてはいます」


「バイト帰りに私まで来ちゃったしね」


「それもあります」


 カレーの鍋を無意味にかき混ぜながら返事をすると、香澄さんは洗面台の前でタオルを頭にかぶせたまま、こちらをちらっと見た。その仕草がまた昔から妙に無防備で困る。昔も川遊びのあとに髪を拭きながら笑っていた記憶がある。あの頃はまだ小学生だったから、ああ風呂上がりの延長なんだな、くらいの感覚で見ていられた。いまは無理だ。二十歳の男に対してそれをやるのは、いろいろ危険だと思うんだが。


「ご飯、何か作ってくれてる?」


「残り物のカレーですけど」


「やった、カレー好き!」


「好きなの初めて聞きました」


「言ってないもん」


「たしかに」


 香澄さんはそのままドライヤーを手に取り、洗面所で髪を乾かし始めた。轟音で会話がいったん途切れる。助かったような、助からないような時間だった。会話がないぶん俺はカレーに集中できるはずなのに、ドライヤーの音の向こうで、香澄さんが髪を乾かしているという事実ばかりが意識へ上ってくる。


 こんなの、同居初日に耐えるイベント密度じゃない。


 鍋がふつふつ言い始めたので火を弱め、冷蔵庫からサラダ用の袋野菜を取り出す。せめて何か添えたほうが見た目はごまかせる。そんなことを考えていると、ドライヤーの音が止まり今度は足音が近づいてきた。


「いい匂い」


「カレーですからね」


「カレー以外の言い方もあるでしょ」


「香味野菜とルーが織りなす食卓のごちそう感、みたいな」


「ちょっと雑誌っぽい」


「急に料理雑誌のコピー考える精神状態じゃないんですよ、こっちは」


 そこまで言ってから、つい“こっちは”と強調してしまったことに気づく。余計な含みが出ていないといいが、香澄さんは特に気にした様子もなくダイニング代わりのテーブルへ自然に座った。


「何か手伝う?」


「皿出してもらえますか」


「はーい」


 返事だけやけに素直で、戸棚から皿を出す手つきは案外迷いがない。人の家なのに妙に馴染むなこの人、という感想が今日だけで何度目か分からない。いや、馴染まれて困るわけではないのだが、こちらの心の準備が追いついていない。


 テーブルへカレーを置き、簡単なサラダも並べる。いつもなら一人で適当に済ませる夕飯が、今日は二人分並んでいる。その光景だけで、また少し現実感が変わった。向かい合わせに座る香澄さんは、本当に昔から知っている人のはずなのに、こうして一つ屋根の下で食事をする状況になると急に知らない一面が増えた気がする。


「いただきます」


「いただきます」


 そう言って食べ始める。味は普通だ。昨日作った残りなので、特別おいしいわけでもなければまずいわけでもない。なのに、向かいで香澄さんが「おいしい」と言いながら食べているだけで、妙に落ち着かなくなる。いや、そうか。これが落ち着かないのは、向かいに座っている人が初恋の相手だからだ。改めて言葉にすると、かなり面倒な構造をしているなこれは。


「空介くん、料理するんだね」


「まあ、一応。毎回ちゃんとではないですけど」


「えらいじゃん」


「一人暮らしだと、節約のためにも多少は」


「私、東京で忙しくなってから全然しなかったなあ」


「忙しかったんですか、やっぱり」


 ここでようやく本題へ近づいた。


 香澄さんはスプーンを止め、少しだけ視線を落とした。昼間からずっと軽い調子で流してきた話題に、今度こそちゃんと触れるつもりらしい。


「最初のうちはね、忙しかったよ」


「依頼、来てたんですか」


「来てた。口コミで、紹介で、知り合いの知り合いみたいな感じで」


「じゃあ順調だったんじゃ」


「最初だけね」


 “最初だけ”という言い方が、予想以上に静かだった。


 俺はスプーンを置く。香澄さんも少し間をおいて、話し始めた。


「東京って、やっぱり人が多いから、困ってる人もいっぱい来るの。亡くなった家族に会いたいとか、理由の分からない気配が家にいて怖いとか、気持ちの整理がつかないとか、いろいろあって。でもね、そういう人たちを相手にする仕事って、力があるだけじゃ全然足りないんだなって、やってから分かった」


「……それは」


「上手に話を聞くとか、安心させるとか、嘘をつかないけど傷つけすぎない言い方をするとか、そういうのがすごく大事で、私はそのへんが、あんまり上手じゃなかった」


 少し笑っているのに、その笑い方が前より薄い。俺は何も言えなかった。


 香澄さんは昔から、能力そのものは本物でも、それを人へどう見せるかという部分にはあまり関心がない人だった。だからこそ信用できるところもある一方で、仕事にしたときの難しさもあるのだろうと想像はつく。


「来てくれた人へ、見えたものをそのまま言っちゃったりしてね。あとで考えたら、もう少し柔らかく言えばよかったなって反省することもいっぱいあった」


「……香澄さんらしいです」


「ひどい感想」


「褒めてますよ、一応」


「一応なんだ」


 少しだけ空気が緩む。その隙間で、俺はやっと息をしやすくなった。


「それで、依頼が減って」


「うん。固定で入ってくる仕事も少なくなって、事務所の家賃とか、細かい雑費とか、思った以上に重くて。私は経営に向いてないんだなって、だんだん分かってきた」


「誰かに相談しなかったんですか」


「したよ。したけど、続けるなら路線変えたほうがいいとか、もっと“それっぽく”見せたほうがいいとか、映像配信やったらとか、いろいろ言われて、ちょっと疲れちゃった」


 それは疲れるだろうなと思った。


 香澄さんが自分を過剰に演出するところは、正直あまり想像できない。映像配信で霊媒師キャラを立てる香澄さん。見たいか見たくないかで言えば見たくないことはないが、本人が摩耗しそうなのはかなり分かる。


「能力を仕事にするって難しいんですね」


「難しい。あと、能力があると、できることとできないことの境目を説明するのがさらに難しい」


「できないこともあるんですか」


「いっぱいあるよ。死んだ人を必ず呼べるわけじゃないし、来てもちゃんと話せるとは限らないし、未練が強いと危ないし」


 そこまで聞いて、俺の胸が少しだけざわついた。


 未練が強いと危ない。


 あの夜のことを思い出さないわけがない。香澄さんはその言葉を、ごく一般論みたいな調子で口にしている。たぶん本当に、一般論として言っているのだと思う。


「……危ないって、具体的には」


 自分でも少し怖いと思いながら聞くと、香澄さんはスプーンの先を皿へ軽く当てた。


「術者に負荷がかかるし、こっちの意識を押しのけて入ってくることもある。強い感情は、生きてるときより制御しにくいから」


 押しのけて入ってくる。


 その表現の正しさに、俺は妙に納得してしまった。まさにそうだったからだ。会話の途中から、岬の気配がどんどん濃くなって、香澄さんの輪郭がその内側で押しやられていく感じがあった。香澄さん本人は、そのあたりをどこまで覚えているんだろう。


「……その、前にもそういうことあったんですか」


「あるよ。さすがに滅多にはないけど」


「そうなんですね」


「空介くん、そういう話苦手?」


「苦手っていうか、まあ……あんまり慣れてはないです」


 嘘ではない。慣れていないどころではない。ただ、ここで“高校三年のあの夜を思い出して死にそうです”なんて言えるわけがない。


 香澄さんは俺の曖昧な返事を、単純にホラー耐性の低さくらいに受け取ったのか、「ごめんごめん、夕飯の話題じゃなかったね」と笑って話を引いた。その気遣いに救われる一方で、俺だけが別の意味で沈んでいく。


「それで、しばらく休もうかなって思ったの」


「引きこもりたい、って言ってましたね」


「うん。ちょっと、いったん誰にも会わずにいたいなって」


「それで俺のところに来るの、完全に引きこもりではない気もしますけど」


「空介くんはノーカウント」


「何でですか」


「昔から知ってるし」


 昔から知ってるし、で俺の存在がノーカウント寄りに処理されるの、少し複雑ではある。でも、その気安さで頼ってきたのだと思うと、簡単に不満へも変えられない。


 食事を終え、皿を流しへ下げる。香澄さんが「洗うよ」と言い出したが、客にやらせるのも落ち着かないし、「今日はいいです」と断って俺が洗うことにした。背中越しに香澄さんの気配がある。ソファへ移動したらしい布の擦れる音がする。たったそれだけで落ち着かないのだから、自分でも単純だと思う。


「空介くん」


「はい」


「受け入れてくれてありがとね。ほんとに、助かった」


 水を止める。振り向くと、香澄さんはソファに座ったまま、少しだけ真面目な顔でこちらを見ていた。


「今日、来る前ちょっと緊張してたの。さすがに急すぎるかなとか、迷惑かなとか」


「迷惑かどうかで言うと、正直ちょっと混乱はしてます」


「うん、だよね」


「でも、来てくれてよかったです」


 また同じことを言っている気がした。けれど、さっきよりずっと本音だった。買い物をして、夕飯を食べて、事情を聞いて、ようやく“突然押しかけてきた困った年上”じゃなく、“本当に疲れて逃げ場を探してた香澄さん”として見え始めたからだと思う。


「ありがとう」


「……その代わり、ひとつだけ」


「うん?」


「同居、じゃないですけど、一緒に暮らすなら、最低限のルールは決めましょう」


 自分で言いながら、妙に大人っぽいことを言っている気分になった。いや、言わないとたぶんまずい。俺の精神衛生のためにも、生活空間の平和のためにも。


「ルール?」


「はい。お互い気を使うところは使ったほうがいいと思うので」


「たとえば?」


「……風呂に入るタイミングとか」


 言った瞬間、少し声が詰まる。香澄さんはそれを変な意味に取った様子もなく、「なるほど」と素直にうなずいた。


「あと、着替えとか」


「うんうん」


「洗面所使うときは一声かけるとか」


「大事だね」


「ベッドのエリアには勝手に入らないとか」


「そこはちょっと笑った」


「笑い事じゃないです」


 いや、本当に笑い事ではない。ベッドがある一角は、いまの俺にとって最後の防衛線みたいなものだ。そこへ香澄さんが無防備に入り込んできたら、たぶん平常心の維持がかなり難しくなる。


 香澄さんは指を折りながら「ほかには?」と聞いてくる。妙に前向きで助かる。


「家事は、できる方がやるでもいいですけど、どっちかに寄りすぎないようにしたいです」


「うん」


「あと、……できれば、泊まる期間の目安も」


 そこを言うと、香澄さんは少しだけ表情を曇らせた。まずいことを聞いたかと思ったが、数秒してから、小さく息をつく。


「それは、まだちょっと決められない」


「……そうですよね」


「ごめんね」


「いえ。聞いただけです」


 謝らせたいわけではなかった。本当に、生活を回す上で必要だから確認したかっただけだ。香澄さんもそれは分かっているんだろう。分かっていて、いまは答えられないのだと思う。


「一週間とか二週間で元気になるなら、たぶんとっくに元気になってる気がするんだよね」


 その言い方が妙に本音っぽくて、俺は返す言葉を失う。


 励ましたい気持ちはあるのだけれど、“大丈夫ですよ”と軽く言えるほど俺は事情を知らないし、その言葉が空回りしそうなのも分かる。結局、「無理しないでください」としか言えなかった。


「無理しないために来たんだけどねえ」


「その無理しなさ、急に俺の家へ来る方向に発揮されるんですね」


「だって他だと気を使うし」


「俺には使わないんですか」


「多少は使ってるよ?」


「多少なんだ」


 思わずつっこむと、香澄さんはふっと笑った。よかった、その顔が出るならまだ大丈夫かもしれない、と少しだけ思う。


 ルール決めはそのあとも続いた。朝、俺が大学へ行く準備をするときは洗面所を優先して使わせてもらうこと。来客があるときは事前に言うこと。勝手に冷蔵庫のプリンを食べないこと。そこは冗談半分だが、香澄さんが「プリン大事なんだ」と真面目に返してきたので、案外本当に守ってもらったほうがいい項目かもしれない。


 話しているうちに、少しだけ空気が落ち着いてきた。生活の細かいルールを言葉にしていくと、状況の異常さが少し薄まる。完全には薄まらない。薄まらないけれど、少なくとも“何をしたら困るか分からないまま同じ部屋にいる”状態よりは、だいぶましだ。


「よし、こんなところかな」


「わりとちゃんとしてるね」


「しっかりしないと、たぶん俺が死にます」


「そんなに?」


「比喩じゃなく、精神的に」


 そこは半分本気だった。香澄さんはまた笑った。笑ってくれるのはいい。いいのだけれど、その笑顔が近い距離にあること自体が精神へよろしくないの、本当にどうしたらいいんだろう。


 時計を見ると、もうかなり遅い時間になっていた。買い物に行って夕飯を食べて、話しているうちにあっという間に夜が深くなっている。大学の一限があるわけではないのが救いだが、そろそろ寝る準備をしないと明日に響く。


「じゃあ、寝ますか」


 自分で言っておいて、単語の破壊力に少しだけ後悔した。寝る。二人で同じ部屋で。もちろんベッドと布団に分かれて、何もない。ただ寝るだけだ。それでも、言葉にすると妙に現実味が強い。


「そうだね」


 香澄さんはあっさりうなずき、買ってきた布団へ膝をついた。そこでようやく、部屋の狭さが本格的に問題として立ち上がる。ベッドと布団の距離が近い。近すぎる。いや、一人暮らし用アパートなのだから当然なのだが、当然で済ませていい距離ではない気がする。


「電気、どうする?」


「俺、すぐ寝れるタイプじゃないので、少しだけスタンドつけててもいいですか」


「いいよ。私はたぶん秒で寝る」


「寝つきの良さがうらやましいです」


「現実逃避に向いてる体質なのかも」


 その言い方に少しだけ胸が引っかかったが、香澄さんは冗談の調子で言っただけらしい。布団へもぐりこみながら「あったかい」と満足そうにしている。


 俺はベッドへ腰を下ろし、スマホを手に取った。見るものがあるわけでもない。ニュースアプリなんて眺めても、多分内容は全然頭に入ってこない。ただ、すぐ横に香澄さんが寝ている状況を、何の緩衝材もなく受け止める勇気がまだなかった。


「空介くん」


「はい」


「改めて、よろしくね」


 暗めの照明の中で聞こえたその声は、妙に柔らかかった。


 俺はスマホの画面から目を上げる。布団の中からこちらを見ている香澄さんは、昼間よりずっと力が抜けていて、疲れと安心がようやく一緒に表へ出たような顔をしていた。仕事がうまくいかなくて、住む場所もいったん手放して、逃げるようにここまで来た人の顔だと思うと、変な意識ばかりしている自分が少し恥ずかしくなる。


「……こちらこそ、よろしくお願いします」


「うん」


「香澄さん」


「なに?」


「……明日、講義終わったらなるべく早く帰ります」


「え、気を使わなくていいよ」


「いや、初日ですし。困ることとかあるかもしれないので」


「やさしいねえ」


「それ、今日三回目くらいです」


「何回でも言うよ」


 そう言って、香澄さんは本当にすぐ寝息を立て始めた。秒とまではいかなかったが、かなり早い方だと思う。寝つきがいいにもほどがあるだろ。俺はベッドの上で、まだ心臓の置き場所を見失っているというのに。


 部屋は静かだ。エアコンの送風音が小さく続き、窓の外からたまに車の音が聞こえる。視線を横へやると、買ってきたばかりの布団の上に香澄さんが丸くなって眠っている。数時間前まで東京にいた人が、いま俺の部屋で寝ている。その事実だけで、現実感が少しずつ薄くなっていく。


 それでも夢ではない。俺が布団一式を買って、カレーを温めて、ルールを決めて、こうして同じ部屋で夜を迎えている。


 あの日の記憶といまの香澄さんは、頭の中でまだうまく別の箱へ仕分けできていない。あの夜に起きたことを、今ここにいる香澄さんへ重ねるのは違うと分かっている。分かっているのに、体のほうは簡単に納得してくれなかった。


「……平常心平常心」


 香澄さんは何も知らずに眠っている。スタンドの灯りを落とし、俺もベッドへ横になる。


 天井を見上げたまま目を閉じても、すぐには眠れそうになかった。昔から好きだった人が、手を伸ばせば届く距離で眠っている。それだけで、大学生の理性に課される難題としては十分すぎるから。


 明日から、たぶんもっと大変になる。


 朝起きたら、香澄さんが部屋にいる。大学から帰ってきても、たぶんいる。生活の音が増えて、会話が増えて、距離が増えないまま時間だけ増えていく。平凡だった俺の生活は、もう元の形には戻らない気がしていた。


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