第1話 心の準備ができてません
玄関の鍵を開ける手が妙に滑ったのは、バイト帰りで疲れていたせいではないと思う。そういうことにしておきたい気持ちはあったけれど、インターホンのモニターに映っていた相手が相手なので、精神の動揺が手先まで正直に反映されていただけだと認めるしかなかった。
扉を半分ほど開けたところで、そこに立っていた人がぱっと手を上げる。
「やっほー、空介くん」
相変わらず挨拶が軽い。
二年前に見たときと変わらない、いや、きっと変わっている部分もあるのに、第一印象だけで言えばまるでそのまま現れたみたいな人だった。肩まで流れた髪は昔より少しだけ整っている気がするし、東京で仕事をしていたと聞いていたせいか、私服の雰囲気も何となく洗練されて見える。薄手のシャツにロングスカートという、気取りすぎていないのにちゃんと大人っぽい格好が妙に似合っていて、親戚のお姉さんという言葉で処理するにはだいぶ無理がある雰囲気だった。
しかも、そんな人がキャリーバッグを持って俺の部屋の前に立っている。
この光景の情報量が多すぎて、俺はしばらく口を開いたまま固まっていた。向こうはそんな俺の様子を面白がるでもなく、ただ普通に笑っている。昔からこの人はそうだ。とんでもないことをしておきながら、自分ではあまりとんでもないと思っていない顔をする。
「……えっと」
「うん」
「何でここにいるんですか」
「会いに来たから」
会いに来たから、で済むなら苦労しない。
いや、済ませようとしている本人は本気で済むと思っている可能性が高いのがさらに困る。俺が言葉を探している間にも、香澄さんはキャリーバッグの持ち手を軽く持ち直して、「入っていい?」とごく自然な調子で聞いてきた。もう少し説明を挟んでほしい。せめて東京から名古屋まで来るに至った経緯とか、どうやって住所を把握したのかとか、いろいろあるでしょ?!あるのに、この人は先に部屋へ入る許可を取ってくるあたり、やっぱり順番がおかしい。
とはいえ、玄関先で親戚のお姉さんを立たせ続けるわけにもいかない。何よりこのまま廊下で立ち話をしていたら、隣の部屋の住人に見られる可能性がある。大学生の一人暮らしアパートの共用廊下で、妙に綺麗な年上女性と向かい合って挙動不審になっているところなんて、第三者の視点で見たらどう考えてもろくな絵面ではなかった。
「……どうぞ」
「やった!」
香澄さんは本当に嬉しそうに言って、俺が脇へどくのを待つより少し早く、するりと玄関へ入ってきた。かすかにシャンプーなのか香水なのか分からない、でもたぶん生活の延長みたいな匂いがして、距離が一気に詰まったせいで心拍数が変に上がる。靴を脱ぐ仕草までやたら絵になるの、何なんだろう。本人は多分まったく計算していないのが分かるぶん、余計にたちが悪かった。
「おじゃましまーす」
そのまま廊下を進んで部屋へ入る後ろ姿を見送りながら、俺は玄関の扉を閉めた。カチッと鍵のかかる音がやけに大きく聞こえる。ここでようやく、ああ本当に中へ入れてしまったんだな、という実感がわいてきた。インターホンの画面越しならまだ“信じられない来訪者”で済んでいたのに、部屋の中へ入った瞬間から状況は現実になる。現実になると何が困るかといえば、目の前にいるのが二年前の夏に俺の人生へひどく強い爪痕を残していった相手で、その本人はたぶん何も覚えていないという事実まで、一緒に玄関をまたいで入ってきてしまうところだった。
靴をそろえながら深呼吸をして、どうにか平静を装う。装えているかどうかはだいぶ怪しいけど、鏡があったら見たくない顔をしているのはまず間違いないだろう。
部屋へ入ると、香澄さんはすでにきょろきょろと室内を見回していた。ワンルーム寄りの一人暮らし用アパートに大した見どころがあるわけでもないのに、その反応だけは新築マンションの内見に来た人みたいに素直だ。
「へえー、いいところじゃない」
「そうですか?」
「うん。ちゃんと暮らしてる感じがする」
ちゃんと暮らしてる感じ、という評価がいまいち具体性に欠ける。何を見てそう思ったのか聞き返そうとしたが、香澄さんはもうテーブルの上に置きっぱなしの教科書や、ソファの背もたれに雑にかけてあった薄手のパーカーなんかを眺めていて、たぶん“生活の痕跡がある”という意味で言っているのだろうと自己解決するしかなかった。
「一人暮らししてるって聞いてたからさー。空介くんのことだから、もっと床に何か散らばってるイメージあった」
「俺が雑な大学生代表みたいに思われてません?」
「代表とまでは思ってないよ。副代表くらい」
「妙なところで役職つけないでください」
香澄さんはくすっと笑って、そのまま我が物顔でソファへ腰を下ろした。そこ、俺の部屋なんだけどな、という感想が頭をよぎる。一応間違ってはいない。俺の部屋だ。家賃も俺が払っている。バイト代から光熱費を計算して、電気をこまめに消しながら何とか維持している城だ。城と呼ぶにはちょっと狭いが、少なくとも俺のテリトリーではある。
あるはずなのに、香澄さんが座った瞬間、妙に“香澄さんがいても成立する部屋”みたいな空気になってしまうのが絵面の説得力として強すぎる。高校生の頃から思っていたけれど、この人はどこへいても、自分のいる場所を五分くらいで馴染ませてしまうところがあるんだよか。親戚の家でも旅先の宿でも、昔一緒に行った釣り堀でもそうだった。気づいたら中心にいるというより、本人は端っこのつもりなのに結果として視線が集まる、そんな種類の存在感だ。
俺は冷蔵庫から麦茶を取り出しつつ、ようやく最初に聞くべきことを口にした。
「急にどうしたんですか。ほんとに」
「うん?」
「いや、会いに来たっていうのはさっき聞きましたけど、それだけじゃ絶対ないですよね」
「鋭いね」
「そこ褒められても困るんですけど」
コップへ麦茶を注いで差し出すと、香澄さんは「ありがとう」と受け取って一口飲み、妙に満足そうに息をついた。冷たい飲み物ひとつでそんなに落ち着けるの、順応力が高いのか図太いのか判断に迷うんだけど。
そのまま話し出すかと思ったのに、香澄さんはむしろ逆で、鼻歌まじりに立ち上がり、テレビのリモコンを見つけて電源を入れた。夕方の情報番組が流れ始める。俺の部屋なのに、帰宅した家族みたいな行動をしているのが不思議すぎて、一瞬つっこむのを忘れてしまった。
「ちょ、ちょっと」
「ん?」
「質問にまだ答えてないですよね」
「空介くん、帰ってきたばっかりでしょ。ちょっと落ち着こうよ」
「落ち着けなくしたの、香澄さんなんですけど」
「そうかなあ」
そうです。
心の中できっぱり言い切ったものの、声に出すと余計に墓穴を掘りそうでやめておく。この人相手に、冷静に会話の主導権を取ろうとするのは昔から難しい。押しが強いわけでも、口で勝とうとしてくるわけでもないのに、妙にペースを握られてしまうんだ。ふわっと流されて、気づけばこちらが相手のリズムに合わせている。俺が小学生の頃からそうだった。
香澄さんはソファの脇へキャリーバッグを引き寄せ、屈んでファスナーを開け始めた。そこでもう一度、俺は妙な違和感を覚える。キャリーバッグがそこそこ大きい。日帰りや一泊の荷物というサイズ感ではなかった。しかもさっき玄関で持ち手を見たとき、ずいぶん使い込まれているように見えた。荷物が多い人特有の、必要なものを必要なだけ詰めました感があったのだ。
中をのぞきこむつもりはなかったのに、開いた瞬間、嫌でも見えた。
スーツ。ブラウス。充電器。ポーチ。ドライヤー。丸めて押し込まれたタオル。書類っぽいクリアファイル。小ぶりの化粧ポーチ。どう見ても“親戚の大学生の顔を見にちょっと寄ってみました”で済む荷物量ではない。生活の匂いがしっかり濃いんですけど、なんでそんなに…
「……立ち寄っただけじゃないですよね」
「うん、たぶんしばらくいるつもり」
たぶん、の軽さと、しばらくいる、の重さが釣り合っていない。天気の話でもするみたいな口調で人生の居住地変更に触れないでほしいし、せめてその情報は「今からコンビニ行く」くらいの温度感で投げる内容じゃない。しばらくって何だ。二、三日か。一週間か。まさか月単位じゃないだろうな、と考えたところで、キャリーバッグの中身がその希望的観測を容赦なく踏み潰してくる。あの荷物量は、どう控えめに見積もっても“様子見に来ました”の顔をした短期滞在ではなく、生活を始める側の装備だった。
…え、…っていうか“しばらくいる”ってどういうこと…?日本語の意味合ってるよね?いるってそういうことだよね…?
…え?
頭の中で、いくつかの可能性が順番に立ち上がっては消えた。いや違う、これはたぶん比喩だ。比喩であってくれ。「しばらくいる」は、たとえば“今日の夕飯どきまで居座る”くらいの、親戚特有の雑なくくり方かもしれない。そう思いかけた次の瞬間、見えている荷物の情報量がその解釈を真正面から殴ってきた。ドライヤーを持ってきている人間は、夕飯だけ食って帰る気ではない。化粧ポーチがある時点で一泊二日も怪しい。クリアファイルまで持参しているのは何だ、ここを生活拠点にしつつ仕事も回す気なのか。怖い。発言の軽さに対して荷物があまりにも本気すぎる。言葉と現物の食い違いが、軽い詐欺みたいな顔をして俺の脳に座り込んでくる。
俺は冷蔵庫の扉を閉めるのも忘れていたことに気づき、慌てて手を伸ばした。冷気が逃げるのも気になるが、それより自分の思考の逃げ場がなくなっていく感じがもっと気になっていた。元々、香澄さんは東京に住んでいたはずだ。能力を生かして仕事を始めたと親戚伝いに聞いていたし、自分の事務所まで持ったという話もあった。成功しているのかはよく分からなかったけど、少なくとも名古屋へふらっと現れて大学生の部屋を拠点にしそうな人ではなかったことは確かだった。
「仕事はどうしたんですか」
「ああ、それね」
ようやく話が本筋へ入るかと思ったのに、香澄さんはスーツの入ったケースを取り出し、しげしげと眺めてから「しわすごいなあ」とつぶやいた。話を聞け。いや、聞かせてください。
「…それって、どういうことですか」
「うまくいかなかったの」
「何が」
「いろいろ」
いろいろ、で済ませるには範囲が広くない?
テレビでは知らないタレントが週末のお出かけスポットを紹介していて、部屋の中にはのんきなBGMが流れている。その平和な空気に対して、俺の内心はまったく平和じゃない。目の前には親戚のお姉さん。昔から好きだった相手。二年前に、どう考えても普通ではない形で一線を越えてしまった相手。しかも本人は覚えていないときた。そして今、荷物をごっそり抱えて名古屋の俺のアパートにいるという事実。…うーん、冷静に考えてみたところで、その言葉たちを並べると一気に意味が分からなくなる。
「うまくいかなかったって、事務所とか……その、霊媒師の仕事ですよね」
「そうそう」
「そうそう、で流していい感じの話です?」
「まさか空介くん、心配してくれてるの?」
「そりゃしますよ」
答えると、香澄さんは少しだけ目を丸くしてから、柔らかく笑った。
「やさしいねえ」
いや、そこ褒められると逆に困るんだけど。心配するのは当たり前だし、そもそも親戚だし、理由の説明がまだ何一つ足りていない。なのに、この人は本当にちょっと嬉しそうな顔をするので、強く問い詰めるタイミングがまた逃げていく。
香澄さんはキャリーバッグの中身をひとつひとつ出して、テーブルの上へ仮置きし始めた。俺の部屋が急に見慣れない私物で埋まっていく。充電器が置かれ、ドライヤーが置かれ、スキンケア用品らしき小瓶が並び、俺のテーブルが数分前までの“大学生男子の生活感”から、“誰かの滞在準備中の仮設基地”へ変わっていく。
「えっと、香澄さん」
「うん?」
「確認なんですけど」
「どうぞ」
「ここ、名古屋なんですが…」
「知ってるよ。新幹線で来たもん」
知っているらしい。そこはそうだろう。俺が言いたいのは地理の授業ではなく、香澄さんにとってここが別に縁もゆかりも深くない場所のはずだということなのだが、本人はまるで旅行先のホテルへ着いたみたいな顔をしている。
「……東京からわざわざ、俺のところに?」
「うん」
「何で」
「空介くんなら、助けてくれるかなって」
…えーっと
再度冷静に考えようとしたけどダメだった。助けるって何。どういうこと…?
引っ越し業者が捕まらなかったとか、部屋の電球が切れたとか、そういう具体的な困りごとならまだ分かる。けれど今の言い方だと、俺が何かの最終避難先みたいな響きになっているのはなんで…?助けを求めて駆け込む先として、大学生のワンルームを選ぶ判断はだいぶ切羽詰まってないか。しかも本人は妙に落ち着いている。助けてほしいにしては冷静というか、まずもって遭難者の顔じゃない。非常口を探している人の顔でもない。ただ普通に新幹線で来て、普通に荷物を広げて、普通に俺を戦力計算に入れているだけの顔だ。
何より意味が分からないのは、香澄さんが俺に“できる範囲でお願い”をしている感じではなく、わりと自然に“助けてくれる前提で話を進めている”ところだった。そこに強引さはない。ないのに、妙に既成事実っぽい。たぶんこの人の中では、東京から来て俺の部屋に上がって荷物を広げた時点で、もう“助けを求める流れ”は成立しているのだろう。だとしたら待ってほしい。俺はまだ玄関対応の延長線上にいるつもりなんだが。まだお茶を出すかどうかの段階なんだが。なんでこんな序盤で人生の分岐みたいな空気になっているんだ。
「助けるって、何を」
「しばらくここに泊めてもらいたいんだけど」
日常会話の流れに混ぜ込むには重すぎる一言が、香澄さんの口からあまりにも自然に出てきた。
俺はその場で固まった。
固まる、という表現がいちばん正しいと思う。頭の中では言葉がぐるぐる回っていたし、耳はちゃんとその音を聞いていたのに、体が一瞬まるごと停止した感じがあった。たぶん顔も間抜けだっただろう。
「……いま、何て」
「しばらく泊めてほしいなって」
「…えっと、…いやいやいや、待って待って」
「どうかした?」
どうかしたも何も、したに決まってる。今の一言、日常会話の棚に紛れ込ませていい重量じゃない。もっとこう、「実は少し相談があって」とか、「急で悪いんだけど」とか、心の準備をするための前置きがあるだろ普通。それを何だ、買い物のついでに牛乳お願いするみたいなノリで“しばらく泊めてほしい”って。いや無理無理、脳が処理に追いつかない。せめてこっちが水を飲む時間をくれ。できれば座って深呼吸する時間もくれ。話が急すぎて、体感だと今もう三回くらい置いていかれている。
泊めてほしい。しばらく。俺の部屋に。情報を分解しても危険だし、そのまま並べても危険だ。大学生男子の一人暮らしに、六つ年上の女性が“しばらく泊まりたい”と言ってくる状況を、どの角度から見ても平常運転とは呼べない。
しかも相手はあの“香澄さん”だ。知らない大人の女性ならまだ、現実味のないトラブルとして処理できるかもしれない(…それでもだいぶ無理はあるかもしれないけど)。親戚で、憧れの人で、昔から好きで、そのくせ本人に対して後ろめたい秘密まで抱えている相手が、それを言うからまずいんだ。
「……だめ?」
小首をかしげるみたいにして聞いてくるの、昔から反則なんだよな、と頭の片隅で思った。可愛いから反則、という単純な話でもない。その仕草を自然にやるところが反則だし、自分の破壊力をあまり分かっていなさそうなところも反則なのだ。
「だ、だめってことは……いや、その……」
言葉が渋滞する。理性的にはもっと詳しい事情を聞くべきだろう。住む場所はどうしたのか、東京は本当に離れて大丈夫なのか、親戚として他に頼れる人はいないのか、金銭面はどうなっているのか、一晩ならともかく“しばらく”ってどれくらいなのか。確認事項はいくらでもある。
あるのに、最初に口をついて出てきたのが“だめってことはない”寄りの言い回しだった時点で、もうかなり負けている気がした。
「……え、でも、何で俺なんですか」
「だって、空介くんしか頼るとこないし」
「理由がふわふわしすぎません?」
「あと、気を使いすぎないでいられる」
その答えに、俺は少しだけ口をつぐんだ。
気を使いすぎないでいられる。香澄さんがそう言うなら、そういう側面は本当にあるんだろう。昔から俺に対してだけ変に格好をつけたりしなかったし、年齢差はあるのに話しやすい空気を作ってくれる人だった。俺が一方的に意識しているだけで、向こうにとっての俺は“気楽な親戚の年下”なのかもしれない。そう思うとちょっと複雑だが、複雑がっている場合でもない。
香澄さんは俺の返事を待ちきれない様子でもなく、むしろ当然のような顔で「ありがとう」と言った。
「まだ了承してないですけど」
「だめなら、こんな顔しないもん」
「どんな顔ですか」
「困ってるけど追い返せない顔」
図星だった。
図星すぎて、反論の言葉が出ない。俺の顔ってそんなに分かりやすいんだろうか。香澄さん相手だから読まれているだけならまだ救いがある。初対面の相手にも全部顔へ出ているなら、今後の人生わりと心配だ。
香澄さんは満足げにうなずき、そのまま立ち上がった。
「じゃあ、寝る場所見よう!」
「じゃあ、の意味が早い」
「現実的な話、大事でしょ」
そう言って部屋の奥へ進んでいく。俺も慌てて後を追った。うちのアパートは一人暮らし用なので、間取りなんてたかが知れている。玄関からすぐキッチン、そこを抜けると居室で、奥にユニットではないけれど狭めの風呂とトイレ。寝室というほど独立したスペースはなく、普段は部屋の隅へベッドを寄せて、その前に小さなソファとローテーブルを置いているだけだ。ここにもう一人増える前提で設計された空間ではない。
「うん、やっぱり一部屋なんだね」
「見れば分かるじゃないですか」
「確認は大事だよ」
「今日の香澄さん、全体的に確認の順番がおかしいんですよ」
俺のつっこみにも動じず、香澄さんはベッドの位置や窓の大きさ、クローゼットの扉までぺたぺた見て回る。親戚の家に来たというより、引っ越し先の下見そのものだ。いや、実際そういうつもりで来ている可能性がどんどん高まっているのが怖い。
「空介くん、敷き布団もう一個ある?」
「ないです」
「毛布は?」
「一人分なら」
「なるほど」
なるほど、で納得しないでほしい。何をどうなるほどしたのか、こちらにも共有していただきたい。
「えっと」
「じゃあホームセンター行こうか」
「何でそんな話になるんですか」
「寝具買わないと寝られないでしょ」
あまりにも正しいことを、あまりにも正しい顔で言われたせいで、一瞬だけ何も返せなかった。理屈はその通りだ。布団がなければ寝られない。寝るつもりでいる前提の話をされていることに今さら気づいて、別の意味で頭が痛くなる。
「いやいやいや、ちょっと待ってください。まだいろいろ整理できてないんですけど」
「何を?」
「何をって、全部です」
「大丈夫、買い物しながら話そう」
「大丈夫じゃない気がするんですよ、すごく」
俺が必死に足止めしようとしているのに、香澄さんはもう玄関のほうへ向かっている。行動力が妙な方向へ強い。しかもキャリーバッグから財布だけ抜き出し、「近くにホームセンターある?」と本気で聞いてくるので、こちらも流されそうになる。
「ありますけど、歩くとちょっとかかります」
「じゃあお散歩だね」
「お散歩で済ませる距離じゃないです」
「空介くん、もしかして疲れてる?」
「疲れてますよ。バイト帰りですし、夕飯もこれからだし…」
「夕飯にするにはまだ早くない?」
人ごとみたいに言うな。
それでも笑ってしまいそうになるのが悔しかった。小さい頃からそうだった。香澄さんは妙に真顔で変なことを言うので、つっこむ側が負けた気分になるんだ。俺がじっと見ていると、香澄さんは少しだけ首をかしげた。
「もしかして迷惑?」
その聞き方はずるい。
迷惑か迷惑じゃないかで言えば、普通に生活へ急な変化が入り込んできている以上、混乱はしているし困ってもいる。ただ、目の前にいるのが香澄さんで、しかもほんの少し疲れがにじんだ顔でそんなふうに聞かれると、きっぱり突き放せるほど俺は器用じゃない。
「……迷惑、ではないです」
「ほんと?」
「ほんとです。でも事情はちゃんと聞かせてほしいです」
「うん、それはちゃんと説明するつもりだよ」
だったら先に言ってくれ、と思う。思うのに、香澄さんが少しほっとしたように笑ったせいで、その文句もつい飲み込んでしまった。
結局、俺たちは出かけることになった。
アパートの階段を下りるとき、香澄さんは当然のように俺のすぐ横を歩き、途中で「キャリーバッグ置いてって大丈夫かな」と言い出して、「鍵かけてるならたぶん」と返した自分がだいぶ現状を受け入れ始めていることに気づく。…まずいな。我ながら適応が早い。いや、適応しないと会話が進まないから仕方ない面もある。
外は夕方から夜へ移る途中の、中途半端な明るさだった。春先らしい風が少しだけ涼しく、昼の熱気が道路の上に薄く残っている。名古屋へ来てからこの道は何度も歩いた。コンビニ、ドラッグストア、駅までの近道、バイト先へ向かう交差点。見慣れた帰り道のはずなのに、隣に香澄さんがいるだけで、風景の見え方まで少し変わるのが不思議だ。
「名古屋って来たことあるんですか」
「あるにはあるよ?でも、かなり久しぶりかも。通り過ぎたことはあるけど、ちゃんと降りたのはいつ以来だろう」
「土地勘ないですよね」
「ないねえ」
「よくその状態で俺の家まで来ましたね」
「住所あるし、スマホもあるし」
「文明の力への信頼が強い」
「便利だよね」
便利なのは事実なんだけど、それで急に俺のアパートに突然押しかけてきて同居準備を始めるところまで便利にしていいのかは別問題だと思う。
歩きながら、俺は改めて香澄さんの横顔を盗み見た。二年前と変わらないように見えて、よく見れば少しだけ疲れている気もする。目元にうっすらと陰があるというほどではないけれど、完全に元気いっぱいという雰囲気でもない。笑っているし、口調はいつも通りで、気の抜けた軽さもある。あるのに、どこか張りつめていた糸が切れたあとのような空気が混じっている気がした。
仕事、うまくいかなかった。さっきの言葉が頭に引っかかる。
親戚づきあいの範囲で聞こえてくる香澄さんの話は、いつもふんわりしていた。東京で頑張っているらしい、事務所を持ったらしい、最近は忙しいらしい。その程度だ。成功しているのか、苦労しているのか、具体的に知る機会はほとんどなかった。俺のほうも大学生活に慣れるので精一杯だったし、何より香澄さんとの距離感を、どこか自分から測りかねていた部分がある。近づきすぎると、あの夜の記憶が勝手に立ち上がってしまうからだ。
「……本当に、何があったんですか」
歩きながら聞くと、香澄さんは少しだけ考えるように前を見た。
「仕事、失敗しちゃって」
「それは聞きました」
「うん」
「具体的には」
「具体的に言うと、思ったより世の中が私に優しくなかったって感じかな」
「説明が雑すぎません?」
香澄さんは笑った。
「ちゃんと話すよ。ただ、長くなるからさ?」
「今日はたぶんもう何が長くなっても驚かないです」
「頼もしいねえ」
「頼もしくなったんじゃなくて、許容量がバグってきてるだけです」
そう言うと、香澄さんはまた少し笑って、それから視線を前へ戻した。話そうとして、でも話し始める順番を探しているみたいな間がある。俺は無理に急かさなかった。ここまで突然で勝手で説明不足な人でも、言いにくいことくらいあるだろうし、それを今すぐ全部きれいに言葉へしてほしいと迫るのは違う気がした。
ホームセンターまでは歩いて十五分ほどかかる。途中で大きい道路を渡り、マンション群の合間を抜け、やや生活感の強い通りへ出る。隣を歩く香澄さんは、街路樹や店先の照明をわりと楽しそうに眺めていて、本当に知らない土地へ来た人なんだなと変なところで実感した。
「そういえば、部屋にソファあったね」
「ありましたね。自分の部屋ですから」
「あそこで寝てもいいかなって思ったけど、ちょっと狭そうだったんだよね」
「俺もいま同じこと考えてました」
「空介くんが?」
「いや、俺がそこで寝てもいいかなって」
「え、なんで?」
何で、という返しに、俺は歩きながら変な息が漏れた。
「いや、一応……ベッド一つしかないですし」
「空介くんが使ってるベッドを奪うほど横暴じゃないよ、私」
「よかった、最低限の安心はしました」
「最低限なんだ」
「今日ずっと最低限を積み上げてる気がするので」
そこまで言ったところで、俺はようやく遅れて緊張してきた。ベッドが一つしかない、という現実を改めて会話で確認したせいだと思う。俺の部屋に香澄さんが泊まる。その物理的な距離の問題を、いまさら具体で想像してしまう。やめろ俺。買い物へ行くだけだろう。布団を買うだけだろう。何もおかしくない。おかしくないはずだ。
いや、やっぱりだいぶおかしいな、とすぐ訂正する。…この状況、絶対普通じゃないよな…
ホームセンターへ着くと、自動ドアの開く音が妙に救いに聞こえた。明るい店内、整然と並んだ日用品、どこにでもあるBGM。こういう場所へ来ると、一気にやるべきことが具体的になる。布団が必要なら布団を選ぶ。枕が必要なら枕も見る。生活用品の買い足しもしとかないといけないかな…?
「何か、普通の買い物みたいですね」
「普通の買い物だよ」
「出発点が普通じゃなかったんですけど」
「結果として普通に着地すればいいの」
そんな理屈があるのか。
香澄さんは迷いなく寝具コーナーへ向かい、敷布団の値札を見比べ始めた。妙なところで堅実だ。高いやつを選びそうな見た目をしているのに、「寝心地よさそうだけど、ちょっと予算オーバーかな」とかなり現実的なつぶやきをしている。その横顔を見ながら、俺は少しだけ拍子抜けしていた。押しかけてきた年上の女性、という字面だけ見ればもっと無茶苦茶でもおかしくないのに、布団選びは普通に真面目で、金銭感覚もふわふわしていない。
「予算、大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃないから悩んでるの」
あっさり返ってきた言葉に、俺は目を瞬かせた。
「え」
「事業失敗するとね、けっこう現実的に大丈夫じゃなくなるんだ」
その言い方には自嘲というより、疲れた人の正直さがあった。俺は思わず言葉を失ってしまった。さっきまでコメディみたいに転がっていた状況の下に、ちゃんと切実な事情が埋まっているのを感じたからだ。
香澄さんは値札から目を離さず、ぽつりと続けた。
「事務所、閉めたの」
「……そうなんですか」
「うん。家賃とか固定費とか、いろいろ払えなくなる前に。予約も減ってたし、来ても続かなかったし、紹介だけで回せるほど器用でもなかったし」
言葉を選んでいるのが分かる。軽く言おうとしているのも分かる。それでも、積み重なっていたものが崩れた気配までは隠しきれていない。
「東京の部屋も、いったん引き払って」
「え」
「少し身軽になろうかなって」
「それで俺のところに?」
「それで空介くんに」
そこへつながるのか、と内心でつっこみながらも、完全には否定できなかった。親戚を頼るという意味ではおかしくはない。ないのだけれど、頼る相手の選定がかなり偏った方向に行っているのはどうなんだろう。
っていうかなんで俺…?
俺の頭の中で、「親戚を頼る」という一般論と、「その親戚が俺である」という個別事情が、うまく噛み合わないまま空転していた。たしかに血縁的にはおかしくない。おかしくないけど、生活力とか経済力とか精神的安定感とか、そういう“人を受け入れる側に必要そうなもの”を考えると、俺はだいぶ下のほうではないだろうか。そこは普通もう少し選択肢を検討しないか。社会経験があって、部屋が広くて、生活基盤も安定していて、こういうときに「とりあえず来なよ」と言えるような大人、世の中にはたぶん他にもいるだろう。なんでそこをすっ飛ばして、名古屋のワンルームでぎりぎり自炊している大学生男子のところへ着地するんだ。頼る相手としての難易度設定がおかしいというか、…いや、俺としては来てくれたこと自体は嬉しいけど、それとこれとはまったくの別問題である。嬉しいのに困るし、困るのに追い返したくはないという、感情の配置がかなり面倒くさいことになっていた。
「……俺でよかったんですか」
「よかったよ」
「もっと大人の人とか、頼りになる人、いたんじゃ」
「頼りになる大人の人たちは、だいたい事情をちゃんと説明しないと心配しすぎるし、説教もしてくるから」
「俺ならしないと思われてる?」
「する?」
俺は少し黙った。
説教。たしかに、できない気がする。心配はする。かなりする。でも、目の前で疲れた顔をしている香澄さんへ、どうしてそんなことになったんですかと正論を重ねる自分は想像できなかった。昔から憧れていた相手だから甘い、というだけではなく、この人はたぶんすでに、自分で自分をそれなりに責めたあとなんだろうと思ってしまうから。
「……しないです」
「でしょ」
言い当てられて悔しい反面、頼られていることへのどうしようもない嬉しさもある。こういうところで俺の感情は本当に扱いづらいから困る。
結局、布団一式と枕、簡単な収納ケース、それから歯ブラシ立てまで買うことになった。歯ブラシ立て。そこまで買うならもうかなり生活の流入が確定している。レジへ向かう途中でカゴの中身を見て、俺は自分がどこまで流されているのかを冷静に理解したくなくなった。
「空介くん、ティッシュのストック少なそうだったから、これも買っていい?」
「何で分かるんですか」
「棚に一個しかなかったし」
「観察力が生活寄りすぎる」
「生きる力だよ」
そうかもしれない。いや、たぶんそうだ。
会計を済ませ、ホームセンターの外へ出る頃には空は完全に暗くなっていた。買った荷物はそこそこ多い。俺が布団の圧縮パックを抱え、香澄さんが細かい日用品の袋を持つ。大人二人で並んで夜道を歩くその姿は、知らない人から見たらかなり普通の買い物帰りなんじゃないだろうか。普通じゃないのは俺の内面だけで、外からはたぶん分からない。
「重くない?」
「大丈夫です」
「ほんとに? 半分持とうか」
「それやると余計ややこしくなるので大丈夫です」
「何がややこしいの」
「いろいろです」
さっき香澄さんに返された言葉をそのまま返すと、香澄さんは少し吹き出した。笑ってもらえたのが何だか悔しくて、でも嫌ではなかった。
帰り道、さっきより少しだけ会話が途切れる。買い物で現実味が増したぶん、俺の頭もようやく状況へ追いつき始めていた。香澄さんが本当に泊まる。今日から、少なくとも数日は、この人が俺の生活圏にいる。朝起きて、部屋にいて、夜もいる。その事実を考えるたび、あの夏の夜の記憶がうっすら後ろから顔を出す。忘れろと命じても無理だ。無理なものは無理で、そのうえ本人がすぐ隣にいる。
「空介くん」
「はい」
「ほんとに、ごめんね。急に来て」
不意にそう言われて、俺は足を少しだけ緩めた。
香澄さんは前を向いたまま、買い物袋の持ち手を握り直す。
「たぶん、普通に考えたらだいぶ迷惑だよね」
その声は、今日初めて少し弱かった。
俺はすぐ返事ができなかった。迷惑じゃないと言い切るのは違う。混乱しているし、部屋は狭いし、突然すぎるし、心臓にもよくない。ただそれ以上に、いまの香澄さんを一人で放っておくほうが気になった。
「……びっくりはしてます」
「うん」
「かなり」
「そうだよね」
「でも、来てくれてよかったって思ってる部分もあります」
言ってから、自分で少し驚いた。本音だったからだ。
香澄さんは一瞬だけこちらを見て、それから小さく笑った。
「ありがと」
その“ありがと”が妙に素直で、俺は視線をそらした。こういうとき、まともに見返せないのが昔から変わらない。いい加減もう少し大人になりたいのに、香澄さん相手だと簡単に高校生くらいの感情へ引き戻されるんだ。
アパートへ戻り、階段を上がり、鍵を開けて部屋へ入る。ほんの数時間前まで俺一人の部屋だった空間に、ホームセンターの袋と新しい布団が持ち込まれる。
「よし、これで寝られる」
香澄さんは満足そうに言って、さっそく布団のパックを開け始めた。行動が早いな。俺も慌てて手伝う。圧縮から解放された布団がふくらんでいく様子を見ながら、俺は何とも言えない気分になっていた。客用の布団を出しているというより、生活の新メンバー用の設備を整えている感じが強いというか。
「どこに敷きます?」
「うーん、ベッドの横かな」
「歩く場所なくなりません?」
「ちょっとは残るよ、たぶん」
「たぶん、で家具配置するのやめてください」
二人であれこれ動かし、ソファの位置を少しずらし、テーブルも寄せて、どうにか布団を敷けるスペースを作る。やる前からわかっていたけれどかなり狭い。大人二人が共同生活を始める広さではまったくない。なのに、布団を広げた香澄さんは「秘密基地みたい」と楽しそうだった。秘密基地…か。大学生男子の生活圏に年上の女性が住み始める状況をその単語で処理していいのだろうか。
「お風呂、先入っていい?」
「…どうぞ」
「着替え、すぐ出せるようにしとかないとだね」
「……そうですね」
生活の具体が次々押し寄せてきて、そのたび俺の脳が少しずつ悲鳴を上げる。風呂。着替え。洗面所。ドライヤー。部屋干し。全部、俺一人の生活なら意識せず回っていたものばかりだ。そこへ香澄さんが加わるという想像を、いまからしなければいけない。
香澄さんはキャリーバッグから着替えを取り出し、風呂場のほうへ消えていった。扉が閉まる音を聞いた瞬間、俺はようやくその場へしゃがみ込んだ。疲れた。精神的に。
部屋の真ん中には新しい布団。テーブルの上には増えた私物。テレビの横には見慣れない充電器。洗面台のほうからは水の音。数時間で環境が変わりすぎている。こんなに一日で生活が変わることってあるんだな、と変なところで感心した。
しかも、ここからが始まりなのだ。
プロローグでインターホンが鳴った時点では、まだ“訪問”だった。いま目の前にあるのは、明らかに“滞在”で、その先にはたぶん“同居に近い何か”が待っている。親戚のお姉さんが転がり込んできた。そう説明すれば言葉は簡単なのに、俺の中では二年前の秘密と、昔からの憧れと、いま目の前で起きている現実が全部同じ場所へ押し込まれていて、簡単になってくれない。
風呂場からシャワーの音が響く。
俺は無意識に天井を見上げてから、いやいやいや、と首を振った。意識するな。変な想像をするな。相手は香澄さんで、俺は居場所を提供しただけで、それ以上でも以下でもない。そう自分に言い聞かせるほど、むしろ意識しているのがバレバレな気もする。
とりあえず夕飯をどうするか考えようと思い、冷蔵庫を開ける。中には適当に買っておいた食材と、昨日の残りのカレー、卵、麦茶、ヨーグルト。急に二人分を賄えるほど豊かではない。コンビニへ行くべきか。出前にするか。そんなことを考えていると、風呂場の扉が開く音がして、俺は反射的に冷蔵庫の中を凝視した。
「空介くん、ドライヤー借りるね」
「っ、はい」
振り向かなくても声が近い。近いというだけで心臓が忙しい。昔から好きだった人が、いま俺の部屋で風呂上がりに髪を乾かそうとしている。この状況に慣れる日はたぶん来ない。
それでも、冷蔵庫のドアポケットに並んだ調味料を見つめながら、俺はひとつだけ確信していた。
香澄さんが突然俺のアパートへやって来た今日を境に、たぶん俺の平凡な大学生活はかなりの勢いで崩れるのだろうと。
しかもその崩れ方は静かに始まるくせに、ろくでもなく甘くてひたすら面倒なのだろうと。




