プロローグ
幽霊が見える、と他人に言うつもりはずっとなかったし、実際これまでそんなことを口にした記憶もほとんどない。言ったところで得をしないのが分かっていたし、分かってもらえない以前に、まず面倒なやつ認定を受ける未来しか見えなかったからだ。中学生くらいまでの俺は、そのへんの損得勘定がまだ甘かったので、わりと正直に「昨日、廊下の曲がり角に変な人いたんだよね」などと口走ってしまったことがあったのだが、当然ながら返ってきたのは「怖っ」「やめろよ」「そういう設定?」くらいの反応で、それ以来、ああこれは言わないほうが平和だなと学習した。
もっとも、見えるといっても霊能番組に出てくる人たちみたいに、白い着物の女がくっきり現れて恨み言をささやいてくる、みたいな大仰な話ではない。俺の場合は、視界の端で空気が濁るとか、人の形をした薄いしみが壁際に立っているように感じるとか、その程度のぼんやりしたものだ。顔立ちなんてよほど近くに来ないと分からないし、会話も基本的には成立しない。ただ、そこに何かいるという確信だけは妙に強くて、しかもその確信が外れることはほとんどないから厄介だった。
夜のコンビニのガラスに、自分の背後ではなくもっと遠くの、人の立てない位置に誰かの輪郭が映っていたりする。学校の視聴覚室みたいな普段あまり使われない部屋に入った瞬間、胸のあたりが冷たくなって、窓際のカーテンの裏に誰かがしゃがみこんでいる感じがしたりする。通学路の途中にある古いアパートの二階を見上げると、ベランダの柵に腕を預けた気配があり、見ないようにして歩き去っても、しばらく背中がざわざわして落ち着かない。そんなことが、小さい頃からずっと続いていた。
助かるのは、俺にその先が何もできないことだった。見えるからといって払えるわけでもなければ、話を聞いて救ってやれるわけでもない。変な話、できることがないからこそ、見えても見なかったことにする技術だけは妙に上達した。気づいた瞬間に別のことを考えるとか、スマホを見るふりをするとか、頭の中で好きなゲームのBGMを流すとか、そういう地味な対処法ばかり身につけてきた。根本的な解決になっていないのは百も承知だったが、日常生活を営むだけならその程度で十分だったし、余計なことに首を突っ込むとろくな目に遭わないとも理解していた。
そんな俺が、世の中には本当にすごい側の人間がいるのだと知ったのは、わりと早い時期だった。
前原香澄。
親戚のお姉さんで、俺より六つ年上で、昔からやたら可愛がってくれていた人だ。
小学生の頃の俺にとって、香澄さんはわりと万能だった。勉強ができるとか運動ができるとか、そういう学校的な意味での万能ではなく、もっと子どもにとって重要な、遊びがうまい大人だった。ゲームを一緒にやれば容赦なく勝ってくるくせに、泣きそうになると「ほらほら、いまのはコントローラーの調子が悪かったせいだから、もう一回ね」と平然と再戦してくれるし、魚釣りに行けばエサをつける段階から俺が半泣きになっているのを見て「じゃあ見てて、こうやるんだよ」と手際よく片づけてしまうし、夏休みに雑木林へ行けば、カブトムシのいそうな木の見分け方から、やぶの歩き方まで妙に詳しい。何なら虫が苦手な近所の子まで連れてきて、気づけば香澄さん中心の探検隊ができていたくらいだ。
いま振り返ると、あの人は昔から不思議な人だった。ぼんやりしていて、会話の途中で急に空を見上げて「今日、風の音が変だねえ」と言い出したかと思えば、その数分後に本当に天気が崩れたりする。川べりで遊んでいたとき、俺が石を投げようとして手を振りかぶった瞬間、「空介くん、それ投げないほうがいい」と軽く止めてきたことがあり、何でだろうと首をかしげていたら、すぐ足元の草むらから蛇が出てきて、子ども心にしばらく言葉が出なかった記憶がある。
怖かったかと聞かれると、香澄さんに関しては不思議とそうでもなかった。いや、厳密には怖い部分もあったはずなのに、それ以上に一緒にいると楽しかったし、安心感のほうが勝っていた。俺にとって年上の女の人というカテゴリは、最初から香澄さん基準でできているところがある。よく笑って、距離が近くて、変なことを平気で言って、なのにいざというときは絶対に頼りになる。小学生の俺がそんな相手を前にして憧れないわけがない。
さらに厄介なことに、香澄さんは俺の見えているものにも気づいていた。
ある日、祖父母の家の縁側でスイカを食べていたとき、庭のすみに妙な気配が立っているのが見えて、俺がそちらを見ないようにしていたら、香澄さんがごく普通の顔で「今日は二人いるね」と言った。俺はスイカの種を飲み込む寸前みたいな間抜けな顔で固まり、「何が」と聞き返すのが精一杯だったのだが、その人は「縁の下のほうと、柿の木の近く」と軽い調子で続けて、俺の反応を見たあと、ちょっとだけ笑った。
「空介くんも、ちょっと分かるんだ」
あのときの安堵はかなり大きかった。ようやく同類を見つけた、というほど大げさなものではなかったけれど、少なくとも見えている世界が自分ひとりの思い込みではないと確認できたのは救いだったし、それが信頼している相手だったのも大きかった。しかも香澄さんは、俺よりはるかに鮮明に“そっち”を認識できていた。何が見えているか、どこにいるか、どういう状態かを普通に言い当てる。俺が輪郭しか掴めないものを、香澄さんは人として見ていたらしい。
子どもの俺がその差に打ちのめされたかというと、そんなことはなく、単純にすげえなこの人、と感心していた。ヒーローを見るような目で見ていたと思う。ゲームがうまくて、虫も平気で、川遊びにも詳しくて、そのうえ幽霊関係まで最強。そんな相手に懐かないわけがない。初恋と憧れの区別なんて、小学生の時点でついていた自信はないけれど、少なくとも香澄さんが特別だったことだけははっきりしている。
中学に入る頃には、香澄さんはもう大学生で、以前みたいに長期休みに頻繁に会えるわけではなくなった。たまに親戚の集まりで顔を合わせても、昔みたいに一日中べったり遊ぶ感じではなく、俺のほうが勝手に意識してしまって、うまく目を合わせられないことのほうが増えていった。向こうは全然変わらない。会えば「あ、空介くん大きくなったねえ」と頭をわしゃわしゃしてくるし、俺がむっとすると「身長伸びたのに中身はちょっとそのままだね」と笑うし、何ならスマホの待ち受けが犬の変な寝顔だったりして、妙なところだけ昔のままだった。
その頃にはもう、好きだったんだと思う。
思う、という言い方をしているのは、俺が自分の気持ちを認めるのに時間がかかったからだ。年上の親戚のお姉さんに憧れるくらい、よくある話に思えたし、当時の俺はそれを恋だと断言できるほど器用ではなかった。ところが高校に入って、周りが彼女だの告白だのと騒ぎ始めても、俺の頭に浮かぶ女性像がどうしても香澄さんから離れない。クラスの誰かが可愛いと言われても、いや分かるけど、でも香澄さんのほうが――と比較してしまう。誰かと一緒に帰るだけで変に意識してしまう男子を見て、分かるような分からないような顔をしつつ、自分はもっと面倒なところに心を置きっぱなしだと気づいていた。
そんな俺の高校生活には、もう一人、ずっと近くにいた相手がいる。
神田岬。
中学の頃からの幼馴染で、高校でも同じクラスになった女子だ。
幼馴染といっても、毎朝起こしに来るとか、弁当を作ってくるとか、漫画みたいなイベントが揃っている関係ではない。家が近くて、小さい頃から顔を合わせる機会が多くて、気づけば会話のテンポが馴染んでいる。そういう、説明しにくい距離感の相手だった。岬は明るくて、口が回って、俺がぼそっと言ったことも拾っていじるのがうまい。クラスの中心人物というほど派手ではないのに、どこにいても存在感があるタイプで、俺がぼんやり窓の外を見ていると「おい嶋野、また魂が半分抜けてるぞ」と勝手なことを言ってきた。
霊のことを、岬には話していない。何度か言いかけたことはあるけれど、幼馴染という近さがあるぶん、変なやつと思われたくない気持ちが先に立った。岬は岬で、俺のぼんやりした部分を体調不良か眠気のせいだと解釈していたらしく、「あんた、寝不足なんじゃないの」「夜更かしでゲームしてるでしょ」と雑に決めつけていた。その雑さがありがたかった面もある。
俺と岬の関係をどう表現するのが正しいのか、今でも少し迷う。友達、と言えばその通りだし、幼馴染、と言えばそれも事実で、特別な空気があったかと問われれば、少なくとも俺は当時そこまで明確に意識していなかった。ただ、岬が事故に遭っていなくなってから、あいつがどれだけ当たり前みたいに俺の日常へ入り込んでいたかは嫌でも思い知ることになった。教室で振り向いたときに視線の先にいるとか、下校途中にくだらない会話が続くとか、購買のパンを勝手に一口取られて文句を言うとか、そういうしょうもないやり取りが、ある日を境にごっそり消えた。
事故が起きたのは、高校三年の夏だった。
部活も進路も中途半端に落ち着かず、教室の空気だけがじっとり重くなる時期で、受験の話を真面目にしているやつもいれば、最後の高校生活をどうにか楽しもうと空回りしているやつもいる、そんな季節だったと思う。岬はその日も普通に学校へ来て、普通に俺へ余計な一言を投げて、放課後には先に帰った。それだけだった。翌日、教室の雰囲気がおかしくて、担任の声がやけに低くて、何か嫌なことが起きたと全員が察した中で告げられたのが、神田岬が交通事故で亡くなったという事実だった。
現実味なんてなかった。なさすぎて、むしろ腹が立った。前の日まで普通に生きていたやつが、交差点で信号待ちをしていただけで終わるなんて、そんな雑なことがあっていいわけがないと本気で思った。クラスメイトたちは泣いたり黙りこんだりしていたが、俺はその場では感情が動かなかった。信じていなかったからだと思う。あるいは、認めるのを脳が拒否していたのかもしれない。
ところが、その日の帰り道、事故があったという交差点の前を通った瞬間、俺は立ち尽くした。
いた。
見間違えようがなかった。横断歩道のそば、歩道のガードレール近くに、岬がいた。生きている人間みたいに鮮明ではないし、輪郭はところどころ揺れていたものの、制服姿と髪型と、あの落ち着きのない立ち方で十分だった。胸の奥が一気に冷える感覚と、頭の芯がじんと痺れる感じが同時に来て、足先から力が抜ける。俺はその場で吐きそうになりながら、どうにか視線をそらさずに立っていた。
岬は交差点の向こう側を見たまま、ほとんど動かなかった。
時々、信号の切り替わりに合わせて顔を上げるような気配があり、それでも渡ることはなく、ただその場に立ち続けている。通行人は誰も気づかない。車は普通に走っていく。夕方の風景の中に、そこだけ別の時間が貼りついているみたいで、見ているこちらの感覚がおかしくなりそうだった。
俺に何かできるはずがないと、理屈では分かっていた。見えるだけだ。話しかけても返事があるとは限らないし、まして成仏させる方法なんて知るわけがない。それでも、そのまま放って帰るという選択だけはどうしてもできなかった。帰宅してからもずっと交差点の光景が頭から離れず、スマホを持っては置き、持っては置きを繰り返した末、最後に俺が連絡した相手は、結局ひとりしかいなかった。
香澄さんだった。
電話口の香澄さんは、最初こそいつもののんびりした調子で「おひさしぶりだねえ、どうしたの、受験ノイローゼ?」などとふざけていたが、俺が岬の名前を出したあたりから声の質が変わった。詳しい説明をしなくても、だいたい察したのだと思う。事情を話し終えると、香澄さんは数秒黙って、それから静かに言った。
「そっか。じゃあ、会いに行こうか」
その一言に、俺はずいぶん救われた気がする。
香澄さんは数日後、本当に来た。相変わらず荷物は少なく、拍子抜けするくらい軽装で、駅で落ち合ったときも「わ、空介くん高校生っぽい、ちゃんと高校生してる」とよく分からない感想を述べてきた。会うのが久しぶりだったせいで、俺のほうはそれどころではない。昔から綺麗な人だったのに、その頃にはもう、子どもの記憶にある“お姉さん”では済まない見た目になっていて、普通に目のやり場へ困った。なのに本人は全然気にした様子がないので困る。再会して三分くらいで心臓に悪い。
交差点へ案内すると、香澄さんは少し離れた位置から目を細め、しばらく黙って様子を見ていた。周囲の音が不自然に遠く感じる。車の走行音も、歩行者信号の電子音も、全部ひとつ膜を挟んだみたいに鈍い。その間、香澄さんだけがすっと現実から半歩ずれた場所へ入っていくような、そんな気配があった。
「いるね」
短くそう言って、香澄さんは俺のほうへ振り向いた。
「かなり強くここに残ってる。空介くん、岬ちゃんと仲よかった?」
「幼馴染です。高校も一緒で」
「うん、そっか。それでここまで引っ張られてるんだね」
引っ張られてる、という表現が妙に生々しくて、俺は交差点のほうを見た。岬は相変わらず、そこにいる。俺の存在にも気づいているような、いないような、曖昧なままだ。
「話、できますか」
香澄さんは少し考えるように眉を寄せ、すぐ「できると思う」と答えた。
「ただ、ここでは難しいかな。場所を移したい」
「場所って」
「岬ちゃんをこっちへ呼ぶの。私のほうに寄せて、ちゃんと会話できる形にする」
それがいわゆる降霊術なのだと、俺はそのとき初めてまともに理解した。子どもの頃から香澄さんが“見える側”だとは知っていたし、強いというのも知っていたけれど、具体的に何ができるかまでは深く聞いていなかった。幽霊が見える世界の話なんて、近すぎると逆に踏み込みづらい。香澄さんも自分から詳しく語るタイプではなかった。
その日の夜、香澄さんは祖父母の家の空き部屋を借りて準備をした。窓を閉め、照明を落とし、床に紙と塩と何だかよく分からない道具を並べていく。怪しげといえば怪しい。何なら俺が事情を知らずに見たら、その場でスマホを取り出して友達に「親戚が急にヤバい儀式始めた」と送っていた自信がある。ところが香澄さん本人は妙に慣れた手つきで、しかも途中で「ごめん、髪留めどこやったかな」とか「喉乾いたから水取って」とか普通のことを言うので、厳粛な雰囲気と生活感が激しくぶつかっていた。
「本当に大丈夫なんですか、これ」
「何が」
「いろいろです」
「ざっくりした不安だねえ」
そんな調子で笑いながらも、準備が整うにつれて香澄さんの表情は徐々に研ぎ澄まされていった。空気が変わる、というのはたぶんこういうことを言う。部屋の温度自体は変わっていないはずなのに、肌に触れる感じが違う。耳が詰まったみたいな圧迫感があり、呼吸の音がやけに大きい。俺は入口の近くに座らされて、何があっても勝手に動かないこと、声をかけるときは必ず返事を待つこと、何を見ても取り乱さないこと、いくつかの注意を受けた。
「取り乱さないの、かなり難しくないですか」
「そういう顔してるね」
「わりと前からしてます」
「大丈夫だよ。私がいるから」
その一言が、今思えばいちばん危なかった気がする。
信じてしまったからだ。香澄さんがいるなら何とかなる、と。
儀式が始まってしばらくは、静かなものだった。香澄さんが低い声で何かを唱え、ゆっくり呼吸を整え、部屋の空気がじわじわ重くなっていく。俺にも見えるくらい、何かが集まってくる感覚があった。壁際の影が濃くなり、床に落ちる黒さが自然じゃない形に伸び、息を吸うたび鼻の奥が冷たくなる。やがて、香澄さんの肩が小さく震え、伏せていたまぶたがぴくりと動いた。
「……来た」
聞き覚えのある声、というには少し遠い。それでも俺は一発で分かった。岬だった。
名前を呼ぼうとした瞬間、喉が詰まって声が出ない。香澄さんの体が、座ったままわずかに前へ傾く。その輪郭へ、岬の気配が重なる。言葉にしづらいが、重なるとしか表現しようがない。二人分の存在がひとつの場所へ押し込まれたみたいな、見ているほうの感覚がずれる光景だった。
「嶋野」
香澄さんの唇が動き、そこから出たのは岬の口調だった。
俺は頭の中が一気に真っ白になった。返事をするまで数秒かかったと思う。目の前にいるのは香澄さんで、声と中身だけ岬だという状況を、高校生の脳がそう簡単に処理できるわけがない。
「み、岬……か?」
「遅い。そうだよ」
その言い方まで岬で、胸の奥がぎゅっと縮む。生きていた頃そのままの軽さなのに、ここで再会している事実が軽くない。何から聞けばいいのか分からず、何を言えばいいのかも分からず、結局最初に口をついて出たのは、ものすごく間抜けな一言だった。
「おまえ、なんでそんな普通なんだよ……」
「そっちこそ、何その顔。泣きそうじゃん」
泣きそうだった。というより、泣きそうなのをこらえながら意味のない文句を言っていた。岬は少し笑った気配を見せ、それからぽつりぽつりと話し始めた。事故の瞬間の記憶は曖昧なこと。気づいたら交差点から動けなくなっていたこと。何か心残りがあるのは分かるのに、それが何かは自分でもはっきりしないこと。時間の感覚がなくて、ずっと夕方みたいだということ。
会話が成立していること自体、俺には奇跡みたいだった。香澄さんはうっすら目を閉じたまま、その器として座っている。途中で一度だけ苦しそうに眉を寄せたものの、それでも儀式は安定しているように見えた。俺はどうにか岬へ言葉を返しながら、事故のことや学校のことや、クラスの連中がみんな驚いていたことなんかを伝えた。岬は「そりゃそうでしょ」といつもの調子で言い、ほんの少しだけ沈黙したあと、低い声で聞いた。
「……嶋野、あたしがいなくなって困った?」
その質問はずるい。ずるすぎる。困ったに決まっているし、でもその程度の言葉で済ませたくもない。俺が答えあぐねていると、岬は少し身を乗り出した。香澄さんの体で。
「困ったよな」
「岬」
「寂しかった?」
そこから先、空気が変わった。
会話の輪郭が、少しずつおかしくなる。岬の言葉が濃くなり、感情の圧が強まっていく。未練、執着、焦り、そういうものが生きている人間の尺度を外れて膨らんでいく感じだった。香澄さんの肩が再び震え、呼吸が乱れる。俺はまずいと思って立ち上がりかけたが、動くなと言われていたのを思い出し、半端な体勢で固まった。
「岬、もう少し落ち着いて――」
「会いたかった」
その一言が、部屋の空気ごとひっくり返した。
岬の気配が一気に強くなる。香澄さんの体がびくっと反り、閉じていた目が開いた。その目つきは香澄さんのものじゃなかった。もっと真っ直ぐで、逃がさない感じがあった。俺はそこでようやく、本気で危険だと理解したのに、理解した時点ではもう遅かった。
岬は生前から感情表現が直球寄りだった。遠回しな言い方を嫌い、思ったことをわりとそのまま投げる。そんな性格が、死んだことで薄まるどころか、逆に煮詰まっていたらどうなるか。答えは最悪だった。未練が一点へ集中して暴走する。頭では止めなければと思っているのに、相手は岬で、体は香澄さんで、目の前の状況が現実離れしすぎていて、どこへどう手を伸ばせばいいのか分からない。
「嶋野、あたしね」
岬の声が震える。
「ずっと好きだった」
告白として受け取るには、場面があまりにも異常だった。
胸の奥が跳ねるより先に、寒気と混乱が押し寄せる。香澄さんが小さく呻いた気もする。二人分の気配が無理やりひとつの体へ詰め込まれて、その内側で岬の感情だけが燃え上がっているみたいだった。俺は名前を呼び、落ち着けと言い、香澄さんのほうを見たが、返事はない。岬の意思が全面に出ている。
「もういないのに、好きなままなの、最悪でしょ」
笑うような泣くような声だった。
「忘れられない。何もできないまま終わるの、やだ」
そこから先は、正直、記憶がきれいに並んでいない。混乱していたし、恥ずかしいし、たぶん脳が防衛反応で整理を雑にしている部分もあると思う。覚えているのは、岬の感情が制御できる範囲を完全に越えていたこと、香澄さんの体がそれに巻き込まれていたこと、俺がまともな判断力を失いながらも、目の前の二人をどうにか壊さないよう受け止めるしかなかったこと、そのくらいだ。
甘い雰囲気なんて一切なかった。青春の延長みたいなものを想像すると、とても困る。そんな生やさしいものではまったくなく、むしろ災害に近かった。思いが強すぎて、死をまたいでなお冷めず、それが形を持って襲いかかってくる。俺は何度も岬の名を呼び、香澄さんの名も呼び、途中から自分が何を言っているのか分からなくなっていた。夜がやたら長く感じたのは、時計を見る余裕すらなかったからかもしれない。
そして朝方、嵐みたいだった気配が少しずつ弱まっていった。
部屋の空気が軽くなる。圧迫感が薄れ、窓の向こうから鳥の声が聞こえたとき、俺はようやく現実へ戻ってきた気がした。岬の存在感は、涙の跡みたいにかすかに残って、それでも確かに遠ざかっていく。最後に何か言っていた気もするが、そこだけはうまく思い出せない。好きだったとか、ごめんとか、ありがとうとか、そういう言葉だったのかもしれないし、もっと全然違うものだったのかもしれない。
残ったのは、床へ崩れ落ちる香澄さんと、膝から力が抜けてまともに立てない俺だった。
いちばん最悪だったのは、その後だ。
香澄さんは、降霊の負荷で完全に消耗していた。顔色は悪いし、しばらく意識もはっきりしないし、水を飲ませようとしてもまともに反応が返らない。俺は心臓をばくばくさせながら、どうにか介抱して、その日は家族に変な心配をかけないよう言い訳まで考えて、それだけで精一杯だった。まともに会話ができるようになったのは翌日の昼近くで、俺はそこでようやく、昨日のことをどう説明すればいいのか地獄みたいな悩みに直面することになる。
「ごめんねえ、途中から記憶あんまりなくて」
起き上がった香澄さんが、少しかすれた声でそう言ったとき、俺は危うくその場で天井を見上げるところだった。
記憶がない。
その一言の破壊力がすごい。
いや、ちょっと待ってください、昨日の夜はそんな軽く“あんまり”で済ませていい感じではなかったんですが、と思ったところで口に出せるわけがない。しかも香澄さん本人は、本当に体調の悪さを気にしているだけで、俺がそんな方向の混乱を抱えているとは夢にも思っていない様子だった。岬を送れたかどうかをまず確認し、俺の顔色の悪さに気づいて「空介くんもだいぶ無理したでしょ」と逆に心配してくる始末である。
俺はその瞬間、自分の人生におけるかなり大きめの詰みを感じた。
なぜなら、事実として俺と香澄さんの間には、もう越えてはいけない何かを越えてしまった夜が存在している。それなのに、当事者の一人である香澄さんはその肝心の部分を覚えていない。正確には、体へ何か大きな負荷がかかったこと、岬の未練が強かったこと、そのあたりはぼんやり把握しているらしいのだが、その結果として何が起きたかについては、綺麗なくらい記憶が落ちていた。
俺だけが知っている。
その事実が、ひどく重かった。
もちろん、自慢でも何でもない。喜べるような状況でもない。夢が叶った、などと浮かれる余地もなかった。相手は初恋の人で、しかも記憶がなくて、経緯はほとんど事故に近くて、その事故の中心には亡くなった幼馴染の感情がある。高校三年の男子が抱えるには荷が重すぎるし、何より説明しようがない。説明したところでどうなるんだ。香澄さんがショックを受けるだけかもしれないし、岬の最後を汚す気もした。
結局、俺は黙った。
それから時間は流れた。受験があり、卒業があり、地元を離れて大学進学のため名古屋へ来て、一人暮らしを始めた。環境が変われば少しは薄れるかと思っていたのに、あの夜のことは妙に鮮明な部分だけ残り続けた。岬の告白の声も、香澄さんの記憶が欠けていると知ったときの胃の痛さも、変なタイミングで勝手に蘇る。何かの拍子に香澄さんからメッセージが来ると、それだけで心拍数がひとつ上の段へ移るくらいには後遺症が深い。
それでも、日常は日常として続く。大学生になった俺は、特別に目標があるわけでもなく、講義へ出て、バイトへ行って、コンビニ飯のレパートリーだけが無駄に増える平凡な生活を送っていた。幽霊の気配は相変わらず見えていたし、名古屋に来たからといって体質が消えるわけでもなかったが、高校時代のあの一件に比べれば、見えるだけの霊なんてもう“まだマシな面倒”に分類される。感覚が狂っている自覚はある。
香澄さんとは、親戚としてたまに連絡を取るくらいの関係に落ち着いていた。向こうは向こうで、降霊術を看板にした霊媒師まがいの仕事を始めたと聞いた。まがい、と心の中で余計な注釈をつけたのは、俺が香澄さんの力を知っている一方で、あの人の商売っ気のなさも昔からよく知っていたからだ。能力は本物でも、それを事業として回せるかは別問題である。予約管理を忘れそうだし、料金設定も甘そうだし、口コミ戦略とかいう単語を聞いたら「それ、おいしい?」くらいの顔をする未来が見えた。
案の定というべきか、その事業はあまりうまくいかなかったらしい。
詳しい事情までは知らない。知らないが、何となく想像はつく。降霊術なんて、外から見れば胡散臭さの塊である。実際に何かが見えているのは本人だけで、依頼人からすれば本当に交信できているのか確かめようもない。しかも香澄さんは嘘がうまいタイプではなく、変に正直なところがあるので、商売に必要な“それっぽさ”で押し切ることもできない。誠実であることと繁盛することは、残念ながら同じ意味ではない。
そうして俺が、平凡な大学生として平凡に夕方のバイトから帰ってきた日だった。
アパートの階段を上がり、いつものように郵便受けを確認して、特に大事そうなものがないことに安心しながら自分の部屋の前まで来たところで、室内から小さく機械音が鳴った。インターホンの呼び出し音だった。
この時間に来客なんて珍しい。宅配にしては時間が半端だし、友達が来る予定もない。宗教や回線営業なら居留守を決め込むところだが、俺はなぜかその瞬間、背筋のあたりに妙な予感を覚えていた。嫌な予感というほど黒くはなく、もっとこう、面倒事の気配に近い。経験上、その手の勘は当たる。
靴を脱ぐのもそこそこに部屋へ入り、モニターを確認する。
そこで俺は、数秒ほど完全に固まった。
画面の向こうに映っていたのは、見間違えようもなく、前原香澄だった。
肩に大きめのバッグをかけ、疲れたような、それでいて妙に晴れやかな顔をしている。久しぶりに見るその姿は相変わらず綺麗で、しかも相変わらず不用意にこっちの心臓へ悪い。俺が動けないでいる間にも、香澄さんはカメラへ少し近づいて、にこっと笑った。
『空介くん、いる?』
いる。いるけど、何で。いや本当に何で。
頭の中で疑問符が大渋滞を起こしているうちに、香澄さんはさらにとんでもない一言を続けた。
『ちょっとね、引きこもりたくなっちゃって』
言っている意味が一文字も分からない。
俺がモニターの前で黙り込んでいると、香澄さんは何を勘違いしたのか、少し困ったように眉を下げ、それから悪びれもなく爆弾を追加した。
『しばらくここに置いてもらえないかなあって思って来たの』
その瞬間、俺の脳裏には、高校三年の夏の夜が最悪の解像度でよみがえった。
覚えているのは俺だけで、忘れているのはその本人で、しかもそんな相手がいま、荷物を持って俺の部屋の前に立っている。
心臓がうるさい。
逃げたい気持ちと、玄関を開けたい気持ちと、いったん気絶して状況を先送りにしたい気持ちが三つ巴で暴れている。
それでも、インターホンの向こうからもう一度聞こえた声は、昔と変わらない調子で、俺の人生をあまりに雑にかき回してきたあの人そのものだった。
『お願い、空介くん。すごく困ってるの』
そんな顔で言われて断れるほど、俺の初恋は都合よく終わっていない。
震える指で通話ボタンへ触れた俺は、自分でもひどく情けない声だと思いながら、ようやくひとことだけ返した。
「……いま、開けます」




