第13話 教え子に教本
空が青い。
背の低い草が風に靡いている。
鼻をつく晩夏の匂いを思い切り吸い込む。
――ああ。
「六感、さいっこう……」
「何してるの?」
視界の上から逆さまのエマが顔を覗かせる。視覚から入ってくる情報量の少なさに涙しそうだった。
ここ数日で最も穏やかな気分でルレアは答える。
「全身で六感を享受してるの」
「一個多くない?」
「私のいた村ではね、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に加えて、魔覚っていうのがあったんだよ。魔法を捉える感覚」
「へー! わたしにも教えてよ」
「教えたくても難しいかな。小さい頃から魔法に触れて、魔法の中で生きてないと掴めない感覚だから」
エマが隣に座ってくる。ルレアも体を起こした。
楽しそうにしているエマには申し訳ないなと思っていると、本人はそんなことは気にせず、あっけらかんと言った。
「ルレアちゃんってすごいんだね!」
「……まあ、そう、かな? 同世代では村で一番感覚が鋭かったし」
「魔覚って何が分かるの?」
「魔法に関係することならなんでも。属性、威力、効果みたいな分かりやすいものから、魔力、魔力の特性、誰の信仰に由来するかとか、その人の性格まで」
「性格まで分かるの?」
「うん。魔法は精神に由来するから」
体力も精神力も魔力も、相互に切っても切り離せない関係にある。
ウァイストは体力は普遍的に必要なものだとする前提の上で、特に心と魔法の関係は深いとしていた。
信仰のことがなくても、ルレアもそう思う。
ルレアがいるのは、城壁の周りの草原に点在する木のうちの一本の足元だ。グラシゥスから魔法を教えてもらう時はもっぱらここ。
近くにルレアのような鍛錬に来ている冒険者は見当たらない。
エマがこんなところまで来るということは。
「エマはもう任務終わったの?」
「うん! フィリとルーもあとから来るよ」
「みたいだね」
ルレアの知覚範囲内に覚えのある人影が入った。そちらを見やるとルーシーが全力疾走している。隣のエマは呑気に彼女に向かって大きく手を振った。
二人のところまで来た少女は膝に手をついて乱れた息を整える。
「はぁ……はぁ……もー、エマ、急にいなくならないでって言ってるでしょ」
「ごめんごめん。ルレアちゃんが魔法の練習してるところが見えちゃったからつい」
「そんなに焦らなくても、今日やることは終わったんだから、後はずっと練習できるでしょ」
ルレアは一口サイズの水玉をつくってルーシーの前にふよふよ浮かせる。ルーシーは口で追って捕まえるとそのまま飲み込んだ。
「キンキンに冷やしておいたから美味しいでしょ?」
「ん……ありがと。やっぱり便利だね」
「これくらいできるようになってると楽だよ」
「そうだよね……怖いけど」
「大丈夫だいじょうぶ、一日乗り切れば慣れるよ」
ルレアは笑ったつもりだったが、残念ながら目が全く笑っていなかった。エマがひょえっと肩を震わせてルーシーの笑った頬もひきつる。
――大丈夫かな、これ。
と、どこからともなく人影が現れた。気配はない。
「グレイスさん、こんにちは!」
「こんにちは。随分早いね」
「エマが魔法の勉強したいってうるさいから頑張ったの。フィリが今協会で報告してるところ」
お陰でくたくた、とルーシーが草の上に倒れ込む。エマも真似して寝転がった。
そんな二人とルレアの上でグラシゥスが印を切る。倦怠感が抜けていく感覚に、初めてこの魔法を施されたエマとルーシーは感嘆の声を上げた。
「おお! すごい! これなんて魔法?」
「中央諸島の魔法。ルーシーにこれから覚えてもらう魔法の一つだよ」
「ルー、絶対使えるようになってね!」
「でも難しいんでしょ?」
「基本が少ないから覚えること自体は難しくないと思うよ。どんな状況でも無意識に使えるようになるまではそれなりに時間が必要だけど」
グラシゥスはエマとルーシーに本を手渡した。ルレアの記憶の中の本格的な本よりは圧倒的に薄いが、それでもそれなりの厚さだ。
表紙にはそれぞれ『理論魔法教本』と『中央諸島法派教本』の文字。綺麗な字で書かれている。
ほんのり魔法の気配がする。保護魔法だろう。とても丁寧な作りだ。
「これが、えっと、経典じゃなくて」
「教科書」
「そう! これが教科書?」
神殿での修行では経典を使っていたため、教科書という概念がエマの中では薄い。
ルーシーに助けてもらって尋ねると、グラシゥスは頷いた。
「必要なことは全部書いたから、それを基本にして実践形式を多めで指導するつもり」
「ねぇグレイスさん」
喜んで教本をぱらぱらめくっては見せあっている二人をよそに、ルレアは師匠に詰め寄る。
「私はもらってませんよ?」
「想像主義の魔法使いには効果が薄いからね。それにルレアには付きっきりで教えるつもりだけど、この二人はいつ教えられなくなるか分からないから。その保険も兼ねてる」
「じゃあ今日の夜に全部読んどくね!」
納得できるような、できないようなグラシゥスの答えが頭から吹き飛ぶようなことをエマが言った。ルレアは耳を疑う。
エマが手に持っている教本は厚くはないとはいえ薄くもない。ページ数は三桁はくだらないだろう。
それを全部読む? 夜だけで?
正気か?
本という文化が縁遠いのもあるが、ルレアは読むのがそんなに早くはない。二人の持っている程度のページ数の本であれば、日がな一日頑張っても二、三日はかかる。
という驚愕と懐疑が表情に出ていたのだろう、エマがきょとんと首を傾げる。
「寝なければ読み終わるよ?」
「それは寝た方がいいと思う。……じゃなくて、速くない?」
「神殿にいた頃からいっぱい読まされてきたからね。これでもフィリとルーより速いんだよ」
えっへんと胸を張る。
ルレアは村での記憶を思い返して、そんなに読み物をした覚えがなかったが、スタンデュリアはウァイストより伝承が多いだろうし、他の宗教ではそんなものなのか、と納得した。
そんなに魔法を学べるのが楽しみなのか、わくわくしているエマにグラシゥスは待ったをかける。
「そんなに急いで読まなくていい。ちゃんと理解するなら時間もかかるだろうから、半月からひと月くらいかけてゆっくりで」
「はーい。じゃあ分からないところあったら訊くね」
一方のルーシーは、軽く読んでみたあとで苦い顔をしている。
「書いてあることの半分くらいが万物に宿る神々に関係してるんだけど」
「出身は知らないけど、少なくともルーツは中央諸島で信仰は万物に宿る神々でしょ?」
基本的にその人の主神が誰かは一言挨拶すれば容易に分かる。祈り言は主神に左右されるからだ。
だから当然、何回か挨拶しているルーシーの信仰対象くらいは訊かなくても分かる。
「信仰魔法は信仰対象の毛色が濃いし、魔力のこともあるからこっちの方がいいと思うよ」
「見た感じそんな気はするけど……万物に宿る神々って色々複雑だからできれば読みたくないなぁ」
ペラペラとめくりながらルーシーは憂鬱げに息を落とす。
関する書物を最後に読んだのはいつだったか。まだほんの子供だった頃な気がする。理解力に乏しくて、万物に宿る神々の記述にうんざりしたものだ。
今なら読み込めば理解できるが、それでも時間がかかるし理論魔法のそれより大変だ。
グラシゥスからあんなことを言われて、魔法の方は少しは楽できるかもと期待したが、やはりそんなに甘くないということか。
これはしばらく頭痛くなるぞとルーシーは覚悟を決める。
「それじゃあ、本格的に魔法の勉強をするのは明日からにするから二人はそれを多少読んでおいて」
「うん、分かった!」
「はーい」
「ちょうどフィリも来たところだし、今日は前衛の話をしようか」
グラシゥスがそう言ったタイミングで、ルレアの知覚範囲にも反応があった。城門の方からフィリが歩いてきている。
彼のその言葉で、魔法で頭がいっぱいだったルーシーも思い出す。
思い出したくはなかったが、思い出した。
「……そうじゃん、私どっちもやんないと」
「ルー、ファイト!」
「うん……がんばる」
ルーシーは一度だけ、クゥの、超級の冒険者の戦闘を見たことがある。
今思えば彼女は凄まじい技術で以って戦闘を運んでいたが、当時の自分はそんなことを思っている余裕などはなかった。
感想は一言で足りる。
拒絶感。
間違いなく当たったと思ったのに当たっていない。巫女は攻撃の軌道上にいたのに、すり抜けるかのように外れる。
その感覚と事実のズレが気持ち悪かった。
その、違和感から来る本能の拒絶。
思い出して、ルーシーはひとつ頭を振る。
やることにしたんだ。変なことを考えるよりもやれるだけやろう。
「聞くけど、私はどのくらいまでやれるようになればいい?」
「もちろん、クゥと同じくらい」
薄々そんな気はしていたが、一応食い下がる。
「敵の攻撃をこっちに向けたらそれで私の役目終わりみたいなことには」
「ならないね」
どこぞの弟子と同じく、師匠は無慈悲に宣告した。
「……エマぁ」
隣の仲間に泣きつく。神官様は優しく抱きとめて頭を撫でてくれる。
「泣き言言わないの、ルー」
「けどさぁ、だってさぁ」
「ルーならできるよ。大丈夫、自信持って。ね?」
「……うん」
それでもやれる自信がなくて、フィリが来るまでルーシーはエマに慰めてもらった。
……来たあともしばらくは慰めてもらった。




