第23章 初めての包容
朝食を食べ終わったタイミングで、運送業者がやって来た。残りの荷物は大き目の鞄二つのみになった。
正装に着替える前にギフティーに絶対に言わなくてはいけないことがあった。
それなのになかなかそれを言い出すタイミングが掴めなかった。
しかしそれは決して言い難かったからではなかった。
リーチェはソファの上に座っていた。より正確に表現するならば、ソファに座ったギフティーの膝の上に乗せられていた。
卒業式に出席する前にどうしても話しておきたいことがある彼に言った。するとそんな状態になったのだ。
「ソファは一人掛けなんだからこうするしか方法がないじゃないか」
「私はテーブル用の椅子に座ればよかったじゃない」
「駄目だよ。そういうのを無粋というのだよ。
恋人同士はソファの上で話すのが常識なんだよ」
彼はそう言って、有無を言わせずに彼女の手を取って引き寄せると、軽々とその柔らかな体を掴んで、自分の膝の上に乗せたのだ。
そしてその後は彼女に一切話をさせなかった。チュッチュッとリップ音をたてながら軽くつつくような口付けを繰り返したからだ。
彼女は何度も話しかけようとしたのだが、口を開こうとした瞬間に深いキスをされて意識が飛んでしまった。
数分後に意識を取り戻したのだが、頭がボーッとして話ができる状態ではなくなっていたのだ。
しかし、胸に手を触れられた瞬間に大きく目を見開いて、その手を振り払った。
さすがにこのまま流されては不味いと本能で分かったからだ。
「こらから卒業式だというのに、なんて不埒なことをするの!」
「ごめん。ごめん。リーチェが可愛すぎるからつい理性が飛んだ。
ねっ、これで分かっただろう? 男って怖いんだよ。
だから、今すぐ婚約しよう。そうすれば、どんな奴が君に迫ってきても僕が正当に追い払うことができるからね」
純真無垢で天使のような男の子……だったはずなのに、二年間会わなかったうちに彼はすっかり変貌していた。
その妖艶で小悪魔的な微笑みを見て、彼女はゾクリとした。
ギフティーはリーチェを抱いたまま立ち上がると、テーブル前の椅子に座らせた。そして自分の革製の鞄の中から一枚の用紙を取り出してた。
それは金色に輝く婚約誓約書だった。
彼女はそれを見て瞠目した。
一般的な婚約誓約書とは違い、金色の婚約誓約書は国王陛下が保証人になるという特別なものだったからだ。
この用紙にサインをして婚約が成立すると、後になって破棄したいと望んだとしても、そう簡単にはできなくなる。
なぜなら、陛下のお許しを得ないといけなくなるからだ。
つまりその誓約書には、ほぼ婚姻届のような強制力があった。
王家にとって重要な家同士の婚約の場合に用いられる特殊な誓約書だ。
アレン第二王子が勝手にグロリア嬢に婚約破棄宣言した後に導入された制度だった。
「僕のサインはすでにしてあるから、後は君が名前を書くだけで婚約は成立する」
「今?」
「そう。今。そうじゃないと無事に帰国できなくなるかもしれないからね」
なぜ下位貴族同士の婚約にこの金色の誓約書が準備されたのか、最初は理解ができなかった。
しかし王弟のことを思い出し、これは国王陛下と王妃殿下からの救済処置なのではないかとリーチェは考えた。
国王陛下が認めた婚約。いくら王弟であってもそれを解消させて、自分を愛人になどできるはずがないのだから。
だから彼女はこう訊ねたのだ。
「つまり、貴方と婚約をすれば王弟殿下の命令に従わなくても済むってことなのね?」
ところが、ギフティーは言葉を少し濁した。
「あの方のことはもう解決済みなんだけれど、それ以外にも色々と面倒なことが起こりそうなんだ。君は何も気付いていないみたいだが。
何事も全て先手必勝。そして逃げるが勝ちなんだよ、リーチェ。
だから早く名前を書いてね。二人の名前が記入された時点で婚約は成立するからね。
本当は婚姻届でも良かったんだけれど、時間がなくてプレセント男爵夫妻にきちんと挨拶する時間がなかった。それなのにいきなり結婚ではさすがに失礼だと思うから」
(両親は身分違いだから諦めるようといつも言っていたけれど、私がギフティーのことを好きだというこは知っている。
それに、王弟殿下からの愛人要請を拒めるのなら、さすがに反対はしないわよね。
どんな罰を受けようともお前を差し出したりしない、と言ってくれていたのだから)
リーチェは魔法が掛けられた特殊なペンで、サラサラと自分の名前を書き入れた。
するとその瞬間、金色の婚約誓約書からこれまた金色の光が放たれた。
「これで無事に婚約が成立したよ。王宮にもこの知らせはすぐに届くはずだよ。
これで僕達は正式な婚約者同士だ。
まあ本来なら、僕が十五の誕生日を迎えた日に婚約するつもりだったんだけれどね。
そして来週僕が学園を卒業したら、即結婚式を挙げるはずだった」
「えっ? 貴方の卒業は来年でしょ?」
「君と早く結婚したかったから、飛び級したんだ」
満面の笑みの中にも少しだけ毒を含んだ彼の顔を見て、彼女は気まずい気持ちなった。
そして改めて彼の強くて真摯な思いを知り、直情的な行動をした自分を後悔したリーチェだった。
そしてその後、正装用の紺色のシンプルなワンピースドレスを着替えたリーチェを見たギフティーが、こう訊ねた。
「そのドレスで卒業パーティーに参加するの?」
「いいえ、パーティーには出ないわ。答辞を頼まれたから卒業式には出ることにしたけれど、エスコートしてくれる人もいないから、元々パーティーには参加しないですぐ帰国するつもりでいたの。
夕方にドラコーン行きのうちの貨物船が出港するから、それに乗船する予定だったし。
貴方はどうする? 一人くらい増えても問題ないと思うけれど」
まるで王子様のように美しくて高貴な雰囲気を醸し出しているギフティー。
そんな彼が、装飾が何一つない無機質な貨物船に乗船している絵図がどうしても思い描けなかったが、リーチェは一応そう訊ねてみた。
(船員の皆さんも驚くわよね。私の計画を知っているはずだから)
一応、木箱や鞄と共に彼女自身も、母国行きの貨物船に乗り込む予定ではあったのだ。
ただし、途中で寄港した際に下船して、そこから別の国へ行くつもりだった。
そして乗組員達に、甲板から誤って海に落ちたと証言してもらうつもりだった。
そうでもしないと、あの王弟から逃げられないと彼女は思ったのだ。
しかし、ギフティーの気持ちを知ってしまった以上、そんな自分勝手なことをする気はすでなかった。
こんなに自分を思ってくれていた彼に、さらなる悲しみや苦しみを与えるなんてことは絶対にしたくなかった。
いや、彼だけでなくこれまで自分を心配してくれていたフルーラ夫人や、マリアンにポーラ、そして両家の使用人達にも……
(自分と婚約などしたら、ギフティーやオーウェン子爵家に多大な迷惑をかけるわ。それは心苦しい。
それでも、二人で力を合わせて何とか乗り切りたい。
そして、一生をかけて彼やみんなにその恩を返そう)
そうリーチェは心に決めたのだった。




