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「ベラトリックス王太女殿下がお身体の調子を崩されたため、談判の再開は三日後となるそうです」
「……そうか」
ジェレミーの報告を聞き、シリウスは小さく息を吐いた。
張り詰めていた心が少しだけ緩む。早々にこの問題に決着をつけたいところではあるが、常に張り詰めていた気持ちを休めたいと思っていたのも事実だ。
「ならば今日の予定は無くなったな。……さて、どうしたものやら」
「でしたら」
どこからか声が聞こえ、シリウスとジェレミーは背後を振り返った。
部屋の入口に、シンプルなデイドレスを身に纏ったノーティカが佇んでいた。
「わたくしと街へ下りませんか?」
「ノーティカ!」
シリウスの声が弾む。
「最近は視察も控えておりましたし、せっかくですから気晴らしに街歩きなどいかがでしょう」
「もちろん、お供させてください」
二人は顔を見合わせて、柔らかく微笑んだ。
ノーティカの穏やかな笑顔を見た瞬間、シリウスは胸の重石が軽くなるのを感じた。
「……王族が気軽に街歩きなど、大丈夫なのでしょうか」
ジェレミーは、ノーティカの背後に控えていた侍女にひっそりと問う。
侍女は大きな身体を屈めながら、同じように声を潜めて返した。
「今更ですわ、ジェレミー様。視察であちらこちらへ出歩き、畑で鍬を振るうような御方ですもの」
「……確かに、今更でしたね」
二人は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
雨季の晴れ間の街は、賑わいを見せていた。
馬車を降りて目抜き通りを歩くと、街道のあちこちから声がかかる。
「ノーティカ王女殿下、シリウス王子殿下! 今日はご視察ですか?」
「いいえ、ちょっと街歩きに」
「まあ、デートですか? ふふ、仲睦まじいですね」
「デ……デート……そう、ね……」
ノーティカがぽっと頬を染めた。隣を歩くシリウスも、照れくさそうな表情を浮かべる。
防犯のため周囲を護衛に囲まれてはいるが、決して物々しい雰囲気という訳ではない。街の人々は特段物怖じする様子もなく、気さくに声をかけてくる。
ノーティカがこうやって王都の散策をするのは珍しい事ではないのだろう。
「改めて見ると、王都は多彩な店がありますね」
「何か気になるお店でもありました? 立ち寄ってみましょうか」
「あっ、あちらの店は何でしょう? エキゾチックアニマル……と書いてありますが」
シリウスは物珍しそうに、通り沿いの店を指差す。
店舗の看板を目にしたノーティカの顔があからさまに強張る。
「あれは……ええと、その、蛇などの珍しい生き物を扱っている店……ですね」
ノーティカは店の軒先からわずかに目を逸らしながら答えた。その声はどこか硬い。
その様子で、シリウスも察した。
「……立ち寄るのは止めておきましょう」
「申し訳ございません……」
「いいえ、ノーティカにも苦手な物があるんですね」
「はい……どうしても蛇が苦手なのです」
「あなたの知らなかった一面を見る事が出来て、むしろ嬉しいです」
シリウスがふっと表情を緩めると、ノーティカは少し拗ねたように唇を尖らせた。彼女のそんな表情を見るのは初めてだった。
「もう……フェアじゃないわ! わたくしにも、シリウスの苦手な物を教えてください」
「苦手な物ですか? そうですね……」
隣り合って、歩幅を合わせ、笑いながら歩く。それだけの事が、なんだかとても久しぶりに感じた。
ベラトリックスがやって来てからほんの数日しか経っていないのに、日常から随分と遠く離れてしまったような感覚だった。
「……殿下! シリウス殿下!」
その時、ふと街道沿いからシリウスを呼び止める声が聞こえた。
シリウスとノーティカは揃って振り返る。そこには赤ん坊を抱いた夫婦が立っていた。
その姿には見覚えがあった。
シリウスはあっと口を開く。
「あなた達は、巡礼の時の……」
精霊祈念祭の巡礼の際に、シリウスに話し掛けてきた夫婦であった。
あの時は大きなお腹を抱えていた女性が、今は大きな赤ん坊を腕に抱えていた。
夫婦はにこやかに笑い、揃って一礼した。
「シリウス殿下、その節はありがとうございました」
「あの時、殿下から名前を賜った子です。スピカといいます」
スピカ。「もし女の子が産まれたら」と言って授けた名前だった。
子守紐に包まれ、母親に抱かれた赤ん坊。柔らかな素材のベビーウェアを着せられ、ぱくぱくと小さな口を動かす姿は、まるで天使のように愛らしかった。
ビガ族の赤ん坊を初めて見たシリウスは、思わず目を真ん丸に見開いてしまう。ビガ族は赤ん坊の頃から既に大きいのだなと、内心驚いていた。
スピカと名付けられた赤ん坊は、子守紐の中で元気いっぱいに手足を動かしていた。
「元気で可愛らしい女の子だ。無事に産まれたようで何よりだよ」
「まあ! 本当に愛らしいわ……」
ノーティカは赤子の顔を覗き込み、頬を緩ませた。
「だ! あぅ!」
「ああ、ダメよ……可愛すぎるわ!」
ノーティカは赤ん坊の一挙一動にメロメロだ。
両頬に手を当てて今にも崩れ落ちそうになっている彼女を、シリウスは微笑ましく見つめる。
「うふふ、本当に天使みたい。では小さな天使にご加護があるよう、お祈りしましょうね」
ノーティカはそっと目を伏せ、両手を胸の前で組んだ。
「小さき命に、精霊様のご加護がありますように」
ノーティカは巫女として、精霊に祈りを捧げた。シリウスも同じように両手を組み、心の中で祈りを捧げた。
「まあ……! ノーティカ殿下、シリウス殿下。この子の為にお祈りいただき、ありがとうございます!」
夫婦は深々と頭を下げた。その瞳には、多大なる感謝の念が滲んでいた。
「シリウスに名前を授けられ、精霊様のご加護も授けられた。この子はきっと、皆に祝福される幸せな子に育つはずよ」
ノーティカはそう言って穏やかに微笑みを浮かべる。
――その瞬間だった。
ふわりと、一陣の強い風が舞った。
「あら……」
ノーティカが何かに気が付いたように目を見開く。
次いで、子守紐で包まれたスピカが突然声を上げた。
「だ! あー! あうー!」
「どうしたんだ? スピカ」
スピカはある一点を見つめ、何もない空中に向かって手を伸ばした。
その顔はとても楽しそうだ。きゃっきゃと笑うような声まで発している。
両親は不思議そうにスピカを眺めた。
「もしかしてこの子……精霊様の声が聞こえるのかもしれないわ」
ノーティカは口元に手を当て、驚いたようにそう告げた。
「えっ!? 本当ですか?」
「うちの子が、精霊様の声を……?」
「ええ。精霊様の声に反応しているみたい」
精霊の声を聞く事が出来るのは、精霊と魂の相性が合う者だけである。
「もしかしたらこの子は、未来の精霊の巫女かもしれないわね」
「まあ、うちの子が巫女様に!?」
「すごいなぁスピカ、ノーティカ王女殿下にこう言ってもらえるなんて」
両親はスピカの顔を覗き込み、優しく頭を撫でた。スピカはまたきゃっきゃと嬉しそうに笑う。
白く柔らかな頬が笑みに揺れるのを見て、シリウスは心の奥が温かくなるのを感じた。
「可愛い赤ちゃんでしたね」
「ええ。なんだかこっちが元気を貰ってしまいましたね」
王城までの帰り道。馬車に乗り込んだシリウスとノーティカは、先ほど出逢った親子の事を思い返していた。
「ノーティカは子どもが好きなんですね」
「ええ! 庇護欲というのでしょうか……あの愛らしさに、胸がぎゅっと締め付けられてしまうのです」
ノーティカは目を閉じ、赤子の愛らしさを噛みしめるように言った。
シリウスもそれに答えるように小さく頷いた。
「分かります。……私は今まで、赤ん坊と関わる機会がありませんでした」
シリウスは兄弟の中で一番下の子だ。
それに幼い頃は離宮の中でひっそりと暮らしていたため、他の家の子どもと関わる機会も一切無かった。
赤ん坊という存在に触れたのは、今日が初めてだった。
「でも今日あの子を見て思いました。皆に祝福されて産まれた子が、小さな身体で今日も精一杯生きている……それはなんて尊い事なんだろうと」
スピカ。シリウスが名付けた赤ん坊。
彼女が周りの人々に愛されて健やかに生きていく未来を想像し、シリウスは胸が熱くなった。
「誰が産んだ子であっても、どこで産まれた子であっても……皆に祝福され、幸せな人生を歩んでほしい。そう、願ってしまうのです」
「……シリウス」
ノーティカは、向かい合うシリウスにそっと手を伸ばした。
シリウスの手が、ノーティカの大きな手に包まれる。
「わたくしたちで、作ってまいりましょう。誰もが祝福され、誰もが幸せな未来を描く事の出来る……そんな国を」
その言葉はどこまでも真摯な響きを持っていた。
ビガ国の次期女王であるノーティカには、それを実現するための覚悟があった。
「ええ、ノーティカ。あなたの配偶者として、どこまでもお供します」
シリウスは強く心に誓った。
この国の未来と幸福を願うノーティカを、ずっと隣で支えていきたい。
――そしてそのためにも、ベラトリックスと戦わなければならないと。




