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「……くそっ!」
ベラトリックスは持っていた扇子を床に叩きつけた。
バシッという大きな音が、貴賓室の小客室内に響き渡る。
「殿下、どうか御心をお鎮めください」
「ええい! 忌々しい……!」
外務大臣のディズリーはベラトリックスを宥めようと声をかけるが、彼女は既に頭に血が上り切っていた。
癇癪に慣れきっているディズリーは、ここまで激高したベラトリックスを宥めるのは無理だと判断した。
後ろに控えた侍女と顔を見合わせ、ただ呆れたような表情を浮かべるだけだった。
「蛮族の王も、グウェンも、アーノルドも……シリウスも!」
ここが他国の王城でなければ、きっとベラトリックスは室内のあらゆる物を壊していただろう。
幼い頃からすぐに癇癪を起こす気があったが、その悪癖は大人になった今も治らなかった。
「……蛮族などと侮るべきではありませんでしたな」
ぽつりと呟くディズリーを、ベラトリックスはきつく睨みつける。
だが彼は気にも留めないように言葉を続けた。
「あの王はなかなかの老獪です。一筋縄ではいかないかと」
「分かっている!」
ベラトリックスは唇を噛んだ。形の良い唇に、今にも血が滲みそうなほど強く。
ビガ国のような未開の地の王など、外交に疎いはず。少々圧をかければすぐに譲歩してくると思っていた。
政治的に優位なポジションを取る事も、賠償も、容易く得られるはずだった。
ついでに遠く離れた異母弟を久方ぶりに甚振る事も出来ると思い、意気揚々と海を越えてやってきた。
――だが、これは一体どういう事だ?
ファーレン王はアストラ王国の圧に一切動じる事がない。ビガ国の責任問題を問おうとすれば、逆にこちらの後ろ暗い過去を暴き立てられてしまった。
グウェンやアーノルドの様子を見る限り、ベラトリックスに対し疑心を持っているようだった。そしてそれは彼らだけに留まらない。
ベラトリックスがシリウスに冷たく当たっていたという事実は、アストラ王国の中枢に居る者ならば皆知っている事だ。――だがしかし、今回の一件で露見した。それは冷遇などといった軽いものではなく、凄惨な虐待だったという事実が。
疑心は徐々に広がり、ベラトリックスの足場を大きく揺らがせる。
ベラトリックスは、自分がいつの間にかひどく不安定な崖の上に立っている事に気付いてしまった。
昨晩まではあの頃のようにオドオドと怯えた様子を見せていたシリウスも、どういう訳か今日は怯んだ様子を見せない。
それどころかベラトリックスに対し、反抗的な態度を取っている。――シリウスのくせに!
「殿下、改めて策を講じましょう」
「……どうしろと言うのだ……!」
「此度の我々の目的は、シリウス殿下の襲撃事件を口実にビガ国に賠償を求める事。更にビガ国に対し政治的優位性を得る事でした」
興奮状態のベラトリックスとは対称的に、ディズリーは落ち着き払った態度を取っている。彼もまた、百戦錬磨を乗り越えてきた老練の者である。
「ですが今となってはそれも難しい。むしろ逆にこちらの責を問われる可能性すらあります。ですので、目的を変更しましょう」
今日の談判では、シリウスが虐待を受けていたという事実を暴かれ、アストラ王国側の弱点となってしまった。アストラ王国としても、虐待の件についてこれ以上探られるのは避けたい。
「……目的を変更するだと?」
胡乱な視線を送ってくるベラトリックスに、ディズリーは大きく頷く。
「シリウス殿下の失墜を狙うのです」
ディズリーの答えに、ベラトリックスは大きく目を見開いた。
「話を聞く限り、シリウス殿下はビガ国で相当な支持を得ております。なんでも輸出業の発展の立役者となったとか、他にもご活躍をされていると聞き及んでおります」
「ああ……あの無能がそこまでの働きを見せるとは、いまだに信じ難い事だがな」
「新しい風は時に考えられない程の成功を呼び込むものです。きっとこれからもシリウス殿下という風が、ビガ国を発展させる鍵となるはずです」
「生意気な……」
ベラトリックスは不快そうに顔を歪めた。
異母弟の無能さを信じきっているベラトリックスには、彼が成し遂げた功績など偶然の賜物としか思っていないのだろう。
だが、ディズリーは違う。シリウスは才覚のある人間だと既に気付いているのだ。
「このまま放っておけば、きっとビガ国は更に発展し、国力を増強する事でしょう。その中心人物となるシリウス殿下を排除するのであれば……チャンスは今しかありません」
「なんだ、暗殺でもするつもりか?」
ベラトリックスの片眉がぴくりと上がる。
ディズリーはわずかに首を横に振り、声を潜めるようにして答えた。
「いいえ。シリウス殿下とビガ国王女の婚約を白紙に戻し、殿下をアストラ王国に戻すのです」
「なんだと?」
「シリウス殿下は利用価値があります。なれば首に縄をつけて、アストラ王国でしっかりと管理しておけば良いのです」
「……なるほど」
ベラトリックスは口角を吊り上げ、にやりと歪んだ笑みを見せた。
「そうだな……私の派閥の貴族家に婿入りでもさせたら良いか。それならば奴に首輪を着けておける」
「ええ、都合の良い婿入り先ならいくらでもありましょう」
「そうだな……ふふ、良い案ではないか」
ベラトリックスはその光景を想像し、愉悦に浸った。
シリウスの使いようならいくらでもある。国外に追い出して憂いの種とするよりも、手元に置いて飼い殺しにしておく方が良いに決まっている。
「だが、どうやって婚約を解消させる?」
「それについては、私に考えがございます」
ディズリーは目を細めた。その表情はまるで狡猾な狐のようだ。
「次期女王の王配が他民族の王子――それを懸念に思う貴族もこの国には居られます」
シリウスは多くのビガ国民から受け入れられている。とはいえ、もちろん全ての民が同じ意見という訳ではない。
他民族であるシリウスを良く思わない者も、少なからず存在している。
ディズリーも外交に携わる者として、その程度の情報は既に耳にしている。
「私の知る限り、シリウス殿下を快く思っていない貴族家が幾つかございます。そしてシリウス殿下に代わり、自身の子を王配につけたいとも」
「なんだと……それは誠か」
ええ、とディズリーは首肯する。
「以前よりビガ国の有力貴族については情報収集をしておりました。その中に適任の者が居ります。殿下のお許しが頂けましたら、秘密裏に接触を進めてまいります」
「ならばすぐに接触を図れ」
「承知いたしました」
ディズリーは恭しく頭を垂れ、部屋を後にした。
「ふっ……ははははは……! これは面白くなってきたな!」
独り残された部屋で、ベラトリックスは高らかに笑う。
床に落ちた扇子を拾い上げ、指先でくるくるともてあそぶ。
「そうだ、そうだとも……私の王位を横から掠め取ろうとした卑怯者め、私から逃げられるなどと思うなよ」
ベラトリックスは目を伏せて思い返した。シリウスがアストラ王国の王城に居た、あの日々を。
腹の底から湧き上がる憎悪を暴力という形でぶつければ、異母弟は惨めったらしく泣き喚いた。あの怯えた顔を見るだけで、胸がすくような気持ちになった。
――ああ、またあの顔を見たい。人の顔色を窺い、いつもオドオドと自信がなさそうで、鞭での躾に怯えていたあの顔を。
ベラトリックスは無意識のうちに、舌なめずりをしていた。
「蛮族共にいくら持て囃されようが、人の性など早々変わらぬものよ。お前はいつまで経っても無能な半端者――そうでなければならない」
扇子を自らの手のひらに打ち付ける。パシン、と乾いた音が鳴り響いた。
それは、異母弟の頬を打った時の音によく似ていた。
「今度こそしっかりと躾けてやらねばな……自分は思い上がっていただけだと、本当は無価値な人間なのだとあいつに分からせなければ……」
口元が大きく歪む。
「ふ、ふふ……っ、あはははははっ!」
堪えきれなくなったように、ベラトリックスは笑い声を上げた。
その瞳には、最早理性の光など映していなかった。




