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「……シリウス?」
背後からかけられた声は、美しい鈴の音のように響き渡った。
シリウスとベラトリックスは揃って振り返る。その瞬間、シリウスの足にかけられていた圧力が消え去った。
「ノーティカ……」
そこにいたのは、テラスを覗き込むノーティカだった。
彼女の顔を目にした途端、シリウスの固まった身体がわずかに和らいだ。
「ベラトリックス王太女殿下。お加減はいかがでしょうか? 酔い覚ましをお持ちいたしましょうか」
「……ノーティカ王女殿下。お気遣い痛み入ります。ですが問題ありません、もう酔いも覚めましたゆえ」
ノーティカがゆっくりと近づいてくる。ベラトリックスはすでににこやかな王太女の仮面を被っていた。
「正式なご挨拶が遅くなり、申し訳ございません。わたくし、シリウス様の婚約者のノーティカと申します」
「シリウスの異母姉のベラトリックスです。我が異母弟がいつもひとかたならぬお世話になっております」
二人の王女は、互いに礼の姿勢を取る。
「あのように至らぬ者を温かくお支えいただき、異母姉として安堵いたしましたわ」
ベラトリックスは言う。表向きは謙遜のようだが、彼女は真に『至らぬ者』と思っているのだ。
「いいえ。わたくしこそいつもシリウス様に助けていただいております。彼の支えが無くては、次期女王として至らぬところばかりですもの」
それに対し、ノーティカも謙遜の言葉で返した。
「国内視察を通して、シリウス様はビガ国の民にも慕われるようになりました。それに精霊様より特別な祝福も受けておられます。彼はもう、この国にとってなくてはならない存在となりました」
完璧な微笑みを見せながらノーティカは言ってのける。それは彼女の心からの言葉だ。
「精霊の……祝福?」
ベラトリックスは訝るように尋ねた。
ビガ王国では精霊信仰が盛んだが、他国においてはそうではない。ベラトリックスにとっても耳慣れない概念だった。
「ええ。この国には精霊様が居られますから。シリウス様はその精霊様に認められた尊きお方なのです」
ノーティカは鷹揚に肯き、ベラトリックスを見つめた。
二人の身長差ゆえ、ノーティカが自然と見下ろすような形になる。
頭上から投げかけられる視線に、ベラトリックスがわずかに怯むような気配を見せた。――とはいえ、この気配もシリウスにしか分からない程度のものだが。
「……そうでしたか。それは重畳ですわね」
ふ、と小さく笑みをこぼしながら、ベラトリックスはドレスを翻した。
「そろそろ晩餐会に戻りますわね。ノーティカ殿下、お気遣いいただきありがとうございました」
「いいえ。どうかお足元にはお気をつけて」
一歩踏み出したところで、ベラトリックスは足を止めた。
そしてゆっくりと振り返り、シリウスに視線を向ける。完璧な淑女の微笑みを見せて。
「……シリウス、またね」
それは異母姉が異母弟にかけるには当たり前の言葉。
けれど計り知れない圧を感じたシリウスは、震えそうになりながら頭を下げた。
「……はい………姉上」
今にも倒れ込みそうになるのを堪えながら、ヒールの音が遠ざかっていくのを聞いていた。
顔色を悪くしたシリウスの頬に、不意に温かなものが触れた。
「シリウス……大丈夫ですか?」
それはノーティカの指先だった。心配そうな顔つきで覗き込んでくるノーティカが、シリウスの頬に手を添えていた。
あたたかい。強張った表情がかすかに解れた。
「はい……ありがとうございます……」
「お二人の様子が少し不自然だったので、気になって……」
テラスの入口からは、二人の会話は聞こえなかった。
けれどどこか不穏な空気が漂っているのは感じ取れた。堪らずノーティカは声をかけてしまったが、シリウスの様子を見てそれが正解だったと思った。
「何かあったのですか?」
ノーティカの探るような言葉に、シリウスは肩をびくんと跳ねさせた。
「は……いえ……」
シリウスは視線をふらりと彷徨わせた。言葉もどこか歯切れが悪い。
何か良くない事が起こっているのは明らかなのに、それを詳らかにはしない。ノーティカはもどかしい気持ちになってしまう。
「無理に話してほしいとは言いません。ですが、あなたがいつもわたくしを支えてくれているように、わたくしもあなたの力になりたいのです」
「ノーティカ……」
シリウスは息を呑む。喉の奥がひりつくように痛んだ。
話してしまいたい。全てを打ち明けて楽になりたい。
けれど同時に、強い恐怖が胸を占めていた。
知られるのが怖い。自分がどれほど惨めで情けなく生きてきたのかを。
王子でありながら虐げられ、怯え、逆らう事も出来なかった人間なのだと。
きっとノーティカは、軽蔑などしないだろう。失望などしないだろう。シリウスとて、彼女の善性を信じている。
ただ、それでも怖かった。
「……これは、わたくしの我儘です」
ぽつりとノーティカが呟く。『我儘』などと嘯くその声はひどく優しく、穏やかだった。
「あなたの背負う荷物を、私も共に背負いたい。そんな身勝手な我儘なのです」
それはとても真摯で、どこまでもシリウスの事を想った言葉だった。
その言葉を聞いた途端、喉の奥に熱いものがこみ上げてくる。
彼女の想いに応えなければならない。そう思った。
シリウスは心を決めたように、ぐっと顔を上げた。
「……話します」
その瞳は不安に揺れながらも、ノーティカへの信頼感が強く滲み出ていた。
「私の過去を……異母姉の事を」




