26
ベラトリックスは揺れる船上で、どこまでも続く海を忌々しげに眺めていた。
「まったく……海の果ての国とはこうも遠いものか」
扇子をばさりと広げて乱暴に仰ぐ。
船室の窓から覗く光景は、ここ数日まったく変わり映えのしないものだった。
気晴らしに側仕えの侍女に話を向けるが、彼女はどうにも体質的に船酔いしやすいらしい。
辛気臭い顔を見せられるのも不愉快だと、仕方なく早々に下がらせた。
頬杖を付き、目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのはシリウスの怯えたような顔だ。
ベラトリックスは、ふっ、と小さく笑う。異母弟の情けない姿を思い出している方が、余程気晴らしになる。
「ビガ国か……どうせ海に囲まれた未開の地であろう。国としての程度が知れているわ」
ベラトリックスは誰に言うともなく独りごちる。
「まして巨人族だと? ははっ、図体ばかりが大きい蛮族じゃないか。あの軟弱なシリウスが上手くやっていける筈などない」
シリウスはいつもベラトリックスの前で縮こまっていた。
臆病で矮小で軟弱なシリウス。そのような者が、野蛮な巨人の国で如才なく立ち回れるとは到底思えなかった。
まして巨人の姫との婚姻など、滑稽なものでしかない。
あちらの国でも冷遇されているのだろうか。それならば今回の襲撃事件を、外交のカードとして切るのは少々難しいかもしれない。
いやしかし、腐ってもシリウスはこちらの国の第一王子だ。外交問題として事を大きくすれば、あちらもすぐに譲歩するだろう。
ベラトリックスは脳内であらゆる思考を巡らせながら、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべた。
「あの国の生命線を握っているのは、アストラ王国……いや、私だ」
アストラ王国の一団を乗せた船が港に着岸する。ベラトリックスは巨大な港を目にして、一瞬目を瞠った。
「……大きいな……」
思わず圧倒されたように呟いてしまう。それは彼女の想像以上の規模感だった。
港に並ぶ他の船は、他国へ向かう輸出船だろうか。造りのしっかりした巨大な船に、大量の木箱や樽を積み込んでいる様子が窺えた。
タラップから地面に降り立つと、港で働く人々が物珍しそうに視線を送ってきた。
当然だが、誰も彼もが巨体である。頭上から無遠慮に投げかけられる視線に煩わしさを覚えたが、ベラトリックスは表情に出さぬように淡々と歩みを進める。
「……あれは?」
「アストラ王国の……」
「ほら、シリウス殿下のお国の。御姉妹の方だと伺っているよ」
周囲からひそひそと囁く声が聞こえてくる。それが無性に苛立った。特に、最後に囁かれた名前に。
ベラトリックスは歪んだ口元を隠すように、扇子を広げた。
そして用意された馬車に乗り込んだ瞬間、ベラトリックスは大きな舌打ちをした。
「……気に食わん」
この国ではベラトリックスは『アストラ王国の王太女』ではない。『シリウスの異母姉』として見られるのだ。その事実が、胸を掻きむしりたくなる程に腹立たしい。
「野蛮な巨人共が……無作法にも程がある。まったく、教養の欠片もない田舎者め」
ぎりぎりと歯噛みをするベラトリックスは、広げた扇子を勢いよく閉じた。パチン! と打擲するような大きな音が、馬車の客室内に響き渡る。
「やはり……徹底的にやり込めるしかないな。蛮族どもに、目にもの見せてくれよう」
ビガ国王城、玉座の間。
シリウスが初めてこの城に来た時に足を踏み入れた場所だった。
あの時は不安や戸惑い以上に、見知らぬ文化への興味や新しい生活への期待で、どこか浮足立っていた。
けれど、今は違う。まるで判決の時を待つ罪人のような気持ちだ。
背後に控えるジェレミーが、シリウスにのみ聞こえるように呟く。
「まったく……ベラトリックス殿下は一体何をお考えなのか」
「……私には分かるよ」
シリウスは、自嘲するようにふっと笑った。
「あの方は、私を陥れる事にご執心なんだ」
「まさか……とっくに他国に輿入れしたシリウス様に、そこまで……?」
ベラトリックスの執着心が、ジェレミーには理解の外だったようだ。
シリウスとて、異母姉が今になってこのような手段を取ってくるとは思わなかった。
けれど彼女は『自国の第一王子が輿入れ先の国で襲撃された』という事を口実にして、外交問題に仕立て上げた。
もちろん賠償の請求など、政治的な利益も考えているだろう。けれどおそらくシリウスへの嫌がらせという目的も大いに含まれている。
もうとっくに治った筈の傷が疼く。身体の傷も、心の傷も。
シリウスは目を伏せ、拳をぎゅっと握った。冷えた指先が、シリウスの張り詰めた心を表しているようだった。
その時、ふと誰かが寄り添うような気配を感じた。視線を横に向けるとノーティカの新緑色の瞳と目が合う。その目はどこか心配そうに揺れていた。
彼女の顔を見た途端、浅くなりかけていた呼吸が少しだけ落ち着いた。
――そうだ、逃げてはいけない。
これはきっと、いつか向き合わなければならなかった過去なのだから。
シリウスはノーティカにしっかりと視線を合わせ、小さく頷いた。
遠く、玉座の間の大扉が軋む音がした。
――来た。
全員がそちらへ視線を向けた。
まず、ビガ国の屈強な騎士が先導するように入室する。
そしてわずかに距離を保ちながら、騎士の背後を歩む淑女。
その華奢な身体は騎士の巨体にほぼ隠れているというのに、どういう訳か圧倒的な存在感を放っていた。
深紅の絨毯の上を歩く足取りに迷いは無い。
まっすぐに伸びた背筋。指先の位置まで意識しているのであろう、洗練された立ち姿。
エンパイアラインを描くドレスは、鮮やかな赤だ。咲き誇る薔薇のような赤に、誰もが目を奪われてしまう。
黒く艶やかな髪はきっちりと結い上げられ、一分の隙も感じさせない。
その姿は、ノーティカとはまた違った王女としての格を見せつけていた。
高貴な身分に生まれ、人の上に立つべく育てられた者の自信。そういったものが全身から滲み出ていた。
「遠路遥々よく参られた、ベラトリックス王太女殿下」
ファーレン王が口火を切る。どこか圧を感じるような重々しい声が、玉座の間に響き渡る。
「お心遣い、痛み入ります。アストラ王国王太女、ベラトリックスにございます」
ベラトリックスはドレスの裾をつまみ、片足を後ろに下げて優雅に腰を落とした。アストラ王国式の礼の形だ。
「此度は我が異母弟シリウスが、多大なるご迷惑をおかけしたと聞き及んでおります」
その言葉に、シリウスの肩がぴくりと揺れる。
ベラトリックスはなおも言葉を続ける。
「さらには不慮の傷を負ったとの報せを受け、居ても立ってもいられず参りました」
そこで一度言葉を切ると、ベラトリックスは顔を上げる。
玉座の間をぐるりと見回し、視線をある一点で止めた。その視線の先にあるのは――シリウスだ。
シリウスは息が止まりそうになるのを感じながら、必死で表情を作る。決して弱みなど見せぬよう。敵に隙を見せぬよう。
けれどベラトリックスは僅かに眉を下げ、どこか悲痛な表情を見せた。そして首を横に振り、まるで悲劇の主人公であるかのように訴えかけた。
「本来であれば、我が国の大切な王子をこのような形で危険に晒す事など、決してあってはならぬ事」
(……大切な王子、だって?)
シリウスは息を漏らしそうになるのをなんとか堪えた。
言葉だけ聞けば、まるで異母弟を心から心配している健気な異母姉のようだ。
もちろんそのような事実など、一片も存在していないのだが。
「……ですがまずは」
そこでスッと表情が変わる。先ほどまで悲哀の色を滲ませていた顔は、すでにどこかへ消え去っていた。
「シリウスが無事であった事に安堵しております」
そう微笑む顔は非の打ち所なく美しかった。
それなのに何故か、その場の空気がわずかに冷えたように感じられる。
シリウスにとってはもはや見慣れた表情だ。けれど、やはり今でも胃が痛むほど恐ろしく感じる。
「弟君の負傷の件、ベラトリックス殿下には誠に心配をかけてしまった」
ファーレン王は威厳のある声でそう告げる。
だが、頭は下げない。まずは互いに牽制し合う段階だ。僅かでも隙を見せたら、そこを一気に攻め込まれてしまう。
「此度の事件について、詳細を談じたいところではあるが――長旅でお疲れであろう」
「……ええ。そうですね」
「本日はゆっくり休養していただきたい。明日また、じっくりと談判を重ねたいと思うのだが」
ファーレン王が水を向けると、ベラトリックスはゆっくりと首肯した。
「異論はございません。――ですが」
ベラトリックスは目を細める。獲物を狙う狡猾な蛇のごとく。
「大切な異母弟が深手を負ったのは事実。こちらの件、彼のためにも早々に結論を付けたいと思っております」
彼女は言葉の端々に刃を仕込んでいる。その刃に触れたが最後、痛手を負うのは明らかだ。
「何卒、迅速かつ賢明なるご判断を」
重々しく締めた言葉は、ビガ国側への露骨な圧力となった。




