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「シリウス殿下の御容態ですが、命に別状はありません」
シリウスを診察した老医師の言葉に、ノーティカはほっと息を吐いた。
「よかった……」
「ですがまだ意識は戻っておりません。いつ目覚めるかは、シリウス殿下のお身体次第です」
「……そう……」
シリウスが助け出されてから一晩が経った。あの後シリウスはすぐに御用医の元に運び込まれた。
怪我の手当てをされ、呼吸や脈に異常がない事も確認された。ただ、意識だけがいまだ戻らない。
ノーティカは心が翳りそうになるのをなんとか抑えこみながら、ぐっと顔を上げた。
「……きっとシリウスは目を覚まします。あの方は、強い方ですから」
「ええ。シリウス殿下のお力を信じましょう」
ノーティカを励ますように、老医師も答えた。
しかし老医師はすぐに表情を変え、あたりの様子を窺うように視線を巡らせた。
そして声を潜め、ノーティカだけに聞こえるようにして言った。
「実は……お伝えした方が良いのかどうか悩んだのですが」
「……何かあったの?」
ノーティカは首を傾げながら、老医師に耳を寄せた。
「……え……?」
医師が内密に伝えたその言葉に、ノーティカは身体が大きく揺らぐような感覚を覚えた。
――ああ、これは。幼い頃の記憶だ。
「薄汚い妾の子の分際で、私の立場を奪おうとしているのか? この恥知らずめ」
「いいえ、いいえ……! 私は王位など狙ってはいません。どうか信じてください、姉上!」
「うるさい! 貴様に姉などと呼ばれたくない!」
シリウスが固く閉じておいたはずの箱から、記憶が溢れだしてくる。
アストラ王国の王城で暮らしていた頃の、痛くて、つらくて、苦しい事ばかりの記憶が。
シリウスの異母姉であるベラトリックスは、生まれた時からこの国を背負う者として育てられた。
けれど皮肉にも公妾から生まれたシリウスだけが、国王の子の中で唯一の男子であった。それだけでベラトリックスの次期女王の座は、確たるものではなくなった。
それがどれほど彼女にとって屈辱的だった事か察するに余りある。
その憎悪は、当然のようにシリウスに向けられた。
「どうしておまえのような者が王位継承権を持っているのだ……ただ男というだけで、正統な血を持たぬ者が!」
「痛い!痛い……! おやめください、おやめください、姉上……!」
ある日ベラトリックスは癇癪を起こしたように怒り狂い、シリウスの頬を扇子でしたたかに打った。
シリウスの頬には、隠しきれないほどの大きな青痣が出来た。それを父に見咎められ、ベラトリックスは激しい叱責を受けた。
それからベラトリックスは大人しくシリウスへの暴力を止めた――なんて、都合の良い事は起こらない。今度は服に隠れて見えないところを、徹底的に痛めつけられるようになった。
「妾の子など、碌な躾も受けていないのだろう? 私直々に躾けてやらねばなるまいな」
ベラトリックスはそう言って、乗馬鞭を持ち出してきた。
シリウスが泣き叫ぶのも構わず、シャツの上から背中を打ち、ズボンの上から太ももを打った。
打たれた場所から血が出て真っ赤に腫れ上がり、数日間はまともに身動きも取れぬほどだった。
「これが愚弟だ。正統な血を持たぬ、出来損ないの半端者だがな」
ある日、ベラトリックスが取り巻きを招いて茶会を開いた。シリウスはそこへ無理矢理参加させられた。
取り巻き達は当然のようにベラトリックスに阿り、シリウスの存在を軽んじた。
恐怖に震える手でティーカップを持てば、「マナーがなっていない」と強く叱責される。そのたびにくすくすと嘲るような笑い声が周囲から聞こえてきた。
鞭で打たれた傷をかばうように身体を丸めれば、「まともに座る事すらも出来ないのか? おまえに比べたら、犬の方がまだ躾が出来ているだろうな」と咎められた。そしてまた取り巻き達の嘲笑の的になる。
茶会が進むにつれて、シリウスは息が苦しくなっていくのを感じた。
また別のある日、シリウスが昼食を摂っていた時の事。
スープを口にした瞬間、猛烈な吐き気を催した。
にがい、舌が痺れる、喉がひりひりと焼ける、苦しい、苦しい、苦しい。
シリウスは胃の中の物を全て吐き戻し、そのまま意識を失った。
食事には毒が盛られていた。おそらく毒性の弱いものだったのだろう。すぐに吐き戻したため命に別状は無かったが、その後しばらくの間、シリウスは食事自体に忌避感情を持つようになってしまった。
シリウスを助ける者はいなかった。
父はシリウスをそれなりに可愛がってくれてはいるが、執務で忙しい中、息子にしっかりと向き合う時間などほとんど無かった。
王妃や他の異母姉達も、シリウスを疎ましく思っていた。ベラトリックスのように直接的な暴力を振るう事はなかったが、彼女の蛮行を敢えて止める事もなかった。
ジェレミーを始めとした従者や使用人の一部だけがシリウスの味方だった。
けれど彼らの立場上、表立ってベラトリックスに逆らう事は叶わない。裏でこっそりと手助けするのが精いっぱいだ。
彼らの存在だけがシリウスにとっての救いだった。
シリウスの心は少しずつ削られていった。
このような環境で、自尊心など育つはずもない。
いつ襲いかかるとも分からない理不尽に耐えながら、日々をこなしていく。
そうして十八年間を過ごして来た。
心と身体に深く刻まれた傷は、今もまだ残っている。
時折じくじくと膿んで、シリウスをどこまでも痛めつけた。




