21
腹の底から叩きつけた言葉が、地下倉庫内に響き渡る。
けれど大きく歪み切ったニラスの信仰は、シリウスの言葉などで正されるものではなかった。
シリウスの前に佇む影がゆらりと動く。
「私は……間違ってなどいない」
低い声が落ちてくる。深淵のごとく昏い色の目が、シリウスを捕らえた。獲物を見定めた獣のような視線に、背筋がぞわりと粟立つ。
「やはり駄目だ」
ニラスが一歩踏み出す。
「あなたのような者が巫女姫様の傍に居るべきではない。あなたの存在が清廉な巫女姫様を汚してしまうのです」
白い祭司服の袖が大きく翻る。まずい――そう思った時には、もう遅かった。
ニラスの腕がシリウスの身体に伸びてくる。視界がぐわんと大きく揺らぐ。次の瞬間、小さな身体は宙に浮いていた。
「ぐ……っ……!?」
何が起こったのか理解するより早く、背中に強い衝撃が走った。轟音と共に、壁が大きく揺れる。
「がは……ッ」
片手だ。片手一本でシリウスは宙に持ち上げられ、壁に叩きつけられた。
肺が潰れてしまったように息が出来ない。喉から絞り出した叫びは、掠れた息となって外に漏れ出た。
次いで、長い指がシリウスの首に食い込む。壁に縫い留められるような形で締め上げられ、息を吸う事も出来なくなってしまった。
足が床に届かない。ありったけの力を込めて藻掻いてみせても、爪先が空を切るだけだ。
(まず……い……息が……)
首に食い込む指に爪を立て、ガリガリと搔きむしる。けれどニラスの大きな身体はびくともしない。
この国に来てから、多くのビガ族の人々と交流してきた。誰もが大柄で、それでいて穏やかで、小さなシリウスの事を気遣ってくれていた。
だから忘れていた。圧倒的な体格差とは本来、小さき命を容易く握り潰せるほどの暴力装置なのだという事を。
「無駄な抵抗はお止めなさい」
ニラスは諭すように言った。
「これは巫女姫様のためなのです。あなたさえいなければ、巫女姫様は清らかな存在でいられる」
指に力が籠る。その目は血走り、口元は歪んだ笑みを浮かべている。シリウスが必死で掻きむしった手には血が滲んでいた。けれどまるで気にも留めない。
シリウスの意識が徐々に白み始める。
それでも――負ける訳にはいかなかった。
「……ノー、ティカ……は、貴様の……偶像じゃ……な」
ひゅうひゅうと苦し気に喉が鳴る。それでも言葉を止めなかった。
少しでも気を抜けば、意識を失ってしまいそうだった。それでも目の前の男を睨みつけるのを止めなかった。
血が出るほど歯を食いしばり、視線で射竦める。胸の中に沸き起こる怒りだけが、シリウスの意識を繋ぎ止めていた。
「哀れ、だな……巫女姫という……偶像しか……見えていな、い……なんて」
ニラスの表情が凍り付く。次いで、一瞬でその表情は憎悪に歪んだ。
憐みの言葉。
それが、逆鱗に触れた。
「……ッ、黙れ!」
声を荒げたニラスが、拳を振り上げる。その瞬間だった。
「止めなさい!」
凛とした声が、狭い地下倉庫の中に響いた。
「……ノー……ティ、カ……」
それは、愛しい人の声だった。
「シリウスから手を放しなさい!」
大精霊司室から繋がる階段を駆け下りてきたノーティカは、ニラスの元に詰め寄る。
その表情は強い怒りに満ちていた。
ニラスは言われるがまま、シリウスを押さえていた手を放す。
壁に押さえつけられていた身体は、そのまま床に崩れ落ちた。受け身が取れず、肩をしたたかに打ち付けてしまった。
「うっ……」
「シリウス……シリウス! ご無事ですか!?」
崩れ落ちたシリウスの元にノーティカが駆け寄る。その目は潤んでいた。シリウスは荒い呼吸を繰り返しながら彼女の手に触れる。
「だいじょう……ぶ、です……」
息も絶え絶えにそう伝えた。途端にノーティカの下瞼のふちから、一粒の涙が零れ落ちる。
「良かった……」
ノーティカはシリウスの身体をそっと横たえ、ニラスの方を振り返る。今にも爆発しそうになる怒りを堪えながら、ノーティカは尋ねた。
「ニラス大精霊司……あなたは何故、このような事を……」
「ああ……巫女姫様。あなたならきっと理解出来るはず。私に『正しさ』を示してくださったあなたなら」
ニラスは陶然とした表情でノーティカに手を伸ばした。けれど彼女の背後に控えていた警備兵がそれを阻止する。
「王女殿下に触れるな!」
「殿下、お下がりください」
警備兵らはノーティカからニラスを遠ざけて捕縛した。床に押さえつけられ、後ろ手に拘束されたニラスは、それでも不気味に笑っていた。
「拘束を外すようお命じください、巫女姫様。私は歪みを正しただけなのです。あの者はあなたを汚す者。清らかで神聖なあなたの傍に置くには正しくない者です。だから私は排除しようとした。当然でしょう? あの者を排除すれば、あなたは誰にも触れられない完璧な存在になるのです。これは精霊様のご意思なのです」
それが当然だとばかりに、彼は言う。
まるで「書類を整理した」とか「部屋を綺麗に整えた」とか、そんな風に。シリウスをその手で害した事など、なんでもない事のように語っている。
見るからに尋常ではないその様子に、ノーティカは顔を引きつらせた。
「あなたはどうして……こんな風になってしまったの……」
ノーティカの瞳から怒りの色が消える。代わりに滲むのは、強い憐みの色だ。
ニラスは目を見開き、絶望したような表情を見せた。
「何故あなたが……あなたがそんな目で私を見るのですか」
ニラスの声が震える。まるで迷子の子どものように頼りなく。
「あの日、私の苦しみを理解してくれたあなたが! 私に道を示してくれたあなたが! 何故私を憐れむのです!?」
その慟哭は、ノーティカの心を真っすぐに穿った。
ノーティカは首を横に振り、顔を俯かせた。
「あの日……『正しさ』を求めるがゆえに苦しむあなたを、わたくしは放っておけなかった」
ノーティカの脳裏に、十年前の記憶が浮かび上がる。
巫女になったばかりの少女と、精霊殿の隅に蹲る少年。落ち込む少年を励ました、あの日の淡い記憶。
「あの時わたくしは、あなたに考えてほしかったのです。あなたの信じる『正しさ』が、本当に正しい事なのかと」
「ええ。巫女姫様のその御言葉で私は救われたのです。私の『正しさ』は真に正しいと気付かされたのですから」
「違うわ……あなたが誰かを傷つけて、道理を歪めてまでも信じる『正しさ』は……わたくしがあの日伝えたかった『正しさ』じゃない」
幼い二人が出逢ったあの日。美しい思い出の一ページが、ぐしゃぐしゃに塗りつぶされていく。
ニラスの歪んだ認知によって、ノーティカの言葉は曲解されてしまった。彼は自分の『正しさ』を、ノーティカに肯定されたと思い込んでしまった。
ノーティカは唇を強く噛んだ。あの日、泣いていた少年を救いたいと思ってかけた言葉が、皮肉にも彼の人生を大きく歪めてしまった。
だからこそ、彼に引導を渡すべきだ。その役目は自分が果たすべきなのだ。ノーティカは心を決めた。
床に這うようにして拘束されたニラスの前に、ノーティカは膝をつく。
幼い頃、蹲って泣いていた彼の隣に座り込んだ事を思い出した。あの時は、ドレスが汚れるからと侍女に叱られていた。それでも泣いているあの子に寄り添ってあげたいと思った。
あの頃と距離は変わらないのに、どうしてこんなにも変わってしまったのだろう。
ノーティカはニラスと視線を合わせながら、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を放った。
「二ラス大精霊司。精霊の巫女として伝えます。精霊様はこのような事を望んでいないわ」
「いいえ、ありえません。私は精霊様の御言葉に従ったのです」
ノーティカは目を伏せ、首を横に振った。
「精霊様は、シリウスの身に危険が迫っていることをわたくしに伝えてくださいました。祝福を授けた御子が害される事は、精霊様にとって嘆かわしい事だと」
「そんな訳がない! それは誤りだ!」
「いいえ」
とどめとばかりに、ノーティカはニラスの目をまっすぐ見つめ、はっきりと言い放った。
「間違っているのは……あなたです」
「……え……」
その言葉は、ニラスの心を打ち砕いた。彼にとってこれほど残酷な言葉は無い。
ニラスは目を大きく見開き、呆然とした顔を見せた。
「私が……間違っている……だと?」
ずっと己の『正しさ』を信じてきた。己の信じる『正しさ』に従って生きてきた。
だというのに、ノーティカはそれを真っ向から否定する。それはニラスの人生そのものを否定する言葉に他ならない。
「嘘だ……私は正しい。私の信じる事こそがこの世界の正しさ……精霊様も巫女姫様も、間違った思想に歪められてしまったのだ。私が、私が正さなければ。わたしが」
ニラスの目は、もはやノーティカを見ていなかった。
ただひたすらに焦点の合っていない目で、妄言をぼそぼそと呟く。
その姿はただただひたすらに哀れで痛々しい。正しく善くあろうとする聖職者の姿は、影も形も残っていなかった。
「……連れて行ってちょうだい」
ノーティカは苦々しい顔をしながら、警備兵に告げる。警備兵らは小さく頷くと、拘束したニラスの身体を引きずって地下倉庫を出て行った。
ニラスは最後までぼそぼそと妄言を吐き続けていた。
彼の語る『正しさ』は、もう誰にも届かない。
「げほ……っ、ノー、ティカ……」
「……シリウス!」
ノーティカは弾かれるように顔を上げた。床に横たわるシリウスが、咳き込みながらもノーティカの名を呼ぶ。
「無事……でした……か?」
「ええ、ええ! わたくしは無事です!」
「良かっ……ゲホッ」
「喋らないで! すぐに医者に……!」
ノーティカは言うが早いか、ぐったりと力を無くしたシリウスの身体に触れる。
「え?」とシリウスが声を上げる間もなく、その身体はふわりと地面から浮き上がった。
「許してください……緊急事態ですから」
気付けば、シリウスの身体はノーティカに抱き上げられていた。
ノーティカはシリウスを軽々と横抱きにしたまま、地下倉庫の階段を駆け上がる。
彼女の腕の中はひどくあたたかい。強張ったシリウスの身体が少しずつ和らいでいく。先ほどまで全身を支配していた恐怖や痛みが、熱に溶かされていくようだった。
「シリウス? シリウス、しっかりしてください!」
ノーティカが必死で呼びかける。けれどその声も少しずつ遠くなっていった。
(ああ……良かった。彼女が無事なら、それでいい……)
胸の奥を締め付けていた焦燥が少しずつ解れていく。
薄れ行く意識の中で最後に見たノーティカの顔は、今にも泣きそうに歪んでいた。
「シリウス……!」
名を呼ぶ声が涙に滲む。
大丈夫、と答えようとしたのに、唇が上手く動かない。
代わりに、ノーティカの服をそっと掴んだ。
シリウスの意識は、そこでぷつりと途切れた。




