15
「……ノーティカ様、どうなさいましたか?」
「シリウス様……」
精霊殿から城に戻って来たノーティカを出迎えたシリウスは、彼女の様子がどこかおかしい事に気が付いた。
顔色が悪い。いつもならば眩しいほどに輝いている瞳は、怯えたような色を湛えている。そして何かから守るように、髪の毛の毛先をひと房ぎゅっと握りしめていた。
尋常ではない様子を悟ったシリウスは、ノーティカを落ち着かせるように小客室のソファに座らせた。
「……ありがとうございます、シリウス様」
その声はかすかに震えている。悲壮感を漂わせた姿に、シリウスの心がざわめく。
「落ち着いて。ゆっくりで構いません。話せそうであれば、何があったかお聞かせください」
ノーティカは給仕された紅茶をひと口含み、やがてゆっくりと口を開いた。唇を震わせながら、先程の精霊殿での出来事をシリウスに語る。
ノーティカの話を聞くにつれ、シリウスの表情は段々と険しさを増していく。
「……あなたを一人にするべきではなかった」
後悔を口にするシリウスに、ノーティカは首を横に振って答える。
「いいえ。シリウス様は悪くありません」
膝の上に置かれた彼女の手はかすかに震えていた。シリウスは胸が締め付けられるような気持ちになりながら、その手にそっと触れる。
強ばった大きな手が、シリウスの小さな手の温もりで自然とほどける。ノーティカはほっと息を吐いた。
「ニラス殿は……どのような方なのでしょう」
初めて会った時から、シリウスに対して露骨に険のある態度を見せていた。それゆえにそれ以外の彼の側面を知らないのだ。
「そうですね……若くして大精霊司になられた、とても優秀な人です」
ノーティカはぽつりぽつりと話し出す。過去の記憶を辿るように、どこか遠い目をしながら。
「彼に初めて会ったのは十年ほど前。その頃わたくしは八歳で、精霊の巫女になったばかりでした」
精霊の巫女は、精霊との魂の相性の良さで決められる。先代の巫女が引退する際、複数人の巫女候補の中から次代の巫女が選出されるのだ。
ノーティカが巫女に選ばれた時、彼女はまだ八歳だった。
「あの方は十二歳。精霊殿に入ったばかりで、まだ精霊司見習いでした。初めて会った時はとても真面目な少年という印象でした」
ノーティカは古い記憶の中から、少年時代の彼の姿を思い返す。あの頃はビガ族の中でも小柄で細身な、どこか頼りなさを感じさせる男の子だった。
彼が幼年学校に通っていた頃、周囲から浮いた存在だったとノーティカは聞いている。
「真面目過ぎるがゆえに、同世代にあまり馴染めなかったと……そう話してくれた事がありました。それが精霊司になるきっかけだったとも」
周囲に馴染めなかった者が、信仰に居場所を求めるのは珍しい事ではない。ニラスは幼年学校を卒業後、中等学校に進むことなく『巨霊の理』の門戸を叩いたのだという。
「そうだったのですね……」
「ある日、わたくしは精霊殿の隅で震えているあの方を見つけました。あの方と言葉を交わしたのは、それが初めてでした……」
その日、ノーティカは先代の巫女から教えを受けるために精霊殿を訪れていた。
儀式の見学を終えて、王城へ戻ろうとした時。誰も居ない聖堂の隅に、ノーティカよりも小柄な少年がしゃがみ込んでいる姿が目に入った。
「あなた、大丈夫?」
「ひ……姫様……!?」
ノーティカが背後から声をかけると、少年は飛び上がらんばかりに驚いた。その顔は涙に濡れていて、ノーティカは思わず心配になってしまう。
「悲しい事があったのね? わたくしでよければ話を聞くわ」
ノーティカは蹲る少年の隣に並び、その場に膝をついた。
「姫様、お召し物が汚れてしまいます……!」
「ごめんなさい。今日だけは見逃してちょうだい」
後ろに控えていた侍女が悲鳴を上げたが、ノーティカは構わずそのまま座り込む。
「そんな、姫様のお耳を汚すほどの事では……」
「わたくしはビガ国の第一王女であり、次代の精霊の巫女だもの。つらい思いをしている人を放ってはおけないわ」
少年の涙に濡れた瞳が大きく見開かれ、そして眩い光を見た時のように瞳孔がきゅっと縮んだ。
彼は躊躇いがちに口を開き、やがてぽつりぽつりと言葉を漏らした。
「……失敗、してしまいました」
「失敗?」
「先ほど、儀式の準備をしていた時の事です。儀式に使う香炉の向きが少しずれている事に気が付きました。……私は、そのわずかなズレがどうしても許せなかったのです」
少年は赤くなった目元を手の甲で擦りながら、尚も言葉を続ける。
「私は位置を正そうと香炉を手に取ったのですが……手を滑らせて、床に落としてしまったのです。香炉は粉々に砕けてしまいました」
「まあ……」
ノーティカは目をまん丸に見開き、口元に手を当てた。そして不思議そうに首を傾げる。
「でも先ほどの儀式では、香炉の数はきちんと揃っていたわ」
「はい。運良く替わりの物が見つかったので、なんとか儀式には間に合いました。けれど、儀式に使う神聖な道具を壊してしまった……しかも儀式の直前にです。それで大精霊司様から叱責を受けました」
少年は悲しげに眉を下げ、肩を落とした。
「でも、仕方のない事だわ。形ある物はいつか壊れてしまうものよ。それが今日だったというだけなのだから」
「はい……大精霊司様も私をお叱りにはなりましたが、最後には姫様と同じ事を仰ってくださいました」
「そうよ、あまり気にしすぎる事はないわ」
「……ですが、私は悔しいのです」
少年は握りしめた拳を震わせた。悲しみに満ちた瞳が、また潤み始める。
「私はどうしても正しさにこだわってしまいます。曲がった事が許せない……そういう性格で、いつも周りから浮いてきました」
「そうなのね……」
「それでも良いと思っていました。曲がっている方が間違っているのですから。……ですが、正しくあろうとした事が結果的に誰かの迷惑になってしまうのです」
儀式に使う香炉は向きがわずかにずれていた。けれどそれは、香炉の側面の柄が隠れてしまう程度のもので、儀式には支障が無いようなものだ。
少年はそのわずかなズレを直す事が正しい事だと思っていた。
けれど手を触れなければ、香炉が破損する事はなかった。位置を直してしまったがゆえに事故は起きてしまった。
「私がわずかなズレを見過ごしさえすれば、香炉が割れる事はありませんでした」
少年は顔を伏せ、悔しそうにぽつりと呟いた。
彼は神聖な儀式の道具を壊してしまった事を悔やんでいるのではない。正しい行いが必ずしも良い結果になる訳ではないという、ままならなさに涙しているのだ。
「……あなたの『正しくありたい』という気持ちは、とても尊いものだと思うわ」
凛とした声が聖堂に響く。少年は伏せた顔を勢いよく上げた。
「あなたの気持ち、とてもよく分かるわ。わたくしは王族。民のき……き……えぇっと……」
ノーティカはそこで言葉を詰まらせた。「こういうの、なんて言うのだったかしら……」と思い悩むように呟き、頬に手を当てる。
「……『規範』?」
助け船を出すように、少年が言葉を続ける。ノーティカはそれを聞いてパッと目を輝かせた。
「そう、『規範』! わたくしも王族として、民の規範となるべく正しくあろうと心がけているの」
そう言って胸を張るノーティカを見て、少年は思わず噴き出すようにして笑った。
その心がけは立派な王族のものである。けれど少し背伸びをして慣れない言葉を使おうとする姿は、見た目通りのいとけなさがあった。
少年の表情は自然と解れていく。
「けれどね、正しい事ばかり押し付けるのは良くないの。だってこの世界には、正しい人だけが存在している訳じゃないもの」
ノーティカの声がかすかに硬くなる。伏した目のふちに、長い睫毛の影が落ちた。
それは先ほどまでのあどけない表情とは違い、どこか大人びて見える顔だった。
「正論だけでは人は救えないと、お父様は言っていたわ。だからこそ、その『正しさ』は『間違った正しさ』ではないかって、一度立ち止まって考える必要があるって」
「間違った正しさ……」
少年は言葉を咀嚼するように繰り返す。ノーティカの言葉が、すとんと心の隙間に落ちてくるようだった。
「あなたはとても真面目で誠実で、正しくあろうとする人。だからこそ苦しい思いをしているのね」
「……姫様……。はい、苦しいのです……とても」
少年は胸をぎゅっと押さえた。
苦しい。けれど、今はその苦しみを理解してくれる人に出逢えた事が何よりも嬉しい。震えるほどの歓喜が、少年の心を貫いていた。
「もしまた苦しいと思ったら、一度立ち止まって。そして考えてみて。これが本当の『正しさ』なのかって」
ノーティカは立ち上がり、少年に手を差し伸べた。その柔らかな手に少年はおずおずと触れる。触れ合った場所が熱を持つ。ノーティカにつられるようにして少年は立ち上がった。
「あなた、お名前は?」
「ニラス……精霊司見習いの、ニラスと申します」
「ニラス。あなたが立派な精霊司になるよう祈っているわ」
ノーティカは新緑色の目を細め、ふわりと微笑む。天窓から差し込む光が彼女の頭上に降り注ぎ、柔らかな薄茶色の髪を透かした。ニラスにとって、その姿はまるで精霊の化身のように神々しく見えた。
ニラスは去り行くノーティカの後ろ姿を、恍惚とした表情で見つめていた。
ずっとずっと、その背中が見えなくなるまで。
「……姫様、正しくあろうと思われるのならば、地面に座ってお召し物を汚すのはお控えくださいませ」
「もう! そんなこと言ったら台無しじゃない!」
――一方のノーティカは侍女に咎められ、ぷくっと頬を膨らませていた。




