第8話:辞めてもいい
祝典五日目。建国記念祭も残すところあと二日だ。
今朝は社交の場がある。各国の外交使節や宮廷の高位貴族が一堂に集う朝の会で、茶と軽食が振る舞われる。形式的なものだが、女王が出席しないわけにはいかない。
菫色の目を鏡で確認した。昨日の議会で少しは顔が売れたはずだ。少なくとも、「数字もわからない小娘」とは思われなくなったはずだ。
そんなささやかな自信を胸に、会場に足を踏み入れた。
異変に気づいたのは、入場してすぐのことだった。
令嬢たちの輪が、さっと離れた。
正確には、離れたのではない。私が近づくと、ちょうど別の方向を向く。声をかけようとすると、隣の人と話し始める。目が合いそうになると、扇で顔を隠す。
一人や二人ではない。五人、六人、七人。会場にいる若い令嬢たちのほとんどが、申し合わせたように私を避けている。
「あら、ごめんあそばせ。陛下がいらっしゃるとは気づきませんで」
ベアトリクスの声が、少し離れた場所から聞こえた。
振り返ると、令嬢たちの中心にベアトリクスがいた。赤みがかった金髪を凝った髪型にまとめ、碧い瞳を涼しげに細めている。その周りに、六、七人の令嬢が寄り集まっていた。全員がベアトリクスのほうを向いていて、私には背を向けている。
集団無視。
表向きは、ただの偶然に見える。陛下に気づかなかっただけ。タイミングが悪かっただけ。けれど、これが意図的な演出であることは、この場にいる全員がわかっている。わかっていて、誰も何も言わない。
女王に対する挨拶の遅れ。作法上は無礼だが、弁解の余地がある程度のもの。これで怒れば器が小さいと笑われ、黙っていれば侮りが固まる。どちらに転んでも、私が損をする仕組みになっている。
そこへ、足音が聞こえた。
「おはようございます、陛下」
クリストフだった。白い礼服に身を包んだ彼が、柔らかな笑顔で私に歩み寄ってくる。
その瞬間、ベアトリクスが態度を一変させた。
さっきまで令嬢たちの女王だった碧い瞳が、恋する少女のそれに変わる。声が甘くなり、頬が紅潮し、まるで別人のようにクリストフのもとへ駆け寄った。
「クリストフ様、おはようございます。昨日の夜会のダンス、とても素敵でしたわ」
クリストフは困ったように微笑んで、「ありがとう、ベアトリクス嬢」とだけ答えた。視線はすぐに私に戻ってきた。
「陛下、お加減はいかがですか。昨日の議会、大変お見事でしたね。宮廷中が話題にしておりますよ」
温かい言葉だった。けれど、私の目に映っていたのは別の光景だった。
ベアトリクスが令嬢たちと私を無視している間、クリストフは会場にいなかった。来た途端に空気が変わった。ベアトリクスの無礼も、令嬢たちの集団無視も、クリストフが来るまでの出来事だ。
(──クリストフがいない場所では、私は女王として扱われていない)
この人がいるから、周囲は態度を改める。この人の付属品として、ようやく一人前に扱ってもらえる。
静かな屈辱だった。こみ上げる感情に名前をつけるなら、怒りが一番近い。でも、誰にぶつけていいのかわからない。ベアトリクスに怒鳴ったところで、彼女は涼しい顔で「何のことでしょう」と言うだろう。
「ありがとうございます、クリストフ殿。少し疲れているだけです」
そう答えて、微笑んだ。微笑めたことが、自分でも不思議だった。
◇
社交の場を抜け出した。
足は自然と、あの場所へ向かっていた。
薬草園。
日に照らされた畝の間を歩くと、馴染みのある土と緑の匂いがした。ここに来ると、宮廷の空気が嘘のように遠くなる。
フェリクスは、やはりそこにいた。
畝の端にしゃがみ込んで、小さな苗に水をやっている。礼服ではなく、質素な作業着に着替えている。袖がまくられて、日に焼けた腕が見えていた。
「あ、アイリス。おはよう」
何の前置きもなく、名前で呼ばれる。この人だけが、「陛下」とも「アイリス様」とも呼ばない。最初は違和感があったが、今はそれが心地いい。
薬草園の縁石に腰を下ろした。石が陽に温まっていて、座ると少しだけ体の力が抜けた。
「フェリクスお兄様」
「うん?」
「私、女王に向いていないのかもしれない」
口にした途端、喉が詰まった。泣きそうになったが、堪えた。
「なにかあった?」
「……あったけど、言いたくない」
フェリクスは「そっか」とだけ言って、水やりを続けた。
聞き出そうとしない。慰めようともしない。ただ、隣にいる。私が話したくなるまで、静かに待っている。
しばらく無言の時間が流れた。
薬草園の小さな世界では、蜂が花の間を飛び回り、風が葉を揺らしている。遠くで鳥が鳴いた。宮廷の喧騒は、ここまで届かない。
「これ、見て」
フェリクスが、小さな花を指差した。白い五弁の花で、指の先ほどの大きさしかない。
「オニグルミソウって言うんだ。薬草としてはほとんど使い道がなくて、庭師からは雑草扱いされてる。でも、他の薬草が枯れる真冬でも、こいつだけは咲いてるんだよ」
何の脈絡もない話だった。けれど、フェリクスの声を聞いていると、胸の中で荒れていた波が少しずつ凪いでいく。
「誰にも必要とされなくても、咲き続ける花。……すごいよね」
それは、私への慰めだったのだろうか。それとも、ただ花の話をしたかっただけなのか。フェリクスの場合、どちらもありうる。
やがて、フェリクスが水やりの手を止めて、私の隣に腰を下ろした。
「アイリスは最近、少し強くなったね」
不意に言われて、顔を上げた。
「……そうかしら」
「うん。前は目が泣きそうだった。今は、怒ってる目になった」
「怒ってる?」
自分では気づかなかった。怒っている。確かに、さっきの社交の場では怒りを感じた。けれどそれは、ベアトリクスへの怒りだけではなかったはずだ。
「うん。たぶん、怒ってるのはアイリス自身に対して。もっと強くなりたいって」
息が止まった。
フェリクスは政治を知らない。軍事も知らない。宮廷の駆け引きにも興味がない。なのに、この人は私の心の中を、まるで薬草の葉を観察するように正確に見ている。
泣きそうだった目が、怒っている目に変わった。
それは確かだ。あの即位の日、ただ泣くことしかできなかった私は、今は違う。涙の代わりに、怒りが湧く。自分の無力さへの怒り。もっとできるはずだという焦り。
「フェリクスお兄様は、どうしてそういうことがわかるの」
「ん? 見てるから」
当たり前のように言った。
「薬草も人も、よく見てると変化がわかるよ。葉の色が少し変わったとか、茎の伸び方が違うとか。アイリスは最近、背筋が少しだけ伸びた。前は自分を小さく見せようとしてたけど、今はそうでもない」
薬草と同列に語られるのは複雑だが、フェリクスに悪意がないことは声でわかる。この人は本当に、同じ目で花と人を見ている。だからこそ、嘘がない。
「でも、まだ全然足りないの」
私は呟いた。
「今日も、ベアトリクス嬢に何も言い返せなかった。女王なのに。この国で一番偉いはずなのに、令嬢たちに無視されて、黙って立っているしかなかった」
「言い返す必要、あるのかな」
フェリクスが首を傾げた。
「嫌なことを言う人に言い返すのって、その人と同じ場所に立つことだと思うんだ。アイリスがいるべき場所は、もっと別のところじゃない?」
答えられなかった。
正しいのかどうかもわからなかった。でも、この人の言葉は、他の誰の言葉とも違う場所から来ている。レオンハルトの正論とも、ディートリヒの直球とも、ルシアンの甘言とも、クリストフの優しさとも違う。もっと静かで、もっと深い場所から。
◇
薬草園を後にする時、足が重かった。
振り返ると、フェリクスは再び畝にしゃがみ込んで、あのオニグルミソウの傍で何か作業をしていた。雑草扱いの花を、丁寧に手入れしている。
この場所を選べたら。
この穏やかさの中で生きられたら。王冠を脱いで、作業着に着替えて、土に触れて、本を読んで。フェリクスの隣で、何も考えずにお茶を飲んで暮らせたら。
その想像は甘くて、危うかった。
フェリクスを選ぶことは、逃げることと同じだ。玉座から逃げて、責任から逃げて、あの減税嘆願の手紙を書いた村長の顔を見捨てることと同じだ。
それは、死んだ父と兄たちへの裏切りにもなる。彼らが守ろうとした国を、私が捨てることになる。
けれど、この穏やかさを捨てる覚悟が、まだできない。
廊下を歩きながら、フェリクスの言葉を反芻した。
『前は泣きそうだった。今は怒ってる』
(……弱い自分なんて嫌。もっと強くなりたい)
そうだ。私は怒っている。自分に。
ベアトリクスに無視されて、悔しいと思った。悔しいと思える自分は、三週間前の自分より確かに強い。けれど、まだ足りない。
いつかあの令嬢たちが、クリストフがいなくても私に頭を下げる日が来るだろうか。私自身の力で、あの視線を変えられる日が。
執務室の前で、レオンハルトとすれ違った。
彼はいつも通り無表情だったが、私の顔を見て一瞬だけ立ち止まった。
「何かありましたか、陛下」
「いいえ、何も」
「そうですか」
それだけ言って、レオンハルトは去っていった。
嘘を見抜かれたかもしれない。あの鋼色の目は、嘘を許さない目だ。けれど今日は追及してこなかった。珍しいこともある。
執務室に入ると、机の上にハーブティーが置かれていた。今日は甘い花の香り。ラベンダーだろうか。
気持ちを落ち着かせる香りだ。まるで今朝の出来事を見越していたかのような選択。
椅子に座り、カップを手に取った。
湯気が立ち上って、視界が少しだけ滲んだ。
明日は祝典の六日目。もうすぐ建国記念祭が終わる。
祭りが終われば、次は何が来るのだろう。もっと大きな試練が。もっと深い闇が。
それでも、薬草園に逃げるわけにはいかない。
あの場所は、私にとっての最後の避難所だ。だからこそ、普段の居場所にしてはいけない。
ハーブティーを一口飲んだ。甘い。温かい。
フェリクスの顔が浮かんで、それから、すぐに消えた。
◇
同じ日の午後、ベアトリクスは王宮の客間で父と向かい合っていた。
リンデンベルク伯爵。痩せた長身に灰色の瞳。仕立ての良い上着の胸元には、伯爵家の紋章が光っている。
「今朝の件は聞いている。うまくやったようだな」
父の言葉に、ベアトリクスは扇を揺らして微笑んだ。
「令嬢たちの扱いは心得ておりますもの。陛下は何も言い返せず、会場を逃げ出しました」
「結構。宮廷の女たちの間で女王の求心力が落ちれば、クリストフ殿の存在感が相対的に増す」
「そのように仕向けております」
父と娘の間に、命じる者と従う者の緊張はなかった。むしろ、同じ算盤を弾く商人同士のような、乾いた信頼関係があった。
「シュヴァルツェン家への融資は回収せねばならん。クリストフ殿が王配になれば、全額を取り戻してさらに利益が見込める。しかし、ならなければ──」
「わかっておりますわ、お父様。ですから私が場を整えているのでしょう?」
ベアトリクスの声には、苛立ちすら混じっていた。自分がどれほど有能に立ち回っているか、父に認めてほしいとでも言うように。
「それと、もう一つ手を打っておきました。レオンハルト・フォン・ヴェーバーのことです」
伯爵が眉を上げた。
「あの男、妙に陛下に入れ込んでいますの。ですから、侍女たちを通じてちょっとした噂を流しておきました。『宰相の息子は陛下を利用して出世しようとしている』と」
「お前が考えたのか」
「ええ。レオンハルトの信用さえ落とせば、陛下が頼れるのはクリストフ様だけになりますもの」
伯爵は黙って頷いた。娘の工作を咎めるどころか、その手際を評価する目をしていた。
「引き続き頼む。くれぐれも証拠は残すな」
「お父様、私を誰だと思っていますの?」
ベアトリクスは微笑んだ。社交界の花と呼ばれるその笑顔の裏側を、この部屋の外で知る者はいない。




