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女王陛下の夫選び  作者: 宗像 凪


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第9話:毒を盛られた夜

 建国記念祭、最終日。


 一週間に及んだ祝典の締めくくりとして、今夜は大晩餐会が催される。各国の使節団、王国の全貴族、高位聖職者──普段の宮廷の倍以上の人間が大広間に詰めかけ、祝典の最後を飾るのだ。

 衣装を整える侍女の手も、いつもより念入りで気合が入っているように感じる。髪を結い上げ、王冠を載せ、純白のドレスに身を包む。鏡に映る自分は、一週間前の戴冠式の時よりほんの少しだけ、女王らしく見えた。


 気のせいかもしれない。でも、そう思いたかった。


    ◇


 大広間は華やかな喧騒に包まれていた。

 銀の燭台が並び、磨き上げられた長卓の上に、料理が次々と運ばれてくる。焼き上げた鹿肉、季節の果実を添えた鶏のロースト、色鮮やかな野菜のテリーヌ。最後の夜にふさわしい、贅を尽くした献立だった。


 私は上座に座り、右手に宰相、さらにその隣にレオンハルトが控えている。他の王配候補たちも、それぞれ来賓席に並んでいた。ルシアンが何か気の利いた冗談を言って周囲を笑わせ、ディートリヒが隣の軍人と真剣な顔で話し込み、クリストフが穏やかに微笑みながらワインを傾けている。王族席に座らされたフェリクスは、居心地悪そうに料理をつついていた。


 前菜が運ばれてきた。

 白い器に入った、黄金色のコンソメスープ。湯気が立ち上り、香辛料の良い匂いがする。

 銀のスプーンでひと匙掬い、口に運んだ。


 美味い、と思った瞬間だった。


 唇がぴりりと痺れた。


 最初は、使われている香辛料のせいだと思った。スープの胡椒が効きすぎているのだろう、と。けれど痺れは唇から舌の先へ、喉の奥へ、じわじわと広がっていく。視界の端が暗くなった。天井の燭台の光が、にじんで溶けていく。

 スプーンが手から滑り落ちた。銀が磁器にぶつかる甲高い音が、やけに遠くに聞こえた。


「陛下!」


 最初に動いたのは、レオンハルトだった。

 椅子を蹴倒す音がした。あの男が、あの常に姿勢を崩さない男が、礼儀も作法も投げ捨てて私の傍に駆け寄った。

 私の肩を掴む手が、震えていた。一瞬だけ。すぐに握り締めて、その震えを殺した。


「毒だ」


 低い声で断言した。スープの匂いを嗅ぎ、器を確認し、私の瞳孔を覗き込む。その一連の動作が、恐ろしく速かった。


「宮廷医を呼べ! この卓の料理に手を触れるな!」


 レオンハルトの声が広間に響いた瞬間、宴は崩壊した。

 悲鳴が上がり、椅子が倒れ、貴族たちが我先にと後ずさる。つい数秒前まで華やかだった広間が、一瞬で修羅場に変わった。


 私の意識が薄れていく。視界が歪み、体の感覚が遠くなる。レオンハルトの声が聞こえるが、言葉の意味が取れない。


 宮廷医が駆けつけた。しかし、毒の種類を特定できない。


「症状の進行が速い。通常の毒物ではありません」


 宮廷医の声が、動揺を隠せていない。レオンハルトが器に残ったスープの匂いを再び確かめ、数滴を慎重に舌に乗せた。


「この微かな苦味、古文献にしか記載のない希少毒の可能性がある。だが、対処法が」


 そこへ、走る足音が聞こえた。


「どいて!」


 フェリクスだった。

 来賓席から飛び出してきた彼は、宮廷医を押しのけて私の前に膝をついた。普段の穏やかさが嘘のような、鬼気迫る顔だった。

 私の瞼を指で開き、瞳孔を確認する。手首を掴んで脈を取る。唇の色を見る。痺れの範囲を触診する。その手つきに迷いがなかった。


「おそらくエレボラ・ニグルムの変種だ。痺れの進行パターンと瞳孔の散大が一致する」


 宮廷医が息を呑んだ。


「エレボラ・ニグルム? そんな毒は文献でも目にしたことがありません」

「ある。ヘレンドルフの『毒草図譜』第三巻、絶版になった旧版にだけ記載がある。僕は辺境の古書店で入手して読んだ」


 フェリクスの声は速く、正確で、いつもの彼とは別人のようだった。


「解毒に必要な薬草がある。ステラリア・アルバ。北方山岳地帯に自生する。でも──」


 フェリクスが窓の外を見た。


「王宮裏の断崖にも群生しているのを見た。たぶん過去に王宮で栽培されていたものの種が、風で飛ばされて野生化したんだと思う。散歩の時に見つけた」

「フェリクス殿、あの崖は危険です。夜間は──」

「わかってる」


 フェリクスは立ち上がった。


「でも、他に手段がない。宮廷の薬品庫にステラリア・アルバの在庫はないはずだ。今、あんな薬草を備蓄している薬品庫は、王都には存在しない」


 レオンハルトが一瞬だけフェリクスを見た。何か言いかけて、口を閉じた。代わりに、短く頷いた。


「薬草の特徴を教えてください。王宮の兵士から身軽な者を選んで登らせます」

「あの薬草に目立つ特徴はない。知識のない人間だと無駄足に終わる可能性が高い」

「では、護衛をつけます」

「いらない。僕一人のほうが速い」


 フェリクスは広間を飛び出していった。その背中を見送りながら、薄れゆく意識の中で、私はあの薬草園の穏やかな男の面影を探した。

 見つからなかった。今のフェリクスは、別の顔をしていた。


    ◇


 意識が途切れた。


 断片的な記憶が、砕けた鏡のように浮かんでは消える。

 誰かが私の手を握っていた。温かい手。


「恐ろしかったでしょう。もう大丈夫ですよ、アイリス様」


 クリストフの声だ。穏やかで、優しくて、安心する。

 けれど薄闇の中で、彼の翡翠色の瞳が一瞬だけ泳ぎ、広間の隅にいる誰かに向けられた気がした。気のせいかもしれない。意識が混濁しているせいだ。


 どれくらい時間が経ったのかわからない。

 扉が開く音がした。何かが崩れ落ちる音。


「間に合って、よかった」


 フェリクスの声だった。

 目を開けると、フェリクスが部屋の入口に倒れ込んでいた。礼服は泥と血で汚れ、両手は傷だらけで、爪が何枚か割れていた。右の掌に、小さな白い花をつけた草を握りしめている。


「……フェリクスお兄様」


 声が出たことに自分で驚いた。体は動かない。でも声は出た。


 フェリクスは震える手で薬草を宮廷医に差し出した。フェリクスの指示に従い、宮廷医が解毒剤の調合を始めた。ステラリア・アルバの葉を潰し、根を煮出し、特定の比率で混ぜ合わせる。フェリクスは床に座り込んだまま、かすれた声で手順を指示し続けた。


 苦い液体が喉を通った。

 しばらくして、指先の感覚が戻ってきた。視界の歪みが、ゆっくりと消えていく。


「容態は安定しました」


 宮廷医の声に、部屋の空気が緩んだ。


 その時、ようやく周囲が見えた。

 レオンハルトは部屋の隅に立ち、感情を完全に押し殺した顔で衛兵に指示を飛ばしていた。


「全ての厨房担当者の身元を洗い直せ。今夜中にだ。出入りの記録、食材の納入業者、全てだ」


 声は平静だった。けれど、その手がかすかに拳を握っているのが、私の位置からは見えた。


 ルシアンは少し離れた場所に立ち、「なんということだ」と呟きながら周囲を見回していた。その傍らで、随行員に小声で何かを指示している。唇の動きは読めなかったが、急いでいる様子だった。


 ディートリヒは、すでに部屋にいなかった。犯人捜索の指揮を買って出たと、後で聞いた。「陛下、犯人は必ず見つけます」と言い残して走り出したらしい。


 クリストフは私の傍にいた。変わらない優しい笑顔で、「もう安心ですよ」と繰り返していた。


 そして、フェリクス。

 解毒が終わった後も、彼は私の傍を離れなかった。傷だらけの手を膝の上に置いて、時折私の顔色を確認している。

 声をかけようとしたが、フェリクスは小さく首を振った。


「喋らないで。体力を使うから」


 その声は穏やかだったが、目の下に深い隈があった。崖を登り、薬草を採り、調合の指示を出し、今もなお私の容態を見守っている。この人は、自分の体のことを一切顧みていない。


 割れた爪から血が滲んでいるのを見て、涙が出た。

 今度は堪えなかった。堪える必要がないと思った。


「ありがとう、フェリクスお兄様」


 フェリクスは少し困ったように笑った。


「うん。……間に合って、本当によかった」


    ◇


 翌朝、犯人が特定された。

 ディートリヒの部下とレオンハルトの指示で動いた衛兵の合同捜査により、グラーフ男爵に買収された下級侍女が拘束された。


(グラーフ男爵……全然、思い出せないわ。顔も名前も、領地貴族なのか宮廷貴族なのかすら、さっぱり)


 男爵は辺境の小領主で、私とは挨拶すら交わしたことのない人物らしい。保守的な考えの持ち主で、女王の即位に不満を持っていたという。表向きは、それで事件は決着した。

 だが、レオンハルトは納得していなかった。


「陛下」


 病室を訪れたレオンハルトは、いつもの無表情で切り出した。


「グラーフ男爵は辺境の小領主です。領地の年収は王都の小さな商店と大差ない。彼にエレボラ・ニグルムの変種を入手する伝手があると、お思いですか」

「何が言いたいのですか」

「あの毒は、国内では流通していません。入手するには国外との接点が必要です。この事件の背後には、まだ見えていない糸があります」


 レオンハルトの鋼色の瞳が、静かに光っていた。


「調査を続けます。陛下は回復に専念してください」

「レオンハルト殿」


 呼び止めると、彼は足を止めた。振り返らなかった。


「昨夜、あなたの手が震えていたのを、見ていました」


 沈黙が落ちた。長い沈黙だった。


「……見間違いでしょう。失礼します」


 そう言って、レオンハルトは部屋を出ていった。

 見間違いではない。あの一瞬、あの男の手は確かに震えていた。毒だと断じた時の声は、冷静さの下に何かを押し殺していた。

 何を。怒りか。恐怖か。それとも。


 考えても、答えは出なかった。


    ◇


 午後、机の上にハーブティーが置かれていた。

 いつもより色が濃い。香りも、普段とは違う。苦みと甘みが複雑に混じった、薬湯に近い匂い。一口飲むと、体の芯がじんわりと温まった。


 解毒後の体に効く薬草が追加されている気がした。

 フェリクスに聞いてみた。


「僕じゃないよ。でも、このブレンドは悪くない。エレボラ系の解毒後に飲むなら、まさにこの組み合わせがいい。詳しい人だね、用意した人は」


 謎は解けないまま、私はお茶を飲み干した。


    ◇


 翌日、私は宮廷に姿を現した。

 毒を盛られた翌日だ。宮廷医は安静を勧めた。侍女たちは顔を青くした。レオンハルトでさえ「もう一日休んでも構いません」と言った。


(──私が、『構う』の)


 ここで寝込めば、毒を盛った連中の思う壺だ。「女王は倒れた」「あの小娘には無理だった」、そういう噂が広まる。


 玉座に座り、居並ぶ貴族たちを見渡した。同情の目、心配の目、好奇の目。そして、値踏みする目。

 その全てを受け止めて、口を開いた。


「この程度のことで女王の座を退くと思った者がいるなら、心得違いです」


 広間が静まった。

 私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。手は震えていない。膝も。


 柱の陰で、ルシアンが目を瞠っていた。

 琥珀色の瞳に、これまで見たことのない光が浮かんでいる。驚き。そして、何か別のもの。


 毒を盛られた翌日に、あの目で宮廷を見据えられる女。

 ルシアンの唇が、小さく動いた。言葉は聞こえなかったが、その表情の中に、初めて「敬意」に近い色が混じっていた。


 一方、広間の隅で、ベアトリクスが扇の陰で嗤っていた。


「陛下もずいぶんと人のご感情を買っておいでのようですね。あの玉座に本来ふさわしい重みを思えば、致し方のないことかと存じますわ」


 その声は小さかったが、周囲の令嬢たちには聞こえていた。数人が目を伏せた。けれど、誰もベアトリクスを咎めなかった。


 そして私にも聞こえていた。全部、聞こえていた。

 けれど今日の私は、ベアトリクスのほうを見なかった。見る価値がないと、初めてそう思えた。


 フェリクスの言葉が蘇る。嫌なことを言う人と同じ場所に立つ必要はない。

 今の私がいるべき場所は、あの扇の向こう側ではない。この玉座の上だ。


(犯人は捕まった。……本当に?)


 レオンハルトの言葉が、頭から離れない。見えていない糸。国外との接点。エレボラ・ニグルムを入手できる人間は、辺境の男爵ではない。

 この事件は、まだ終わっていない。


 だが、今はまず、立っていなければならない。

 毒では倒れないと、この国に示さなければならない。


 玉座の上で、私は背筋を伸ばした。フェリクスに言われた通り、少しだけ。

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