第10話:選べない理由
半年の期限のうち、三ヶ月が過ぎた。
建国記念祭が終わってから、季節がひとつ変わった。庭園の薔薇は盛りを過ぎ、秋の初めの風が廊下を吹き抜けるようになった。
この三ヶ月で、多くのことが変わった。
まず、執務。
レオンハルトの地獄の特訓は依然として続いていたが、初日のように泣きながら書類と格闘することは減った。減った、というだけで、なくなったわけではない。特に予算書の季節調整は今でも苦手だ。けれど、書類の山を前にして途方に暮れることは、もうなくなった。数字を読み、構造を見抜き、矛盾を指摘する。それが少しずつ、体に馴染んできている。
レオンハルトは相変わらず辛辣だったが、叱責の中にときどき「まあ、及第点です」という言葉が混じるようになった。及第点。あの男からの最高の褒め言葉だ。
ルシアンは定期的に茶会に同席し、変わらず華やかな話術で場を盛り上げていた。あの薔薇の詩の一瞬だけ見せた素顔が気になって、時折探るような目で見てしまうが、ルシアンは完璧な微笑の裏に何も漏らさない。ただ一度だけ、外交文書の翻訳を手伝ってくれた夜、ルシアンが窓の外のクレールモンの方角をじっと見つめているのを目撃した。その横顔には、あの茶会の時に一瞬だけ見せた翳りがあった。
ディートリヒとは、改革案の修正を通じて何度も議論を重ねた。彼の修正案は私の指摘を反映しただけでなく、さらに踏み込んだ内容になっており、それに対する私の意見をまた反映して、三度目の版が出来上がった。政策の議論を重ねるたびに、ディートリヒとの間には奇妙な信頼が育っていった。言葉を飾る必要がない関係は、宮廷では貴重だ。
フェリクスは毒殺未遂の後しばらく傷を養生していたが、回復すると真っ先に薬草園に戻った。傷だらけの手で土を耕す姿を見て、侍女たちが驚いていた。私は時折、執務の合間に薬草園を訪れた。何も話さず縁石に座って、フェリクスが薬草の世話をするのを眺めるだけの時間。
それが、唯一の息抜きだった。
そして、クリストフ。
三ヶ月の間に、クリストフは宮廷の中で確固たる位置を築いていた。
派手なことをしたからではない。むしろ逆だった。クリストフは常に穏やかで、常に礼儀正しく、常にちょうどいい距離感で私に寄り添っていた。執務で疲れた時には労いの言葉をかけ、社交の場では自然に隣に立ち、誰の機嫌も損ねない絶妙な立ち回りを見せた。
毒殺未遂の後も、クリストフは頻繁に私の体調を気遣いに来た。「お加減はいかがですか」「無理はなさらないでください」。その度に、デビュタントの夜の記憶が蘇り、胸が温かくなった。
宮廷がそれを見逃すはずがなかった。
◇
その日の朝、廊下を歩いていると、角の向こうから女官たちのひそひそ声が聞こえてきた。
「やはりクリストフ様でしょう。大公爵家の方ですし、陛下とは幼少の頃からのお知り合いだそうですよ」
「夜会のダンスも素敵でしたわ。お似合いだと思いません?」
「レオンハルト様は堅すぎるし、ルシアン様は素敵だけれど隣国の方なのがちょっと……。ディートリヒ様は無骨すぎるし、フェリクス様のお血筋は申し分ないけれど土いじりが趣味というのは、ねえ?」
「やっぱりクリストフ様よ。あの優しさ、あのお育ちの良さ。陛下にはあの方しかいないわ」
角を曲がると、女官たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。私の顔を見て、聞かれたと気づいたのだろう。
(まあ、そう噂されるのも当然よね)
恥ずかしさと、胸のどこかにある甘い温度。否定できない自分がいる。クリストフを選べば、きっと多くの人が納得する。家柄も人柄も、申し分ない。
けれど、頭の隅で別の声がする。
『シュヴァルツェン大公家の現状をご存知ですか』
レオンハルトの声。あの建国記念祭の夜会の夜に投げかけられた問い。あれからさりげなく宰相や臣下たちに話題を振ってみたが、現在シュヴァルツェン家で特に揉め事が起こっている様子はなかった。そこで図書室で大公家の資料を探したものの、公開されている記録は少なく、はっきりしたことはわからなかった。ただ、近年の交易記録に不自然な空白があることだけは見つけた。
気のせいだと思いたい。クリストフの笑顔に裏があるなんて、考えたくない。
──でも、あの男は意味のないことは言わない。
◇
夕方、宰相が執務室を訪れた。
「陛下、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
銀灰色の髪の老紳士。父王の代から仕えてきた古株の政治家で、穏やかな物腰の中に鋭さを隠している。この人が「少しお時間を」と言う時は、大抵「少し」では済まない。
「半年の期限のうち、三ヶ月が過ぎました。王配選びの進捗について、お聞かせいただけますか」
直球だった。
わかっていた。いつかこの問いが来ることは。
「正直に申し上げます。まだ、決められません」
宰相は頷いた。予想通りの答えだったのだろう。
「五人の候補者それぞれについて、お考えをお聞かせください。無理にとは申しませんが、整理することが判断の助けになることもあります」
椅子に深く腰を下ろした。窓の外を見た。秋の夕暮れが、王都の屋根を橙色に染めている。
「レオンハルト殿は」
最初にその名前が出てきたことに、自分で驚いた。
「嫌いです。大嫌いです」
宰相が微かに眉を上げた。
「でも、あの人に叱られた後に、自分の力で答えを見つけた時の……あの感覚は、他の誰にも作れません。悔しいけれど、あの人がいなければ今の私はいない。信頼しています。それを認めるのが、とても悔しいのですが」
宰相は黙って頷いた。
「ルシアン殿は、華やかで楽しい方です。一緒にいると退屈しません。外交の知識も深くて、学ぶことが多い。でも、あの方の笑顔の裏が見えないのです。茶会の後に聞いた彼の言葉が、ずっと引っかかっています。あの微笑の向こうに何があるのか。見せてもらえないのか、見せる気がないのか」
「クリストフ殿は」
胸がきゅっと締まった。
「……私の初恋です」
声に出すと、頬が熱くなった。宰相は表情を変えなかった。
「あの方の笑顔は昔と変わらない。デビュタントの夜と同じように優しくて、安心する。宮廷の皆さまも、クリストフ殿がふさわしいとおっしゃっている。私もそう思いたい。でも」
言葉を選んだ。
「時々、あの方の目が泳ぐ瞬間があるのです。レオンハルト殿がシュヴァルツェン家のことを口にしたのも、消えない。気のせいだと思いたいのに」
「ディートリヒ殿は」
「対等でいられます。尊敬しています。議論すると楽しいし、飾らなくていい。あの方の前だと、私は女王ではなくただの論争相手になれる。でも、何か足りない気がするのです。ディートリヒ殿は『女王アイリス』を見てくれている。でも『アイリス』を見ているのかどうか。それとも、私が贅沢を言いすぎているのかもしれませんが」
「フェリクスお兄様は」
声が小さくなった。
「安らぎです。あの人の傍にいると、王冠の重さを忘れられる。毒殺未遂の時、命を懸けて助けてくれた。あの傷だらけの手を見た時、この人のためなら何でもしたいと思った」
一呼吸置いた。
「でも、だからこそフェリクスお兄様を選ぶことは逃げだと思うのです。あの穏やかさに甘えて、玉座の責任から目を逸らすことになる。それがわかっている自分が……嫌になります」
長い沈黙が落ちた。
宰相は窓の外に目を向けていた。夕日が沈みかけ、空の色が橙から藍に変わり始めている。
「陛下」
宰相が、静かに口を開いた。
「王配を選ぶとは、恋人を選ぶこととは違います」
わかっています、と言いかけた。けれど、宰相の目が「最後まで聞け」と言っていたので、口を閉じた。
「あなたの人生を共に背負ってくれる人間を選ぶのです。嵐の夜に隣で立っていてくれる人間を。それは『好き』だけでは足りません。かといって『利益』だけでも足りない」
宰相は立ち上がった。
「答えは、陛下ご自身の中にしかありません。焦る必要はありませんが……残り三ヶ月です。いずれ、選ばなければならない日が来る。その時に後悔しない選択を、どうか」
宰相が去った後、しばらく動けなかった。
◇
夜。自室で私は書類を広げていた。
小麦の取引報告書。秋の収穫期を前に、各地域の小麦相場が上がってきている。特に南部と東部の価格差が顕著だ。ディートリヒの改革案が施行される前から、すでに人の流れが変わり始めているのかもしれない。
ページをめくる手が止まった。
王都近郊の小麦価格が、先月比で三倍に跳ね上がっている。
(三倍? ……おかしいわ。収穫期前とはいえ、これは異常よ)
周辺地域の相場と比較した。どこも高騰しているが、王都近郊だけが突出している。しかも、高騰の起点が一ヶ所に集中している。特定の商人による大量買い付けの痕跡だ。
レオンハルトに鍛えられた目が、数字の異常を拾い上げている。三ヶ月前の私なら、見過ごしていただろう。
けれど、数字の向こうにいる人の顔が見えない。
この三倍の小麦価格が、誰の食卓からパンを奪っているのか。書類の上の数字だけでは、この国の本当の姿は見えない。
窓から王都の灯りを眺めた。
無数の小さな光が、暗闇の中で揺れている。あの一つ一つに人の暮らしがあって、今夜の食事があって、明日への不安がある。私がこの机の上で読んでいる数字は、あの灯りの向こうにいる人々の命そのものだ。
(今の私に足りないのは、あの灯りの近くに行くことなのかもしれない)
書類を閉じた。
五人の候補者のことも、王配選びのことも、答えは出ない。けれど、今夜ひとつだけわかったことがある。
この数字の異常は、放置してはいけない。
ハーブティーの最後の一口を飲み干し、日記帳を開いた。
小麦価格が三倍。不自然な買い占め。レオンハルトに報告して、明日調べよう。
五人のことは、まだ決められない。でも、この国のことなら、今の私にもできることがある。
ペンを置いて、蝋燭を吹き消した。
暗闇の中で、王都の灯りだけが、窓の向こうで静かに揺れていた。




