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女王陛下の夫選び  作者: 宗像 凪


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12/26

第11話:買い占め

 小麦価格の異常を報告したのは、翌朝一番のことだった。


「先月比で三倍。しかも高騰の起点が王都近郊の一ヶ所に集中しています」


 執務室でレオンハルトに報告書を差し出すと、鋼色の瞳がわずかに動いた。書類に目を通す間、いつもの無表情が一瞬だけ険しくなった。


「よくお気づきになられました」


 その一言に、耳を疑った。

 半年間、この男の口から出る言葉は叱責と指摘と追加課題ばかりだった。「及第点」は何度かあったが、「よく気づきました」は初めてだ。


 喜ぶ暇もなく、レオンハルトは続けた。


「ですが、まだ足りません」

「……やっぱり」

「この買い占めの資金がどこから出ているかを追ってください。小麦だけではない。薬品の買い占めも同時に起きている。二つの品目が同時に高騰するのは、偶然ではありません」


 薬品も。それは知らなかった。小麦の報告書しか目を通していなかった自分の視野の狭さに、唇を噛んだ。


「薬品の取引報告書は」

「こちらに」


 レオンハルトがすでに用意していた書類を差し出した。彼は昨夜のうちに気づいていたのだ。私が報告するのを待っていたのか、それとも、私が自力で気づくかどうかを試していたのか。


(どちらにせよ、腹が立つわ)


 薬品の取引報告書を開いた。確かに、解毒剤の原料となる薬草や、軍で使われる止血剤の材料が、ここ数週間で軒並み高騰している。買い付け先は──クレールモン公国に拠点を持つ商会だった。


    ◇


 その日の午後、ディートリヒが執務室に現れた。


「陛下、お話があります」


 珍しく声が硬い。いつもの率直さとは違う、緊張を含んだ声だ。


「小麦と薬品の買い占めの件、私の領地の情報網で調査しました。買い占めの背後にクレールモン公国の商人が関わっていることが判明しました」


 ディートリヒが広げた調査報告には、具体的な商人の名前と取引記録が並んでいた。王都に出入りするクレールモンの商会の三社が、過去二ヶ月で通常の五倍の量の小麦と薬品を買い付けている。


「しかも、買い付けの量と集中度が異常です。通常の商取引なら、複数の経路に分散させるはずだ。それを一気に、特定の品目だけ押さえている。利益目的の投機ではありません」


 ディートリヒの焦茶色の目が、真っ直ぐに私を見た。


「陛下、これは国家ぐるみの経済侵略です」


 背筋が冷たくなった。

 ルシアンの顔が頭をよぎった。あの完璧な微笑。「これなら」という言葉。あの人は、これを知っているのだろうか。


 そこへ、レオンハルトが口を開いた。


「グリューネヴァルト侯爵の分析は妥当です。ただし『国家ぐるみ』と断じるのは早計でしょう。クレールモン公が承認している証拠はまだない。商人単位の暴走か、王室の一部の指示か、見極める必要があります」


「証拠がなくとも、放置すれば民が飢える」

「性急な対応は外交問題に発展します」


 二人の視線がぶつかった。どちらも正しい。けれど今、目の前の問題は一つだ。


「まず、現実を見ます」


 私は立ち上がった。


「書類の数字だけでは、実態がわかりません。王都の市場を、この目で見てきます」


 レオンハルトが眉を上げた。


「陛下が市場に?」

「変装して行きます。女王だとわかれば、誰もが取り繕うでしょうから」

「危険です」

「だからこそ」


 ディートリヒのほうを見た。


「ディートリヒ殿、護衛をお願いできますか」


 ディートリヒは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


「喜んで」


 レオンハルトが何か言いかけたが、私が先に遮った。


「レオンハルト殿。あなたに鍛えていただいた目で、現場を見てきます」


 レオンハルトは口を閉じた。鋼色の瞳に、複雑な光が浮かんでいた。


    ◇


 翌朝、私は侍女の服に着替え、髪を下ろし、王冠を外した。

 鏡に映った自分は、ただの若い娘だった。王族の血筋も、女王の威厳もない。少しだけ目の隈が濃くて、少しだけ頬がこけている。これが、化粧と衣装の下の本当の私の顔だ。


 ディートリヒは商人の服を着ていた。長身に質素な上着は少し窮屈そうだが、本人は気にしていない。

 二人で王宮の裏門から出た。秋の朝の空気が冷たい。


 王都の市場は、かつて図書室の窓から遠くに見えていた場所だった。近くで見ると、想像していたより雑然としていて、想像していたより活気がある。屋台が並び、商人が声を張り上げ、主婦が値段を訊ね、子どもが走り回っている。


 だが、異変はすぐに目についた。

 パン屋の棚が半分空いている。通常なら朝一番に焼き上がるはずの黒パンが、二、三個しか並んでいない。値札が書き換えられた跡がある。以前の価格の上に、新しい数字が二回も重ね書きされていた。


「すみません、黒パンはいくらですか」


 パン屋の主人に聞くと、答えた価格は三ヶ月前の報告書にあった数字の三倍以上だった。


「高くなったんですよ、お嬢さん。小麦が入らなくてね。どこぞの金持ちの商人が根こそぎ買い上げていくもんだから、こっちに回ってくる分が減っちまった」


 市場を歩き続けた。

 どこもかしこも同じだった。食料品の棚は隙間が目立ち、薬屋では常備薬すら品薄になっている。主婦たちが眉間に皺を寄せて財布を握りしめ、何を買うか、何を諦めるか、一つ一つ選んでいる。


 路地の角で、足が止まった。

 若い母親が、小さな子どもにパンを割って渡していた。半分だけ。残りの半分は、母親が自分の分として紙に包んでいる。いや、包んだだけだ。食べていない。子どもが食べ終わるのを笑顔で見守りながら、母親は自分の空腹を隠していた。


 視界が滲んだ。

 書類の上の「三倍」という数字が、目の前で肉体を持った。あの母親の笑顔が、あのパンの半分が、私の執務室の報告書のたった一行に圧縮されていたのだ。


「陛下」


 ディートリヒが低い声で呼んだ。私が止まったことに気づいたのだろう。


「大丈夫です」


 大丈夫ではない。けれど、ここで泣いている場合ではない。


    ◇


 その時だった。

 市場の端から、怒号が聞こえた。


「ふざけるな! こんな値段で買えるわけがないだろう!」

「俺たちの暮らしはどうなるんだ!」


 声のする方へ走ると、穀物商の前に人だかりができていた。

 労働者風の男たちが十数人、穀物商の屋台を取り囲んでいる。顔は怒りで赤く、拳を握り、今にも暴力に訴えそうな空気だった。穀物商は顔を蒼くして後ずさっている。


 暴動だ。

 物価高騰に堪えかねた民が、ついに怒りを爆発させた。


「下がってください、陛下」


 ディートリヒが私の前に出た。変装のことも忘れて、その声は完全に軍人のものだった。


 暴徒の数が増えていく。周囲の商人や買い物客が逃げ出し、市場が混乱に包まれた。暴徒の一人が石を拾い上げた。穀物商の屋台に投げつけようとしている。


 その瞬間、路地の奥から一団の兵士が現れた。

 軽装だが、動きが違う。統率された足並み、研ぎ澄まされた緊張感。王国の正規軍ではない。ディートリヒの精鋭私兵だった。


「いつの間に」

「念のため、市場の周辺に待機させておきました」


 ディートリヒが涼しい顔で言った。護衛を頼んだ時点で、こうなる可能性を読んでいたのか。

 ディートリヒは変装の上着を脱ぎ捨て、暴徒の前に立った。長身の体が、朝日を背に受けて影を落とす。


「陛下の御前だ。道を開けろ」


 一喝。

 その声は、議場の時とはまるで違っていた。将軍の声だ。有無を言わせない、絶対的な圧。

 暴徒たちが怯んだ。石を持っていた男の手が止まる。周囲の空気が凍りつく。


 ディートリヒの背中越しに、暴徒たちの顔が見えた。

 怒り。恐怖。そして、絶望。

 この人たちは、敵ではない。追い詰められた人々だ。明日のパンが買えない人々だ。


「ディートリヒ殿。下がってください」


 ディートリヒが振り返った。目が「何を」と言っていた。

 それに答えず私は彼の横を通り過ぎて、暴徒たちの前に立った。侍女の服のまま。王冠もなく、護衛の後ろに隠れることもなく。


「あなたたちの苦しみは知っています」


 声が震えた。けれど、止めなかった。


「昨日、この市場を歩きました。母親が子どもにパンを半分しか与えられないのを見ました。あなたたちが怒る理由は、わかります」


 暴徒たちが動きを止めた。目の前の小娘が何者なのか、訝しげに見ている。


「私はこの国の女王、アイリス・フォン・ヴァイスブルクです」


 その名を告げた瞬間、暴徒たちの表情が変わった。驚き、戸惑い、そして、わずかな希望。


「必ず解決します。国王の名において。小麦の価格を元に戻し、不当な買い占めを止めます。約束します」


 沈黙が降りた。

 暴徒の一人が、ゆっくりと石を地面に置いた。別の一人が膝を折った。


 群衆が散り始めた。完全ではないが、暴力の火は消えた。


 ディートリヒが、私の隣に立っていた。

 その焦茶色の目が、いつもとは違う光を帯びていた。議場で政策を論じる時の目ではなく、もっと柔らかくて、もっと深い場所から来ている光。


「陛下」

「はい」

「あなたは思ったよりずっと……いえ、何でもありません。帰りましょう」


 ディートリヒは珍しく、言葉を途中で飲み込んだ。


    ◇


 王宮に戻った私は、すぐに執務室に籠もった。


 交易記録を片端から読み直した。クレールモン公国の商会の買い付け記録、王国内の穀物流通量、薬品の在庫推移。一つ一つの数字を突き合わせていく。

 レオンハルトに鍛えられた読み方で、数字の裏にあるパターンを探す。


 夜が更ける頃、一つの構造が見えた。


 ディートリヒの言う通り、買い付けの量と集中度は確かに異常だ。けれど、私が見つけたのはもう一段深い層だった。


 図書室から引っ張り出した軍の調達記録──五年前の軍備増強計画に添付されていた「戦時必需物資リスト」。それとクレールモン商人の買い付け品目を突き合わせると、一致率が異様に高い。小麦、乾燥豆、獣脂蝋燭、止血薬の原料、包帯用の麻布。一つ一つは日用品だが、全てを揃えれば野戦の兵站が組み上がる。


(これはただの経済侵略じゃない。我が国の戦時補給線を、あらかじめ断とうとしているわ)


 レオンハルトに報告したのは、翌朝の執務開始時だった。


「クレールモン商人の買い付け品目と、我が国の軍事物資リストを照合しました。一致率は八割を超えています」


 レオンハルトが書類を受け取り、目を通した。長い沈黙。


「……確かに。これは商業活動の範疇を超えています」


 珍しく、追加の叱責がなかった。代わりに、静かな声で言った。


「買い占めの資金源はまだ追えていませんが、おそらくクレールモン公国の急進派からの資金が流れています。陛下の分析は、その仮説を裏づけています」


 それは、レオンハルトなりの肯定だった。


「ですが」


(来た)


「まだ足りません。資金の流れを特定し、国内に協力者がいないかも洗い出す必要があります。毒殺未遂の毒の入手経路と、この買い占めが繋がっている可能性は排除できません」


 毒殺未遂。あの事件の「見えていない糸」が、ここに繋がるのか。


    ◇


 翌日の御前会議で、私は小麦価格の対策を議題に上げた。


 保守派の貴族たちが眉を顰めた。「物価の変動は市場の常です。陛下が口を出すべきことでは」とブルクハルト侯爵が言いかけた。


「市場の常でしょうか」


 私は立ち上がった。


「昨日、私は変装して王都の市場を歩きました」


 会議場が、一瞬で静まった。


「パン屋の棚は半分空で、黒パンの値段は三ヶ月前の三倍です。薬屋では常備薬すら品薄になっている。そして、ある母親が子どもにパンを半分だけ渡しているのを見ました。残りの半分を、母親は食べていませんでした」


 ブルクハルト侯爵の顔から、余裕が消えた。


「これが『市場の常』であるなら、私たちは何のためにこの席に座っているのですか」


 書類の上の数字ではなく、自分の目で見た現実を語った。それは、どんな統計よりも重かった。

 反論する者はいなかった。緊急の価格安定策の審議が、その場で始まった。


 会議室を出る時、ディートリヒとすれ違った。


「見事でした、陛下」


 短い言葉だった。けれどその声には、議場の論争相手とは違う温度があった。

 あの市場で私が暴徒の前に立った時と同じ目。政策論争のパートナーとしてではなく、何か別のものを見ている目。


 それが何なのか、今はまだわからない。

 けれど、心地悪くはなかった。


 執務室に戻ると、机の上にハーブティーが置かれていた。今日のお茶からは、ほのかに生姜の香りがする。体を温め、免疫を高める効能がある。

 秋が深まってきたことを、このお茶の淹れ主は知っている。


 一口飲んで、書類に向き合った。

 買い占めの資金源。毒殺未遂との繋がり。国内の協力者。

 見えていない糸を、手繰り寄せなければならない。

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