第11話:買い占め
小麦価格の異常を報告したのは、翌朝一番のことだった。
「先月比で三倍。しかも高騰の起点が王都近郊の一ヶ所に集中しています」
執務室でレオンハルトに報告書を差し出すと、鋼色の瞳がわずかに動いた。書類に目を通す間、いつもの無表情が一瞬だけ険しくなった。
「よくお気づきになられました」
その一言に、耳を疑った。
半年間、この男の口から出る言葉は叱責と指摘と追加課題ばかりだった。「及第点」は何度かあったが、「よく気づきました」は初めてだ。
喜ぶ暇もなく、レオンハルトは続けた。
「ですが、まだ足りません」
「……やっぱり」
「この買い占めの資金がどこから出ているかを追ってください。小麦だけではない。薬品の買い占めも同時に起きている。二つの品目が同時に高騰するのは、偶然ではありません」
薬品も。それは知らなかった。小麦の報告書しか目を通していなかった自分の視野の狭さに、唇を噛んだ。
「薬品の取引報告書は」
「こちらに」
レオンハルトがすでに用意していた書類を差し出した。彼は昨夜のうちに気づいていたのだ。私が報告するのを待っていたのか、それとも、私が自力で気づくかどうかを試していたのか。
(どちらにせよ、腹が立つわ)
薬品の取引報告書を開いた。確かに、解毒剤の原料となる薬草や、軍で使われる止血剤の材料が、ここ数週間で軒並み高騰している。買い付け先は──クレールモン公国に拠点を持つ商会だった。
◇
その日の午後、ディートリヒが執務室に現れた。
「陛下、お話があります」
珍しく声が硬い。いつもの率直さとは違う、緊張を含んだ声だ。
「小麦と薬品の買い占めの件、私の領地の情報網で調査しました。買い占めの背後にクレールモン公国の商人が関わっていることが判明しました」
ディートリヒが広げた調査報告には、具体的な商人の名前と取引記録が並んでいた。王都に出入りするクレールモンの商会の三社が、過去二ヶ月で通常の五倍の量の小麦と薬品を買い付けている。
「しかも、買い付けの量と集中度が異常です。通常の商取引なら、複数の経路に分散させるはずだ。それを一気に、特定の品目だけ押さえている。利益目的の投機ではありません」
ディートリヒの焦茶色の目が、真っ直ぐに私を見た。
「陛下、これは国家ぐるみの経済侵略です」
背筋が冷たくなった。
ルシアンの顔が頭をよぎった。あの完璧な微笑。「これなら」という言葉。あの人は、これを知っているのだろうか。
そこへ、レオンハルトが口を開いた。
「グリューネヴァルト侯爵の分析は妥当です。ただし『国家ぐるみ』と断じるのは早計でしょう。クレールモン公が承認している証拠はまだない。商人単位の暴走か、王室の一部の指示か、見極める必要があります」
「証拠がなくとも、放置すれば民が飢える」
「性急な対応は外交問題に発展します」
二人の視線がぶつかった。どちらも正しい。けれど今、目の前の問題は一つだ。
「まず、現実を見ます」
私は立ち上がった。
「書類の数字だけでは、実態がわかりません。王都の市場を、この目で見てきます」
レオンハルトが眉を上げた。
「陛下が市場に?」
「変装して行きます。女王だとわかれば、誰もが取り繕うでしょうから」
「危険です」
「だからこそ」
ディートリヒのほうを見た。
「ディートリヒ殿、護衛をお願いできますか」
ディートリヒは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「喜んで」
レオンハルトが何か言いかけたが、私が先に遮った。
「レオンハルト殿。あなたに鍛えていただいた目で、現場を見てきます」
レオンハルトは口を閉じた。鋼色の瞳に、複雑な光が浮かんでいた。
◇
翌朝、私は侍女の服に着替え、髪を下ろし、王冠を外した。
鏡に映った自分は、ただの若い娘だった。王族の血筋も、女王の威厳もない。少しだけ目の隈が濃くて、少しだけ頬がこけている。これが、化粧と衣装の下の本当の私の顔だ。
ディートリヒは商人の服を着ていた。長身に質素な上着は少し窮屈そうだが、本人は気にしていない。
二人で王宮の裏門から出た。秋の朝の空気が冷たい。
王都の市場は、かつて図書室の窓から遠くに見えていた場所だった。近くで見ると、想像していたより雑然としていて、想像していたより活気がある。屋台が並び、商人が声を張り上げ、主婦が値段を訊ね、子どもが走り回っている。
だが、異変はすぐに目についた。
パン屋の棚が半分空いている。通常なら朝一番に焼き上がるはずの黒パンが、二、三個しか並んでいない。値札が書き換えられた跡がある。以前の価格の上に、新しい数字が二回も重ね書きされていた。
「すみません、黒パンはいくらですか」
パン屋の主人に聞くと、答えた価格は三ヶ月前の報告書にあった数字の三倍以上だった。
「高くなったんですよ、お嬢さん。小麦が入らなくてね。どこぞの金持ちの商人が根こそぎ買い上げていくもんだから、こっちに回ってくる分が減っちまった」
市場を歩き続けた。
どこもかしこも同じだった。食料品の棚は隙間が目立ち、薬屋では常備薬すら品薄になっている。主婦たちが眉間に皺を寄せて財布を握りしめ、何を買うか、何を諦めるか、一つ一つ選んでいる。
路地の角で、足が止まった。
若い母親が、小さな子どもにパンを割って渡していた。半分だけ。残りの半分は、母親が自分の分として紙に包んでいる。いや、包んだだけだ。食べていない。子どもが食べ終わるのを笑顔で見守りながら、母親は自分の空腹を隠していた。
視界が滲んだ。
書類の上の「三倍」という数字が、目の前で肉体を持った。あの母親の笑顔が、あのパンの半分が、私の執務室の報告書のたった一行に圧縮されていたのだ。
「陛下」
ディートリヒが低い声で呼んだ。私が止まったことに気づいたのだろう。
「大丈夫です」
大丈夫ではない。けれど、ここで泣いている場合ではない。
◇
その時だった。
市場の端から、怒号が聞こえた。
「ふざけるな! こんな値段で買えるわけがないだろう!」
「俺たちの暮らしはどうなるんだ!」
声のする方へ走ると、穀物商の前に人だかりができていた。
労働者風の男たちが十数人、穀物商の屋台を取り囲んでいる。顔は怒りで赤く、拳を握り、今にも暴力に訴えそうな空気だった。穀物商は顔を蒼くして後ずさっている。
暴動だ。
物価高騰に堪えかねた民が、ついに怒りを爆発させた。
「下がってください、陛下」
ディートリヒが私の前に出た。変装のことも忘れて、その声は完全に軍人のものだった。
暴徒の数が増えていく。周囲の商人や買い物客が逃げ出し、市場が混乱に包まれた。暴徒の一人が石を拾い上げた。穀物商の屋台に投げつけようとしている。
その瞬間、路地の奥から一団の兵士が現れた。
軽装だが、動きが違う。統率された足並み、研ぎ澄まされた緊張感。王国の正規軍ではない。ディートリヒの精鋭私兵だった。
「いつの間に」
「念のため、市場の周辺に待機させておきました」
ディートリヒが涼しい顔で言った。護衛を頼んだ時点で、こうなる可能性を読んでいたのか。
ディートリヒは変装の上着を脱ぎ捨て、暴徒の前に立った。長身の体が、朝日を背に受けて影を落とす。
「陛下の御前だ。道を開けろ」
一喝。
その声は、議場の時とはまるで違っていた。将軍の声だ。有無を言わせない、絶対的な圧。
暴徒たちが怯んだ。石を持っていた男の手が止まる。周囲の空気が凍りつく。
ディートリヒの背中越しに、暴徒たちの顔が見えた。
怒り。恐怖。そして、絶望。
この人たちは、敵ではない。追い詰められた人々だ。明日のパンが買えない人々だ。
「ディートリヒ殿。下がってください」
ディートリヒが振り返った。目が「何を」と言っていた。
それに答えず私は彼の横を通り過ぎて、暴徒たちの前に立った。侍女の服のまま。王冠もなく、護衛の後ろに隠れることもなく。
「あなたたちの苦しみは知っています」
声が震えた。けれど、止めなかった。
「昨日、この市場を歩きました。母親が子どもにパンを半分しか与えられないのを見ました。あなたたちが怒る理由は、わかります」
暴徒たちが動きを止めた。目の前の小娘が何者なのか、訝しげに見ている。
「私はこの国の女王、アイリス・フォン・ヴァイスブルクです」
その名を告げた瞬間、暴徒たちの表情が変わった。驚き、戸惑い、そして、わずかな希望。
「必ず解決します。国王の名において。小麦の価格を元に戻し、不当な買い占めを止めます。約束します」
沈黙が降りた。
暴徒の一人が、ゆっくりと石を地面に置いた。別の一人が膝を折った。
群衆が散り始めた。完全ではないが、暴力の火は消えた。
ディートリヒが、私の隣に立っていた。
その焦茶色の目が、いつもとは違う光を帯びていた。議場で政策を論じる時の目ではなく、もっと柔らかくて、もっと深い場所から来ている光。
「陛下」
「はい」
「あなたは思ったよりずっと……いえ、何でもありません。帰りましょう」
ディートリヒは珍しく、言葉を途中で飲み込んだ。
◇
王宮に戻った私は、すぐに執務室に籠もった。
交易記録を片端から読み直した。クレールモン公国の商会の買い付け記録、王国内の穀物流通量、薬品の在庫推移。一つ一つの数字を突き合わせていく。
レオンハルトに鍛えられた読み方で、数字の裏にあるパターンを探す。
夜が更ける頃、一つの構造が見えた。
ディートリヒの言う通り、買い付けの量と集中度は確かに異常だ。けれど、私が見つけたのはもう一段深い層だった。
図書室から引っ張り出した軍の調達記録──五年前の軍備増強計画に添付されていた「戦時必需物資リスト」。それとクレールモン商人の買い付け品目を突き合わせると、一致率が異様に高い。小麦、乾燥豆、獣脂蝋燭、止血薬の原料、包帯用の麻布。一つ一つは日用品だが、全てを揃えれば野戦の兵站が組み上がる。
(これはただの経済侵略じゃない。我が国の戦時補給線を、あらかじめ断とうとしているわ)
レオンハルトに報告したのは、翌朝の執務開始時だった。
「クレールモン商人の買い付け品目と、我が国の軍事物資リストを照合しました。一致率は八割を超えています」
レオンハルトが書類を受け取り、目を通した。長い沈黙。
「……確かに。これは商業活動の範疇を超えています」
珍しく、追加の叱責がなかった。代わりに、静かな声で言った。
「買い占めの資金源はまだ追えていませんが、おそらくクレールモン公国の急進派からの資金が流れています。陛下の分析は、その仮説を裏づけています」
それは、レオンハルトなりの肯定だった。
「ですが」
(来た)
「まだ足りません。資金の流れを特定し、国内に協力者がいないかも洗い出す必要があります。毒殺未遂の毒の入手経路と、この買い占めが繋がっている可能性は排除できません」
毒殺未遂。あの事件の「見えていない糸」が、ここに繋がるのか。
◇
翌日の御前会議で、私は小麦価格の対策を議題に上げた。
保守派の貴族たちが眉を顰めた。「物価の変動は市場の常です。陛下が口を出すべきことでは」とブルクハルト侯爵が言いかけた。
「市場の常でしょうか」
私は立ち上がった。
「昨日、私は変装して王都の市場を歩きました」
会議場が、一瞬で静まった。
「パン屋の棚は半分空で、黒パンの値段は三ヶ月前の三倍です。薬屋では常備薬すら品薄になっている。そして、ある母親が子どもにパンを半分だけ渡しているのを見ました。残りの半分を、母親は食べていませんでした」
ブルクハルト侯爵の顔から、余裕が消えた。
「これが『市場の常』であるなら、私たちは何のためにこの席に座っているのですか」
書類の上の数字ではなく、自分の目で見た現実を語った。それは、どんな統計よりも重かった。
反論する者はいなかった。緊急の価格安定策の審議が、その場で始まった。
会議室を出る時、ディートリヒとすれ違った。
「見事でした、陛下」
短い言葉だった。けれどその声には、議場の論争相手とは違う温度があった。
あの市場で私が暴徒の前に立った時と同じ目。政策論争のパートナーとしてではなく、何か別のものを見ている目。
それが何なのか、今はまだわからない。
けれど、心地悪くはなかった。
執務室に戻ると、机の上にハーブティーが置かれていた。今日のお茶からは、ほのかに生姜の香りがする。体を温め、免疫を高める効能がある。
秋が深まってきたことを、このお茶の淹れ主は知っている。
一口飲んで、書類に向き合った。
買い占めの資金源。毒殺未遂との繋がり。国内の協力者。
見えていない糸を、手繰り寄せなければならない。




