第12話:揺らぐ優しさ
買い占め対策の調査を続けていた、ある日の午後のことだった。
交易記録と軍事物資リストの照合作業を進めている最中に、執務室の扉を叩く音がした。
「アイリス様、少しよろしいですか」
クリストフだった。
白い礼服に身を包んだ彼が、いつもの穏やかな笑顔で入ってきた。手には茶菓子の入った小箱を持っている。
「王都の菓子職人が作った新作だそうです。お口に合えばよいのですが」
小箱を机に置いて、クリストフは私の向かいの椅子に腰を下ろした。翡翠色の瞳が、机の上に広がった書類の山に一瞬だけ触れた。
「随分とお忙しそうですね」
「ええ。買い占めの調査が少し」
言いかけて、言葉を選んだ。調査の詳細を口にするのは、まだ控えたほうがいい。レオンハルトにそう言われている。
「アイリス様」
クリストフの声が、少しだけ真剣になった。
「そのような些事は、レオンハルト殿やディートリヒ殿に任せればいいのです。あなたが自ら調査に乗り出す必要はありません」
優しい声だった。心からの気遣いに聞こえた。
「陛下には陛下のなさるべきことがあります。お体を壊されては元も子もありません。どうか、あまり無理をなさらないでください」
一瞬、頷きかけた。
クリストフの言葉には、いつも抗いがたい温かさがある。この人の前にいると、重荷を降ろしてもいい気がしてくる。フェリクスとは違う種類の安らぎ。フェリクスが「逃げてもいい」と言うなら、クリストフは「任せてもいい」と言う。
けれど。
「でも、民が困っているのです」
そう返した瞬間、クリストフの表情が変わった。
ほんの一瞬。瞬きよりも短い時間。翡翠色の瞳の奥に、何かが走った。それは優しさとは別の、もっと冷たい何かだった。苛立ち、というには微かすぎる。しかし、穏やかな笑顔の綻びとしては、はっきりしすぎていた。
すぐにクリストフは微笑みを取り戻した。
「ええ、もちろんです。陛下のお気持ちは立派です。ただ、ご自身のお体も大切になさってください」
その後の会話は普段どおりだったが、私の中には小さな棘が残った。
クリストフが去った後、椅子の背にもたれて天井を見上げた。
レオンハルトなら、絶対にああは言わない。あの男なら「任せろ」ではなく「自分で調べろ」と言う。叱りつけてでも、私に考えさせる。
どちらが正しいのだろう。クリストフの気遣いか、レオンハルトの厳しさか。
(──でも、あの一瞬は何だったのかしら)
考えすぎだろうか。疲れているせいだろうか。
◇
数日後、調査に進展があった。
買い占め資金の流れを追っていた私は、ある商会の名前に目を止めた。ホルツマン商会。王都と西部を結ぶ交易路で手広く商いをしている中堅の商会だ。
この商会を経由して、クレールモン公国からの資金が国内に流入している痕跡がある。取引の日付と金額を突き合わせると、買い占めが始まった時期と一致していた。
ホルツマン商会の取引先一覧をさらに辿ると、見覚えのある名前があった。
シュヴァルツェン家。
クリストフの実家だ。
手が止まった。書類を持つ指が震えた。
落ち着け。取引先の一つに名前があるだけだ。大公家ほどの規模なら、多くの商会と取引がある。ホルツマン商会と取引があったとしても、それ自体は何ら不思議はない。
けれど、レオンハルトの言葉が蘇る。
『シュヴァルツェン大公家の現状をご存知ですか』
あの男は、これを知っていたのか。知っていたから、あの夜に問いかけたのか。
書類を閉じた。手が、まだ震えていた。
◇
翌日、ベアトリクスが動いた。
直接ではない。ベアトリクスのやり方は、いつも間接的だ。
昼食後、侍女のマルタが妙にそわそわしていた。普段は無口で真面目な娘だが、今日はやたらと話しかけてくる。
「陛下、最近はどのような本をお読みですか」
「日記はお書きになりますか」
「候補者の方々とは、どのようなお話を」
唐突な質問の数々に、引っかかった。
「マルタ、それは誰に聞かれたの?」
マルタの顔が青ざめた。口ごもりながら、「リンデンベルク令嬢が、陛下のご様子が心配だと……」と答えた。ベアトリクスだ。
(あの女、今度は侍女を使って情報を抜こうとしているのね)
怒りよりも呆れが先に立った。ベアトリクスの手口は、もはや読めるようになっていた。
「マルタ。リンデンベルク嬢には、女王は元気だと伝えておいて。それだけで十分です」
マルタは泣きそうな顔で頷いた。責める気にはなれなかった。ベアトリクスに逆らえない侍女を責めても、根本の問題は解決しない。
だが、ベアトリクスの工作はそれだけではなかった。
夕方、廊下で別の侍女から妙な噂を耳にした。
「レオンハルト様は、陛下を利用してご出世なさるおつもりだそうですよ。陛下のことなど、駒としか思っていらっしゃらないのだとか。私、それを聞いて頭にきてしまって」
一瞬、胸が痛んだ。
駒。あの氷のような顔で、私を駒として動かしている。そう言われれば、そうも見える。
けれど、すぐに頭が冷えた。
レオンハルトが出世のために私を利用する? あの男なら、もっと効率的な方法を選ぶ。宰相の息子で、すでに宮廷で確固たる地位を持っている。今さら女王を利用して得るものなど、何もないはずだ。
それに。
あの男は、毒殺未遂の夜に手を震わせていた。
駒にそんな反応はしない。
「その噂はどこから?」
「えっと……リンデンベルク令嬢のお付きの方から……」
また、ベアトリクスか。
噂の出所を冷静に確認できるようになった自分に、少し驚いた。三ヶ月前の私なら、噂を真に受けて一晩泣いていただろう。
夕方、ディートリヒが執務室を訪れた。いつもの率直な足取りで椅子に腰を下ろし、単刀直入に切り出した。
「陛下、一つご報告があります。リンデンベルク伯爵の動きが気になりましてね」
「リンデンベルク伯? ベアトリクス嬢のお父上ですか」
「ええ。ここ数日、伯爵が社交の場でクリストフ殿の支持を積極的に広めています。『王国の安定にはシュヴァルツェン家の力が要る、クリストフ殿が王配になれば国益に適う』と」
ディートリヒは腕を組んだ。
「令嬢の恋慕だけなら放っておけますが、伯爵家ぐるみとなると話が違う。リンデンベルク家はシュヴァルツェン家への大口融資元です。クリストフ殿が王配になることに、リンデンベルク家にとっての利益がある。伯爵自身が動いているとなれば、令嬢の嫌がらせも個人の感情ではなく、家の戦略の一環と見るべきでしょう」
胸の中で、何かが繋がった。ベアトリクスによる嫌がらせ。侍女への接触。レオンハルトについての偽情報。あれは一人の令嬢の嫉妬ではなく、父親の指揮のもとで行われている工作なのだ。
「……ありがとうございます、ディートリヒ殿。頭に入れておきます」
「念のため申し上げますが、伯爵の行動は現時点では合法です。貴族が特定の候補を支持すること自体は、咎められません。ただ──」
ディートリヒは少し言い淀んだ。珍しいことだ。
「噂の流布や侍女への接触は、品位の問題ではあっても法の問題ではない。だからこそ厄介です。陛下が直接手を下せない領域で動いている」
私は頷いた。わかっている。ベアトリクスとリンデンベルク伯が巧妙なのは、表立って非難されることのない一線をよく見極めていることだ。
けれど、いつか必ず、帳尻は合う。そう信じなければ、やっていけない。
◇
同じ日の夜、薬草園でフェリクスに会った。
いつもの穏やかな顔のはずだったが、今日はどこか影がある。亜麻色の髪の下の淡い水色の瞳が、いつもより暗い。
「フェリクスお兄様、何かございましたか?」
「……ん? 別に、何も」
嘘だ。この人は嘘が下手だ。けれど、無理に聞き出すのはやめた。フェリクスが私にそうしてくれるように。
しばらく並んで座って、月を眺めた。フェリクスはいつもより寡黙で、時折何か言いかけては口を閉じていた。結局、何も聞けないまま薬草園を後にした。
◇
──その数日前のことである。
フェリクスは薬草園の畝に水をやっていた。午後の陽が傾きかけた頃、見慣れない三人の男が庭園の入口に現れた。いずれも仕立ての良い上着を身につけた中年貴族で、庭園の散策を好むような人物には見えなかった。
「フェリクス卿。少々お時間をいただけますか」
フェリクスは如雨露を置いて立ち上がった。厄介事の匂いに渋面を隠すことなく、単刀直入に切り出した。
「僕に何の用?」
貴族たちは互いに目配せをした。中央に立つ男が、声をひそめた。
「フェリクス卿。王国には正統な王が必要です。姫君に政が務まるはずがございません。卿は健やかなお体をお持ちで、かつ男系男子では最も玉座に近い方です。貴方様こそが正統な王。どうか、国の未来のためにお力添えを」
フェリクスは、男の言葉が終わる前に口を開いた。
「僕は薬師だ。王の器じゃない」
きっぱりと、しかし声を荒げることなく言った。王冠に興味はない。政治にも興味はない。フェリクスにとって大切なのは、目の前の薬草と──アイリスが安全でいることだけだ。
男は表情を変えなかった。去り際に、振り返ってこう言った。
「卿がお断りになっても、我々は動きます」
三人の背中が庭園の門をくぐり、消えた。
フェリクスは再び如雨露を手に取ったが、水をやる手が止まった。
動く、とはどういう意味だ。アイリスに何かするつもりなのか。
言い返すべきだった。もっと強く止めるべきだった。けれど、何をどう言えばよかったのか、フェリクスにはわからなかった。
アイリスに伝えるべきだろうか。
でも、今のアイリスは買い占めの対策と王配選びで手一杯だ。これ以上、重荷を増やしたくない。
結局フェリクスは黙ることを選んだ。
その優しさが、やがて大きな代償を伴うことを、フェリクスはまだ知らない。
◇
宮廷の空気は、日に日にクリストフに傾いていた。
社交の場では、ベアトリクスが扇を揺らしながら語っていた。
「クリストフ様こそ、この国にふさわしい王配ですわ。あの方のお優しさは本物ですもの」
その周囲で、取り巻きの令嬢たちが頷いている。ベアトリクスの言葉は、彼女自身の恋慕とは別に、宮廷の世論を動かす力を持っていた。名門伯爵家の令嬢であり、社交界の花でもある彼女が公然と支持を表明すれば、追従する者は多い。
私の隣にいたディートリヒが、冷ややかに呟いた。
「人気投票で王配が決まるわけではないが」
「ディートリヒ殿は、クリストフ殿では不満ですか? あなたを選ぶことが、『最善』だから」
聞くと、ディートリヒは苦笑した。
「もちろん、その考えに変わりはありません。ですが、クリストフ殿本人に対する不満もありません。ただ、選ばれるべきはこの国と陛下にとって最善の人間であって、宮廷にとって都合のいい人間ではない。それが一致しているなら問題ありませんが」
含みのある言い方だった。ディートリヒは何かを掴んでいるのだろうか。けれど、聞く前にディートリヒは話題を変えた。
◇
その夜、クリストフが執務室を訪れた。
「遅くまでお疲れさまです、アイリス様。少しだけ、お顔を見たくて」
こうしてクリストフが私のもとを訪れるのは、珍しいことではない。
穏やかな声。温かい笑顔。何も変わらない、いつものクリストフ。他愛のない会話を少し交わして、クリストフは去っていった。
扉が閉まった後、私は椅子から立ち上がろうとして、足元に何かが落ちているのに気づいた。
小さなメモの切れ端。
それは先ほどまでクリストフが座っていた椅子の下に落ちていた。破り捨てた反故紙の一部が、彼の衣服についていたのかもしれない。
何となく気になって拾い上げた。紙は高級なもので、クリストフが使いそうな品だった。
断片的な文字列が読める。
──契約──履行──期限──
三つの単語が、それぞれ行を変えて書かれている。前後の文脈はわからない。メモの大半は失われていて、ここに存在するのは断片だけだった。
契約。履行。期限。
商取引のメモかもしれない。シュヴァルツェン家の家業に関する覚書かもしれない。何の変哲もない紙切れだ。
そう思いたかった。
けれど、指先が冷たくなっていた。
ホルツマン商会。シュヴァルツェン家。クリストフの一瞬だけ硬くなった表情。「調査に乗り出す必要はない」という忠告。そして、このメモ。
一つ一つは些細なことだ。偶然で説明がつく。
でも、偶然が重なりすぎている。
メモを引き出しにしまった。
レオンハルトに見せるべきだろうか。ディートリヒに相談すべきだろうか。
今はまだ、何もわからない。わからないうちに騒げば、クリストフを傷つける。もし本当に何もなかったら、私は取り返しのつかない疑いをかけたことになる。
でも。
もし何かあったら。
ハーブティーを飲もうとして、カップが空になっていることに気づいた。今夜は、いつもの淹れ主も間に合わなかったらしい。
空のカップを見つめながら、思った。
初恋の人を疑うのは、こんなに苦しいものなのか。
窓の外で、秋の風が枯れ葉を巻き上げていた。




