第13話:小娘ではない
外交交渉の日が来た。
クレールモン公国との通商条約の締結交渉。ルシアンが数日前から「両国にとって有益な合意です」と根回しをしてきた案件だ。
交渉の場は王宮の外交の間。長い楕円形の卓を挟んで、こちら側にはヴァイスブルク王国の官僚たちと私、向こう側にはクレールモン公国の使節団。その中央に、ルシアンが座っている。
琥珀色の瞳が、今日はいつもの茶会とは違う光を帯びていた。外交官の目だ。
「それでは、通商条約案の最終確認に入りましょう」
ルシアンが切り出した。声は穏やかだが、場の空気を完全に掌握している。さすがクレールモン第三公子。社交の場の軽やかさとは別の、鋭い知性が表に出ている。
条約案は二カ国語で作成されていた。ヴァイスブルク語版とクレールモン語版。形式上は同一の内容を両言語で記したもので、我が国の官僚たちはヴァイスブルク語版を精査済みだった。
「問題ありません」と、外交担当の高官が私に頷いた。「条件は対等です。むしろ、我が国に有利な箇所すらあります」
ルシアンは微笑んだ。穏やかで、親しげに。二国間の友好関係を、心から喜んでいるように見える。
私も頷きかけた。官僚たちが問題なしと言っているのだ。サインすればいい。
けれど。
(……ちょっと待って)
机の上に、クレールモン語の原文が置かれている。官僚たちはヴァイスブルク語版しか読んでいない。だが、私は読める。
芸術と文化の国クレールモン。私はクレールモンの文学が好きだった。宮殿の図書室で見つけた美しい装丁の本、最初は小説や詩集だった。そのうち法学書にも手を伸ばした。法律用語は独特だが、構造がパズルのように面白くて、気がつけば全巻読んでいた。
クレールモン語の原文を、静かに手に取った。
第五条、紛争解決条項。ヴァイスブルク語版では「両国の合意に基づく仲裁」と書かれている。だがクレールモン語版では──
語句をなぞっていた目が止まった。
管轄がクレールモンの国立裁判所に置かれている。つまり、解釈に争いが生じた場合、全ての条項がクレールモン法に基づいて解釈される。
第八条に目を移した。「北部鉱山に関する優先交渉権」。ヴァイスブルク語版では交渉の優先権に過ぎない。だが、クレールモン語の原文では "droit de préemption" と書かれている。
心臓が、大きく一度だけ鳴った。
"droit de préemption"。クレールモンの法体系では「先買権」──事実上の所有権移転と同義だ。クレールモン公家の傍系で、同国の著名な法学者アントワーヌ・フォン・クレールモンが著した『法学概論』第三巻に、判例とともに詳述されている。
つまり、この条約にサインすれば、北部鉱山の実質的な所有権がクレールモン公国に移る。しかも紛争が起きた場合の裁定権もクレールモンが握る。ヴァイスブルク語版だけを読めば対等な条約だが、クレールモン語版こそが法的効力を持つ原本だ。
「ルシアン殿」
私は声を上げた。
硬い響きのそれに、交渉の場が静まった。官僚たちが振り返る。ルシアンの琥珀色の瞳が、わずかに揺れた。
「第八条の『北部鉱山に関する優先交渉権』ですが」
クレールモン語の原文を卓上に広げた。
「クレールモン語の原文では "droit de préemption" となっていますね。これは貴国の法体系では『先買権』──事実上の所有権移転と同義ではありませんか」
ルシアンの笑顔が消えた。
完璧な仮面が、音もなく剥がれ落ちた。その下にあったのは驚愕だった。
「さらに、第五条の紛争解決条項。解釈に争いが生じた場合の管轄がクレールモンの裁判所に置かれています。つまり、全ての用語がクレールモン法に基づいて解釈される。ヴァイスブルク語版では無害に見える条項が、クレールモン語版ではまったく異なる意味を持つ──巧妙な仕掛けですね」
会場が騒然となった。
官僚たちが慌ててクレールモン語版を手に取るが、法律用語が読めない。読めたとしても、クレールモンの法体系における用語の特殊な意味までは知らない。
「……陛下は、クレールモン語の法律用語をご存じなのですか」
ルシアンの声が、初めてかすれた。
「クレールモンの古い法学概論を図書室で見つけまして。貴国の法学者、アントワーヌ・フォン・クレールモンの全五巻の著書。美しい装丁だったので、つい全巻読んでしまいました」
涼しい顔で答えた。内心は心臓が飛び出しそうだったが。
ルシアンは、しばらく何も言わなかった。琥珀色の瞳が、射抜くように私を見ている。外交官の目ではなかった。もっと生々しい、何かに打たれた人間の目だった。
「……どうやら両国の事務方の意思疎通に、不備があったようです。条約案は撤回します。修正版を、改めて提出させていただきたい」
ルシアンは静かに頭を下げた。声は平静を取り戻していたが、その手が卓の下でかすかに震えているのを、私は見逃さなかった。
◇
交渉が終わり、会場を出る時、レオンハルトとすれ違った。
レオンハルトは何も言わなかった。
ただ、すれ違いざまに私の肩に一瞬だけ手を置き、すぐに引いた。
それだけだった。
けれど、あの男が言葉以外で何かを伝えようとしたのは、これが初めてだった。
振り返ると、レオンハルトはもう廊下の先を歩いていた。いつもの姿勢で、いつもの速さで。
その背中が少しだけ、ほんの少しだけ、誇らしげに見えたのは、気のせいだろうか。
◇
交渉の場を出た後、ルシアンは使節団の控室には戻らず、一人で窓辺に立っていた。
王宮の廊下の突き当たりの、人の来ない場所。高い窓から差し込む秋の陽が、銀灰色の髪を透かしている。
手が震えていた。
外交の完敗。自分の母国語で、自分の法体系で、自分の土俵で負けた。御しやすい小娘のはずだった。先王の末の姫で、政治経験もなく、本ばかり読んでいる世間知らず。そう見積もっていた。
あの菫色の瞳が、クレールモン語の原文を読み上げた瞬間、ルシアンの中で何かが軋んだ。
"droit de préemption" ──その言葉の意味を、発音まで正確に。法学概論の全巻を読破していた。趣味で。ただの好奇心で。
(困ったな)
ルシアンは窓枠に額を押しつけた。冷たいガラスが、火照った顔を冷ましてくれる。
悔しいのではない。屈辱でもない。もっと厄介な感情だ。
あの瞬間、「勝ちたい」とは思わなかった。代わりに浮かんだのは、「もっと見ていたい」という衝動だった。あの菫色の瞳が知識の刃を振るう姿を、もっと近くで見ていたい。
「……これは、計算外だ」
呟いて、苦笑した。
外交官として致命的だ。利用対象に心を動かされるなど。これは好奇心だ、とルシアンは自分に言い聞かせた。外交官としての、純粋な知的好奇心だ。
それ以上の意味は、ない。あってはならない。
自分の仮面に入った小さな亀裂から目を逸らすように、ルシアンは窓を離れた。
◇
交渉の噂は、すぐに宮廷中に広まった。
「女王陛下がクレールモン語の法律用語を読み解いて、通商条約の罠を見破った」
官僚たちが驚き、貴族たちが囁き合い、侍女たちが興奮して噂を回した。「小娘に何ができる」と言っていた者たちの中に、明らかに態度を変える者が現れ始めた。
その中で、ベアトリクスだけが冷笑していた。
「まぐれですわ。図書室に籠もっているだけの姫に、外交などできるはずがありません」
社交の場で、いつものように扇の陰から囁く。取り巻きの令嬢たちが同調するように頷いた──が、その数はいつもより少なかった。
沈黙を破ったのは、傍らにいた年配の貴婦人だった。ブルクハルト侯爵夫人。宮廷の社交界で三十年以上の重みを持つ女性だ。
「リンデンベルク嬢」
穏やかな、しかし有無を言わさない声だった。
「クレールモン語の法律用語を原文で読み解ける者が、この宮廷にどれほどいるかしら。私の知る限り、外交官の中にもいないようですが」
ベアトリクスの碧い瞳が見開かれた。すでに侯爵夫人はベアトリクスを見ていなかった。扇を畳み、隣の令嬢に向かって別の話題を振っている。相手にしていないのだ。反論する余地すら与えず、事実だけを置いて、ベアトリクスの存在ごと話題から消し去った。
同じ場にいたブルクハルト侯爵も、ゆっくりと首を振った。
「──我々はそろそろ、あの方を正しく見るべきかもしれんな」
ベアトリクスの周りから、人が離れた。ほんの一歩、二歩。目に見えるほどではない。けれど、空気が変わり始めていた。ベアトリクスの隣で頷いていた令嬢の一人が、さりげなく侯爵夫人の側へ移動した。
ベアトリクス自身は、まだそれに気づいていない。
◇
夜、執務室に戻った。
交渉の緊張が解けて、体中の力が抜けていた。
机の上にハーブティーが置かれていた。今日の香りは穏やかで、どこか甘い。一口飲むと、張り詰めていた神経がゆるゆると解けていく。
(……この人は、今日何があったか知っているのかしら)
外交交渉の後に、神経を落ち着かせる薬草。タイミングが良すぎる。フェリクスなら薬草の選び方を知っているが、フェリクスは以前「僕じゃない」と言っていた。
このお茶を淹れているのは、一体誰なのだろう。
考えながら、ふと今日の交渉を振り返った。
あの瞬間、クレールモン語の原文を読み上げた時、怖かった。もし間違っていたら。もし私の解釈が誤りだったら。ルシアンの前で、国の前で、恥をかくことになっていた。
けれど、間違っていなかった。図書室で読んだ本が、私を救った。
レオンハルトが鍛えてくれた「読む力」が、ディートリヒと交わした「数字を見る力」が、そして何より、あの暗い図書室で一人本を読んでいた孤独な時間が、今日の私を作った。
誰にも必要とされないと思っていた時間が、実は最強の武器を磨いていたのだ。
(フェリクスお兄様のオニグルミソウみたいね。誰にも必要とされなくても、咲き続ける花)
日記帳を開いて、一行だけ書いた。
今日は、少しだけ自分を誇れた。
ペンを置いて、ハーブティーの残りを飲み干した。甘くて、温かかった。




