第14話:仮面の下
通商条約の交渉を退けた翌日。
体の芯が重かった。
あの交渉の場で見せた涼しい顔は、演技だ。内側では心臓が暴れ回り、声が震えないようにするだけで精一杯だった。終わった後にどっと疲れが押し寄せて、昨夜はほとんど眠れなかった。
それでも朝の執務は休めない。レオンハルトが来る。あの男は精神的不調を理由にした休みを認めない。
執務室の椅子に座り、書類を広げた。
文字が、読めない。目が滑る。頭が回らない。昨日の交渉で使い果たした気力が、まだ戻っていない。
スプーンが銀の器にぶつかる音が蘇る。唇の痺れ。あの夜の記憶が、不意に重なった。毒殺未遂。あの時も、終わった後に体が動かなくなった。
国を動かす決断のたびに、心はすり減っていく。いつか本当に壊れるのではないか。
書類を持つ手が、小刻みに震えていた。
ぱたん、と。
書類が手から落ちた。拾おうとして、膝が折れた。
気がつくと、机の横で膝を抱えて座り込んでいた。冷たい石の床が、頬に触れている。
泣いていた。
声を殺して、体を丸めて。誰にも見られてはいけない。女王が泣いているところなど、誰にも。
扉が開いた。
ノックもなく。レオンハルトだった。
いつもの時間に、いつもの無表情で、書類の束を抱えて入ってきた。
私の姿を見た瞬間、レオンハルトの足が止まった。
床に座り込んで、膝を抱えて、涙を流している女王。国を動かす決断の重さに、体がついていけなくなった小娘。
いつもなら「泣いている暇は」と言うはずだ。「涙で数字が変わりますか」と。
レオンハルトは、言わなかった。
書類を静かに机に置いた。
そして、立ったまま、しばらく何も言わなかった。
長い沈黙だった。
廊下を誰かが歩く足音が遠くに聞こえた。窓の外で鳥が鳴いた。
「……よく、やりました」
小さな声だった。
あまりに小さくて、最初は聞き間違いかと思った。
顔を上げた。涙で滲んだ視界に、レオンハルトの横顔が映った。こちらを見ていなかった。窓の外を見ている。鋼色の瞳に、秋の光が反射していた。
『よくやりました』
たった七文字。
泣いても数字は変わらないと言い、書類の誤謬を一字残らず指弾し、一度たりとも私を認めなかった人が──認めた。
七文字で、世界の色が変わった。
ばかみたいだ。たった七文字で。
レオンハルトは何も付け足さなかった。
代わりに、黙って自分の上着を脱ぎ、私の肩にかけた。黒い生地の上着。重くて、温かかった。インクと紙の匂いがした。
そのまま、レオンハルトは部屋を出ていった。振り返らなかった。
上着に顔を埋めた。
なぜだろう。この上着に包まれていると、泣いてもいい気がした。誰の前でも見せられない弱さを、この布だけは受け止めてくれる気がした。
しばらく泣いた。声を殺さずに。
◇
翌朝、レオンハルトは何事もなかったかのような顔で執務室に現れた。
いつも通りの無表情。いつも通りの書類の山。いつも通りの辛辣な指摘。昨日のあの瞬間が嘘のようだった。
「レオンハルト殿」
「何ですか」
「昨日は、ありがとうございました」
レオンハルトは眉一つ動かさなかった。
「お礼を言われるようなことは、何もしていません」
素っ気ない声。いつもの氷の宰相補佐官。
けれど、私は見逃さなかった。
レオンハルトの耳の先が、ほんの少しだけ、赤くなっていた。
(……こういう人なのよね、この男は)
口元を手で隠した。笑っていることを悟られたくなかった。
レオンハルトは嫌いだ。……でも、嫌いという言葉が、前より少しだけ軽くなった気がする。
◇
その日の午後、クリストフが動いた。
御前会議の場に、予告なく姿を現したクリストフは、居並ぶ貴族たちの前で静かに口を開いた。
「陛下、一つご提案があります」
翡翠色の瞳が、穏やかに私を見ている。いつもの笑顔。いつもの柔らかな声。
「小麦の買い占めによる物価高騰について、シュヴァルツェン家としてお力添えしたく存じます。我が家は西部に広大な農地と穀物倉庫を有しております。今季の備蓄の一部──小麦十万ブッシェルを、王都に無償で寄贈させていただきたい」
会議場がざわめいた。
十万ブッシェル。王都の一ヶ月分の消費量に匹敵する量だ。それを無償で。
「シュヴァルツェン領の蓄えではございますが、王国の民が困っているならば、陛下の臣としての責務を果たすべきだと考えました」
クリストフは深々と一礼した。その姿は、まさに理想的な高位貴族の振る舞いだった。
会議場の空気が一変した。
貴族たちの間から、感嘆のため息が漏れた。「さすがシュヴァルツェン家」「名門の矜持だ」という囁きが広がる。ブルクハルト侯爵ですら、感心した表情を隠そうとしなかった。
「ありがとうございます、クリストフ殿」
私は礼を言った。素直に感謝した。十万ブッシェルの小麦があれば、当座の価格安定には大きく貢献する。理由が何であれ、民が助かるなら。
けれど、胸の奥で何かが引っかかった。
小さな棘。前からある棘だ。クリストフに関わるたびに、少しずつ大きくなっている気がする。
クリストフが去った後、レオンハルトが隣で低く呟いた。
「十万ブッシェル。大公家の備蓄としては、やや多すぎる数字ですね」
それだけ言って、レオンハルトは口を閉じた。追及もしなかった。ただ、鋼色の瞳が一瞬だけ、クリストフが去った扉のほうに向けられていた。
◇
クリストフの穀物寄贈の報せは、瞬く間に宮廷中に広まった。
翌日には王都の市場にもシュヴァルツェン家の小麦が届き始め、パンの値段が下がった。あの半分のパンしか子どもに渡せなかった母親は、今日は一つ丸ごとのパンを渡せるだろうか。
そう思うと、素直に嬉しかった。
社交の場では、クリストフの評判が天井知らずに上がっていた。
「大公家の太っ腹!」
「あの方は優しいだけではない。実行力もおありだ」
「外交ではアイリス陛下が、内政ではクリストフ様が。お二人が組めば、この国は安泰ですわ」
ベアトリクスは水を得た魚のように社交の場を泳ぎ回っていた。
「ほら、やはりクリストフ様でしょう? 優しさも、力も、お家柄も。あの方以外に誰がふさわしいというのかしら」
その声は自信に満ちていたが、以前ほど追従する者は多くなかった。通商条約の件でベアトリクスの周りから離れた貴族が何人かいる。けれどベアトリクスはそれに気づいていない。クリストフの株が上がれば、自分の立場も上がる。彼女にとっては、それで十分なのだ。
ディートリヒが、私に耳打ちした。
「陛下。シュヴァルツェン家の穀物倉庫について、少し気になることがあります」
「何ですか」
「十万ブッシェルの小麦の出所です。王国西部の今季の収穫量は平年並みか、やや下回る程度。あの規模の備蓄を自家消費分から捻出するのは、かなり無理がある。どこかから買い付けた分が混じっている可能性があります」
ディートリヒは慎重に言葉を選んでいた。
「買い付けた分?」
「まだ推測の段階です。証拠はありません。ただ、ホルツマン商会の取引記録と、シュヴァルツェン家の穀物倉庫への搬入時期が妙に一致しているのが気にかかります」
ホルツマン商会。
あの、クレールモンの資金が流入していた商会だ。
胸の棘が、また少し大きくなった。
「ディートリヒ殿。引き続き調べていただけますか」
「はい。ただし、陛下にお伝えするなら確実な証拠が必要だと考えています。曖昧な段階で騒ぐのは、関係者全員にとって不利益です」
ディートリヒの焦茶色の目が、真剣だった。この男は、いつも物事を正確に処理しようとする。感情ではなく、事実で動く。
その姿勢を、今は頼もしく思った。
◇
夜、執務室で書類に向かっていると、机の上にハーブティーが置かれていた。
今日の香りは特に穏やかだった。カモミールに似ているが、もう少し深い。神経を鎮め、安眠を促す効能がある薬草だろう。
(この人は、私がどれだけ疲れているか知っている)
昨日の交渉の後の崩れ方を、レオンハルトは見た。でもこのお茶はレオンハルトの手配ではない──あの男は紅茶すらまともに淹れられないと侍女が言っていた。フェリクスは「僕じゃない」と否定した。
では、誰が。
私の体調を把握し、その日の状態に合わせた薬草を選び、毎日欠かさず淹れてくれている人間。顔を見せず、名乗りもせず、ただ静かに私を支えている誰か。
答えには、まだ辿り着けない。
一口飲んだ。温かさが喉を通り、体の奥に染み込んでいく。
今日もまた、この一杯に救われている。
日記帳を開いた。
クリストフ殿の穀物寄贈。民が助かるのは嬉しい。けれど、レオンハルトの「やや多すぎる」という言葉が消えない。ディートリヒもホルツマン商会との関連を気にしている。
何も見えていないのは、私だけなのだろうか。
見たくないものから目を逸らしているだけなのかもしれない。
ペンを置いた。
レオンハルトの上着は、洗って返さなければ。あの黒い生地の上着。インクと紙の匂い。
……明日返そう。今夜はまだ、もう少しだけ、手元に置いておきたい。




