第15話:見えない糸
──もはやクリストフ殿で決まりでしょう。
その言葉を、この一週間で何度聞いたかわからない。
穀物寄贈の後、宮廷の空気は完全にクリストフに傾いていた。社交の場で、廊下で、食堂で、庭園で。どこへ行っても、同じ結論が囁かれている。
ついには、侍女のマルタまでが口にした。
「陛下、ご決断は近いのですか?」
そう聞く時のマルタの表情には、期待と安堵が混ざっていた。クリストフが王配に選ばれれば、宮廷は安定する。王配選びが終われば、この半年間の緊張も解ける。皆がそう思っている。
「まだ、決めていません」
マルタの顔に、かすかな失望が浮かんだ。すぐに消えたが、見逃さなかった。
責められない。私だって、一刻も早く答えを出したい。出せるものなら。
ベアトリクスは勝ち誇ったように社交の場を闊歩していた。通商条約の一件以来、彼女の周りから離れた貴族は何人かいたが、穀物寄贈の手柄がそれを補って余りあった。
「ほら、やはりクリストフ様でしょう? 外交はまぐれが利きますけれど、十万ブッシェルの小麦は嘘をつきませんわ。あの方の実行力は本物です」
嫌みったらしい言い方だが、反論できる者は少ない。穀物の効果は市場の価格に明確に表れている。数字は嘘をつかない。レオンハルトの口癖だ。
けれど、私の胸の棘は消えていない。
ホルツマン商会。メモの切れ端。一瞬だけ硬くなった翡翠の瞳。「女王が自ら調査に乗り出す必要はない」という助言。
私は見たくないものから、目を逸らしているだけなのかもしれない。
◇
その日の午後、ディートリヒが険しい顔で執務室に現れた。
「陛下、お話があります。二件です」
ディートリヒが二件と言う時は、どちらも重い。
「一件目。反女王派がフェリクス殿を擁立する正式な請願を、議会に提出する動きがあります」
息が止まった。
「フェリクスお兄様を?」
「はい。フェリクス殿は曾祖父が三代前の国王で、陛下の再従兄にあたる方。そして男系男子に限れば、最も有力な王位継承権を持つ方と言えるでしょう。反女王派は『正統な男子の王を』という名目で、フェリクス殿を旗頭に据えようとしています」
フェリクスの意思ではない。それだけは直感でわかった。あの人は王冠に興味がない。薬草園と、私の安全にしか関心がない人だ。
「擁立の中心人物は」
「ブルクハルト侯爵です」
ブルクハルト侯爵。
その名前を聞いた瞬間、記憶の糸が引っ張られた。建国記念祭三日目の、舞踏会の夜。フェリクスが広間の隅で、明らかに気の進まない様子で誰かと話をしていた。その相手は、ブルクハルト侯爵だった。
(あれは、この布石だったのね)
あの時すでに、ブルクハルト侯爵はフェリクスに接触していたのだ。そしてフェリクスは断ったはずだ。先日、フェリクスが薬草園で見せたあの影──あの寡黙さの理由が、今わかった。
「そしてもう一件です」
ディートリヒの声が、さらに低くなった。
「シュヴァルツェン家とクレールモン公国の間の、不自然な資金の流れを確認しました」
心臓が凍った。
「ホルツマン商会を経由して、クレールモン側からシュヴァルツェン家に大量の資金が流入しています。金額は穀物寄贈の規模をはるかに超えている。つまり、穀物寄贈の原資は自家の蓄えではなく──」
「クレールモンの資金で集めたもの……」
「はい。さらに、クリストフ殿が隣国の使者と密かに接触していたという証言も得ました」
椅子の肘掛けを握りしめた。指が白くなった。
「それだけではありません。陛下の毒殺未遂事件に使われた毒──この毒物の入手経路を追ったところ、シュヴァルツェン家の領地を経由する密輸ルートが浮上しました」
毒殺未遂まで。
あの夜。スプーンが銀の器に触れた音。唇の痺れ。フェリクスが危険を顧みず薬草を採取し、死の鎌から私を守ってくれたあの夜。
あの毒が、クリストフの実家を経由して入ってきた可能性がある。
「……ディートリヒ殿。証拠の確度は」
「資金の流れについては、帳簿の裏付けがあります。密輸ルートについては、状況証拠のみ。使者との接触は目撃証言が一件。まだ物証が足りません」
感情に流されるな。推測だけで人を断罪してはならない。
それは女王としてしてはならないことだ。
「引き続き調査を。証拠が揃うまでは動きません」
ディートリヒは頷いた。その焦茶色の目には、報告する側の苦しさが滲んでいた。クリストフと私の関係を知っていて、それでも事実を伝える。この男の誠実さを、今ほど辛く感じたことはない。
◇
フェリクスは、自分の名が使われようとしていることを知っていた。
ディートリヒから報告を受けた直後に、フェリクスは自ら私の執務室を訪れた。
「アイリス。議会に、僕の名前で請願が出されようとしているんだろう」
フェリクスの淡い水色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。いつもの穏やかさの奥に、静かな決意がある。
「知っていたの?」
「ブルクハルト侯爵たちが接触してきたのは、かなり前だ。夜会の時にも話しかけられた。もちろん断った。でも、彼らは止まらなかった。それで……黙っていた。言えば、君の負担が増えると思って」
やはり。
薬草園でのあの沈黙。何か言いかけては口を閉じたフェリクス。あの優しさの裏に、これがあったのか。
「馬鹿ね。言ってくれればよかったのに」
「……ごめん」
フェリクスは少し俯いた。それから、顔を上げた。
「僕が直接、議会で話す。それで終わりにする」
◇
翌日。臨時の議会が開かれた。
議場には貴族たちが集まっていた。ブルクハルト侯爵を中心とする反女王派が、フェリクスの擁立請願を正式に提出しようとしている。
その場に、フェリクスが現れた。
薬草園から出てきたような質素な身なりではなかった。王族の礼服を纏っている。見慣れない姿だ。背筋は伸び、淡い水色の瞳が議場を見渡した。
普段は口数が少なく、場違いな空気を漂わせていた男が、初めて公の場で声を上げた。
「皆様に、申し上げます」
フェリクスの声は震えていなかった。
「私の名前を使うことを、許可した覚えはありません」
議場が静まった。ブルクハルト侯爵の表情が強張った。
「私は薬師です。王の器ではない」
一呼吸おいて、フェリクスは続けた。
「アイリス陛下こそが、この国の王です」
その言葉は、静かだが揺るぎなかった。政治的な計算もなく、誰かに吹き込まれた台詞でもない。フェリクスの心そのものだった。
私は立ち上がった。
「王室法第三十七条。王族は自らの意思により、継承権を正式に返上することができます」
議場がざわめいた。近年では、この条文は王女が他国へ嫁ぐ際にのみ使用されている。目的は、外国の王位継承への介入を防ぐこと。そのため、王族の婚姻に関する規定と混同している貴族は多いだろう。けれど過去には、国内に留まっている王族が自ら使用した例もあることを、私は知っている。図書室の奥の、埃をかぶった古い法典の中に書かれていた。
「フェリクス殿がお望みであれば、この場で手続きを行うことができます」
フェリクスは迷わなかった。
「お願いします」
ブルクハルト侯爵が立ち上がりかけたが、周囲の貴族たちが止めた。フェリクス本人が継承権を返上した以上、擁立の根拠が消える。請願は提出すらされずに霧散した。
議場を出る時、フェリクスと目が合った。
フェリクスは、いつもの穏やかな笑顔だった。けれどその瞳の奥に、静かな安堵が見えた。これでもう、自分の名前が政治の道具にされることはない。
「ありがとう、フェリクスお兄様」
「ん。これでようやく、薬草園に戻れる」
その背中を見送りながら、目頭が熱くなった。
フェリクスは王冠を望まなかった。けれど、私のために公の場に立ってくれた。あの人なりの、不器用な愛情表現だ。
◇
夕方、予期しない来客があった。
ルシアンが、極秘の面会を求めてきたのだ。
「陛下。人払いを」
ルシアンの顔から、いつもの微笑が消えていた。銀灰色の髪も乱れている。急いで来たらしい。
侍女たちを下がらせた。執務室に二人きりになる。
「何があったのですか、ルシアン殿」
ルシアンは窓際に立ち、一度だけ外を確認してから、声を落とした。
「陛下、今夜の夜会に出席してはなりません」
「なぜでしょう」
ルシアンの琥珀色の瞳が、射抜くような光を帯びていた。
「……私の国が、あなたを殺そうとしています」
息が、止まった。
「兄の──第一公子の派閥の急進派が、暗殺者を送り込んでいます。通商条約を破綻させた報復です。今夜の夜会が、もっとも警備が手薄になる」
通商条約。あの交渉で私がルシアンを論破したこと。それが、クレールモンの急進派の怒りを買った。
「なぜ、教えてくれるのですか」
率直に聞いた。
ルシアンはクレールモン公国の第三公子だ。この計画を漏らすことは、国への裏切りに等しい。
「ルシアン殿は、なぜそれを私に明かすのですか。あなたの国を裏切ることになるのに」
ルシアンは、しばらく黙っていた。
やがて、口の端をわずかに持ち上げた。笑っているのか、苦しんでいるのか、判別がつかない表情だった。
「私は外交官です。殺し屋ではありません」
建前だ。それだけではないことは、わかっていた。
「……それに、あなたが死ぬのは、損失が大きすぎる」
損失。
あの通商条約の場で私に打ち負かされ、廊下の窓辺で手を震わせていた男が、その言葉を選んだ。
ルシアンの握りしめた手が、白くなっていた。
「ルシアン殿」
「はい」
「ありがとうございます」
ルシアンは目を逸らした。
◇
ルシアンが去った後、すぐにレオンハルトとディートリヒを呼んだ。
暗殺の情報を伝えると、ディートリヒが即座に動いた。今夜の夜会の警備を私兵で増強し、暗殺者を炙り出す段取りを組む。レオンハルトは宰相と連携して、夜会の中止ではなく延期という形で処理する方針を立てた。中止すれば暗殺者が逃走する。延期なら、時間を稼ぎつつ準備ができる。
二人が去った後、レオンハルトだけが扉の前で足を止めた。
「陛下」
「はい」
「……陛下の兄君方の馬車事故について、再調査を許可いただけますか」
心臓が、大きく跳ねた。
「馬車事故の……再調査?」
王太子である長兄一家が亡くなった王宮に、間を置かず届いた次兄と三兄の事故の凶報。
長兄一家を襲った不幸は流行り病が原因だったため、あの時に兄二人が視察で王都を離れていたことは、むしろ宮廷の人々を安堵させてさえいた。しかし馬車事故は、あまりにあっけなく兄たちの命を奪い、結果として父の命まで縮めた。
(馬車の車軸が折れて……崖沿いだったから、谷に転落して……「不運だった」って……)
レオンハルトの鋼色の瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。いつもの冷徹な光ではなかった。もっと慎重で、もっと重い光だ。
「シュヴァルツェン家の関与を示す証拠が、あの事故にも存在する可能性があります」
兄たちの死が、事故ではなかったかもしれない。
世界が、音を失った。
「……許可します」
声は、自分のものとは思えないほど冷静だった。
レオンハルトが一礼して去った後、しばらく動けなかった。
兄たちの死。クリストフ。シュヴァルツェン家。穀物寄贈。ホルツマン商会。メモの切れ端。毒殺未遂のルート。そしてクレールモンの暗殺計画。
見えていなかった糸が、一本ずつ繋がりかけている。
その糸の先にいるのが、初恋の人だとしたら。
ハーブティーのカップを手に取った。今夜の香りは、苦かった。




