↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女王陛下の夫選び  作者: 宗像 凪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/26

第6話:舞踏会の残像

 祝典三日目。夜会の夜だ。


 侍女たちが入れ替わり立ち替わり私の身支度を整えていく。淡い銀金色の髪が結い上げられ、薄化粧が施された。ドレスは深い菫色のシルク。美しい仕立てだと思うが、私の頭の中にあるのはドレスの刺繍の美しさではない。


 ダンスだ。

 最後に踊ったのは、デビュタントの夜。あの時は緊張で手が震えて、足元を見ることしかできなかった。クリストフが手を取って導いてくれなければ、広間の真ん中で立ち尽くしていただろう。

 今夜、また踊ることになるのだろうか。女王として。何百もの目に見られながら。


 考えただけで、胃の底が重くなった。


    ◇


 大広間は光の洪水だった。

 天井から下がる七つの大燭台に何百もの蝋燭が灯され、水晶の飾りが光を砕いて虹色の破片を床に散らしている。壁面には歴代の国王の肖像画が並び、磨き上げられた大理石の床が鏡のように人々の姿を映していた。

 楽団が壇上で弦を合わせている。ハープの試奏が、ざわめきの中に澄んだ旋律を落とした。


 私が入場すると、広間が一瞬だけ静まった。視線が集まる。戴冠式の時とは違う種類の視線だった。品定めと、好奇心と、ほんの少しの華やぎ。


 五人の王配候補たちも、それぞれの場所にいた。レオンハルトは壁際で腕を組んでいる。ルシアンは貴族の令嬢に囲まれて優雅に笑っている。ディートリヒは軍の関係者と何やら真剣な顔で話し込んでいる。フェリクスは意外な人物と話をしていた。ただし会話が弾んでいる様子はなく、フェリクスは明らかに話を打ち切りたがっているように見える。相手はブルクハルト侯爵。私と五人の候補者との顔合わせの場で、「末の姫になにができる」と言い放った人物だ。


 そして、クリストフ殿。

 深い栗色の髪を丁寧に整え、白を基調とした礼服に身を包んだ彼は、私の姿を認めると静かに歩み寄ってきた。翡翠色の瞳が、蝋燭の光を受けて温かく輝いている。

 心臓が、ひとつ大きく跳ねた。


「陛下、今宵は一段とお美しい」


 ルシアンと同じ種類の言葉なのに、クリストフが言うと響き方が違う。あの夜の記憶があるからだろうか。それとも、この人の声にだけ含まれる何かが、私の中の特別な場所に触れるのだろうか。


「ありがとうございます、クリストフ殿」


(きちんと返事ができた。よくやったわ、アイリス)


 声が上ずらなかったことを内心で褒めた。成長したではないか、私。


 楽団の指揮者が弓を掲げ、最初の曲が始まった。ゆったりとした三拍子。宮廷舞踏の定番であるワルツだ。

 広間の中央が空けられ、周囲の貴族たちが期待に満ちた目で見守っている。最初の一曲は、国王が踊るものだ。誰と踊るかは、王自身が選ぶ。


 ついさっき自分自身を褒めた高揚感は潮を引くように去っていき、足が竦んだ。

 何百もの目が、私の次の行動を見ている。誰を選んでも、それは政治的な意味を持つ。ここで特定の候補者と踊れば、宮廷はそれを「意中の相手」と解釈するだろう。


(どうしよう……身内と踊るのが無難なのかしら……って、その身内がいないから困っているのよね)


 私のためらいを読んだように、クリストフが一歩前に出た。

 手袋をした右手を差し出し、微笑んだ。


「陛下、一曲いかがですか」


 あの夜と、同じ言葉。

 デビュタントの舞踏会で、震える私に差し出された手。あの時と同じ声、同じ笑顔、同じ翡翠色の瞳。

 断る理由が、見つからなかった。


「はい」


 手を重ねた。手袋越しでも、彼の手の温かさが伝わってくる。


 広間の中央へ導かれ、音楽に身を委ねた。

 最初の数歩は危うかった。足元ばかり気にして、何度もリズムを外しかけた。けれどクリストフのリードは柔らかく、私の不器用さをさりげなく受け止めてくれた。間違えたステップを、次のステップで自然に修正してくれる。

 やがて体が音楽に馴染み始めた。肩の力が抜けて、視線を上げることができた。


「何も変わっていないわ」


 口をついて出た言葉に、自分で驚いた。


「あの夜と同じ。あなたのリードは、あの時と同じですね」

「あなたも変わりませんよ、アイリス様」


 クリストフは微笑んだ。穏やかで、温かくて、どこまでも安心させるような微笑み。


「あなたはあなたのままでいい。王冠があっても、なくても」


 その言葉が、今の私にどれほど沁みるか、この人はわかっているのだろうか。

 レオンハルトは「もっと学べ」と言い、宰相は「早く決めろ」と言い、貴族たちは「末の姫に何ができる」と言う。誰もが私に「変われ」と求めている。その中で、「あなたのままでいい」と言ってくれるのは、この人だけだ。


 曲が終わった。拍手が広間に広がった。

 クリストフが私の手をそっと離す。名残惜しい、と思った瞬間、自分の顔が赤くなっているのがわかった。


    ◇


 ダンスを終えた私たちを、広間の至る所でひそひそ声が追いかけた。


「あの二人、お似合いではないか」

「大公家ならば格も申し分ない」

「宰相の息子より、名門のシュヴァルツェン家のほうが釣り合うだろう」


 聞こえないふりをした。けれど、耳には入ってくる。

 宮廷にひとつの空気が生まれつつあった。クリストフが有力候補だ、という空気が。


 しかしダンスの余韻に浸っている暇はなかった。

 飲み物を取りに歩き出した時、すれ違いざまに肩にぶつかる感触があった。ぶつかった、というより、ぶつけられた。

 次の瞬間、冷たい液体がドレスの胸元を濡らした。


「あら、申し訳ございません、陛下」


 ベアトリクスだった。手にはグラスを持っている。中身の半分が、私の菫色のドレスに染みを広げていた。

 まったく申し訳なさそうではない声。碧い瞳は、冷ややかに笑っている。


「お足元が暗うございましたもので。陛下のお召し物に、ご無礼を」


 言葉は丁寧だが、声には棘がある。周囲の貴族たちが遠巻きに見ている。誰も何も言わない。昨日と同じだ。ベアトリクスの嫌がらせは、いつも「事故」や「忠告」の体裁を取る。女王が怒れば、こちらが悪者になる。

 奥歯を噛みしめた。ドレスの染みが、じわじわと広がっていく。


「大丈夫、目立たないよ」


 穏やかな声がした。

 振り返ると、フェリクスがいた。いつの間に傍にいたのだろう。亜麻色の髪を後ろで束ねた、宮廷には少し不釣り合いな姿。

 彼は迷いなく自分のハンカチを取り出し、ドレスの染みを丁寧に押さえた。


「この素材なら、すぐ拭けば跡も残らないと思う。帰ったら水で軽く洗えば大丈夫」


 まるで薬草の手入れでもするかのような、手慣れた手つきだった。

 ベアトリクスは舌打ちを一つ残して去っていった。フェリクスはそれに気づいているのかいないのか、染みの具合を確認して「うん、大丈夫」と頷いた。


「ありがとう、フェリクスお兄様」


 その名前が自然に出てきた。この人の前だと、女王の仮面が勝手に外れてしまう。


    ◇


 ダンスを終えて広間を横切った時、壁際にレオンハルトが立っていた。

 腕を組み、鋼色の瞳でこちらを見ている。表情は、いつも通り読めない。


「楽しそうでしたね、陛下」


 その声に、感情はなかった。報告書の一行を読み上げるような、平坦な声。

 けれどなぜか、その一言が胸に刺さった。楽しかった。確かに楽しかった。それを指摘されると、まるで怠けていたことを咎められたような気分になる。


「……何か用ですか、レオンハルト殿」

「一つお聞きしてもよろしいですか」


 レオンハルトが一歩近づいた。声を低くして、周囲に聞こえないようにしている。


「シュヴァルツェン大公家の現状をご存知ですか」

「……何のこと?」

「いえ。お気になさらず」


 一礼して、レオンハルトは去っていった。

 その背中を見送りながら、胸の中に小さな棘が残った。シュヴァルツェン家。クリストフの実家のことだ。現在の当主はクリストフの兄、確か名前はエーリッヒ。けれど、あの男の言いたいのはそんなことではないのだろう。


(嫌味? クリストフ殿と踊ったことへの当てつけ? ……いえ、違うわね)


 レオンハルトはそういう回りくどいことをする人間ではない。あの男がわざわざ口にするからには、何か意味がある。

 けれど今夜は、その意味を考える余裕がなかった。


    ◇


 夜会を抜け出したのは、人混みに疲れたからだった。


 あてもなく廊下を歩いていると、開け放たれた窓から夜風と一緒に、かすかな土の匂いが流れてきた。足がそちらに向かった。

 王宮の裏手にある小さな薬草園。昼間は庭師が手入れをしているが、この時間には誰もいない。月明かりだけが、整然と並んだ薬草の葉を銀色に照らしている。


 誰もいない、と思っていた。


「あれ、アイリス」


 フェリクスがいた。

 薬草の畝の間にしゃがみ込んで、何かの葉に触れている。夜会の礼服の袖をまくり上げて、膝に土がついている。宮廷の夜会から抜け出して薬草の世話をしている王配候補など、この男くらいのものだろう。


「フェリクスお兄様、こんなところで何を」

「ああ、この薬草、夜に葉が閉じるんだよ。それを確認したくて」


 政治の話も、王配選びの話も、一切出てこない。ただ薬草の話。夜に閉じる葉のこと、月光が植物に与える影響のこと。私は薬草園の縁石に腰を下ろして、フェリクスの話を聞いた。

 何も考えなくていい時間だった。ダンスのことも、ベアトリクスのことも、レオンハルトの意味深な質問のことも、全部忘れていられる。夜風が心地よくて、土と緑の匂いが落ち着いた。


 しばらく黙って夜空を見上げていたフェリクスが、ぽつりと言った。


「アイリスは、女王になりたかったの?」


 不意を突かれた。

 誰も聞かなかった問いだ。宰相も、レオンハルトも、クリストフも、ルシアンも、ディートリヒも。誰もが「女王であるアイリス」に話しかける。「女王になる前のアイリス」に問いかけたのは、この人が初めてだった。


「……なりたくなかった」


 声にしたのも、初めてだった。

 喉の奥が熱くなった。涙が出そうになって、必死に堪えた。この言葉を口にしたら、何かが崩れると思っていた。けれど崩れなかった。ただ、胸の中の重石が少しだけ軽くなった。


「なら、辞めてもいいんじゃない?」


 フェリクスは、何でもないことのように言った。


「王位を降りて、好きなことをして生きたっていいと思うよ。図書室で本を読んで、庭を散歩して。それでいいじゃない」


 無責任な言葉だ。政治的にはありえない提案だ。

 私が王位を降りれば国は混乱し、貴族たちの権力争いが始まり、民が苦しむ。そんなことは、図書室で読んだ歴史書が嫌というほど教えてくれている。


 でも。

 この人だけが、私の苦しみを「苦しみ」として認めてくれた。他の誰もが当然のこととして受け入れさせようとする重荷を、この人だけが「降ろしてもいい」と言ってくれた。


「ありがとう、フェリクスお兄様。でも、辞めるわけにはいかないの」


 自分の口から出た言葉に、少し驚いた。「辞めたくない」ではなく「辞めるわけにはいかない」。義務として言っているのではなかった。あの減税嘆願の手紙を思い出していた。拙い文字で必死に書かれた、あの村長の手紙を。

 逃げたら、あの手紙に応えてくれる人がいなくなる。


「そっか」


 フェリクスは微笑んだ。寂しそうな、けれど納得したような笑顔だった。


「なら、疲れたらいつでもここに来て。薬草園は逃げないから」


 月明かりの下で、フェリクスの淡い水色の瞳が柔らかく光っていた。

 この人は、何も求めない。王配の座も、政治的な影響力も、私の心すらも。ただそこにいて、薬草の世話をして、疲れた人にお茶を淹れてくれるような、そういう人だ。


 薬草園を後にする時、一度だけ振り返った。

 フェリクスは再び畝の間にしゃがみ込んで、月光の下で葉の様子を観察していた。その背中は穏やかで、宮廷のどこよりも静かだった。


 この場所を選べたら、どれほど楽だろう。

 薬草園の縁石に座って、図書室から持ち出した本を読んで、時々お茶を飲んで。王冠も、候補者たちも、ベアトリクスの嫌味も、全部忘れて。


(けれど、それは逃げだ)


 私は前を向いて、廊下を歩き出した。

 背中にレオンハルトの言葉がこびりついている。現在のシュヴァルツェン家の状況。あの氷の悪魔は、意味のないことは言わない。

 明日、図書室で調べてみよう。


 夜風が窓から吹き込んで、ドレスの裾を揺らした。ベアトリクスにこぼされた染みは、フェリクスの言った通り、もうほとんど目立たなくなっていた。


    ◇


 アイリスが薬草園を後にした頃、夜会の広間では楽団が最後の曲を終えようとしていた。


 回廊の隅で、ベアトリクスは扇を畳んだ。

 傍らにはクリストフがいる。二人きりの薄暗い廊下で、ベアトリクスは上機嫌だった。


「うまくいきましたわ。ドレスの染みを見た令嬢たちの顔、ご覧になって? 誰も陛下を庇わなかった。あの薬師がしゃしゃり出てきたのは計算外でしたけれど」

「あまりやりすぎないほうがいい。目をつけられる」

「大丈夫ですわ。あの程度で怒り出すような器量なら、いずれ勝手に潰れます。怒らないなら、それはそれで侮りが広まるだけ。どちらに転んでも私の得ですもの」


 クリストフは穏やかに微笑んだ。

 ベアトリクスを咎めもせず、止めもしない。


「君は昔から聡いね、ベアトリクス」

「あら、今ごろお気づきになったの?」


 ベアトリクスは笑った。扇を弄びながら、広間のほうに目を向ける。


「クリストフ様。あの方とのダンス、お上手でしたわね」

「王配候補としての務めだよ」

「ええ、存じておりますとも。あの方のお顔を見ればわかりますもの。ダンスの最中もずっと足元を気にして、まるで初めてのお稽古。デビュタントの時から何も上達していないのね」


 嘲笑が、静かな回廊に響いた。


「私がお相手を務めていたら、もう少し見栄えのする夜会になりましたのに。ねえ、クリストフ様。あの方が王配をお決めになったら、全て終わりますわよね? そうしたら、私たちは──」


「ああ。約束するよ」


 クリストフの声は優しかった。

 ベアトリクスは満足そうに頷いた。


 その笑顔には、涙も迷いもなかった。クリストフの言葉を信じているのではない。ベアトリクスにとって、それは「当然」だから。自分が選ばれることに、一片の疑いも持っていない。

 ドレスに飲み物をこぼされた少女の屈辱など、この女の視界には最初から映っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
読んでいて引き込まれます。応援しています。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。