第6話:舞踏会の残像
祝典三日目。夜会の夜だ。
侍女たちが入れ替わり立ち替わり私の身支度を整えていく。淡い銀金色の髪が結い上げられ、薄化粧が施された。ドレスは深い菫色のシルク。美しい仕立てだと思うが、私の頭の中にあるのはドレスの刺繍の美しさではない。
ダンスだ。
最後に踊ったのは、デビュタントの夜。あの時は緊張で手が震えて、足元を見ることしかできなかった。クリストフが手を取って導いてくれなければ、広間の真ん中で立ち尽くしていただろう。
今夜、また踊ることになるのだろうか。女王として。何百もの目に見られながら。
考えただけで、胃の底が重くなった。
◇
大広間は光の洪水だった。
天井から下がる七つの大燭台に何百もの蝋燭が灯され、水晶の飾りが光を砕いて虹色の破片を床に散らしている。壁面には歴代の国王の肖像画が並び、磨き上げられた大理石の床が鏡のように人々の姿を映していた。
楽団が壇上で弦を合わせている。ハープの試奏が、ざわめきの中に澄んだ旋律を落とした。
私が入場すると、広間が一瞬だけ静まった。視線が集まる。戴冠式の時とは違う種類の視線だった。品定めと、好奇心と、ほんの少しの華やぎ。
五人の王配候補たちも、それぞれの場所にいた。レオンハルトは壁際で腕を組んでいる。ルシアンは貴族の令嬢に囲まれて優雅に笑っている。ディートリヒは軍の関係者と何やら真剣な顔で話し込んでいる。フェリクスは意外な人物と話をしていた。ただし会話が弾んでいる様子はなく、フェリクスは明らかに話を打ち切りたがっているように見える。相手はブルクハルト侯爵。私と五人の候補者との顔合わせの場で、「末の姫になにができる」と言い放った人物だ。
そして、クリストフ殿。
深い栗色の髪を丁寧に整え、白を基調とした礼服に身を包んだ彼は、私の姿を認めると静かに歩み寄ってきた。翡翠色の瞳が、蝋燭の光を受けて温かく輝いている。
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「陛下、今宵は一段とお美しい」
ルシアンと同じ種類の言葉なのに、クリストフが言うと響き方が違う。あの夜の記憶があるからだろうか。それとも、この人の声にだけ含まれる何かが、私の中の特別な場所に触れるのだろうか。
「ありがとうございます、クリストフ殿」
(きちんと返事ができた。よくやったわ、アイリス)
声が上ずらなかったことを内心で褒めた。成長したではないか、私。
楽団の指揮者が弓を掲げ、最初の曲が始まった。ゆったりとした三拍子。宮廷舞踏の定番であるワルツだ。
広間の中央が空けられ、周囲の貴族たちが期待に満ちた目で見守っている。最初の一曲は、国王が踊るものだ。誰と踊るかは、王自身が選ぶ。
ついさっき自分自身を褒めた高揚感は潮を引くように去っていき、足が竦んだ。
何百もの目が、私の次の行動を見ている。誰を選んでも、それは政治的な意味を持つ。ここで特定の候補者と踊れば、宮廷はそれを「意中の相手」と解釈するだろう。
(どうしよう……身内と踊るのが無難なのかしら……って、その身内がいないから困っているのよね)
私のためらいを読んだように、クリストフが一歩前に出た。
手袋をした右手を差し出し、微笑んだ。
「陛下、一曲いかがですか」
あの夜と、同じ言葉。
デビュタントの舞踏会で、震える私に差し出された手。あの時と同じ声、同じ笑顔、同じ翡翠色の瞳。
断る理由が、見つからなかった。
「はい」
手を重ねた。手袋越しでも、彼の手の温かさが伝わってくる。
広間の中央へ導かれ、音楽に身を委ねた。
最初の数歩は危うかった。足元ばかり気にして、何度もリズムを外しかけた。けれどクリストフのリードは柔らかく、私の不器用さをさりげなく受け止めてくれた。間違えたステップを、次のステップで自然に修正してくれる。
やがて体が音楽に馴染み始めた。肩の力が抜けて、視線を上げることができた。
「何も変わっていないわ」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
「あの夜と同じ。あなたのリードは、あの時と同じですね」
「あなたも変わりませんよ、アイリス様」
クリストフは微笑んだ。穏やかで、温かくて、どこまでも安心させるような微笑み。
「あなたはあなたのままでいい。王冠があっても、なくても」
その言葉が、今の私にどれほど沁みるか、この人はわかっているのだろうか。
レオンハルトは「もっと学べ」と言い、宰相は「早く決めろ」と言い、貴族たちは「末の姫に何ができる」と言う。誰もが私に「変われ」と求めている。その中で、「あなたのままでいい」と言ってくれるのは、この人だけだ。
曲が終わった。拍手が広間に広がった。
クリストフが私の手をそっと離す。名残惜しい、と思った瞬間、自分の顔が赤くなっているのがわかった。
◇
ダンスを終えた私たちを、広間の至る所でひそひそ声が追いかけた。
「あの二人、お似合いではないか」
「大公家ならば格も申し分ない」
「宰相の息子より、名門のシュヴァルツェン家のほうが釣り合うだろう」
聞こえないふりをした。けれど、耳には入ってくる。
宮廷にひとつの空気が生まれつつあった。クリストフが有力候補だ、という空気が。
しかしダンスの余韻に浸っている暇はなかった。
飲み物を取りに歩き出した時、すれ違いざまに肩にぶつかる感触があった。ぶつかった、というより、ぶつけられた。
次の瞬間、冷たい液体がドレスの胸元を濡らした。
「あら、申し訳ございません、陛下」
ベアトリクスだった。手にはグラスを持っている。中身の半分が、私の菫色のドレスに染みを広げていた。
まったく申し訳なさそうではない声。碧い瞳は、冷ややかに笑っている。
「お足元が暗うございましたもので。陛下のお召し物に、ご無礼を」
言葉は丁寧だが、声には棘がある。周囲の貴族たちが遠巻きに見ている。誰も何も言わない。昨日と同じだ。ベアトリクスの嫌がらせは、いつも「事故」や「忠告」の体裁を取る。女王が怒れば、こちらが悪者になる。
奥歯を噛みしめた。ドレスの染みが、じわじわと広がっていく。
「大丈夫、目立たないよ」
穏やかな声がした。
振り返ると、フェリクスがいた。いつの間に傍にいたのだろう。亜麻色の髪を後ろで束ねた、宮廷には少し不釣り合いな姿。
彼は迷いなく自分のハンカチを取り出し、ドレスの染みを丁寧に押さえた。
「この素材なら、すぐ拭けば跡も残らないと思う。帰ったら水で軽く洗えば大丈夫」
まるで薬草の手入れでもするかのような、手慣れた手つきだった。
ベアトリクスは舌打ちを一つ残して去っていった。フェリクスはそれに気づいているのかいないのか、染みの具合を確認して「うん、大丈夫」と頷いた。
「ありがとう、フェリクスお兄様」
その名前が自然に出てきた。この人の前だと、女王の仮面が勝手に外れてしまう。
◇
ダンスを終えて広間を横切った時、壁際にレオンハルトが立っていた。
腕を組み、鋼色の瞳でこちらを見ている。表情は、いつも通り読めない。
「楽しそうでしたね、陛下」
その声に、感情はなかった。報告書の一行を読み上げるような、平坦な声。
けれどなぜか、その一言が胸に刺さった。楽しかった。確かに楽しかった。それを指摘されると、まるで怠けていたことを咎められたような気分になる。
「……何か用ですか、レオンハルト殿」
「一つお聞きしてもよろしいですか」
レオンハルトが一歩近づいた。声を低くして、周囲に聞こえないようにしている。
「シュヴァルツェン大公家の現状をご存知ですか」
「……何のこと?」
「いえ。お気になさらず」
一礼して、レオンハルトは去っていった。
その背中を見送りながら、胸の中に小さな棘が残った。シュヴァルツェン家。クリストフの実家のことだ。現在の当主はクリストフの兄、確か名前はエーリッヒ。けれど、あの男の言いたいのはそんなことではないのだろう。
(嫌味? クリストフ殿と踊ったことへの当てつけ? ……いえ、違うわね)
レオンハルトはそういう回りくどいことをする人間ではない。あの男がわざわざ口にするからには、何か意味がある。
けれど今夜は、その意味を考える余裕がなかった。
◇
夜会を抜け出したのは、人混みに疲れたからだった。
あてもなく廊下を歩いていると、開け放たれた窓から夜風と一緒に、かすかな土の匂いが流れてきた。足がそちらに向かった。
王宮の裏手にある小さな薬草園。昼間は庭師が手入れをしているが、この時間には誰もいない。月明かりだけが、整然と並んだ薬草の葉を銀色に照らしている。
誰もいない、と思っていた。
「あれ、アイリス」
フェリクスがいた。
薬草の畝の間にしゃがみ込んで、何かの葉に触れている。夜会の礼服の袖をまくり上げて、膝に土がついている。宮廷の夜会から抜け出して薬草の世話をしている王配候補など、この男くらいのものだろう。
「フェリクスお兄様、こんなところで何を」
「ああ、この薬草、夜に葉が閉じるんだよ。それを確認したくて」
政治の話も、王配選びの話も、一切出てこない。ただ薬草の話。夜に閉じる葉のこと、月光が植物に与える影響のこと。私は薬草園の縁石に腰を下ろして、フェリクスの話を聞いた。
何も考えなくていい時間だった。ダンスのことも、ベアトリクスのことも、レオンハルトの意味深な質問のことも、全部忘れていられる。夜風が心地よくて、土と緑の匂いが落ち着いた。
しばらく黙って夜空を見上げていたフェリクスが、ぽつりと言った。
「アイリスは、女王になりたかったの?」
不意を突かれた。
誰も聞かなかった問いだ。宰相も、レオンハルトも、クリストフも、ルシアンも、ディートリヒも。誰もが「女王であるアイリス」に話しかける。「女王になる前のアイリス」に問いかけたのは、この人が初めてだった。
「……なりたくなかった」
声にしたのも、初めてだった。
喉の奥が熱くなった。涙が出そうになって、必死に堪えた。この言葉を口にしたら、何かが崩れると思っていた。けれど崩れなかった。ただ、胸の中の重石が少しだけ軽くなった。
「なら、辞めてもいいんじゃない?」
フェリクスは、何でもないことのように言った。
「王位を降りて、好きなことをして生きたっていいと思うよ。図書室で本を読んで、庭を散歩して。それでいいじゃない」
無責任な言葉だ。政治的にはありえない提案だ。
私が王位を降りれば国は混乱し、貴族たちの権力争いが始まり、民が苦しむ。そんなことは、図書室で読んだ歴史書が嫌というほど教えてくれている。
でも。
この人だけが、私の苦しみを「苦しみ」として認めてくれた。他の誰もが当然のこととして受け入れさせようとする重荷を、この人だけが「降ろしてもいい」と言ってくれた。
「ありがとう、フェリクスお兄様。でも、辞めるわけにはいかないの」
自分の口から出た言葉に、少し驚いた。「辞めたくない」ではなく「辞めるわけにはいかない」。義務として言っているのではなかった。あの減税嘆願の手紙を思い出していた。拙い文字で必死に書かれた、あの村長の手紙を。
逃げたら、あの手紙に応えてくれる人がいなくなる。
「そっか」
フェリクスは微笑んだ。寂しそうな、けれど納得したような笑顔だった。
「なら、疲れたらいつでもここに来て。薬草園は逃げないから」
月明かりの下で、フェリクスの淡い水色の瞳が柔らかく光っていた。
この人は、何も求めない。王配の座も、政治的な影響力も、私の心すらも。ただそこにいて、薬草の世話をして、疲れた人にお茶を淹れてくれるような、そういう人だ。
薬草園を後にする時、一度だけ振り返った。
フェリクスは再び畝の間にしゃがみ込んで、月光の下で葉の様子を観察していた。その背中は穏やかで、宮廷のどこよりも静かだった。
この場所を選べたら、どれほど楽だろう。
薬草園の縁石に座って、図書室から持ち出した本を読んで、時々お茶を飲んで。王冠も、候補者たちも、ベアトリクスの嫌味も、全部忘れて。
(けれど、それは逃げだ)
私は前を向いて、廊下を歩き出した。
背中にレオンハルトの言葉がこびりついている。現在のシュヴァルツェン家の状況。あの氷の悪魔は、意味のないことは言わない。
明日、図書室で調べてみよう。
夜風が窓から吹き込んで、ドレスの裾を揺らした。ベアトリクスにこぼされた染みは、フェリクスの言った通り、もうほとんど目立たなくなっていた。
◇
アイリスが薬草園を後にした頃、夜会の広間では楽団が最後の曲を終えようとしていた。
回廊の隅で、ベアトリクスは扇を畳んだ。
傍らにはクリストフがいる。二人きりの薄暗い廊下で、ベアトリクスは上機嫌だった。
「うまくいきましたわ。ドレスの染みを見た令嬢たちの顔、ご覧になって? 誰も陛下を庇わなかった。あの薬師がしゃしゃり出てきたのは計算外でしたけれど」
「あまりやりすぎないほうがいい。目をつけられる」
「大丈夫ですわ。あの程度で怒り出すような器量なら、いずれ勝手に潰れます。怒らないなら、それはそれで侮りが広まるだけ。どちらに転んでも私の得ですもの」
クリストフは穏やかに微笑んだ。
ベアトリクスを咎めもせず、止めもしない。
「君は昔から聡いね、ベアトリクス」
「あら、今ごろお気づきになったの?」
ベアトリクスは笑った。扇を弄びながら、広間のほうに目を向ける。
「クリストフ様。あの方とのダンス、お上手でしたわね」
「王配候補としての務めだよ」
「ええ、存じておりますとも。あの方のお顔を見ればわかりますもの。ダンスの最中もずっと足元を気にして、まるで初めてのお稽古。デビュタントの時から何も上達していないのね」
嘲笑が、静かな回廊に響いた。
「私がお相手を務めていたら、もう少し見栄えのする夜会になりましたのに。ねえ、クリストフ様。あの方が王配をお決めになったら、全て終わりますわよね? そうしたら、私たちは──」
「ああ。約束するよ」
クリストフの声は優しかった。
ベアトリクスは満足そうに頷いた。
その笑顔には、涙も迷いもなかった。クリストフの言葉を信じているのではない。ベアトリクスにとって、それは「当然」だから。自分が選ばれることに、一片の疑いも持っていない。
ドレスに飲み物をこぼされた少女の屈辱など、この女の視界には最初から映っていなかった。




