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女王陛下の夫選び  作者: 宗像 凪


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6/11

第5話:薔薇と毒

 祝典二日目。朝の執務を終えた私は、午後から外交の茶会に臨むことになっていた。


 控室で衣装を整えながら、鏡の中の自分と目が合った。昨日より少しだけ顔色がいい。徹夜のあとに飲んだハーブティーのおかげか、それともレオンハルトを黙らせたことで多少は気が晴れたのか。

 どちらにせよ、今日はあの氷の悪魔とは別の種類の難敵が待っている。


 ルシアン・ド・クレールモン。隣国クレールモン公国の第三公子。

 顔見せの時、跪いて私の手に口づけた男。「お美しい陛下にお仕えできる幸福を、神に感謝いたします」と、まるで舞台の台詞のように滑らかに言ってのけた、あの人。


 茶会の場は、王宮の東庭園に面した硝子張りの温室だった。

 白磁の食器に淡い花柄が描かれ、三段のケーキスタンドには色とりどりの焼き菓子が並んでいる。卓上には新鮮な薔薇が飾られ、甘い香りが温室の空気に溶けていた。外交使節団の席、宮廷の高位貴族の席、そして私の隣にはルシアンの椅子が据えられている。


 席に着くと、ルシアンはすでにそこにいた。蜂蜜色の巻き毛が午後の陽光を受けて琥珀のように光っている。微笑みを向けられた瞬間、温室の気温が二度ほど上がった気がした。


「陛下、今日のお召し物はとてもお似合いです。菫色が、陛下のお瞳の色と響き合っていらっしゃる」


 開口一番がそれか。この男はまず外見を褒めるところから入るらしい。レオンハルトなら「遅い」の一言で始まるところだ。どちらがいいかと問われると、正直なところ困る。


「ありがとうございます、ルシアン殿。クレールモンの方は、皆さまこのようにお上手なのですか」

「いいえ。私が特別に誠実なだけです」


 嘘だろう、と思ったが、その笑顔があまりに自然で、反論が喉の手前で引っかかった。


 茶会が始まると、ルシアンは見事な話術で場を支配した。

 クレールモン公国の王立劇場の話から始まり、最近上演された悲劇の筋書き、それにまつわる歴史的な逸話。話題の選び方が巧みだった。私が歴史書を好むことを知っているのか、必ず会話の中に古い文献の名前や歴史上の人物を織り交ぜてくる。


「陛下は、カレンベルクの『列王記』はお読みになりましたか」

「ええ、三巻まで。ですが四巻はまだ」

「四巻こそが白眉ですよ。第七代クレールモン大公が、二つの王国の争いを詩の一編で終わらせた逸話がある。剣ではなく言葉で国を守った人物です」


(楽しいわ。この人は本当に話が上手で、しかも聞き上手でもあるのね)


 面白い。素直にそう思った。

 ルシアンの話には実感があった。ただ知識を並べるのではなく、その土地の空気や匂いまで伝わってくるような語り口だ。旅の途中で立ち寄った古書店の話、港町の市場で見つけた異国の写本。私が図書室でしか知らない世界を、この人は自分の足で歩いてきた。


 気がつけば、私は声を上げて笑っていた。

 いつ以来だろう、こんなふうに笑ったのは。


「陛下のお笑いになるお顔は、格別ですね」


 ルシアンの声が少しだけ低くなった。耳元で囁かれたわけでもないのに、その言葉だけが周囲の喧騒から切り離されて、やけに鮮明に聞こえた。


 話題が詩の話に移った時だった。卓上の薔薇を見つめていたら、ふと頭に浮かんだ一節があった。図書室の隅で見つけた古いクレールモン語の詩集。羊皮紙に金箔や鮮やかな顔料を用いた細密画が描かれた、書籍というより芸術品のような装飾写本だった。


「『薔薇よ、世にかかる麗しきものあらんや 王の冠も及ばぬその誉れ たとえ棘が守りとしてあろうとも それすらまた気高き証』」


 何気なく口ずさんだ。ルシアンなら知っているかもしれない、という軽い気持ちだった。

 けれど、返事がなかった。


 隣を見ると、ルシアンの顔から笑みが消えていた。

 消えていた、というのは正確ではない。笑みの形はそのまま残っているのに、目だけが別の場所を見ていた。ここではない、遠い場所を。


「ルシアン殿?」

「……失礼。懐かしい詩を不意に聞いたものですから」


 声が、いつもと違った。あの滑らかな響きの中に、小さな罅が入ったような。

 すぐにルシアンは微笑みを取り戻した。完璧な、いつも通りの笑顔。けれど取り戻すまでの間に、ほんの一拍の空白があった。


「陛下はクレールモン語の詩集までお読みになるのですね。この薔薇の麗しさも、陛下の気高さと造詣の深さには敵わないでしょう」


 話題はそこで変わった。ルシアンは何事もなかったかのように次の逸話を語り始め、場の空気も元に戻った。

 けれど私の中には、小さな引っかかりが残った。あの一瞬だけ、この人の笑顔は作り物ではなかった。作り物でないからこそ、すぐに隠した。


(何だったのかしら? 気分を害したというわけではなさそうだけど……)


 ルシアンの反応を思い返しつつ何気なくティーカップを手にした、その時だった。


「陛下」


 澄んだ声が、斜め向かいの席から飛んできた。

 ベアトリクス・フォン・リンデンベルク。赤みがかった金髪を凝った髪型にまとめ、碧い瞳を扇の向こうから覗かせている。唇は微笑みの形を作っていたが、目が笑っていなかった。


「陛下、ティーカップのお持ちになり方が少々……あら、王女教育ではそこまでお習いにならなかったのかしら」


 場の空気が、一瞬で凍った。

 周囲の貴族たちが視線を逸らす。あるいは、こちらを窺う。誰もベアトリクスを咎めない。咎められないのだ。厳密には作法の助言という体裁を取っている以上、女王が怒れば器が小さいと見なされる。

 指先が、カップの取っ手の上で硬くなった。ベアトリクスの言う通り、私の持ち方は教科書通りではないのかもしれない。末の姫に茶会の正式な作法を教える者など、いなかったのだから。


「──クレールモンでは」


 ルシアンが、何事もなかったように口を開いた。


「美しい方の作法はすべて正しいとされております。陛下のお手元は、とても自然で好ましい」


 ベアトリクスの碧い瞳がぎらりと光った。扇を握る指が白くなっている。けれどルシアンは涼しい顔で茶を一口啜り、何事もなかったかのように別の話題に移った。


 助けられた。それは確かだ。ルシアンのさりげない救いの手に、胸の中で小さく感謝した。

 ただ、同時に思った。この人は、場の空気を操ることに慣れすぎている。善意であれ計算であれ、あの一言で場を支配したのはルシアンだ。救われたことと、操られたことの境界が、ひどく曖昧に感じられた。


    ◇


 茶会が終わり、温室を出た。

 午後の陽が傾きかけた廊下を歩いていると、角を曲がったところで声が聞こえた。


 ルシアンの声だった。


「女王陛下は素直なお方だ。これなら——」


 足が止まった。

 壁の陰から盗み聞きするつもりはなかった。けれど、体が動かなかった。


 相手はルシアンの随行員だろうか。低い声で何かを答えていたが、内容までは聞き取れなかった。足音が近づいてきて、私は慌てて何食わぬ顔で歩き出した。

 すれ違いざま、ルシアンは完璧な微笑みを浮かべて一礼した。


「陛下、茶会のお疲れは出ておられませんか」

「大丈夫です。楽しいひと時をありがとうございました」


 声が震えなかったことだけが、小さな救いだった。

 大丈夫ではない。「これなら」。あの言葉の続きが気になって仕方がない。これなら、何だというのか。御しやすい、とでも言うつもりだったのか。


 考えすぎかもしれない。随行員への報告で、「これなら友好関係を築ける」と言おうとしていただけかもしれない。けれど、あの一瞬だけ見えたルシアンの横顔には、茶会の時の温かみがなかった。


    ◇


 夕方、晩餐の席に着くと、今度は別の火花が散った。

 ディートリヒとルシアンが、政策論で正面からぶつかったのだ。


 きっかけは些細な話題だった。建国記念祭の文化交流について、クレールモン公国から寄贈された絵画の話が出た時、ディートリヒがグラスを置いて口を開いた。


「クレールモン公国の文化振興策は見事だと思う。だが、その財源が領民の食い扶持を削って作られたものだとすれば、評価は変わる」


 直球だった。あまりに直球すぎて、会場の貴族たちがカトラリーを扱う手を止めて二人を見た。


「実務しか知らない方には、芸術の価値はわかりにくいのかもしれませんね」


 ルシアンの声は穏やかだったが、「田舎貴族」と言外に含んでいることは、この場の全員がわかっていた。


「芸術の価値は否定しません。しかし民が飢えている時に劇場を建てるのは、優先順位を間違えている」

「劇場が生む雇用と経済効果を計算に入れていただければ、また見方も変わるでしょう」

「その計算の前提となる数字に、粉飾がなければの話ですが」


 ルシアンの微笑が、ほんの一瞬だけ固まった。

 ディートリヒは涼しい顔をしている。この男は遠回しな言い方ができないのか、それとも、あえてしないのか。おそらく後者だろう。


 二人の間で板挟みになりながら、私は不思議なことに気づいた。


(どちらにも、一理あるわ)


 ルシアンの言う文化外交の重要性も、ディートリヒの指摘する財政の現実も、どちらも間違ってはいない。片方が完全に正しくて、片方が完全に間違っているという話ではないのだ。


 半月前の私なら、声の大きい方に流されていたかもしれない。けれど今は、二つの意見を並べて見比べることができる。どちらの論の、どこが強くて、どこに穴があるのか。

 あの氷の悪魔の地獄の執務が、こんなところで効いている。癪だが。


    ◇


 自室に戻り、寝台に腰を下ろした。


 ルシアンのことを考えた。

 茶会の間、確かに私は楽しかった。久しぶりに声を上げて笑った。図書室の外にある世界の話を、あんなに生き生きと語ってくれる人に初めて出会った。

 けれど「これなら」が消えない。完璧すぎる笑顔の裏が見えない。見えないことが、不安なのか、それとも見たくないだけなのか。


 ディートリヒのことも考えた。

 あの男の率直さには安心感がある。裏がないから、怖くない。けれどそれは安心なのか、物足りなさなのか、自分でもわからない。


 ふと、机の端に目が止まった。

 ハーブティーが置かれている。今日も。温かい。


 誰なのだろう。毎日、私が戻る少し前に、このお茶を用意してくれる人は。

 クリストフだろうか。庭園でハンカチをくれた、あの優しい人。

 それとも——


 考えても答えは出ない。カップを両手で包んで、一口飲んだ。今日はほのかに柑橘の香りがする。気持ちを落ち着ける効果があると、昔読んだ薬草の本に書いてあった気がする。


 日記帳を開いた。


 ルシアン殿の話は面白かった。でも、あの言葉が引っかかる。「これなら」。

 ディートリヒ殿は強引だけど、嘘がない。それが救いなのか物足りないのか、まだわからない。

 ベアトリクス嬢には作法の指摘をされた。悔しいけれど、反論できなかった自分がもっと悔しい。


 ペンが止まった。

 今日一日で、自分の中に新しい感覚が芽生えていることに気づいた。人の言葉を聞いた時、それをそのまま受け取るのではなく、一歩引いて眺めてみる感覚。ルシアンの甘い言葉にも、ベアトリクスの棘にも、ディートリヒの直球にも、それぞれの意図がある。意図を読もうとする自分がいる。


(これが、王というものなのかしら。それとも私が人を信じられなくなっているだけ?)


 蝋燭の灯が揺れた。窓の外は、もう暗い。


 明日は祝典の三日目。夜会があるらしい。

 ダンスがある、と侍女が嬉しそうに教えてくれた。

 最後に踊ったのは、いつだっただろう。


 デビュタントの夜。翡翠色の瞳。温かい手。

 あの日と同じように、クリストフ殿が手を差し出してくれるだろうか。


 胸が少し高鳴って、それから、少し痛んだ。

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