第4話:祝典初日
建国記念祭。ヴァイスブルク王国の建国王が旗揚げしたという日を祝う一週間の祝典が、いよいよ幕を開けた。
大広間に集った貴族たちの前で、私は女王として初めて祝辞を述べることになっていた。
控室で、レオンハルトが原稿を差し出した。
「原稿通りに読んでください。余計なことは言わないように」
「……余計なこと、ですか」
(つまりあなたは、私の言葉はすべて無駄で不要だと思っているわけね)
苛立ちを感じたものの、言い返す余裕はなかった。控室の鏡に映る自分は、正装に身を包んではいるものの、顔色が紙のように白い。
原稿を握る手が震えている。一言一句、正確に読めば問題ないはずだ。事前に三度読み返し、暗記するほど目を通した。それでも、壇上に立った瞬間、心臓が喉元まで迫り上がってきた。
目の前に、数百の顔がある。貴族たち、外国の使節たち、五人の王配候補たち。その全員が私を見ている。戴冠式の時よりも多い。祝典ともなれば、普段は領地にいる地方貴族もこぞって上京してくる。
足が竦みそうになった。壇上で立ち尽くす末の姫。想像するだけで背中に冷たい汗が流れる。
原稿を広げた。指先がかすかに震えていたが、呼吸を整えて読み始めた。
建国王の偉業を讃え、先王の遺志を継ぎ、王国の繁栄を誓う。宰相とレオンハルトが練り上げた言葉は過不足なく、隙がない。隙がないぶん、温度もない。誰が読んでも同じように響く、そういう種類の言葉だった。
詰まることなく、原稿の最後の一文を読み終えた。
あとは一礼すれば終わりだ。誰にも文句は言われない。
けれど、口が動いた。
自分でも驚いた。頭より先に、口が動いていた。
「私は先日、図書室で建国王の日記を読みました」
広間がざわめいた。建国王の日記。そんなものが残っているのかと、貴族たちが顔を見合わせている。
「そこにはこう記されていました。『王とは、民のためにある。民が王のためにあるのではない』と」
沈黙が落ちた。
心臓がうるさい。しまった、と半分思っている。レオンハルトに余計なことを言うなと釘を刺されたばかりだ。でも、もう引けない。
「五百年前の言葉ですが、今も変わらぬ真理であると信じます」
私は原稿を閉じ、深く一礼した。
一瞬の静寂のあと、拍手が起きた。戴冠式の時とは違う、驚きと戸惑いが混じった拍手。けれど確かに、中には温かさの混じった音もあった。
足が少し震えていたが、深呼吸を一つして、顔を上げた。
壇上から見下ろすと、最前列の貴族たちが顔を見合わせている。「建国王の日記とは……あの姫君がそのような文献を?」。ひそひそ声が何箇所かで起きていた。
候補者たちの表情も様々だった。
クリストフは穏やかに微笑んでいる。いつもの翡翠色の瞳で。
ディートリヒは腕を組んだまま、感心したような、あるいは品定めするような目でこちらを見つめていた。
フェリクスは純粋に嬉しそうな顔をしている。目が合ったら小さく手を振ってくれそうな勢いで、それがなんだか可笑しかった。
ルシアンは優雅に拍手をしながら、ほんの一瞬だけ目を細めた。何を考えているのかは、読めなかった。
そして、レオンハルト。
無表情のまま。けれど鋼色の瞳の奥に、ほんの一瞬、光のようなものが走ったのを、私は見逃さなかった。彼は「余計なことは言うな」と釘を刺した。私はそれを破った。叱られるだろうか。
壇を降りる時、レオンハルトとすれ違った。彼は何も言わなかった。ただ一瞬だけ視線が合い、何の感情も浮かんでいない瞳が私を見て──そのまま通り過ぎた。
叱られはしなかった。けれど、褒められることもない。
そして私の気持ちは宙に浮いたまま、行き場を失った。
◇
祝典の初日は、午前の式典だけでは終わらなかった。
午後になると、各地から届いた陳情書に目を通す執務が待っていた。建国記念祭のさなかでも、国は止まらない。レオンハルトは容赦なかった。祝典だから手を抜くという概念が、この男の辞書には存在しないらしい。
数十通の陳情書の中に、一つだけ目を引くものがあった。
南部の農村地帯からの減税嘆願だ。今年の凶作で収穫が激減し、現行の税率では民が飢えるという切実な訴え。
添えられた村長の手紙を読み、胸が締めつけられた。
紙の端が波打っている。何度も書き直した跡がある。文字は拙いが、一文字一文字に必死さが滲んでいた。この手紙を書いた人は、きっと何日も悩んだのだ。王宮に届く保証すらない手紙に、それでも縋るしかなかった人の手紙だ。
「この減税嘆願を認めたいと思います」
私が言うと、レオンハルトのペンが止まった。
「理由は?」
「民が苦しんでいるからです。読めばわかるでしょう、この手紙の切実さが」
「却下すべきです」
一拍の間もなく返ってきた。
「なぜ」
「この嘆願を認めれば、他の領地から同様の要求が殺到します。一つの例外は必ず前例になる。王国の財政基盤を揺るがしかねない判断を、一通の手紙のみで下すべきではありません」
正論だった。
正論だと、頭ではわかっていた。こういう時に感情で動けば、もっと多くの民を苦しめることになると。
「でも」
声が震えた。震えたけれど、今度は飲み込まなかった。
「でも、目の前で助けを求めている人を見捨てて、それで何が女王ですか」
レオンハルトの瞳が、僅かに揺れたように見えた。錯覚かもしれない。
「女王だからこそ、見捨てるのです。一人を救う判断が千人を殺すことがある。それを量れる人間でなければ、玉座に座る資格はありません」
量る。命を、天秤にかけるように。
その冷徹さが、私には受け入れられなかった。受け入れたくなかった。それなのに、論理では反駁できない自分が情けなくて、悔しさが涙に変わった。
「あなたにはわからないんですか」
自分でも予想していなかった言葉が、口をついて出た。
「この手紙を書いた人の気持ちが。何日もかけて、文字も満足に書けない手で、それでも王宮に届くかもわからない手紙を書いた人の気持ちが、あなたには」
レオンハルトは私の涙を無視した。いつものように。
「泣いても数字は変わりません」
私は唇を噛み、席を立った。
椅子が音を立てて後ろに引けた。乱暴だった。女王の振る舞いではなかった。でも、もうどうでもよかった。
◇
その夜、自室に戻っても、悔しさは消えなかった。
レオンハルトが正しいなら、あの農村はどうなるのだ。嘆願を退けて、それで終わりなのか。
ひとしきり枕に顔を埋めて泣いた後、ふと起き上がった。
『泣いても数字は変わりません』
あの男の言葉が憎い。でも、それは否定できない厳然たる事実でもあった。
悔しい。悔しいけれど、もし数字で答えを出せるなら。
あの氷の悪魔を、今度こそ黙らせることができるなら。
私は侍女に灯りの補充を頼み、書斎に向かった。図書室ではなく、執務室の隣に設けられた小さな書斎だ。ここには過去の行政記録が収められている。
探したのは、南部地域の過去五十年分の税収記録。棚の奥に押し込まれた革装丁の帳簿を引っ張り出す。埃を手で払い、最初の頁を開いた。
数字を一つずつ追いかける。目が痛む。蝋燭の炎が揺れるたびに数字が滲む。最初のうちは何の規則性も見えなかった。ただの数字の羅列だ。増えたり減ったり、特に法則もなく変動しているようにしか見えない。
それでも、頁を繰り続けた。
やがて、その隣に王宮気象官の過去報告書を引っ張り出して並べた。これも図書室で写しを読んだことがある。当時は退屈な統計だとしか思わなかったが、今は違う。税収の落ち込みと、降雨量の激減。二つの数字を横に並べた瞬間、ばらばらだった点が線になった。
約十年の周期で、南部に凶作が起きている。そしてそのたびに、減税嘆願が提出されている。三十年前にも、二十年前にも、十年前にも。同じ訴えが繰り返され、そのたびに一時的な減税で凌ぎ、根本的な対策は何もなされていない。
問題は税率の高さではなかった。凶作に対する備えが一切ないことだ。
豊作の年に余剰穀物を蓄え、凶作の年に放出する。そんな仕組みがあれば、税率を変えずとも民は飢えない。
「……これだわ」
夜の書斎に、自分の声がやけに大きく響いた。
ペンを取り、夢中で書き始めた。減税ではなく、備蓄制度の創設案。豊作年の余剰を王国が買い上げ、指定倉庫に蓄える。凶作年にはそこから放出し、市場価格を安定させる。財源は既存の予備費から捻出可能だ。長期で見れば飢饉のたびに繰り返されてきた緊急支出が不要になるから、むしろ財政は改善する。
書きながら、自分でも驚いていた。こんなことができるとは思わなかった。けれど、図書室で何年もかけて読み込んだ数字と記録が、今この瞬間、一つの形を結ぼうとしている。
退屈な統計、無味乾燥な帳簿、誰も読まない古い記録。その全部が、今夜、武器になった。
気づけば、窓の外が白み始めていた。
指先がインクで汚れている。背中は凝り固まり、目の奥がじんじんと痛む。けれど、机の上に広がった数枚の書類を見下ろした時、泣きたいほどの達成感があった。
「見ていろ、氷の悪魔……」
声に出ていたことに気づいて口を押さえたが、部屋には誰もいない。
◇
翌朝の執務室。
レオンハルトが着席する前に、私は彼の机の上に書類を置いた。
「昨日の減税嘆願の件、やり直します」
レオンハルトが書類を手に取った。目を通す速度が、途中で明らかに落ちた。
「この凶作周期の数字を、どこから」
「税収記録は執務室隣の書斎に、気候記録は王宮気象官の過去報告書にありました」
ここで一呼吸。たっぷり間を置いて、私は続けた。
「全部読んだことがありましたの」
レオンハルトの瞳が、ほんの一瞬だけ広がった。
気のせいでも見間違えでもない。氷の悪魔が──驚いている。
(ざまあみろ)
泣いても数字は変わらないと言ったのはこの男だ。だから私は数字で答えを出した。文句があるなら言ってみろと、私は強気でレオンハルトを睨み続けた。
書類を持つレオンハルトの指先の力が、ほんの少し緩んだように見えた。けれど彼はすぐに表情を戻し、書類を最後まで読み終えると、一言だけ言った。
「……どうぞ」
それだけだった。よくできたでも感心したでもなく、ただ「通して構わない」という事務的な許可。
(もう少し何か言ったらどうなの、この男!)
叫びたかったが、ここで興奮しては台無しだ。私はできるだけ涼しい顔で「ありがとうございます」とだけ返した。本当に涼しい顔ができていたかどうかは、まったく自信がない。
けれどあの最初の一瞬、私がレオンハルトの想定を超えたことだけは、間違いないはずだ。
執務室の隅で控えていた文官の一人が、もう一人の文官に小声で囁いた。
「あの宰相の息子が……やりこめられた?」
聞こえているはずだが、レオンハルトは何も言わず、次の書類に手を伸ばした。
私はペンを取り、次の案件に取りかかった。さすがに一睡もしていないので目の奥がずきずきと痛むが、今日はなぜか、書類の文字がいつもより鮮明に見える気がした。
◇
その日の夕方、自室に戻ると、いつものようにテーブルの上にハーブティーが置かれていた。
今日は少しだけ甘い香りが混ざっている。疲れ切った体に、ゆっくりと沁み渡る。
一口飲んで、ふう、と大きな息を吐いた。徹夜明けの体に、この温かさは反則だ。
書類の量も、やはり微妙に少ない気がした。
昨夜は徹夜だったから、誰かが気を遣ってくれたのだろうか。宰相だろうか。クリストフだろうか。
ハーブティーの調合も、書類の量の調整も、どちらも私の体調を気にかけてくれている人がいるということだ。顔の見えない優しさが、今日は特に胸に沁みた。
クリストフ殿。
庭園でもらったハンカチは、まだ引き出しにしまったままだ。洗って返さなければいけないのに、なんとなく手放しがたい。
カップの中身を飲み干し、空を見上げた。
昨日は泣いて、夜通し数字と格闘して、今朝はレオンハルトを少しだけ黙らせた。
たったそれだけのことが、王冠の重さをほんの僅か、軽くしてくれた気がする。
泣いても数字は変わらない。それは確かだ。でも、泣いた後に数字を拾いに行くことはできる。あの男の正論を、別の正論で返すことも。
それを教えてくれたのが、よりにもよってあの氷の悪魔だというのは、少し癪だけれど。
明日は祝典の二日目。外交のための茶会があるらしい。
ルシアンと同席すると聞いている。あの華やかな隣国の公子と、まともに話ができるだろうか。
不安はあった。けれど、昨日までとは少しだけ違う不安だった。
足が止まるほどの恐怖ではなく、一歩を踏み出す前の緊張に近い。
カモミールの残り香が、部屋にゆるやかに漂っていた。




