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女王陛下の夫選び  作者: 宗像 凪


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4/10

第3話:最初の執務

 戴冠を終え、女王としての本格的な執務が始まった。しかし、その最初の朝は地獄だった。


 執務室に入ると、机の上に書類の山が待ち構えていた。文字通りの山だ。羊皮紙の束が三段に積み重なり、そのどれもが私の顔より高い位置まで届いている。

 私が小柄すぎるだけかもしれないが、どちらにせよ絶望的な光景だった。

 そして、その山の向こう側に、レオンハルトがいた。


 濃い灰青色の髪。鋼色の瞳。黒を基調とした衣服に銀の懐中時計。昨日の顔見せで見た、感情のない顔がそこにあった。

 彼は私が入室しても立ち上がらず、手元の書類から目も上げず、ただこう言った。


「遅い。始めます」


 挨拶もない。おはようもない。

 まだ朝の鐘が鳴り終わる前だというのに、彼の中ではすでに半日分の予定が消化されているかのような顔をしている。

 私はまだ朝食のパンの味が口に残っている段階なのだが。


「まず、この条約の第三項を読んでください」


 差し出されたのは、分厚い書類の束だった。紙面を埋め尽くす細かな文字に目を走らせる。隣国との通商条約──昨年の改定版らしい。

 五分ほどかけて目を通し、顔を上げた。


「読みました」

「では、要約を」

「隣国との通商に関する……関税の取り決めと、品目ごとの……」

「話になりません」


 遮るように、レオンハルトが言い放った。


「条文の表面をなぞっただけです。なぜこの条項が必要になったのか、歴史的背景まで含めて理解しなければ、署名欄に名を書くことすらできません。もう一度読み直しなさい」


 喉が詰まった。


(昨日即位したばかりの私が、条約の背景なんて知るはずがないでしょ!)


 言い返したいことは山ほどある。そもそも私に政治の教育など誰もしてくれなかった。末の姫には必要ないと、みんなそう判断したのだ。読めと言われた書類を読んだのに、それすら否定されるのか。

 あなただって宰相の息子として幼い頃から仕込まれてきたからそんなことが言えるんでしょうと、喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。レオンハルトの鋼色の瞳が、反論を許さない冷たさで私を見据えていたから。

 悔しい。この男の前では、私はいつも言葉を飲み込んでばかりだ。幼い頃からずっと。


 書類を受け取り直し、もう一度読む。今度は条文の端に記された注釈にまで目を通し、ようやく歴史的な経緯が朧げに見えてきた。三十年前の国境紛争が発端で、その解決策としてこの通商条約が生まれた。図書室で読んだ歴史書の記述が、頭の片隅から浮かび上がる。

 ああ、あの本だ。書庫の奥の棚で埃を被っていた、三十年前の外交記録。暇つぶしに読んだあの一冊が、まさかこんな場所で役に立つとは。


「三十年前の北部国境紛争の講和条件として、関税を相互に引き下げることで合意したのが原型です。第三項は、その際に追加された最恵国待遇条項の改訂版で」

「及第点です。次」


 褒めもしない。ただ「次」とだけ言って、新しい書類を差し出す。


(及第点って……それだけ? 私は「辛うじて許容範囲」ってこと?)


 せめて「よく覚えていましたね」のひと言くらい言えないのか、この男は。


 それから午前中いっぱい、地獄は続いた。

 領地からの陳情書。司法官からの判決報告。軍備に関する予算案。そのどれ一つとして、私がまともに処理できるものはなかった。


「この予算案の第二項、数字が合いません」

「……どこがですか」

「自分で見つけなさい。それが女王の仕事です」


 私は予算案を睨みつけた。睨みつけたところで数字が正しくなるわけもないのだが、レオンハルトの顔を睨むよりはましだ。数字の羅列が泳いで見える。けれど必死に目を凝らしていくと、収支の項目と総額の合計がずれていることに気づいた。


「ここの支出の小計が、個別項目の合算と百エーデル合いません」

「そうです。この程度の誤差を見逃して署名すれば、国庫から百エーデルが消えます。一件なら些事でも、百件積み重なれば一万エーデル。それは辺境の村一つが一年間暮らせる金額です」


 一瞬、その声に感情らしきものが混ざった気がした。怒りではない。もっと別の何か──切迫、とでも呼ぶべきもの。

 けれどそれは一瞬で消え、レオンハルトはいつもの無機質な声に戻った。


「次」


 涙が込み上げてきた。


(駄目。ここで泣いたら終わりよ。この男の前で泣くことだけは絶対に、嫌)


 奥歯が割れそうなほど噛みしめて、瞼の裏に熱いものが溜まるのを必死に抑えた。

 ペンを持つ手が小刻みに震えている。それを隠すように、書類の端をきつく掴んだ。指先が白くなるほど力を込めて。


 私の目が赤くなっていることに、レオンハルトが気づかないはずがなかった。けれど彼はそれを完全に無視した。


「泣く暇があるなら次の案件を読みなさい」


 氷の悪魔。

 心の中で、私は彼をそう呼んだ。


(いつか面と向かってそう呼んでやるわ。……今はまだ、その勇気がないけれど)


    ◇


 昼の休憩を告げる鐘が鳴った時、私は執務室を逃げるようにして出た。


 行き先は考えていなかった。ただ、あの鋼色の瞳から少しでも遠くに行きたかった。足が自然と庭園へ向かっていた。ここは昔からの習慣で、辛いことがあるといつも一人で歩いた場所だ。


 噴水の傍のベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。吐き出した息が震えていて、自分の限界がわかった。鳥の声が聞こえる。春の陽射しが肩に温かい。この庭だけは、私がただの王女だった頃と何も変わっていない。

 目を閉じれば、図書室で本を読んでいた頃に戻れる気がした。兄たちがまだ生きていて、お父様が執務室で笑っていた頃に。


「お疲れではありませんか、陛下」


 穏やかな声がした。

 振り返ると、クリストフが木陰から歩み寄ってくるところだった。深い栗色の髪が陽光を受けて柔らかく光っている。偶然通りかかったという体だったが、その足取りに迷いがないところを見ると、私がここに来ることを知っていたのかもしれない。


「クリストフ殿。いえ、大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。声が震えているのが自分でもわかった。唇を引き結んで笑顔を作ろうとしたが、頬の筋肉がうまく動かない。


「……あの、レオンハルト殿は、誰にでもあんなに厳しいのですか?」


 気づけば、そんな弱音が口をついて出ていた。女王として情けない姿だと思ったが、もう止められなかった。誰かに聞いてほしかった。あの執務室で起きたことを、あの鋼色の目の冷たさを、ただ誰かに。


「彼は真面目な男ですからね」


 クリストフは隣に腰を下ろし、穏やかな声で言った。近すぎず、遠すぎない距離。


「陛下は十分頑張っておられます。即位されたばかりで、あれだけの書類に目を通されたのでしょう。それだけで立派なことです」


 頑張っている。

 その一言が、堰を切った。


 視界がぼやけた。涙が頬を伝い、顎先から滴り落ちる前に、白いハンカチが差し出された。

 クリストフの手だった。翡翠色の瞳が、静かに、咎めるでもなく、私を見ている。


「陛下。泣くことは悪いことではありません」


 あの夜と同じだ。デビュタントの舞踏会で、緊張に押し潰されそうだった私に手を差し伸べてくれたのと同じ、あの穏やかな声。

 泣くなと言った人と、泣いてもいいと言った人。その落差に、余計に涙が止まらなくなった。


「少し、息を抜いてもいいのですよ」


 私はハンカチを受け取り、目元を押さえた。リネンの柔らかな肌触りと、微かに香る花のような匂い。

 王女時代、誰かに「頑張っている」と言ってもらえた記憶がない。兄たちは私を可愛がってくれたが、それは妹としてであって、私の努力を認めてくれたわけではなかった。


 レオンハルトは何をしても足りないと言い、宰相は常に国家の安定を求める。誰も、今の私をそのままでいいとは言ってくれない。

 ──クリストフを除いて。


 泣いている場合ではないと頭ではわかっている。女王が臣下の前でめそめそするなんて、レオンハルトに見られたら何を言われるか。でも、涙というのは一度溢れ出すと、こちらの都合なんかお構いなしに流れてくるものだ。


「ご、ごめんなさい。こんな、情けない姿を」

「いいえ。陛下が笑顔でいらっしゃることが、私にとって何よりの報酬です」

「……ありがとうございます、クリストフ殿」


 その微笑みが温かくて、私は少しだけ楽になった。

 噴水の水面が陽光を弾いている。風が花壇の匂いを運んできて、ほんのひとときだけ、王冠の重さを忘れた。


 ふと見ると、クリストフの指先が膝の上できれいに揃えられていた。爪の先まで手入れが行き届いている。彼に触れられたハンカチを畳みながら、いつお返ししようか、と考えた。


(……いえ、少しだけ手元に置いておいてもいいわよね)


「名残惜しいですが、そろそろ午後の執務にお戻りにならなければならない時間のようです」


 クリストフが穏やかさを崩さぬまま立ち上がる。彼は決して引き留めない。こちらの時間を奪わない。その距離感が、今はとても心地良かった。


「はい。……もう少しだけ、頑張ってみます」


 立ち上がりながら、自分の言葉に少し驚いた。もう少しだけ、と口にできた。あの地獄の執務室に戻ろうと、自分の足で思えた。それだけで、たぶん十分だ。


「それでこそ」


 クリストフは微笑んだまま一礼し、木漏れ日の中を去っていった。その後ろ姿を見送りながら、もう一度だけ手の中のハンカチを握り締めた。

 よし、と小さく呟いて、私は庭園に背を向けた。


    ◇


 午後の執務は、朝ほどの地獄ではなかった。

 依然としてレオンハルトは容赦なく指摘を重ねてきたが、昼休憩を挟んだことで少しだけ頭が回るようになっていた。


 あるいは、レオンハルトの要求の仕方に、微かにパターンがあることに気づいたからかもしれない。彼は答えを教えない代わりに、常に「自分で考えろ」と促してくる。理不尽に見えるが、突き放し方に一貫性がある。

 もっとも、一貫して冷たいというのは、別にありがたがるような話ではない。


 ひとつだけ、午後に小さな変化があった。

 国境付近の村からの陳情書を読んでいた時、似た事例を図書室の記録で見たことがあるのを思い出した。六十年前、同じ地域で同じような水利問題が起き、その時の解決策が記録に残っていたはずだ。


「この陳情ですが、六十年前に類似の事例があります。その時は上流の堰を共同管理にすることで解決しています」


 レオンハルトがペンを止めた。

 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、鋼色の瞳に何かが走った。驚き、だっただろうか。気のせいかもしれない。


「出典は」

「王室記録庫の地方行政記録、第三棚の上から二段目です。たしか、背表紙が赤い」


 我ながら妙に具体的な記憶だった。本の内容は覚えていても著者名は忘れるくせに、棚の場所だけは正確に覚えている。私の頭はどうなっているのだろう。


「確認します」


 レオンハルトはそれだけ言って、次の書類に移った。及第点とも不合格とも言わなかった。


 それでも夕刻には、体も心も限界に近かった。

 執務室を辞し、自室に戻る廊下を歩く足取りは重い。肩が凝り、目の奥が痛い。指先はペンの跡で赤くなっていた。背中を伸ばすと、ばきばきと嫌な音がした。十七でこの音は良くない気がする。


 部屋の扉を開けた瞬間、温かな香りが鼻をくすぐった。


 テーブルの上に、湯気を立てるティーカップが置かれていた。

 琥珀色の液体。カモミールと、何か別の薬草の匂い。まだ温かい。つい先ほど淹れられたばかりだ。


 カップを手に取り、一口含んだ。

 温かい液体が喉を滑り落ちていく。カモミールの穏やかな甘さの奥に、少し苦味のある別の薬草の味がする。疲労に効く調合だと、いつか読んだ記憶がある。

 

 一口飲むごとに、こめかみの痛みが薄れていくような気がした。

 思わず「おいしい」と声に出た。私のほかには誰もいないテーブルで、一人で。ちょっと寂しいが、おいしいものはおいしい。


 半分ほど飲んで私はほぅ、と息を吐くと控えていた侍女を呼んで尋ねた。


「とてもおいしいわ。これ、あなたが淹れてくれたの?」


 私の問いに、侍女は恐縮したような顔で首を横に振った。


「いいえ。陛下がお戻りになるという先触れを受けて、お部屋を整えている間に、いつの間にかございました」


 誰だろう。

 頭に浮かんだのは、昼に庭園でハンカチを差し出してくれた人の顔だった。あの優しい笑顔と、花の香りがするリネンのハンカチ。もしかして、クリストフが?

 だとしたら、私の好みまで知っているのだろうか。それとも、疲れている人にはこういうものを差し入れるのが、あの人には自然なことなのだろうか。

 どちらにしても、胸がじんわりと温かくなった。


 ふと、執務中のことを思い出す。

 午後から、書類の山が少し低くなっていた気がする。朝は三段だったのが、いつの間にか二段になっていた。宰相が間引いたのだろうか。それとも、気のせいだろうか。


(……気のせいね。疲れすぎて、数も数えられなくなっているのだわ)


 考えても答えは出ない。

 私は空になったカップを机に置き、窓の外を見た。夕焼けが王宮の尖塔を染めている。


    ◇


 寝台に入ってから、習慣にしようと決めた日記帳を開いた。

 ペンを取り、今日一日のことを書きつける。


 レオンハルトは大嫌いだ。あの冷たい目で見下ろされるたびに、自分が何もできない小娘だと突きつけられている気がする。及第点、だなんて。せめて合格と言え。


 クリストフ殿は優しかった。あの笑顔に、今日どれだけ救われたかわからない。ハンカチは、まだ返していない。洗って返さなければ。


 そこまで書いて、ペンが止まった。

 どうしてだろう。どちらの顔を思い浮かべても、頭の片隅ではあのハーブティーのことばかり考えている。

 誰が置いたのだろう。なぜ、私の疲れに効く調合だと知っていたのだろう。


 答えのない問いを抱えたまま、私は日記帳を閉じた。

 蝋燭を吹き消すと、部屋が闇に沈んだ。目を閉じても、レオンハルトの鋼色の瞳と、クリストフの翡翠色の瞳が、まぶたの裏で交互に浮かんでは消えた。


 明日もまた、あの執務室に行かなければならない。

 氷の悪魔が、書類の山を積み上げて待っている。


 けれど──不思議と、昨日ほどの絶望は感じなかった。

 部屋に残るカモミールの香りが、枕元でかすかに漂っていた。

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