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女王陛下の夫選び  作者: 宗像 凪


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第2話:五人の名前

 翌朝、執務室に通されると、宰相がすでに席についていた。

 分厚い書類の束を前に、銀灰色の髪の老紳士は顔を上げもせずにこう言った。


「陛下。昨日お約束した件について、ご説明いたします」


 王配候補。あの言葉が、一晩中頭から離れなかった。

 眠れなかったとまでは言わない。けれど、夢の中にまで王冠の重さが追いかけてきて、目覚めたときには枕が汗で湿っていた。鏡を見たら目の下に薄い隈ができていて、侍女に「陛下、お顔の色が」と心配された。女王になって二日目にして、もう顔に出ている。先が思いやられる。


 宰相が最初の書類を差し出した。


「一人目。レオンハルト・フォン・ヴェーバー」


 その名前を聞いた瞬間、私は思わず顔をしかめた。

 宰相の三男で、私の幼馴染。そして──一度たりとも、私を褒めてくれたことのない男。


(いいえ、あれは「幼馴染」じゃないわ。幼馴染って、幼い頃に親しかった人という意味よね? 絶対に、断固として違うわ!)


 濃い灰青色の髪をきっちりと撫でつけ、人を射抜くような父親譲りの鋼色の瞳。幼い頃から宰相の息子として王宮に出入りしていた彼は、いつも正しくて、いつも厳しくて、いつも冷たかった。刺繍の練習をしていれば「左右対称になっていない」と指摘され、歴史書を読んでいれば「年表と照合しなさい」と窘められた。私がどれだけ頑張っても、彼の口から「いい出来だ」という言葉は一度も出てこなかった。


 一度だけ、自信作の刺繍を持っていったことがある。薔薇の花を一週間かけて縫い上げたもので、侍女にも「お上手です」と褒められた。レオンハルトはそれを一瞥して、「茎の曲線が不自然です。実物を観察しましたか」とだけ言った。あの時はさすがに泣いた。


「あの人だけは嫌です」


 思わず口にしてしまってから、自分の子供っぽさに気づいた。けれど言葉を呑み込むには遅すぎた。しかも語気がだいぶ強かった。


「好き嫌いで決めるものではありません、陛下」


 宰相の声は穏やかだったが、目は笑っていなかった。息子のことを言われて不快だったのか、それとも、女王が感情で動くことへの警告なのか。おそらく後者だろう。この老練な政治家は、私心と公務の区別を誰よりも厳格に引く人だ。


(わかっているわよ、そんなこと!)


 けれど、嫌なものは嫌だ。あの鋼色の目で見られるだけで、自分が出来損ないの刺繍みたいに思えてくるから。


 私は唇を引き結んで、次の名前を待った。


「二人目。ルシアン・ド・クレールモン」

「クレールモン? 隣国の公子、ですか?」


 驚きのあまり声が少し裏返った。恥ずかしい。

 クレールモン公国は我が国の西隣に位置する、華やかな芸術文化の国だ。けれど、近年は財政が厳しいと噂されている。そんな国の公子を、なぜ王配候補に。


「はい。現クレールモン公の第三子で、我が国との外交を任されることが多い人物です。両国の関係強化を見据えた選定理由となります」

「ですが」


 私は言葉を選びながら、しかし譲れない一線として口にした。


「他国の王族を王配に迎えれば、この国の政が外国の意向に左右されるおそれがあるのでは」


 宰相が僅かに目を見開いた。ほんの一瞬、だが私はそれを見逃さなかった。

 驚いたのだろうか。図書室でぼんやり本を読んでいただけの姫が、こんなことを言うとは思わなかったのだろうか。少しだけ、胸がすく思いがした。


「だからこそ、その器を見極めていただきたいのです」


(……ああ、そういうこと)


 試されている。候補者を見極めるだけではない。候補者に対して正しい問いを立てられるかどうかも含めて、この宰相は私を見ている。


「三人目。クリストフ・フォン・シュヴァルツェン」


 王国の名門シュヴァルツェン大公家の次男。その名前が耳に届いた途端、心臓が跳ねた。


 デビュタントの舞踏会。社交界に初めて出た夜のことだ。不慣れなドレスの裾を踏みそうになりながら、緊張で手が震えてまともに歩けなかった私に、彼は穏やかな声で言ったのだ。


 大丈夫ですよ、アイリス様。あなたはとても美しい。


 あの翡翠色の瞳。あたたかい手。私の指先を包み込むようにして、舞踏会の床へ導いてくれた。広間の蝋燭の光がきらきらと揺れていて、クリストフの横顔が金色に縁取られて見えた。あの夜の記憶は、今でも胸の奥で小さな灯のように温かい。


(頬が熱い……絶対に赤くなっているわ)


 宰相がこちらを見ていることに気づいて、私は慌てて視線を書類に落とした。平静を装って書類の文字を目で追うふりをしたが、一文字も頭に入ってこない。

 何か読まれてしまっただろうか。宰相は何も言わなかったが、その沈黙がかえって落ち着かなかった。


「四人目。ディートリヒ・フォン・グリューネヴァルト」


 クリストフの名前の余韻で上気していた頬が、すっと冷めた。


「あの強引な侯爵ですか?」


 つい本音が漏れた。今日は口が軽すぎる。女王としての威厳はどこに行ったのか。そもそも最初からないのだが。


 社交の場で一度だけ言葉を交わしたことがある。若くして父を亡くし、荒れた領地を立て直したという実績は聞いていたが、直接会った印象は「自信家で押しが強い」の一言に尽きる。こちらが何か言い返す間もなく、自説を滔々と展開する類の人物だった。もう少し人の話を聞いてほしいと思ったのを覚えている。


(悪い人ではないと思うけど、苦手なタイプだわ……ううん、もっと話してみないとわからないわよね)


 宰相は小さく咳払いをした。


「五人目。フェリクス・フォン・ヴァイスブルク」

「フェリクスお兄様……!」


 思わず身を乗り出した。椅子の肘掛けを掴んで前のめりになったのは、さすがに女王の所作ではなかったかもしれない。


(そう、フェリクスお兄様はまさに「幼馴染」だわ!)


 王家の遠縁にあたる再従兄弟。幼い頃、庭園の片隅で一緒に虫を捕まえたり、池の鯉に名前をつけたりして遊んだ記憶がある。穏やかで優しい人。薬草の研究をしていると聞いたけれど、最近はすっかり会う機会がなかった。

 五人の名前の中で、唯一、聞いただけで肩の力が抜ける名前だった。


 五人。

 宰相は書類を整えると、最後にこう念を押した。


「最終決定は陛下の御心に委ねます。ただし、半年以内に。王国の安定のために」


 同じ言葉を、昨日も聞いた。繰り返されると、それはもう助言ではなく、国としての通告だった。

 私は小さく息を吐いた。溜息ではない。溜息に聞こえたかもしれないが、断じて溜息ではない。


    ◇


 翌日、候補者たちが王宮に集められた。


 玉座の間。高い天井から下がる旗、磨き上げられた大理石の床。その中央に、五つの椅子が扇状に並べられている。私は玉座に座り、彼らを見下ろす位置にいた。形式上は。


 けれど実際には、見上げられている方が圧倒されている。五人の男たちの存在感は、それぞれにまったく違う種類の重さを持っていて、まとめて受け止めるには私の器が小さすぎた。

 玉座の肘掛けの下で、私の指先はかすかに震えていた。それを悟られまいと、両手をしっかり膝の上で組む。


 最初に進み出たのは、レオンハルトだった。

 濃い灰青色の髪を隙なく整え、黒を基調とした衣服に身を包んでいる。鋼色の瞳には何の感情も浮かんでいない。事務的に一礼すると、抑揚のない声で告げた。


「ご指名いただき光栄です。陛下の執務を補佐いたします」


(なにが「光栄」よ。絶対、そんなこと思ってないでしょうに)


 けれど、その素っ気なさにだけは嘘がないと感じた。この男は最初から最後まで、こういう人間なのだ。それが安心なのか不安なのかは、まだわからない。


 次に進み出たのは、ルシアンだった。

 蜂蜜色の巻き毛が陽光を受けて琥珀のように輝く。深紅のマントを優雅にさばき、跪くと、私の手を取って唇を寄せた。


「お美しい陛下にお仕えできる幸福を、神に感謝いたします」


 滑らかな所作、流暢な言葉遣い。まるで舞台で演じる役者のようだった。手の甲に触れた唇の感触に思わず指先が強張ったが、それを悟られまいとして、私はぎこちなく頷いた。


(さすがクレールモンの公子。洗練されているわ)


 三人目。クリストフが歩み出る。

 深い栗色の髪、翡翠色の瞳。あの日と変わらない穏やかな微笑を浮かべて、彼は言った。


「お久しぶりです、アイリス様。いえ、今は陛下とお呼びすべきですね」


 心臓が跳ねた。「アイリス様」という呼び方が、あの夜の記憶と重なって、一瞬だけ私をデビュタントの舞踏会に連れ戻した。


(しっかりしなさい! アイリス、今のあなたは女王。デビューしたばかりの小娘ではないのよ)


 精一杯の平静を装って「よく来てくれました」と返したが、声が半音ほど上ずったのは自覚している。


 四人目。ディートリヒが前に出た。

 赤銅色の髪を短く刈り、日に焼けた肌に知性的な焦茶の双眸。貴族というより野の将軍のような風貌の男は、跪きもせず、堂々と宣言した。


「私があなたの隣に立つことが、この国にとって最善です」


 一瞬、会場が凍った。

 私も凍った。

 侯爵はそのまま言葉を続けた。


「お世辞は申しません。私に必要なのは、この国を良くするための玉座の隣です。陛下が私にそれを許すかどうか──半年をかけてお見せしましょう」


(傲慢というか自信家というか……この場で言い切る度胸はすごいわ)


 けれどその目は真っ直ぐで、嘘をついていなかった。ある意味、レオンハルトよりもわかりやすい。

 私も周囲も呆気に取られている間に、ディートリヒはさっさと自分の席に戻ってしまった。


 最後に、フェリクスがおずおずと立ち上がった。

 柔らかな亜麻色の髪を後ろで束ね、淡い水色の目を落ち着きなく泳がせている。明らかにこの場の空気に馴染めていない。


「えっと……アイリス、元気? いや、陛下、でしたね。すみません、こういう場は、その、慣れていなくて」


 思わず口元が緩んだ。それどころか、小さく吹き出しそうになって、慌てて口を手で覆った。


(良かった。フェリクスお兄様は変わっていないわ)


 重苦しい空気の中で、フェリクスの不器用さだけが人間らしかった。宮廷の作法もお辞儀の角度も何もかもぎこちないのに、なぜだか一番ほっとする。


「元気ですよ、フェリクスお兄様」


 玉座の上で、私はつい昔の呼び方で答えてしまった。周囲の空気が微妙にざわついたが、構うものか。このくらいの親しみは許されてもいいはずだ。


 五人の挨拶が終わり、私が一通りの返礼を述べようとした時だった。


 列席者の中から、低い声が聞こえた。

 抑えた声だったが、この静かな広間ではよく通った。


「末の姫に何ができる」


 誰が言ったのか、すぐにわかった。東部の有力貴族、ブルクハルト侯爵。白髪交じりの髭を蓄えた老貴族で、お父様の時代から発言力の強い人物だ。

 侮蔑というよりは嘆息に近い口調だったが、それは言い訳にならない。玉座の間で、女王の面前で発した言葉だ。


 また、この目だ。戴冠式の時と同じ、「この小娘に何ができる」という目。

 かっと頭に血が上りかけて──でも、怒りを見せれば「やはり子供だ」と思われるだけだ。それだけはごめんだった。


 深く、静かに息を吸う。奥歯を噛みしめて、感情を飲み込む。代わりに、胸の中で何かが冷たく透き通った。

 図書室の片隅で読んだ、あの文書を思い出していた。


「ブルクハルト侯爵」


 自分の声が意外なほど静かだったことに、私自身が驚いた。


「建国王からの記録によれば、王位を末の子が継いだ例は三度ございます。そのうち二度は、先代より長い治世を築きました」


 侯爵の顔が強張った。


「……ご存知なかったですか?」


 広間が静まり返った。

 ブルクハルト侯爵は何か言い返そうとして口を開きかけ、そして閉じた。深く一礼して、列に戻っていく。


 周囲の空気が変わったのを感じた。ほんの僅かだが、先ほどまでの哀れみや侮蔑とは違う色合いが混ざり始めている。

 正直に言えば、少しだけ気持ちよかった。あの侮蔑の目を向けてきた相手を、たった一言で黙らせた。胸のどこかで、ざまあみろ、と小さな声が囁いた。


 けれど、すぐにその声は萎んだ。

 とっさに口をついた知識で一人の老貴族を黙らせた。それだけだ。この国を治める力とは何の関係もない。本一冊で国が救えるなら、図書室の埃をかぶった本たちがとっくに世界を変えている。


 候補者たちの群れの後方、列席していた令嬢たちの一角が視界の端に映った。

赤みがかった金髪を凝った髪型にまとめ、最新流行のドレスを纏った若い女性が、扇の陰から私を見つめている。碧い瞳には、笑みの形をした敵意が宿っていた。


 リンデンベルク伯爵令嬢ベアトリクス。社交界では「リンデンベルクの花」と持て囃される美貌の令嬢だ。

 扇の向こうで、彼女の唇が動くのが見えた。隣の令嬢に何かを囁いている。聞こえなかったが、その視線がちらりとクリストフに向けられたのは見逃さなかった。


 何を囁いたのかは知らないが、私に好意的な内容でないことは、あの笑い方で十分にわかる。ああいう笑い方をする人を、私は図書室以外の場所で何度も見てきた。王族だからといって、嫌味から守られるわけではないのだ。


 顔見せが終わり、候補者と列席者たちが退出していく。

 玉座の間に一人残された私は、高い天井を見上げた。


 見下ろしているのに。

 見上げられているのに。


「……この場所で一番小さいのは、私なのね」


 五人の男たちが、それぞれの理由で私の隣を望んでいる。あるいは、望んでいるふりをしている。

 誰が本物で、誰がそうでないのか。

 十七歳の小娘でしかない私に、それを見分ける力があるのか。


(……ないだろうな、そんな力)


 今の正直な気持ちだ。

 でも。なくても、やらなければならないのだ。


 王冠が重い。

 でも、もう泣いてはいけない。泣くことは昨日で終わりにすると、眠れない夜に決めたのだ。


 私は玉座の肘掛けを両手でぎゅっと握りしめて、ゆっくりと立ち上がった。

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