第1話:王冠は末の姫に
私は王位とは無縁の姫だった。
それだけは、どうかわかってほしい。
ヴァイスブルク王国第一王女アイリス。それが私の名前であり、そして私のすべてだった。
三人の兄がいて、長兄には幼い息子もいた。王位継承権の順番を数えるまでもなく、私が玉座に座る日など永遠に来ない。宮廷の誰もがそう思っていたし、何より私自身がそう信じていた。
正直に言えば、それが心地よかった。
だから私の日々は穏やかだった。
朝は庭園を散歩し、午前中は刺繍の練習をして、午後は図書室に籠もる。歴代の王たちが何を考え、何に苦しんだか。分厚い判例集や、黄ばんだ外交文書の束をめくる時間だけが、退屈な王宮暮らしの中で唯一、胸が躍る瞬間だった。
建国王がたった二百の兵で反乱軍を退けた知略の鮮やかさとか、四代前の王妃が外交書簡に仕込んだ見事な皮肉とか。そういう話を読んでいると、時間なんてあっという間に過ぎる。もちろん、こんな趣味は誰にも理解されない。兄たちに話しても「変わった子だな」と笑われるだけだったし、侍女たちには「姫様は本当に本がお好きですのね」と困り顔をされた。
誰にも必要とされない末の姫が、誰にも読まれない古い本を読む。それはきっと、似た者同士だったからだと思う。
忘れ去られた本と、忘れ去られた姫。
埃の匂いがする書庫の片隅で、私は自分の居場所を見つけた気になっていた。
あの日が来るまでは。
◇
流行り病は、嵐のように王宮を襲った。
最初に倒れたのは長兄だった。有能な王太子として将来を嘱望されていた、誰よりも頼もしい兄。私のくだらない話にも最後まで付き合ってくれる、優しい人だった。高い熱に何日もうなされたのち、息を引き取った。まだ二十七歳だった。
そのわずか三日後には義姉である王太子妃が、そして長兄の一人息子もあとを追った。三つになったばかりの、小さな手の甲にまだ赤ん坊の頃のえくぼが残っていた男の子だった。私の名前を呼ぶ舌足らずな声が、耳の奥にこびりついて離れない。
王宮は喪に沈んだ。黒い垂れ幕が廊下を覆い、使用人たちの足音すら消え入るような日々が続いた。
悲嘆が収まらぬうちに、次の知らせが届いた。
長兄一家の訃報を知って領地視察から急ぎ戻った次兄と三兄が、その帰路で馬車事故に遭った。
崖沿いの街道で車軸が折れ、馬車ごと谷底へ転落したのだと。二人とも即死だった、と使者は感情を殺した声で告げた。
嘘だ、と思った。
だって、おかしい。ありえない。たった一月の間に、五人だ。流行り病で長兄と義姉と甥を失い、事故で次兄と三兄を失った。こんなことが現実に起こっていいはずがない。一月ほど前まで食卓を囲んでいた家族が、もういない。その事実が、現実として胸に落ちてこなかった。
朝が来るたびに長兄たちの部屋は空のままで、食卓には誰も座らない椅子が五つ並んでいる。次兄がいつも座っていた椅子の肘掛けには、彼の癖でついた小さな傷跡が残っていた。そんな些細なものが、いちいち胸を刺す。
そしてお父様だ。
ここ数年、病気がちとなっていたお父様は、息子たちの死の知らせを受けて寝台から起き上がれなくなった。宮廷医が何度も出入りし、薬を変え、祈祷を行ったけれど、衰弱はとどまることを知らなかった。
最後にお父様の手を握った時、その手はもう体温を感じ取れないほど冷たかった。
「アイリス」
お父様が何か言いかけたのを覚えている。声はかすれて、ほとんど聞き取れなかった。
何を伝えようとしたのだろう。ごめん、だったのか。頼む、だったのか。どちらであっても、私にはどうすることもできなかった。
私は今でもその答えを知らない。知らないまま、きっとこの先もずっと生きていく。
お父様の崩御から、たった七日。
私は喪服を脱ぐ間もなく、大聖堂へ連れていかれた。せめてあと少しだけでも泣かせてくれと、誰かに縋りたかった。でも、誰に? もう、縋る相手はいないのだ。
◇
戴冠式の朝のことは、断片的にしか覚えていない。
鏡に映った自分の顔は酷いものだった。泣き腫らした菫色の瞳は赤く充血し、プラチナブロンドの長い髪は梳かす気力もなく肩に垂れている。小柄な体がいっそう縮んで見えた。こんな姿で、戴冠式に出るのか。
侍女たちが懸命に体裁を整えてくれたが、鏡の中の少女は最後まで女王には見えなかった。
色のない空。冷たい石畳。香の煙が目に沁みたこと。大聖堂の天井がやけに高くて、自分がひどく小さなものに思えたこと。
それだけが、鮮明に記憶に残っている。
大聖堂の正面扉が開かれた時、白檀と没薬の匂いが鼻を突いた。何百本もの蝋燭が灯されていて、空気が揺らいで見えた。中央の通路は果てしなく長く、その突き当たりに祭壇が待っている。
司祭に手を引かれて歩き出した。両側にずらりと並ぶ貴族たちの衣擦れの音が、静寂の中でやけに大きく聞こえた。
居並ぶ貴族たちの視線を、背中に感じた。
同情の視線があった。涙ぐんでいる老臣もいた。けれどその中に、別の色をした目があることにも、私は気づいていた。冷ややかな視線。値踏みするような視線。「この小娘に何ができる」と言いたげな、侮蔑の目。
全部、見えていた。見えていたけれど、何もできなかった。
(……あなたたちに何がわかるのよ)
私だってこんな場所に立ちたくて立っているわけではないのに。でもそんな言葉を口にしたところで、何が変わるわけでもない。
足元を見つめたまま、ただ歩いた。自分の靴音だけが頼りだった。一歩ごとに、逃げ出したい衝動を踏みつぶしながら。
祭壇の前で足を止めると、大司教の厳かな声が聖堂に響いた。古い祝詞が読み上げられ、誓いの言葉を促された。
何と言ったかは覚えていない。喉が詰まって、声が出なくて、それでも唇だけは動かした。きっと誰にも聞こえなかったと思う。
(情けない……こんなことでは、あの人たちに「ほら見ろ」と言われても仕方がないわ)
それでも大司教は小さく頷いて、王冠を持ち上げた。
冷たい金属が、頭に触れた。
──重い。
王冠とは、こんなにも重いものなのか。首が折れるのではないかと本気で思った。額の縁に食い込む硬い感触が、まるで戒めの鎖のようだった。
歴史書で読んだことがある。初代国王は戴冠の際、「この冠は民の信頼の重さである」と語ったのだと。格好いいことを言ったものだと感心したのを覚えている。けれど実際に被ってみると、信頼というにはあまりに重く、期待というにはあまりに冷たい。
(初代国王は嘘つきだわ。これはただ、痛くて、重くて、逃げ場のない鉄の輪よ)
それとも、この重さは王冠のせいではなくて、たった一月で六人の家族を失った悲しみのせいだったのかもしれない。
泣きたかった。
声を上げて泣いて、この冠を床に投げつけて、図書室に逃げ帰りたかった。あの埃っぽい書庫の隅っこで、誰にも見つからないように膝を抱えていたかった。
けれど、泣くことは許されなかった。何百もの目が私を見ている。この瞬間から、私は女王なのだ。女王は、泣かない。
少なくとも、人前では。
奥歯を噛みしめた。涙が一滴だけ頬を伝いかけて、私は素早く目を伏せてそれを隠した。気づいた人がいたかどうかはわからない。
拍手が起きた。歓声とは言えない、礼儀としての拍手。その乾いた音が、大聖堂の高い天井に反響して、いつまでも消えなかった。
ああ、この人たちは拍手の仕方すら、私と兄たちとでは違うのだ。長兄の戴冠であれば、きっとこの大聖堂は割れんばかりの歓声で満ちていたのだろう。そう思うと、乾いた拍手がいっそう冷たく肌に刺さった。
◇
戴冠式のあと、控えの間で一人きりになれたのは、ほんの短い時間だった。
椅子に腰を下ろした途端、あれほど堪えていた涙がぼろぼろと溢れ出した。声を殺して泣いた。肩が震えて止まらなかった。
どうして。
なぜ、私なのだろう。なぜ、私だけが笑いものにされるような場所に立たされているのだろう。
この国には優秀な政治家がいる。歴戦の将軍がいる。経験豊かな文官がいる。それなのに、図書室に籠もっていただけの末の姫に王冠を載せて、それで何が変わるというのだろう。
いっそのことあの老臣たちの誰かが玉座に座ればいい。あの侮蔑の目で私を見ていた連中の中に、自分こそふさわしいと思っている者が何人もいるはずだ。どうぞお好きにすればいい。この重たい冠ごと、くれてやる。
でも、そんなことは許されないのだ。
王家の血が、たった一つ残った王冠が、私をこの椅子に縛りつけている。
涙を拭う間もなく、扉を叩く音がした。
「陛下、宰相ヴェーバー公爵がお目通りを求めております」
侍女の声に、私は慌てて袖で目元を拭った。涙の痕が消えたかどうかも確かめる余裕はない。鼻の奥がつんと痛んで、これでは泣いていたことが丸わかりではないかと焦った。
「……お通しして」
自分の声が震えていないことだけを祈りながら、私は姿勢を正した。背筋を伸ばすと、王冠の重さが首にずしりとのしかかる。
扉が開き、銀灰色の髪をきちんと撫でつけた長身の老紳士が入ってきた。
宰相ヘルムート・フォン・ヴェーバー。お父様が最も信頼した臣下であり、何十年もこの国の実務を支えてきた重鎮だ。穏やかな外見に似合わず「辣腕宰相」と呼ばれる切れ者で、その鋼色の瞳は常に冷静で、感情を読ませない。
幼い頃から見知った顔のはずなのに、今日に限っては、その姿がひどく遠い場所にある人のように感じられた。
宰相は深く一礼した。
「陛下。まずは、お悔やみを申し上げます」
その声には、儀礼以上の温かみがあった。お父様と長年苦楽を共にした人の、偽りのない弔意だと感じた。
ほんの一瞬だけ、また泣きそうになった。こういう時に優しくされるのが一番つらい。
けれど、宰相は言葉を切ると、すぐに表情を引き締めた。
「しかし、王国は立ち止まることができません」
「わかっています」
本当はわかってなどいなかった。何がどうわかっているのかも、自分でもわからないまま、私はそう答えた。こういう時は「わかっています」と言うものだと、本で読んだ記憶だけが唇を動かしていた。
宰相の鋼色の瞳が、まっすぐに私を見据えた。
その目には、試すような光があった。同時に、どこか痛みをこらえるような色も。
「陛下。王配をお決めください」
「……え?」
「半年以内に。王国の安定のために」
王配。
王配、と宰相は言った。
一瞬、自分の耳を疑った。
(夫を選べですって? この国を治める伴侶を、半年で決めろと?)
私はまだ、喪服の肌触りも消えていない。兄たちを悼む涙も乾いていない。それなのに、夫を選べと言われている。
「宰相、私はまだ」
「王位は揺らぎやすいものです、陛下」
宰相の声は穏やかだったが、反論を許さない重さがあった。
「先王陛下の崩御から間もないこの時期に、新たな女王が独り身であるという事実は、国内外に不安の種を蒔きます。王配の選定は、陛下個人の問題ではなく、王国の安定に関わる国事です」
返す言葉が見つからなかった。
嫌だと叫びたかった。まだ早い、せめて喪が明けるまで待ってほしいと。兄たちを埋葬した土がまだ乾いてもいないのに、夫探しだなんて正気の沙汰とは思えない。
けれど宰相の言っていることが正しいことくらい、図書室で読んだ歴史書が教えてくれていた。権力の空白は争いを生む。王位が不安定な時ほど、周囲は動く。つい先日まで趣味の読書だったものが、今は自分を追い詰める刃になっている。無駄に物を知っているというのも、考えものだ。
ああ、あの本たちを読んでいなければ。何も知らなければ。「わかりません」のひと言で突っぱねることだってできたのに。
私は唇を噛んだ。
「……候補は、いるのですか」
「五名を選定いたしました。明日、改めて詳細をご説明いたします」
五人。
たった五人の中から、一生を共にする相手を選ぶ。政も人生も経験のない、十七歳の私が。
十七だ。街にいる同い年の女の子たちは、今頃何をしているのだろう。花を買ったり、好きな男の子の話をしたり、そういう当たり前の日常を過ごしているのだろうか。私はその「当たり前」を一つも知らないまま、国の命運を左右する夫選びをさせられようとしている。
「候補の選出は、先王陛下のご意向も踏まえたものです。陛下がお選びになる方が、この国の未来を共に担う方となります」
お父様のご意向。その言葉が、胸の奥に鈍い痛みを残した。
お父様は、こうなることを予見していたのだろうか。末の娘が玉座に座らされる日を。
宰相はそう言い残し、恭しく一礼して部屋を辞した。
広い控えの間に、私だけが残された。
窓の外では、日が傾きかけている。黄昏の光が石壁を赤く染め、長い影を床に落としていた。
王冠はまだ頭の上にある。
重い。首が痛い。でも、外すわけにはいかない。
夫を、選ばなければならない。
この国のために。女王として。
女王。
その二文字が、まるで見知らぬ他人の名前のように感じられた。
今朝までの私は、図書室の片隅で埃まみれの本を読んでいるだけの、誰にも必要とされない末の姫だった。それが今、王冠を載せられ、夫を選べと命じられている。
世界が変わったのか、私が変わったのか。
いいえ、何も変わっていない。変わったのは、周りの人間が私を見る目だけだ。昨日までは廊下ですれ違っても会釈すらしなかったくせに、今日からは「陛下」と上辺だけは恭しく呼ぶ。その手のひら返しの早さが、たまらなく腹立たしい。
「ふん」
鼻を鳴らしかけて、慌てて口を押さえた。
(駄目よ、女王がそんなことをしてはいけないわ。……たぶん)
もう誰も、私を忘れてはくれないのだ。
◇
扉の向こう、廊下の足音が遠ざかっていく。
宰相は足を止め、誰もいないことを確かめると、低く呟いた。
「……すまぬな、アイリス様」
その声は、先ほどの冷徹な宰相のものとは違っていた。
幼い頃から王宮に出入りし、花壇の隅でスミレの冠を作って遊んでいた少女を、この老人はよく知っていた。孫のように可愛がってきた、あの頃はまだ笑い方を知っていた、小さな王女を。
その子に、こんな重荷を背負わせなければならない。
宰相は深く息を吐き、再び歩き出した。
背筋は真っ直ぐに伸びたまま、一度も振り返ることはなかった。




