第24話:最後の忠言
レオンハルトを王配に選ぶと決めた翌日、宰相ヴェーバー公爵から面会の申し入れがあった。
二度目の「内密に」。
前回は息子のことを語りに来た。今度は何だろうか。
執務室の扉が開き、宰相が入ってきた。その足取りが、いつもより少しだけ重いように見える。
レオンハルトは不在だった。朝一番で、婚礼の準備に関する調整会議に出ているはずだ。本人は「事務手続きです」と言っていたが、自分の結婚式の準備を事務手続きと呼ぶ男は、この世にそう多くないだろう。
宰相は椅子に座り、杖を膝の横に立てかけた。前回と同じ所作。けれど、表情が違う。前回は父親の顔だった。今日は、宰相の顔だ。
「陛下。本日は、一つご報告がございます」
「どうぞ、宰相」
「私は、宰相職を退く決意をいたしました」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
(……昨日も、この部屋で同じような言葉を聞いたわ。それも、よく似た顔の人間から)
ふう、と一つ息を吐いて自分を落ち着かせると、私は昨日と同じように尋ねた。
「……辞任、ですか」
「はい」
「なぜですか、宰相。あなたがいなければ、この半年を乗り越えることはできませんでした」
宰相は穏やかに首を横に振った。
「理由は二つございます。一つ目は、息子が王配となることで、ヴェーバー家に権力が集中することを避けるためです。王配の父が宰相であっては、他の貴族が不満を募らせます。それは王国にとって好ましいことではありません」
確かに、それは正論だった。レオンハルトが王配になれば、ヴェーバー家は宰相と王配を同時に擁することになる。権力の均衡を重んじる宮廷において、それは火種になりかねない。
「もう一つは?」
宰相の表情が、わずかに曇った。
「私がクリストフ・フォン・シュヴァルツェンを陛下の王配候補に含めた判断です」
声が低くなった。
「シュヴァルツェン家の財政難は把握していました。ですが、ヴァイスブルク王国一の名門であることも、また事実。陛下と年齢も釣り合いますし、無能でもない。候補に挙げなければ、どこかから横やりが入るのは必然──そう考え、候補に加えました。あの家が、陛下の兄君方の死に関わっていたとも知らずに」
宰相の手が、杖の頭を強く握った。
「陛下を危険に晒したのは、私の判断ミスです。これは宰相としての致命的な見落としであり、責任を取るべきだと考えております」
「宰相──」
「陛下。あなたはもう、私がいなくても大丈夫です」
宰相の声が、少し温かくなった。父親の声に近づいた。
「この半年を見ていて、確信しました。戴冠式の日、玉座で泣いていた姫君はもうおられません。立派な女王がそこにいらっしゃる」
目が熱くなった。
「これが、最後の忠言です」
宰相が微笑んだ。老いた顔に、深い皺が刻まれた笑み。
「レオンハルトを信じてやってください。あの子は不器用ですが、陛下を裏切ることだけは、絶対にございません」
涙を堪えた。堪えきれなかった。
「……ありがとうございます、宰相。この半年、あなたが私を守ってくれていたことも、知っています。五人の候補を選んだのも、王配選定の期限を設けたのも、すべて私を鍛えるためだったのでしょう? それにクリストフを候補に加えたのも、初恋の相手に対して私が冷静な判断を下せるかを見極めるため」
宰相の目が潤んだ。この老人が涙を見せるのは、初めてだった。
「……よくぞ、見破られました。ですが、テストのつもりで本物の獣を放り込んでしまったことは、言い訳のしようもございません」
「図書室で読んだ本に書いてありました。『名宰相は、王を試し、王を鍛え、王が自分を超えた時に去る』と」
宰相が声を出さずに笑った。
「最後に一つだけ聞かせてください」
「何でございましょう」
「あの五人の中で、宰相が想定していた正解は──どなたでしたか?」
宰相は少し間を置いた。杖の頭を撫でながら、何かを考えている。
「……私個人の答えであれば、レオンハルトです。ただし、それは父として息子を推す私心も含まれておりますから、公正なものとは申せません」
「では、宰相として。国のための答えは?」
「それは、陛下がこの半年で証明されたではありませんか」
宰相が顔を上げた。鋼色の瞳──息子と同じ色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめていた。
「五人全員です。レオンハルトの厳しさが陛下の背骨を作り、ルシアン殿の知性が陛下の視野を広げ、ディートリヒ殿の統率力が陛下に決断を教え、フェリクス殿の誠実さが陛下に人の温かさを思い出させた。そしてクリストフですら、反面教師として陛下を鍛えました」
息を呑んだ。
「陛下が本当に選んだのは、一人の王配ではありません。五人との半年間そのものです。その半年が陛下を女王にした。だから正解は、五人全員なのです」
言葉が出なかった。しばらくの間、ただ宰相の顔を見つめていた。
やがて、静かに微笑んだ。
「……宰相。あなたを超えるのは、まだ先になりそうです」
「いいえ。もう、超えておられます」
宰相は深く一礼し、杖をついて立ち上がった。
扉に手をかけたところで、宰相は足を止めた。
「陛下。一つだけ、お伝えしていなかったことがあります」
「何でしょう」
「先王陛下が最後にお声を発された時──私の側からは、先王陛下の口元がよく見えました」
心臓が跳ねた。
戴冠式の前日。お父様の枕元で握った冷たい手。お顔に耳を寄せても、かすれて聞き取れなかった最後の声。あの日からずっと、私はその言葉の中身を知らないまま生きてきた。
「わかったのですか。お父様の最後の言葉が」
「……『頼む』と、仰いました。ただ一言」
頼む。
すまない、でもなく、頼む、だった。
何を頼んだのかは言わなかった。言わなくても伝わると信じたのか、それとも言葉にする力がもう残っていなかったのか。
「私はその一言を、陛下にお伝えするべきか迷い続けておりました。重荷を背負った直後の陛下に、さらに託すような言葉を渡してよいものか」
「……今なら、受け取れます」
今なら。あの時は潰されていたかもしれない。けれど今なら、父の「頼む」を重荷ではなく信頼として受け止められる。
「ありがとうございます、宰相」
宰相は深く頷き、執務室を出ていった。その背中は、老いてなお真っ直ぐだった。
◇
その夜、レオンハルトは父の部屋を訪れたという。
後から侍女に聞いた話だ。レオンハルトは自分からは何も言わないだろうから、私が誰かからこっそり聞くしかない。
宰相の部屋の扉を叩いたレオンハルトは、入室してしばらくの間、何も言わなかったらしい。父と息子が向き合って無言で座っている光景を想像すると、微笑ましくもあり、呆れもする。
やがて、レオンハルトが口を開いた。
「……父上。ありがとうございました」
「何のことだ。私は宰相の仕事をしていただけだ」
「……そういうところが、似ているんですね。私たちは」
「さあ、何のことか」
侍女によれば、それだけ言って、レオンハルトは部屋を出たという。宰相は息子が去った後、しばらく窓の外を見つめていたそうだ。
親子揃って不器用。けれど、その不器用さの中に、言葉にならない感謝と誇りが流れていることは、誰の目にも明らかだった。
◇
婚礼の儀は、一月後に執り行われた。
大聖堂の天井から光が降り注ぎ、ステンドグラスが虹色の模様を石の床に描いている。貴族たちが居並び、外国使節が見守り、王国のすべてがこの瞬間に集まっていた。
私は王冠を被り、女王の礼装で式に臨んだ。菫色のドレスではなく、白金の刺繍が施された正装。戴冠式の日に被った王冠が、あの日よりもずっと軽く感じる。
(私は女王として結婚するのだから)
祭壇の前に、レオンハルトが立っていた。黒の正装に身を包み、灰青色の髪をきちんと整えている。表情は相変わらず硬い。緊張しているのか、これが普通なのか、今も判別がつかない。
「もう少し笑ったら?」
小声で囁いた。
「……努力します」
努力の結果がこれか、と思ったが、口には出さなかった。
司祭が祝詞を読み上げる。荘厳な声が大聖堂に響く。
誓いの言葉が始まった。
レオンハルトの声は、いつも通り事務的だった。「この身を捧げ」も「生涯を共に」も、まるで予算案を読み上げているかのような平坦な調子で。
けれど。
「──あなたを生涯、守ります」
その一言だけ、かすかに声が揺れた。ほんのわずか。大聖堂の反響に紛れて、ほとんどの人間には聞こえなかっただろう。
けれど私には聞こえた。それで十分だった。
私の誓いの言葉は、震えなかった。
「この国と、この人と共に歩むことを誓います」
指輪が交わされた。レオンハルトの指は冷たかったが、震えてはいなかった。
大聖堂に祝福の鐘が鳴り響いた。貴族たちが立ち上がり、拍手が波のように広がった。
ブルクハルト侯爵が自席で深く頭を下げている。ディートリヒが壁際で腕を組んだまま、かすかに微笑んでいる。宰相は最前列で、杖を握ったまま静かに涙を流していた。
◇
披露宴の夜。
宴は盛大だった。音楽が鳴り、貴族たちが踊り、祝杯が何度も挙げられた。私もレオンハルトも、何百回と挨拶をし、何十回と祝辞を受けた。レオンハルトは終始無表情で、祝辞への返答はすべて「ありがとうございます」の一種類だけだった。ある意味、効率的ではある。
宴が終わり、二人きりになった。
王配の部屋は、レオンハルトが宰相補佐官として使っていた部屋よりも広い。けれどレオンハルトは早速、書棚の配置を変えようとしていた。本棚の位置が最初に気になるあたり、本当にこの男らしい。
「レオンハルト」
「何でしょうか、陛下」
「今日くらいは、名前で呼んで」
レオンハルトの手が止まった。背中がわずかに強張った。
長い沈黙があった。本当に長い沈黙だった。
「……アイリス」
小さな声だった。ほとんど聞こえないくらいの。
「自分で頼んでおいてなんだけど、初めて聞いたわ。あなたが私の名前を呼ぶの」
「……七年間、一度も口にしたことがありませんでしたから」
「七年間、ずっと呼びたかった?」
沈黙。
「……毎日」
目の奥が熱かった。声が震えそうになるのを、唇を噛んで堪えた。
窓の外に月が出ていた。半年前の戴冠式の夜にも、同じ月が出ていたはずだ。あの夜、私は一人で泣いていた。
今夜は、隣に誰かがいる。
不器用で、無愛想で、ハーブティーばかり淹れている男。
けれど、世界で一番信頼できる男。
「アイリス」
レオンハルトがもう一度、私の名前を呼んだ。今度は少しだけ、声が大きかった。
「明日からのスパルタ教育の予定表を、もう作ってありますが」
「婚姻の翌日くらいは休ませてよ」
「却下です。女王に休みはありません」
笑った。二人で笑った。不器用で、ぎこちない笑い声が、月明かりの部屋に響いた。
それが、私たちの最初の夜の、最初の会話だった。




