エピローグ
今日も新しい朝が来る。
ヴェーバー公爵の宰相辞任を受けて、後任には長年財務長官を務めてきたリヒター伯爵が就任した。実直で堅実な人物だ。華はないが数字に強く、宮廷の力学を熟知している。ヴェーバー公爵が「私の後を任せるならこの男しかいない」と推薦した人選だけのことはある。
ディートリヒは宮廷に残り、議会の有力者として私の政策を支えてくれている。御前会議では相変わらず率直な物言いで他の貴族たちをたじろがせているが、あの男が味方にいるというだけで、議場の空気は締まる。
先日、レオンハルトに向かってこう言ったらしい。
「奥方を泣かせたら、議会で追及するぞ」
レオンハルトは「善処します」と答えたそうだ。善処。努力。この男の語彙には、それしかないのだろうか。
◇
ルシアンからは、新たな通商条約の正式な交渉申し入れが届いた。
今度は罠ではない。対等な立場で、対等な条件で。書簡の文面は洗練されていて、外交官としてのルシアンの腕は健在だった。添えられた私信には、こう書かれている。
「次にお会いする時は、対等な友人として。──追伸:あの詩集の続きをお送りします。陛下の図書室に加えていただければ幸いです」
詩集。あの茶会で口ずさんだ、ルシアンの母の詩。その続きが届く。外交文書の余白に私信を忍ばせるあたり、相変わらずずるい人だ。
フェリクスからは、手紙と共に薬草の小包が届いた。
「アイリスへ
辺境の薬草園を広げました。近隣の村々に薬を届ける仕組みも作り始めています。忙しいけど、楽しいよ。
同封の薬草は、新婚さん用の安眠ブレンドです。レオンハルトが激しすぎて眠れない夜に使ってね。
フェリクス」
レオンハルトにその手紙を見せたら、「フェリクス殿の懸念は不要です。陛下は十分に睡眠を取っておられます」と真顔で答えた。冗談を理解しているのかいないのか、この男は本当にわからない。
◇
あれから、数年が経った。
私は今、朝のバルコニーに立っている。
空気はまだ冷たい。東の空が薄く明るみ始めていて、王宮の庭園が朝露に濡れて光っている。遠くに市場の屋根が見える。あの市場に自分の足で歩いていった日のことを、今でも覚えている。
窓辺の小さな鉢植えから、フェリクスが手渡してくれた薬草が青々と葉を広げている。バレリアン。心を落ち着ける効能がある薬草。最近は眠れない夜もなくなったが、毎朝水をやるのが日課になった。
「おかあさま!」
小さな声が背後から聞こえた。振り返ると、よちよちと危うい足取りで幼い子どもが駆けてくる。灰青色の髪──父親譲りの色。けれど瞳は菫色だ。王家の色。
抱き上げると、柔らかい重みが腕に伝わった。
「おかあさま、おとうさまがわらってるの!」
子どもが指差した先に、レオンハルトが立っていた。
バルコニーの入り口に背を預け、書類を片手に持ったまま、こちらを見ている。笑っている──かどうかは微妙だ。口の端がわずかに持ち上がっている程度で、普通の人間ならただの無表情に見えるだろう。けれど、この子にはわかるらしい。
「笑ってなどいません」
レオンハルトが視線を逸らした。耳が赤い。数年経っても、この癖は治らないらしい。
「笑ってたわよ」
「気のせいです」
「二人の証言がありますけど」
「……本日の会議の議題を確認いたします」
話を逸らした。この男の逃げ方は何年経っても変わらない。感情を見せそうになると、仕事の話を始める。けれど、もうそれが照れ隠しだということは、私も子どもも知っている。
◇
子どもを侍女に預けて、執務室に向かった。
レオンハルトが半歩後ろを歩いている。相変わらず背筋は真っ直ぐで、足音は正確で、書類を抱える腕には一分の隙もない。
けれど、時折、私の歩幅に合わせて少しだけ速度を落としていることに、私は気づいている。
執務室の扉を開けた。机の上に書類の山。そしてハーブティーが一杯。
今でも、レオンハルトは毎朝ハーブティーを淹れている。
今日の香りは、穏やかで甘い。よく眠れた朝の処方。毎日、変わらない。毎日、私を見ていてくれている。
椅子に座り、ハーブティーを一口飲んだ。甘くて、少し苦くて、温かい。いつもの味だ。
窓の外に、朝日が昇り始めていた。
◇
あの日──震える手で王冠を受けた日、私は世界で一番不幸な少女だと思った。
王冠は重すぎて首が折れそうで、玉座は広すぎて一人では座りきれなくて、図書室に逃げ帰ることばかり考えていた。
「幸せ」が何なのかもわからなかった。女王としての幸せか、女性としての幸せか。そのどちらかを選ばなければならないのだと思っていた。
でも、答えは違った。
この人が隣にいてくれるなら、「女王」も「アイリス」も同じ一人の私だ。二つの幸せは、最初から一つだった。
五人の男たちが教えてくれた。
レオンハルトは、厳しさの中にある愛を。
ルシアンは、敵が味方に変わる瞬間を。
ディートリヒは、対等であることの尊さを。
フェリクスは、優しさの本当の強さを。
そしてクリストフは──偽りの優しさがどれほど危険かを。
あの頃、私はまだ泣くことしかできない小娘だった。
王冠の重さに首を折られそうになりながら、居心地の良い図書室に逃げ帰ることばかり考えていた。
今、玉座の隣には、あの不器用な男がいる。
「さあ、今日も執務を始めましょう、レオンハルト」
「はい、陛下」
その声が、ほんの少しだけ、柔らかい。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
結局、五人の中で一番イケメンだったのはルシアンだったような気がするのですが……




